薄暗い部屋に、パソコンの冷たい光が浮かんでいた。
零は画面を見つめながら、キーボードを叩いている。
カタ、カタ。
小さなキー音だけが、静かな室内に響いていた。
そのとき――
「零、そっちのカメラ調整できる?」
白夜の声に、零は顔を上げる。
そして、こくりと頷いた。
再び画面へ視線を戻し、指を動かす。
カタカタカタ――。
画面に映し出されていたのは、最近になって裏社会でその名を聞くことが増えた組織だった。
――月影。
白夜はモニターを眺めながら、静かに考える。
(……月影、ね)
最近、妙にその名前が裏社会を騒がせている。
けれど、分かっていることは少ない。
どんな組織なのか。
何を目的としているのか。
どれほどの規模なのか。
まるで、こちらから見ようとすればするほど、霧の向こうへ逃げていくようだった。
だからこそ。
(ここが潰される前に動かないと)
先に情報を掴む。
そして――必要なら、こちらから潰す。
白夜はそう考えながら、隣へ視線を向けた。
「零」
零が顔を上げる。
「……?」
零は何も言わず、白夜を見つめる。
そして、再びキーボードへ指を置いた。
カタカタカタ。
画面に文字が表示される。
【どうした?】
白夜はその文字を見て、少しだけ笑った。
「俺の名前……言ってほしい」
零の指が止まった。
【なんで?】
再び文字が打ち込まれる。
白夜は少しだけ考えてから、穏やかに答えた。
「声、聞きたいなって思ってさ」
零の表情が僅かに揺れた。
声。
その言葉を聞いただけで、胸の奥がざわつく。
それでも、零は白夜を見つめた。
言いたい。
本当は、言ってみたい。
目の前にいるこの人の名前を。
自分の声で。
零はゆっくりと唇を開いた。
「……」
喉が震える。
息を吸う。
そして――
「……は、っ……くや……?」
掠れた、小さな声。
白夜の目が大きく見開かれた。
「……!」
次の瞬間、白夜の顔に笑顔が広がる。
「すごい……!」
零が驚いたように白夜を見る。
「すごいよ、零!」
零の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
――笑った。
けれど。
「……ぅ゛」
突然、零の表情が歪んだ。
頭の奥が痛む。
息が詰まる。
さっきまで聞こえていなかったはずの声が、頭の中へ入り込んでくる。
『やめろ』
『声を出すな』
『うるさい』
「……っ」
零は頭を押さえた。
白夜の声が遠くなる。
目の前の景色が揺らいだ。
違う。
ここじゃない。
分かっている。
ここは、夜薔薇だ。
白夜は敵じゃない。
それなのに――。
身体だけが、昔の記憶を思い出してしまう。
「零」
白夜が静かに声をかける。
「おいで」
零の身体が強張る。
それでも白夜は、できるだけ優しい声で続けた。
「ありがとう、零」
その言葉に、零が僅かに顔を上げる。
「俺のために頑張ってくれて」
白夜は微笑んだ。
「零の声、聞けて嬉しかったよ」
「……っ」
零の目に涙が滲む。
嬉しい。
その言葉を聞いたはずなのに。
頭の中では、別の声が響いていた。
怖い。
苦しい。
忘れたい。
なのに、忘れられない。
「……っ、ぅ……」
白夜がそっと手を伸ばす。
「ごめんね。無理させちゃって……」
零を安心させようと、優しく包み込む。
その瞬間――
「や、っ……!」
零の身体が大きく跳ねた。
「やめ……っ!」
白夜はすぐに腕を離した。
「っ……!」
零は怯えたように身体を縮める。
「ごめん」
白夜はそれ以上近づかなかった。
「零、落ち着いて」
少し離れた場所から、静かに声をかける。
「俺だよ」
零の呼吸が乱れている。
「白夜だよ」
何度も、ゆっくりと伝える。
「ずっとここにいるからね」
その声だけが、今の零へ届く。
少しずつ。
