俺は、お母さんも、お父さんも、左龍も大好きだった。
ただ普通の、仲のいい家族だった。
裕福でもない。
かといって、貧乏でもない。
喧嘩をすることだって時々あったけれど、それでもよく笑い合う、ごく普通の家庭。
――そんな『幸せ』が、こんなにも簡単に壊れるものだなんて。
あの頃の俺は、知らなかった。
ある日、お父さんが死んだ。
自殺だったらしい。
それを知ったのは、ずっと後になってからだった。
お父さんは、反社会的な人たちから多額の借金をしていたらしい。
しかも、とても返せるような額じゃなかった。
「ねぇ、なんでよ!!! 起きてよっ……!! ねぇ!!」
お母さんが泣いていた。
俺は、お母さんがあんなふうに泣くところを初めて見た。
左龍も、たくさん泣いていた。
お父さんが死んでから、お母さんは俺たち二人を養うために、朝から晩まで働くようになった。
最初の頃は、夜のある程度の時間には帰ってきてくれていた。
三人で食卓を囲んで、一緒にご飯を食べることもあった。
でも、それも少しずつ減っていった。
帰ってくる時間はどんどん遅くなり、週に何度かしか、お母さんの顔を見られなくなった。
それだけじゃない。
お母さんは、日に日に細くなっていった。
ある朝。
お母さんが家を出ようとしたとき、俺は思わず声をかけた。
「……ご飯、食べてる?」
「ねぇ……休んだら?」
少しだけ間を置いて、
「俺……お母さんが倒れちゃわないか心配だよ……」
そう言った。
「……笑。何言ってんのー?」
お母さんは笑った。
「私は大丈夫よ。へーき、へーき!」
そう言って、俺の頭を撫でる。
「じゃあ、行ってきます!!」
「……いってらっしゃい……」
少なくとも、俺たちの前では、お母さんはよく笑うようになった。
でも、その笑顔を見るたびに。
目の下にできた隈を見るたびに。
胸が締め付けられるような気持ちになった。
そんなある日。
「お母さん……死んじゃわないかな」
左龍が、ぽつりと呟いた。
俺は何も言えなかった。
それでも、何とか言葉を探して、
「……大丈夫だよ。きっと」
そう答えることしかできなかった。
そんな生活が続いて、数年が経った。
ある日。
珍しく、お母さんが朝から家にいた。
俺は、それだけで嬉しくてたまらなかった。
「右龍、左龍」
「なぁに? お母さん」
お母さんは俺たちを見て、少しだけ間を置いた。
「今からね、とっても大事な話をするね」
そして――。
「今日は私、お仕事休みだからさ」
「たまにはみんなで鬼ごっこしない?」
「え?! 鬼ごっこ!! する!!」
左龍が嬉しそうにはしゃぐ。
俺も笑おうとした。
だけど。
どこか引っかかった。
――なんで急に?
せっかくの休みなら、休めばいいのに……。
「いい?」
お母さんが続ける。
「簡単なルールがあるから、よく聞いてね」
「その一。私とか、黒いスーツを着た少し怖い人から逃げること」
「その二。できるだけ遠くに行くこと」
「え……?」
俺は思わず聞き返した。
「初めてだね〜。こんな街中を使って、大きな範囲で鬼ごっこするの」
お母さんは笑った。
「お母さんも捕まえるの楽しみ!」
「絶対逃げ切れるよ!! ね〜、右龍!」
「……うん」
「元気ないの?」
左龍が俺を見る。
すると、お母さんが何かを思い出したように言った。
「あ、そうそう!」
「もしね。もし黒いスーツを着た人に追いかけられて、捕まりそうになったら――」
お母さんは、刃物を取り出した。
「この包丁で刺してでも逃げてね!」
「じゃないと、即ゲームオーバーになっちゃうよ」
「もし、それでも他の鬼に捕まったら?」
左龍が尋ねる。
「んー……」
お母さんは少し考えるようにして、
「どーなっちゃうんだろうね……笑」
「お母さんも分かんないや、笑」
そして、優しく笑った。
「まぁでも、いっぱい逃げてね」
――ゴンゴンゴン!!!
