朽ちない薔薇は夜に舞う

「……ふぅ……」
風翠は、自室のソファーへ深く身体を沈めた。
長く息を吐く。
こめかみに指を当てると、鈍い痛みがじわじわと広がっているのが分かった。
「……頭痛……」
ここ数日、ずっと続いている。
一度治まったと思えば、また痛み出す。
原因は分かっていた。
分かっているからこそ、余計に厄介だった。
風翠はゆっくりと目を閉じる。
「……薬、取りに行かないと」
重たい身体を起こす。
立ち上がった瞬間、ぐらっと視界が揺れた。
「……っ」
壁に手をつく。
少し待ってから、ゆっくりと歩き出した。
自室を出る。
誰もいない暗い廊下。
風翠は壁に手を添えながら、一歩ずつ進んでいく。
(あー……これ、やばいな……)
頭痛は先ほどより強くなっている。
それでも、薬を取りに行かなければならない。
そう思っていたときだった。
「……風翠さん?」
後ろから声がした。
風翠が振り返る。
そこには右龍が立っていた。
「あ、……うーちゃん」
風翠はいつも通り笑おうとした。
けれど、右龍の表情は曇った。
「顔色悪いですけど……大丈夫ですか?」
「あはは……笑」
風翠は誤魔化すように笑う。
「少し頭痛くって」
「……最近、多いですよね」
「まぁね」
軽く返す。
けれど右龍は、風翠の顔から視線を逸らさなかった。
「……」
風翠も、その視線に気づいていた。
しかし、何も言わない。
二人はそのまま近くの会議室へ入った。
会議室とはいっても、招集があるとき以外は誰でも自由に使っていい部屋だ。
右龍は椅子を引き、風翠へ勧める。
「座ってください」
「ありがと」
風翠が腰を下ろす。
右龍は向かいの椅子へ座った。
「ちゃんと寝れてます?」
「寝れてるよ」
即答。
けれど――
「……嘘ですね」
「……」
風翠が目を瞬く。
「なんで分かるの? 笑」
右龍は少しだけ首を傾げた。
「昨日、何時間寝れました?」
「えーっと……」
風翠は少し考える。
「三か……四時間くらいかな?」
「……それ、ちゃんと寝れてるって言わないですよ」
「そうかな?」
「資料ですか?」
「違うよ」
風翠は苦笑する。
「ただ、寝れないだけ」
その言葉の奥にあるものを、右龍は深く追及しなかった。
眠れない。
それだけで十分だった。
眠りについても、すぐに目が覚める。
夢を見る。
そして、目覚めたあともしばらく胸の奥に残る。
何度も繰り返される悪夢。
だから、眠ることさえ少し怖かった。
「……」
右龍は風翠を見る。
目の下には、薄く疲労が滲んでいる。
「少し仮眠します?」
「んー……」
風翠は背もたれへ身体を預ける。
「なら……少しだけ、笑」
「ここ、少し寒いですよ」
右龍が言う。
「自室に戻って仮眠します?」
そして、続ける。
「薬なら持っていきますし」
風翠は少しだけ目を丸くした。
「……なら、そうしよっかな」
小さく笑う。
「ありがとね、うーちゃん」
「気にしないでください」
右龍は立ち上がった。
風翠もゆっくりと立つ。
二人は会議室を出た。

再び、自室へ向かう廊下。
風翠の足取りは重かった。
一歩。
また一歩。
さっきよりも身体が重く感じる。
「……ふぅ゛……」
小さく息を吐く。
その瞬間だった。
ズキッ――。
頭の奥を、鋭い痛みが走った。
「……っ」
風翠は壁に手をついた。
視界が滲む。
呼吸が浅くなる。
「……ヒュ……」
息が、うまく入らない。
苦しい。
まただ。
この感覚。
何度経験しても、慣れることはない。
「……っ、は……」
吸おうとする。
けれど、上手くいかない。
そのとき。
背後から扉の開く音がした。
「ガチャ」
「風翠さん」
右龍だった。
風翠は振り返ろうとする。
「うー、っちゃ……」
言葉が続かない。
「ゴホッ……ヴ……!」
咳き込む。
「ゲホッ……ゴホッ……!」
右龍の表情が変わった。
すぐに風翠の近くまで駆け寄る。
「喋らないでください」
風翠の身体を支えながら、落ち着いた声で言う。
「大丈夫です」
「ゆっくりでいいですから」
「長く息を吐いてください……」
右龍は急かさなかった。
風翠が自分で呼吸を取り戻せるように、ただ隣にいる。
「……ゆっくり」
「吐いて……」
風翠は言われた通り、少しずつ息を吐いた。
一度。
また一度。
乱れていた呼吸が、徐々に戻っていく。
やがて。
「……」
風翠は目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐いた。
右龍がほっと息をつく。
「……落ち着きましたね」
風翠はしばらく何も言えなかった。
ようやく顔を上げる。
「……ごめんね」
「?」
「めいわ……」
「迷惑じゃないですよ!」
右龍の声が重なる。
風翠が目を丸くする。
右龍は少しだけ眉を下げた。
「辛い時、しんどい時くらい……俺のこと頼ってくださいよ」
「……」
「年齢が上とか下とか、関係ないですよ」
風翠は黙って右龍を見る。
「俺だって、風翠さんに助けてもらってるんですから」
右龍は少し笑った。
「だから今度は、俺が風翠さんを助けてもいいじゃないですか」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていった。
風翠はしばらく黙っていた。
そして――
「……そーだね」
小さく笑った。
「……うーちゃんの言う通りかも」
「はい」
右龍も笑う。
「動けます?」
「うん」
「じゃあ、ゆっくりでいいので自室行きましょ」
「うん」
右龍に支えられながら、風翠はゆっくりと歩き出した。