本当に少しずつ。
乱れていた呼吸が、落ち着いていく。
「……大丈夫。ゆっくりでいいからね」
白夜の声が、今度はちゃんと聞こえた。
零は小さく息を吐く。
怖かった。
でも――白夜は、何もしてこなかった。
ただ、離れた場所から声をかけてくれている。
それが分かると、少しだけ身体の力が抜けた。
静かになった部屋で、零は白夜を見つめる。
本当は。
もっと、白夜とお話してみたい。
今日のことも。
任務のことも。
みんなのことも。
たっくさん話してみたい。
だけど――
言葉を口にすると、怖い声が聞こえる。
『やめろ』
『声を出すな』
『うるさい』
頭の中に、昔の記憶が蘇る。
見たくない。
思い出したくない。
忘れたい。
なのに、忘れられない。
話したいのに。
話せない。
零にとって、言葉は――
「呪い」だった。
声を出すたびに、過去が追いかけてくる。
だから、声を出すことが怖い。
ずっと昔。
れいは小さな頃から、裏組織に閉じ込められていた。
外の世界を知らなかった。
朝も夜も分からない場所。
決められた場所で過ごして。
言われた通りにする。
それが、れいの世界だった。
泣いても。
怒っても。
助けを求めても。
何も変わらなかった。
声を出せば怒られる。
逆らえば、もっと怖いことが待っている。
だから、いつしか――
「声を出さない」
それが、生きるための方法になった。
地下室へ送られた夜のことも、忘れられない。
寒かった。
暗かった。
身体を丸めても、震えは止まらなかった。
そんな場所で、れいはずっと一人だった。
……いや。
一人ではなかった。
そこには、自分と同じように閉じ込められた子供たちがいた。
けれど、その子たちはもう動かなかった。
怖かった。
寂しかった。
それでも、どうすることもできなかった。
そんなある日。
いつもより、ずっと騒がしかった。
遠くから怒鳴り声が聞こえる。
「お願いだ……!」
誰かの声。
れいは顔を上げた。
暗闇の向こうに、人影がある。
黒い服。
自分を閉じ込めていた人間とは違う誰か。
その人影と、目が合った。
「君、こっち見ない方がいいよ」
少年の声だった。
「あと、耳塞いでた方がいいよ」
優しい声。
なのに、れいは目を離せなかった。
怖い。
けれど――
この人は、今までの人とは違う。
そう思った。
大きな音が響いた。
「……っ!」
れいの身体が震える。
けれど、その少年は何事もなかったようにこちらへ歩いてくる。
「大丈夫?」
檻越しに、少年が尋ねた。
れいは答えられない。
「君、名前は?」
名前。
そんなもの、考えたこともなかった。
自分に名前なんて必要なかった。
そのとき。
コツ。
コツ。
石の階段を降りてくる音がした。
「おー、片付いてるね」
別の少年が現れる。
最初の少年が振り返った。
「ねぇ……生きてる子、どうする?」
「すご……」
後から来た少年が、れいを見る。
「ここの子たち、さっきほとんどいなくなってたのに……一人だけ生きてる」
少し考えたあと、彼は言った。
「風翠さんがいいって言うなら、連れて帰る?」
「じゃあ、風翠さんに電話するね」
少年が電話を取り出す。
「もしもし、風翠さん」
その間に、もう一人の少年が檻の前まで来た。
「君、名前……」
そこで少年は言葉を止める。
そして、少し困ったように笑った。
「……ないよね」
れいは黙って彼を見る。
「んー……」
少年は少し考えてから笑った。
「なら、君は今日から零だよ」
「……?」
意味が分からない。
けれど。
「俺は右龍」
少年は自分を指差す。
「あっちで電話してる子が左龍」
そして、零の薄い服を見る。
「てか、めちゃくちゃ寒いのにそんな薄着……」
右龍は自分の上着を脱いだ。
「ちょっと待ってね」
そして、檻を開ける。