突然、激しくドアを叩く音が室内に響いた。
お母さんの表情が変わる。
「……来ちゃった」
そして、すぐに笑顔を作った。
「よっし!」
「じゃあ鬼ごっこスタートするよ!」
「あっちの出口から出てね!」
「行こ! 右龍!」
左龍が俺の手を引く。
「待って。二人とも」
お母さんに呼び止められた。
「ん?」
振り返る。
お母さんは、俺たちを見つめていた。
「愛してるっ!」
そう言って、俺たちを思いっきり抱きしめた。
「右龍……」
「ん?」
「左龍をよろしくね」
その声は、少し震えていた。
「お母さん……?」
「行って!」
「え、っ……まっ――」
「早くっ!!」
俺たちは、必死に逃げた。
街中を。
細い通路を。
ずっと、ずっと走った。
気がつけば、知らない場所まで来ていた。
「右龍……お腹すいた……」
「そーだね……。俺も空いちゃった」
そのときだった。
「見つけたぞ!」
「捕まえろ!!」
「右龍!!」
左龍の手が震えているのが分かった。
――俺がやらないと。
――守らないと。
「左龍に手を出すなっ!!」
俺は、思いっきり刃物を振り下ろした。
「は、笑。雑魚が!!」
次の瞬間、身体に衝撃が走った。
「が、っ……!!」
「ゴホッ……ヴ……げほっ……!」
「右龍!!」
「は、笑。ざまぁ」
敵の男が笑う。
「雑魚のくせに、構えだけは一丁前か?」
そのとき。
「遅くなってごめんねぇ」
場違いなくらい、穏やかな声が響いた。
「君たち、よく頑張ったね〜」
一人の青年が立っていた。
「てか、おじさんたち。子供二人にこんな人数は無いんじゃない?」
足音なんて、聞こえなかった。
いつからそこにいたのかも分からない。
ただ、敵が叫び、痛がる声だけが耳に残った。
気づいたときには、一人、また一人と倒れていった。
そして最後に残ったのは――突然現れた、その青年だけだった。
「右龍、っ……ぅ……」
左龍が泣いている。
俺は、左龍を抱きしめた。
「大丈夫……大丈夫……」
蹴られたところには、まだ痛みが残っていた。
そんな俺たちを見て、青年が声をかける。
「ねぇ……大丈夫……じゃないよね……」
「怪我ない?」
「な、ない……ですっ……」
恐怖で喉が閉まって、声が出にくい。
「親は……?」
青年は途中で言葉を止めた。
「……って、こいつら裏の借金取りだよね」
そして、俺たちに手を差し伸べる。
「君たちさ。ここにいても危ないから、来る?」
俺は、その手を警戒した。
「やめ、ろ……っ」
「俺は、この人たちみたいに殺したりしないよ」
青年は穏やかに言った。
「こっちに来たら、布団も温かいご飯もあるよ」
「とりあえずさぁ……警察来るとめんどくさいから帰ろ」
「帰るって……」
声が震えた。
「俺には……っ」
「俺らには家もないし、家族も居ない!」
「お母さんだって……お母さんだって……連れていかれた……し……っ」
我慢していた気持ちが、一気に溢れ出した。
俺は知っていた。
あの後。
家を出たあと。
お母さんが、スーツを着た人たちに連れていかれたことを。
「家は帰れなくなったし……」
青年は静かに言った。
「親が連れ去られたのは分かった」
そして――少し笑った。
「でもさ」
「たった一人、今隣にいるじゃん」
「大事な家族が」
「……!!」
俺は、隣にいる左龍を見た。
青年はもう一度、手を差し出した。
「ね?」
「だから、俺の家に行こ」
――これが。
俺たちが夜薔薇に入るきっかけだった。
* * *
(今度は……俺が助けないと……)
「少し寝てくる……」
「分かりました」
「いい……。自分で歩ける……」
「……風翠さん」
「なに……?」
「風翠さんは……お姉さんに会いたいですか?」
「え……?」
「お姉さん……」
「聞こえてるよ……」
風翠は少しだけ目を伏せた。
「……分かんない」
「そうですか……」
少しの沈黙。
「ねぇ……」
「なんですか?」
「もし……会うってなったら」
「なんて声、掛けたらいい?」
右龍は少し考えてから答えた。
「それは……」
そして、柔らかく笑う。
「それは一緒に考えましょ!」
「……分かった」
「やっぱり支えさせてください」
「危なっかしいです」
「……ごめん」
「今から謝るの禁止です」
「……ありがと」
「はい!」
風翠を寝室まで送り届け、右龍は自分の部屋へ戻った。
――風翠視点。
薄暗い部屋で、天井を眺める。
(まだ……メアド……残ってるかな?)
