祖母から真実を全て聞き終えた頃には、このアパートを訪ねてきて二時間以上が経過していました。リラックスしていた自分の気分はいつの間にか緊張状態に変わり、心臓が気持ち悪いくらいにバクバクと大きく音を鳴らせていました。
私が詳細を求めると、祖母は言いにくそうに、でもしっかりとした口調で私に全てを説明してくれました。
母は若い頃、父と恋に落ちて私を妊娠しました。妊娠が発覚すると、父はすぐに結婚するつもりだったそうで、母もその気でいました。二人はお互いの両親に話もして、挨拶も終え、入籍に向けて準備を始めていたそうです。
ですが、ここで父の裏切りが発覚してしまう。結論から言ってしまえば、浮気だったそうです。
妊娠中の浮気ほど女性から恨みを買うものはないかもしれません。母は当然怒り、父との結婚の話を白紙にした。母は看護師で資格を持っていましたし、一人で育てていけるという自信があったのかもしれません。それに、母はとても頑固な人でした。
父は必死に謝って何とか関係を修復させようとしたらしいのですが、母は許さなかった。結局二人が結婚することはなかったのです。祖母によれば、まだ同居生活すら始めていなかったらしいです。結婚式は妊娠中ということもあり、元々計画をしていなかったようなので、急に結婚を止めても困ることはありませんでした。これが、招待状を送ってしまっていた、キャンセル料が発生してしまう、などの事情があれば、もっと混乱したでしょう。
母の固い意思を聞いて結婚を諦めた父ですが、それでも、私のことを認知して養育費も支払うつもりでいました。それを突っぱねたのが母だったようです。なんとも気が強い母らしいと思いました。
婚約破棄の慰謝料だけはもらい、あとは金輪際関わりたくないということで、勝手に引っ越してしまったのだそう。祖母にも、絶対に居場所を教えるな、ときつく言っていたようです。
母は引っ越して私を出産。M病院は当時から産休・育休制度もしっかりあったのでそれを利用し、そして祖母たちの力を借りながら子育てをした。私はそのまま成長して今に至ります。
なので私は結局、母方の苗字を名乗って今に至りますが、もし父と母が結婚していた場合……
私は石動美里という名前になっていたはずなのです。
これは偶然とは思えない。呆然としました。
あの女が探していたイスルギミサトが自分だったなんて、予想もしていませんでした。ミサトという名前が自分と同じだなとは思っていましたが、ありふれた名前ですし、特に深く考えていませんでした。
「そ、それでおばあちゃん……あの女の人って、誰なの?」
私はまず、そこから聞いてしまいました。あのインシデントレポートを読み、そして同僚から聞いた話からすると、女が普通の状態ではないことはわかっていました。一体あれは誰で、なぜ私を探しているのか?
ですが、ここで祖母の顔に浮かんだのは困惑の色でした。
「そんなのわからない。まるで心当たりがないよ」
「なんで私を探してるの? なんで……」
「美里、落ち着いてゆっくり考えよう」
祖母はいつになく真剣な顔で私に言います。ただ、落ち着いてというのは私に対してではなく、自分に言っているようにも聞こえました。
「ただの偶然ってことはない?」
「石動っていう名字は、こっちではあまり見かけないでしょ……それが同姓同名だなんて、こんな偶然あるの……?」
「それは、そうだけど。でも、あなたは結局石動美里にはなっていない。なるはずだった、というだけ。そんなことを知っている人なんて、ごくわずかなのよ。その名前を探すなんて考えられないし、ありえない」
祖母は小さく首を振りながら言いました。それに関しては、同感です。
「確かにそう……私ですら知らなかったことだし……」
「その女の人は普通じゃない様子だったんでしょう? だから、たまたま入り込んだ変質者が、ドラマとかで見た石動という名字と、そこまで珍しくない美里という名前を組み合わせて、妄想の人物を作り上げたんじゃない?」
「そんな偶然、ある?」
「普通はないけど、あったのよ、きっと。それに、その女の人はもう侵入してきていないんでしょう? 諦めたのか、他に興味が移ったのか。妄想に取り憑かれていただけで、深い意味はなかった可能性も高い」
祖母の必死な言い分は、私にも理解できます。
私が得るはずだった名を知る人はほとんどいないので、その名を探す人がいること自体おかしい。確かにその通りです。私自身ですら知らなかったことですから。
でも同時に、石動美里なんていう珍しい名前が完全一致する可能性の低さ、しかも私が働いているM病院に探しに来るという偶然は、不安を煽る材料としては十分でしょう。
しばらく一人で悩んだあと、私は祖母に一つ質問をしました。
「ちなみに……今、私の父親はどうしてるの?」
祖母はぐっと一瞬答えに詰まりましたが、意を決して話してくれました。
「あんたのお母さんに会いたいってさんざん連絡を貰ったけれど、お母さんの意志は固かったから居場所を教えなかった。ただ、M病院という勤務先は知っていたはずだから、会おうと思えば会いに行けたはず。でも一度も行かなかったらしいから、あっちもお母さんの気持ちを理解したんだと思うよ。美里は一度も会っていないはず。父親なのは間違いないんだから、会う権利があるよってお母さんを説得はしたんだけどね」
「じゃあ、どこで何をしているのかわからない?」
「連絡もずっと取っていないしね。もう二十年以上も」
「例えば、私のお父さんがやっぱり娘に会いたくなって、人を使って探しているってことは……」
「変だよ。あの人は美里の本名を知ってるんだからね」
そうだった、とすぐに思い直します。もし父が私を探しているのなら、石動の苗字ではなく、今の苗字で探すはずなのです。
他に私を探す人物など思い浮かばず、黙り込んでしまいました。祖母は何度か頷きながら、また言います。
「だから……偶然だったんだよ。ただ、気を付けるに越したことはないし、もうあんたも大人だからこんな話をしちゃったけど、あまり思いつめなくていいと思うよ。もし、その女が何度も病院に来るようなことがあれば、ちゃんとばあちゃんに相談して」
「……わかった」
私が頷いたのを見て、祖母はほっとしたようでした。でも、どこか顔が強張っていたようにも見えました。そりゃ、孫が得体のしれない人間に探されているかもしれない、と聞けば普通心配になるでしょう。
私はそれ以上は祖母に何も言わず、もう一時間ほどゆっくりしてから帰宅しました。