「いいってさ」
電話を終えた左龍が戻ってきた。
右龍が笑う。
「良かったね、零」
「零って言うの?」
「俺がつけた」
「いいじゃん」
左龍も笑った。
右龍が零へ上着をかける。
「これ、着ときな」
ふわり。
温かかった。
零は、自分の身体を包む布を見つめた。
――暖かい。
こんなに、温かいものがあるんだ。
そして、左龍が零の手を見た。
「零、手すごく冷たそう...」
少し迷うように尋ねる。
「手、握っていい?」
零は小さく頷いた。
左龍の手が、そっと零の手を包む。
温かい。
人の手って――
こんなに温かいんだ。
そのとき。
「うーちゃん、さっくん終わった?」
声が響いた。
二人が振り返る。
「「うわぁっ!?」」
零も驚いて肩を跳ねさせた。
そこに立っていたのは、穏やかな表情を浮かべた風翠だった。
「そんなに驚く? 笑」
「足音なかったんですから!」
「もしかしたら、生きてる人がまだいるかもしれなかったからさ」
風翠はそう言って、零を見る。
「この子が、さっくんの言ってた子?」
左龍が頷く。
「はい」
風翠は零の姿をじっと見る。
そして、しゃがんで目線を合わせた。
「名前は?」
右龍が元気よく答える。
「零です! 俺が名付けました!」
「零……」
風翠はその名前を繰り返した。
そして、零へ問いかける。
「零は、どっちがいい?」
零は黙って風翠を見る。
「これから一人で生きていくか」
風翠は右手を差し出した。
「それとも、俺たちのところへ来て、一緒に暖かいところで暮らすか」
零には、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
自由。
暖かい場所。
一緒に暮らす。
そんなものを、知らなかったから。
風翠は急かさなかった。
「一人で生きていくなら、一本」
人差し指を立てる。
「俺たちと来るなら、二本」
指を二本立てる。
零は二人を見る。
右龍。
左龍。
そして、風翠。
誰も、怒鳴らない。
誰も、急かさない。
ただ待っている。
零は震える手をゆっくりと持ち上げた。
そして――
二本の指を立てた。
それが。
零が夜薔薇を選んだ日だった。
*
「零」
聞き慣れた声に、零は顔を上げる。
そこには、白夜がいた。
「……!」
零の目が僅かに見開かれる。
白夜は笑った。
「おかえり」
零の唇が、小さく動く。
言葉にするのは、まだ怖い。
それでも。
ほんの少しだけ。
声を絞り出す。
「た……だ、いま……」
白夜が目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑う。
「うん」
それ以上、何も言わない。
ただ、零の言葉をちゃんと受け止める。
「おかえり、零」
零は小さく頷いた。
「……」
少しだけ、お腹が空いた。
それに気づいたのか、白夜が言う。
「少しお腹すいたね」
零が顔を上げる。
「暖かいスープでも飲もっか」
「……」
零はこくりと頷いた。
しばらくして。
二人の前に、温かなスープが並んだ。
湯気がゆっくりと立ち上っている。
零は両手で器を包んだ。
温かい。
あの日、右龍から借りた上着も。
左龍に握ってもらった手も。
風翠がくれた居場所も。
そして今、白夜が差し出してくれたスープも。
全部、温かかった。
零は一口、スープを飲む。
胸の奥にあった冷たさが、ほんの少しだけ溶けていく。
夜が深くなっていく。
やがて二人は布団へ入り、静かな部屋で眠りについた。
零は目を閉じる。
怖い声は消えない。これからも思い出すと思う。
言葉という呪いも、簡単には解けない。
それでも――
零は、自分の声で白夜の名前を呼べた。
そして。
自分の声で、「ただいま」と言えた。
ほんの小さな一歩だった。それがれいにとって小さな幸せだった。