使い捨てのメールアドレスではなかったら、残っているはずだ。
一か八か。
俺はメールを送ってみることにした。
姉貴は、悪い人ではなかったと思う。
だけど、何かしらの食い違いで、関係も切れた。
そのまま、何十年も離れて暮らしてきた。
互いのことなんて、知るはずもない。
姉貴が反社にいたことも。
俺が、そんな世界にいることも。
何も知らないまま。
「会って話したら……変わるかな……」
この気持ちも。
ずっと胸の中に残っている、このモヤモヤも。
全部。
そんなことを考えながら。
俺は、通知が来るのを待った。
ただ普通の、仲のいい家族だった。
裕福でもない。
かといって、貧乏でもない。
喧嘩をすることだって時々あったけれど、それでもよく笑い合う、ごく普通の家庭。
――そんな『幸せ』が、こんなにも簡単に壊れるものだなんて。
あの頃の俺は、知らなかった。
ある日、お父さんが死んだ。
自殺だったらしい。
それを知ったのは、ずっと後になってからだった。
お父さんは、反社会的な人たちから多額の借金をしていたらしい。
しかも、とても返せるような額じゃなかった。
「ねぇ、なんでよ!!! 起きてよっ……!! ねぇ!!」
お母さんが泣いていた。
俺は、お母さんがあんなふうに泣くところを初めて見た。
左龍も、たくさん泣いていた。
お父さんが死んでから、お母さんは俺たち二人を養うために、朝から晩まで働くようになった。
最初の頃は、夜のある程度の時間には帰ってきてくれていた。
三人で食卓を囲んで、一緒にご飯を食べることもあった。
でも、それも少しずつ減っていった。
帰ってくる時間はどんどん遅くなり、週に何度かしか、お母さんの顔を見られなくなった。
それだけじゃない。
お母さんは、日に日に細くなっていった。
ある朝。
お母さんが家を出ようとしたとき、俺は思わず声をかけた。
「……ご飯、食べてる?」
「ねぇ……休んだら?」
少しだけ間を置いて、
「俺……お母さんが倒れちゃわないか心配だよ……」
そう言った。
「……笑。何言ってんのー?」
お母さんは笑った。
「私は大丈夫よ。へーき、へーき!」
そう言って、俺の頭を撫でる。
「じゃあ、行ってきます!!」
「……いってらっしゃい……」
少なくとも、俺たちの前では、お母さんはよく笑うようになった。
でも、その笑顔を見るたびに。
目の下にできた隈を見るたびに。
胸が締め付けられるような気持ちになった。
そんなある日。
「お母さん……死んじゃわないかな」
左龍が、ぽつりと呟いた。
俺は何も言えなかった。
それでも、何とか言葉を探して、
「……大丈夫だよ。きっと」
そう答えることしかできなかった。
そんな生活が続いて、数年が経った。
ある日。
珍しく、お母さんが朝から家にいた。
俺は、それだけで嬉しくてたまらなかった。
「右龍、左龍」
「なぁに? お母さん」
お母さんは俺たちを見て、少しだけ間を置いた。
「今からね、とっても大事な話をするね」
そして――。
「今日は私、お仕事休みだからさ」
「たまにはみんなで鬼ごっこしない?」
「え?! 鬼ごっこ!! する!!」
左龍が嬉しそうにはしゃぐ。
俺も笑おうとした。
だけど。
どこか引っかかった。
――なんで急に?
せっかくの休みなら、休めばいいのに……。
「いい?」
お母さんが続ける。
「簡単なルールがあるから、よく聞いてね」
「その一。私とか、黒いスーツを着た少し怖い人から逃げること」
「その二。できるだけ遠くに行くこと」
「え……?」
俺は思わず聞き返した。
「初めてだね〜。こんな街中を使って、大きな範囲で鬼ごっこするの」
お母さんは笑った。
「お母さんも捕まえるの楽しみ!」
「絶対逃げ切れるよ!! ね〜、右龍!」
「……うん」
「元気ないの?」
左龍が俺を見る。
すると、お母さんが何かを思い出したように言った。
「あ、そうそう!」
「もしね。もし黒いスーツを着た人に追いかけられて、捕まりそうになったら――」
お母さんは、刃物を取り出した。
「この包丁で刺してでも逃げてね!」
「じゃないと、即ゲームオーバーになっちゃうよ」
「もし、それでも他の鬼に捕まったら?」
左龍が尋ねる。
「んー……」
お母さんは少し考えるようにして、
「どーなっちゃうんだろうね……笑」
「お母さんも分かんないや、笑」
そして、優しく笑った。
「まぁでも、いっぱい逃げてね」
――ゴンゴンゴン!!!