廊下を歩きながら、風翠は俯いていた。
(……あーぁ)
情けないな。
俺の方が、しっかりしないといけないのに。
みんなが辛いときには支えてあげられるように。
怪我をしたら手当てをして。
怖がっていたら傍にいて。
眠れない夜があれば、話を聞いて。
そうやって、皆を守る側でいたかった。
なのに。
今は、立場が逆転している。
「……」
風翠は、隣を歩く右龍をちらりと見る。
自分の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれている。
本当なら、自分がこうする側だった。
辛そうな顔をしている人がいたら気づいて。 大丈夫じゃないのに「大丈夫」と笑っている人がいたら、そばにいて。
誰かが倒れそうなら、自分が支えればいい。
ずっと、そう思っていた。
だから――
「……頼ってくださいよ」
さっきの右龍の言葉が、頭の中に残っている。
頼っていい。
そう言われても、やっぱり少しだけ抵抗があった。
自分が誰かに頼るなんて。 自分が弱いところを見せるなんて。
そんなことをしていいのだろうか。
「……」
風翠は小さく息を吐いた。
(……まぁ……いっか)
今すぐ、考え方を変えなくてもいい。
頼ることに慣れなくてもいい。
ただ今は――
右龍が差し出してくれた手を、拒まないことだけにした。
「……うーちゃん」
「はい?」
「……ありがと」
それだけ言うのが、今の風翠には精一杯だった。
右龍は何も聞かなかった。
ただ、いつも通り笑ってくれた。
「どういたしまして」
風翠はその横顔を見ながら、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
(……誰かに頼るのって、変な感じだな、、)
不安だけど少し軽くなる感じ。
胸の奥に、まだ小さな不安が残っている。
自分が誰かに頼ってしまったら。 今までと何かが変わってしまう気がする。
(……逆に、変になってしまいそう)
そんなことを考えながらも、さっきまで身体を締めつけていた重さが、ほんの少しだけ軽くなっていることに気づいた。
不安なのに。
落ち着かないのに。
それでも少しだけ、楽だった。
風翠はその感覚に戸惑いながら、何も言わず右龍の隣を歩き続けた。
自室に戻ると、右龍は風翠をソファーまで連れていった。
「ここ、横になってください」
「……ん」
風翠は素直に身体を預ける。
右龍がブランケットを掛けると、風翠は小さく息を吐いた。
「……ありがと、うーちゃん」
「いえ」
それだけ言って、右龍は少し離れた場所に腰を下ろした。
数分後。
部屋の中は、すっかり静かになっていた。
右龍はソファーへ視線を向ける。
「……寝たかな……?」
小さく呟く。
「スゥ……スゥ……」
風翠は眠っていた。
右龍はその寝顔をしばらく見つめる。
風翠さんは、時々こうして弱る。
それも、不定期に。
そういう時の風翠さんは、訓練所でひたすら的を撃ち続けていたり。
誰にも言わず、不眠不休で過去の資料を漁っていたりする。
何かから逃げるように。
何かを探すように。
でも――
俺には、その理由が分からない。
ただ。
俺らには見せられない何かを抱えているんだとは思う。
一度だって、風翠さんが泣いているところを見たことがない。
弱音を吐いているところもない。
痛い時だって。
苦しい時だって。
いつも笑っている。
「大丈夫」と笑って。
心配させないように誤魔化して。
無理をしていることくらい、俺にも分かる。
右龍は眠っている風翠を見つめた。
(……風翠さんの悩みって、なんなんだろ)
少しだけ考える。
でも今は全部を知ろうとしなくても。
今はただ、「そばにいて支えたい」そう思った。