零は画面を見つめながら、キーボードを叩いている。
カタ、カタ。
小さなキー音だけが、静かな室内に響いていた。
そのとき――
「零、そっちのカメラ調整できる?」
白夜の声に、零は顔を上げる。
そして、こくりと頷いた。
再び画面へ視線を戻し、指を動かす。
カタカタカタ――。
画面に映し出されていたのは、最近になって裏社会でその名を聞くことが増えた組織だった。
――月影。
白夜はモニターを眺めながら、静かに考える。
(……月影、ね)
最近、妙にその名前が裏社会を騒がせている。
けれど、分かっていることは少ない。
どんな組織なのか。
何を目的としているのか。
どれほどの規模なのか。
まるで、こちらから見ようとすればするほど、霧の向こうへ逃げていくようだった。
だからこそ。
(ここが潰される前に動かないと)
先に情報を掴む。
そして――必要なら、こちらから潰す。
白夜はそう考えながら、隣へ視線を向けた。
「零」
零が顔を上げる。
「……?」
零は何も言わず、白夜を見つめる。
そして、再びキーボードへ指を置いた。
カタカタカタ。
画面に文字が表示される。
【どうした?】
白夜はその文字を見て、少しだけ笑った。
「俺の名前……言ってほしい」
零の指が止まった。
【なんで?】
再び文字が打ち込まれる。
白夜は少しだけ考えてから、穏やかに答えた。
「声、聞きたいなって思ってさ」
零の表情が僅かに揺れた。
声。
その言葉を聞いただけで、胸の奥がざわつく。
それでも、零は白夜を見つめた。
言いたい。
本当は、言ってみたい。
目の前にいるこの人の名前を。
自分の声で。
零はゆっくりと唇を開いた。
「……」
喉が震える。
息を吸う。
そして――
「……は、っ……くや……?」
掠れた、小さな声。
白夜の目が大きく見開かれた。
「……!」
次の瞬間、白夜の顔に笑顔が広がる。
「すごい……!」
零が驚いたように白夜を見る。
「すごいよ、零!」
零の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
――笑った。
けれど。
「……ぅ゛」
突然、零の表情が歪んだ。
頭の奥が痛む。
息が詰まる。
さっきまで聞こえていなかったはずの声が、頭の中へ入り込んでくる。
『やめろ』
『声を出すな』
『うるさい』
「……っ」
零は頭を押さえた。
白夜の声が遠くなる。
目の前の景色が揺らいだ。
違う。
ここじゃない。
分かっている。
ここは、夜薔薇だ。
白夜は敵じゃない。
それなのに――。
身体だけが、昔の記憶を思い出してしまう。
「零」
白夜が静かに声をかける。
「おいで」
零の身体が強張る。
それでも白夜は、できるだけ優しい声で続けた。
「ありがとう、零」
その言葉に、零が僅かに顔を上げる。
「俺のために頑張ってくれて」
白夜は微笑んだ。
「零の声、聞けて嬉しかったよ」
「……っ」
零の目に涙が滲む。
嬉しい。
その言葉を聞いたはずなのに。
頭の中では、別の声が響いていた。
怖い。
苦しい。
忘れたい。
なのに、忘れられない。
「……っ、ぅ……」
白夜がそっと手を伸ばす。
「ごめんね。無理させちゃって……」
零を安心させようと、優しく包み込む。
その瞬間――
「や、っ……!」
零の身体が大きく跳ねた。
「やめ……っ!」
白夜はすぐに腕を離した。
「っ……!」
零は怯えたように身体を縮める。
「ごめん」
白夜はそれ以上近づかなかった。
「零、落ち着いて」
少し離れた場所から、静かに声をかける。
「俺だよ」
零の呼吸が乱れている。
「白夜だよ」
何度も、ゆっくりと伝える。
「ずっとここにいるからね」
その声だけが、今の零へ届く。
少しずつ。
本当に少しずつ。
