「うう…………っ」

 百科事典のコーナーで、分厚い本で押し潰された居待は、腹がヒリヒリと痛むのを感じていた。どう考えても圧迫が原因であばらがやられている。

(十六夜たち……あいつらコリもせずに……!!)

 居待からしてみれば、十六夜は絶対に異界から出してはいけない男だった。
 この図書館の大惨事だって、残月あたりを脅迫して起こしたのだろうと想像できたのだから。

(あいつだけは……あいつだけは絶対に一緒に殺す……! あいつだけは……)

 どれだけ本を愛していても、本に圧迫されて死ぬのは嫌だった。骨が折れて、体を無理に空いた隙間から出そうとすると、ピシッピシッと嫌な音を立て、なにかが肉を突き刺す音を耳にする。その激痛で、そのたびに居待は「ヒィ」「イィ」「アガァ」と悲鳴を漏らすが、それでも行かなければいけなかった。
 あいつは絶対にここから出さない。ここで始末する。
 普段大人しくて臆病で、自己表現が希薄な居待は、このときばかりは目をギラギラさせていた。
 それは弓張が有明に向けていた深い恋に近い感情なんかとは程遠い。
 執念と執着と憎悪で煮凝ったなにかであった。

****

 旧校舎に無理矢理連れてこられた居待は、吐き気を催す経験を何度も重ねた。
 十六夜は普段こそ先生や大人たちを騙くらかすほどにさわやかに接していたが、ここでは平気で煙草を吸うし、どうやって手に入れたのか酒だって持ち込んでいた。おかげで居待にとっての旧校舎の印象は、煙草と酒のにおいで塗れた路地裏のにおいという印象を拭うことができなかった。
 怖くて怖くて、なんとか誰かに相談しようと、十六夜の目を盗んで正義感の強い有明や、実家が警察官の望月に相談を持ち込もうとしたが、そのたびにどこでどう見ていたのか見つかった。

「あれ、居待さん。どこか行くの?」
「……っ!」

 居待は恐怖で凝り固まった顔をしていたが、彼女は人見知りが過ぎ、クラス委員以外とはまともにしゃべれない性格が災いして、十六夜に過敏に拒否反応を示していると周りに気付かれなかった。
 十六夜はにこやかに続ける。

「ちょっとさ、図書館で調べ事したいけど、俺だとどこにどの本があるかわからないんだ。教えてくれないかな?」

 居待は恐怖で喉がつっかえて、なにもしゃべることができなかった。どうにかして助けてほしくて、必死にクラスの女子を見るが、今は有明は風紀委員の集まり、望月は既に帰宅していて教室にはいなかった。今いる女子は、十六夜の表の顔しか知らないファンばかりだ。

「あれ、居待さん。十六夜くん困ってるみたいだから行ってあげなよ」
「いいなあ、十六夜くんに頼られて」

(頼られるのがいいんだったら、あんたが行けよ)

 気が弱い居待は、思ってはいても口に出すことができなかった。

「嫌だ」「やめて」「怖い」「痛い」「ヤダ」「お願い」「帰らせて」

 旧校舎でなにを言っても、どれだけ懇願しても聞き入れられなかった。居待はそのたびに、心と体が急速に乖離していくのに気付いていた。
 心がボロボロで傷付いて、体の上で起こっていることを、全て他人事のように眺めるようになってきたのだ。それを眺めながら、十六夜を見上げる。
 普段のさわやかなスポーツ青年の顔はなりを潜め、すっかりとケダモノで欲に塗れた男の顔になっているのに吐き気を催し、頭の中で何度も何度も殺す想像をするようになったのである。
 学校にテロリストは現れて、真っ先に撃ち殺してくれないか。
 遠征に行ったときに事故にあって、水泳部ごと全員そのまま亡くなってくれないか。
 居待の想像力を駆使して、どれだけむごたらしい死に方を想像しても、実際の十六夜はピクリともしなかった。
 そんな中、異界に来て、真っ先に有明が殺されたのだ。
 有明は口うるさいものの、よくも悪くも平等な人だった。十六夜と違って死ぬべき人間ではなかった。
 居待は残念ながら望月のように博愛主義にはなれなかったが、自分は異界で死ぬ以上、十六夜だけは道連れにすべきだと、そう心に誓っていた。

****

「あわわわわわわ…………」

 残月は青ざめていた。
 どう考えたって、図書館一帯大惨事である。そして本棚にいた居待はどう考えても本棚と分厚い本の雪崩に巻き込まれてぺしゃんこになっている……ぺしゃんこであってくれればいい。グロい想像がいくらでもできるのだから、ズルズルのまま生きて出てこられるほうが怖かった。

「こ、これ! やり過ぎじゃないっすかね!?」
「これだけ派手に滅茶苦茶になってたら、生徒会長だってそう易々とここまで突破してこないだろ」
「いやいやいや! 居待ちゃん、これ普通に死なないっすか!?」
「あの女がしょうもないことするからだろ。普段通り人形のように振る舞ってりゃよかったのに余計なことして」

 あっさりと人の心のないことを言い放つ十六夜に、残月は引き気味になっていた。
 ふたりで本棚をずらし、どうにか本を引っ張り出すが、紫色がなかなか見つからない。これだけ本があるのだから、一冊くらいは該当しそうなものだが、表紙にすら出てこないのだ。

「このあたり、専門書のコーナーみたいだし、もうちょっと場所をずらしたほうが……」

 一応残月がおずおずと言い放つと、十六夜がちらっと残月を見下ろす。元々精悍な顔立ちなのだから、笑みが消えると凄みが増してひどく凶悪な表情に見える。

「ならどこがいいのか言えよ」
「い、いやあ……これだけ本棚がむっちゃくちゃだと、どこがどうとか言えなくないっすかね、ハハハ……」
「考えてもいねえのに、余計なこと言うなよ」
「あ、はい……」
「……ちっ、あの女もうちょっと脅かしておきゃよかったか……」

 既にぺしゃんこになっているだろう居待が死んでもなお人でなしなことを言う十六夜に、残月は腰が引けつつも、彼に真っ向から悪く言えた居待のほうがまだマシだったのではと早くも後悔が滲み出ていたが、もう後悔しても遅かった。
 そうこうしている中、こちらにズザザザザザザッと音が聞こえてくるのに気付いた。

「えっ……ひ、ひいっ!」
「おい、なんだ?」
「う、上!」
「上? ……ああ」

 生徒会長が、崩れて倒れた本棚の上を跳びながら、色鬼参加者を探し回っていたのである。その足は異様に速く、倒れた棚が彼女の足の踏み込みに負けて、変な音を立てるのだ。

「見つけました。紫色、持ってないようですね?」
「まっ、待って! 今、探して……!」
「カウントは終わりました。捕食します」

 まるで「今日のホームルームはここまでです」というような口調で、彼女は難なくナイフを取り出すと、それで腰を抜かして座り込んでいる残月の首に向かって大きく突き刺した。途端に血が噴き出る。
 残月はギョロ目を剥いて絶命したのに、十六夜は「チッ」と舌打ちをした。

「本当に使えねえな」
「紫のものは持ってないですね。捕食します」
「舐めんな」

 元々十六夜は水泳部所属であり、水泳のために体を鍛え上げていた。水泳以外のことだって当然している。
 十六夜はさっさと冷たくなりつつある残月の死体を、生徒会長目がけて投げたのである。彼女に思いっきり当たり、彼女はそれで尻餅をついたのに、十六夜はニヤリと笑う。

「鬼なんだから、なにをしてもいいんだよな?」