突然、激しくドアを叩く音が室内に響いた。
お母さんの表情が変わる。
「……来ちゃった」
そして、すぐに笑顔を作った。
「よっし!」
「じゃあ鬼ごっこスタートするよ!」
「あっちの出口から出てね!」
「行こ! 右龍!」
左龍が俺の手を引く。
「待って。二人とも」
お母さんに呼び止められた。
「ん?」
振り返る。
お母さんは、俺たちを見つめていた。
「愛してるっ!」
そう言って、俺たちを思いっきり抱きしめた。
「右龍……」
「ん?」
「左龍をよろしくね」
その声は、少し震えていた。
「お母さん……?」
「行って!」
「え、っ……まっ――」
「早くっ!!」
俺たちは、必死に逃げた。
街中を。
細い通路を。
ずっと、ずっと走った。
気がつけば、知らない場所まで来ていた。
「右龍……お腹すいた……」
「そーだね……。俺も空いちゃった」
そのときだった。
「見つけたぞ!」
「捕まえろ!!」
「右龍!!」
左龍の手が震えているのが分かった。
――俺がやらないと。
――守らないと。
「左龍に手を出すなっ!!」
俺は、思いっきり刃物を振り下ろした。
「は、笑。雑魚が!!」
次の瞬間、身体に衝撃が走った。
「が、っ……!!」
「ゴホッ……ヴ……げほっ……!」
「右龍!!」
「は、笑。ざまぁ」
敵の男が笑う。
「雑魚のくせに、構えだけは一丁前か?」
そのとき。
「遅くなってごめんねぇ」
場違いなくらい、穏やかな声が響いた。
「君たち、よく頑張ったね〜」
一人の青年が立っていた。
「てか、おじさんたち。子供二人にこんな人数は無いんじゃない?」
足音なんて、聞こえなかった。
いつからそこにいたのかも分からない。
ただ、敵が叫び、痛がる声だけが耳に残った。
気づいたときには、一人、また一人と倒れていった。
そして最後に残ったのは――突然現れた、その青年だけだった。
「右龍、っ……ぅ……」
左龍が泣いている。
俺は、左龍を抱きしめた。
「大丈夫……大丈夫……」
蹴られたところには、まだ痛みが残っていた。
そんな俺たちを見て、青年が声をかける。
「ねぇ……大丈夫……じゃないよね……」
「怪我ない?」
「な、ない……ですっ……」
恐怖で喉が閉まって、声が出にくい。
「親は……?」
青年は途中で言葉を止めた。
「……って、こいつら裏の借金取りだよね」
そして、俺たちに手を差し伸べる。
「君たちさ。ここにいても危ないから、来る?」
俺は、その手を警戒した。
「やめ、ろ……っ」
「俺は、この人たちみたいに殺したりしないよ」
青年は穏やかに言った。
「こっちに来たら、布団も温かいご飯もあるよ」
「とりあえずさぁ……警察来るとめんどくさいから帰ろ」
「帰るって……」
声が震えた。
「俺には……っ」
「俺らには家もないし、家族も居ない!」
「お母さんだって……お母さんだって……連れていかれた……し……っ」
我慢していた気持ちが、一気に溢れ出した。
俺は知っていた。
あの後。
家を出たあと。
お母さんが、スーツを着た人たちに連れていかれたことを。
「家は帰れなくなったし……」
青年は静かに言った。
「親が連れ去られたのは分かった」
そして――少し笑った。
「でもさ」
「たった一人、今隣にいるじゃん」
「大事な家族が」
「……!!」
俺は、隣にいる左龍を見た。
青年はもう一度、手を差し出した。
「ね?」
「だから、俺の家に行こ」
――これが。
俺たちが夜薔薇に入るきっかけだった。
* * *
(今度は……俺が助けないと……)
「少し寝てくる……」
「分かりました」
「いい……。自分で歩ける……」
「……風翠さん」
「なに……?」
「風翠さんは……お姉さんに会いたいですか?」
「え……?」
「お姉さん……」
「聞こえてるよ……」
風翠は少しだけ目を伏せた。
「……分かんない」
「そうですか……」
少しの沈黙。
「ねぇ……」
「なんですか?」
「もし……会うってなったら」
「なんて声、掛けたらいい?」
右龍は少し考えてから答えた。
「それは……」
そして、柔らかく笑う。
「それは一緒に考えましょ!」
「……分かった」
「やっぱり支えさせてください」
「危なっかしいです」
「……ごめん」
「今から謝るの禁止です」
「……ありがと」
「はい!」
風翠を寝室まで送り届け、右龍は自分の部屋へ戻った。
――風翠視点。
薄暗い部屋で、天井を眺める。
(まだ……メアド……残ってるかな?)
使い捨てのメールアドレスではなかったら、残っているはずだ。
一か八か。
俺はメールを送ってみることにした。
姉貴は、悪い人ではなかったと思う。
だけど、何かしらの食い違いで、関係も切れた。
そのまま、何十年も離れて暮らしてきた。
互いのことなんて、知るはずもない。
姉貴が反社にいたことも。
俺が、そんな世界にいることも。
何も知らないまま。
「会って話したら……変わるかな……」
この気持ちも。
ずっと胸の中に残っている、このモヤモヤも。
全部。
そんなことを考えながら。
俺は、通知が来るのを待った。