乱れていた呼吸が、落ち着いていく。
「……大丈夫。ゆっくりでいいからね」
白夜の声が、今度はちゃんと聞こえた。
零は小さく息を吐く。
怖かった。
でも――白夜は、何もしてこなかった。
ただ、離れた場所から声をかけてくれている。
それが分かると、少しだけ身体の力が抜けた。
静かになった部屋で、零は白夜を見つめる。
本当は。
もっと、白夜とお話してみたい。
今日のことも。
任務のことも。
みんなのことも。
たっくさん話してみたい。
だけど――
言葉を口にすると、怖い声が聞こえる。
『やめろ』
『声を出すな』
『うるさい』
頭の中に、昔の記憶が蘇る。
見たくない。
思い出したくない。
忘れたい。
なのに、忘れられない。
話したいのに。
話せない。
零にとって、言葉は――
「呪い」だった。
声を出すたびに、過去が追いかけてくる。
だから、声を出すことが怖い。
ずっと昔。
れいは小さな頃から、裏組織に閉じ込められていた。
外の世界を知らなかった。
朝も夜も分からない場所。
決められた場所で過ごして。
言われた通りにする。
それが、れいの世界だった。
泣いても。
怒っても。
助けを求めても。
何も変わらなかった。
声を出せば怒られる。
逆らえば、もっと怖いことが待っている。
だから、いつしか――
「声を出さない」
それが、生きるための方法になった。
地下室へ送られた夜のことも、忘れられない。
寒かった。
暗かった。
身体を丸めても、震えは止まらなかった。
そんな場所で、れいはずっと一人だった。
……いや。
一人ではなかった。
そこには、自分と同じように閉じ込められた子供たちがいた。
けれど、その子たちはもう動かなかった。
怖かった。
寂しかった。
それでも、どうすることもできなかった。
そんなある日。
いつもより、ずっと騒がしかった。
遠くから怒鳴り声が聞こえる。
「お願いだ……!」
誰かの声。
れいは顔を上げた。
暗闇の向こうに、人影がある。
黒い服。
自分を閉じ込めていた人間とは違う誰か。
その人影と、目が合った。
「君、こっち見ない方がいいよ」
少年の声だった。
「あと、耳塞いでた方がいいよ」
優しい声。
なのに、れいは目を離せなかった。
怖い。
けれど――
この人は、今までの人とは違う。
そう思った。
大きな音が響いた。
「……っ!」
れいの身体が震える。
けれど、その少年は何事もなかったようにこちらへ歩いてくる。
「大丈夫?」
檻越しに、少年が尋ねた。
れいは答えられない。
「君、名前は?」
名前。
そんなもの、考えたこともなかった。
自分に名前なんて必要なかった。
そのとき。
コツ。
コツ。
石の階段を降りてくる音がした。
「おー、片付いてるね」
別の少年が現れる。
最初の少年が振り返った。
「ねぇ……生きてる子、どうする?」
「すご……」
後から来た少年が、れいを見る。
「ここの子たち、さっきほとんどいなくなってたのに……一人だけ生きてる」
少し考えたあと、彼は言った。
「風翠さんがいいって言うなら、連れて帰る?」
「じゃあ、風翠さんに電話するね」
少年が電話を取り出す。
「もしもし、風翠さん」
その間に、もう一人の少年が檻の前まで来た。
「君、名前……」
そこで少年は言葉を止める。
そして、少し困ったように笑った。
「……ないよね」
れいは黙って彼を見る。
「んー……」
少年は少し考えてから笑った。
「なら、君は今日から零だよ」
「……?」
意味が分からない。
けれど。
「俺は右龍」
少年は自分を指差す。
「あっちで電話してる子が左龍」
そして、零の薄い服を見る。
「てか、めちゃくちゃ寒いのにそんな薄着……」
右龍は自分の上着を脱いだ。
「ちょっと待ってね」
そして、檻を開ける。
「いいってさ」
電話を終えた左龍が戻ってきた。
右龍が笑う。
「良かったね、零」
「零って言うの?」
「俺がつけた」
「いいじゃん」
左龍も笑った。
右龍が零へ上着をかける。
「これ、着ときな」
ふわり。
温かかった。
零は、自分の身体を包む布を見つめた。
――暖かい。
こんなに、温かいものがあるんだ。
そして、左龍が零の手を見た。
「零、手すごく冷たそう...」
少し迷うように尋ねる。
「手、握っていい?」
零は小さく頷いた。
左龍の手が、そっと零の手を包む。
温かい。
人の手って――
こんなに温かいんだ。
そのとき。
「うーちゃん、さっくん終わった?」
声が響いた。
二人が振り返る。
「「うわぁっ!?」」
零も驚いて肩を跳ねさせた。
そこに立っていたのは、穏やかな表情を浮かべた風翠だった。
「そんなに驚く? 笑」
「足音なかったんですから!」
「もしかしたら、生きてる人がまだいるかもしれなかったからさ」
風翠はそう言って、零を見る。
「この子が、さっくんの言ってた子?」
左龍が頷く。
「はい」
風翠は零の姿をじっと見る。
そして、しゃがんで目線を合わせた。
「名前は?」
右龍が元気よく答える。
「零です! 俺が名付けました!」
「零……」
風翠はその名前を繰り返した。
そして、零へ問いかける。
「零は、どっちがいい?」
零は黙って風翠を見る。
「これから一人で生きていくか」
風翠は右手を差し出した。
「それとも、俺たちのところへ来て、一緒に暖かいところで暮らすか」
零には、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
自由。
暖かい場所。
一緒に暮らす。
そんなものを、知らなかったから。
風翠は急かさなかった。
「一人で生きていくなら、一本」
人差し指を立てる。
「俺たちと来るなら、二本」
指を二本立てる。
零は二人を見る。
右龍。
左龍。
そして、風翠。
誰も、怒鳴らない。
誰も、急かさない。
ただ待っている。
零は震える手をゆっくりと持ち上げた。
そして――
二本の指を立てた。
それが。
零が夜薔薇を選んだ日だった。
*
「零」
聞き慣れた声に、零は顔を上げる。
そこには、白夜がいた。
「……!」
零の目が僅かに見開かれる。
白夜は笑った。
「おかえり」
零の唇が、小さく動く。
言葉にするのは、まだ怖い。
それでも。
ほんの少しだけ。
声を絞り出す。
「た……だ、いま……」
白夜が目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑う。
「うん」
それ以上、何も言わない。
ただ、零の言葉をちゃんと受け止める。
「おかえり、零」
零は小さく頷いた。
「……」
少しだけ、お腹が空いた。
それに気づいたのか、白夜が言う。
「少しお腹すいたね」
零が顔を上げる。
「暖かいスープでも飲もっか」
「……」
零はこくりと頷いた。
しばらくして。
二人の前に、温かなスープが並んだ。
湯気がゆっくりと立ち上っている。
零は両手で器を包んだ。
温かい。
あの日、右龍から借りた上着も。
左龍に握ってもらった手も。
風翠がくれた居場所も。
そして今、白夜が差し出してくれたスープも。
全部、温かかった。
零は一口、スープを飲む。
胸の奥にあった冷たさが、ほんの少しだけ溶けていく。
夜が深くなっていく。
やがて二人は布団へ入り、静かな部屋で眠りについた。
零は目を閉じる。
怖い声は消えない。これからも思い出すと思う。
言葉という呪いも、簡単には解けない。
それでも――
零は、自分の声で白夜の名前を呼べた。
そして。
自分の声で、「ただいま」と言えた。
ほんの小さな一歩だった。それがれいにとって小さな幸せだった。
