数十年前
今から数十年前の話。
俺は、ごく普通の家庭だと思い込んでいた。
姉弟差別なんて当たり前。
学校にすら行かせてもらえず、外出も許されない。口答えをすることさえ許されなかった。
普通とはかけ離れた生活。
今思えば、俺は家に監禁されていたと言っても過言ではなかった。
---
(お腹すいた……)
「お、お父さん……お腹空いた、」
「あ゛? うるせぇ゛な!!! テレビが聞こえん!」
父親はそう怒鳴りつけると、テレビの音量を上げた。
「居座らせてあげてる分際で……」
その言葉に、俺は口を閉ざした。
何も言わない。
何も求めない。
そうしていれば、少なくとも怒られる理由は増えないから。
ガチャッ。
「お父さん、ただいまぁ!」
姉貴が帰ってきた。
「もうこんな時間か……おかえり、風楽」
「見て見て〜! お父さん! テストで100点取ったんだよ!」
「おー、すごいなぁ! さすが俺の子だ!」
父親が笑った。
姉貴も嬉しそうに笑っている。
そう。
俺は、この父親と血が繋がっていない。
俺は母親の浮気相手との間に生まれた子どもだった。
詳しい事情なんて知らないし、知りたいとも思わない。
ただ、母親は俺を産んだあと、この家に置き去りにして、浮気相手のもとへ逃げたらしい。
それだけは知っていた。
「ねぇねぇ、おやつ買ってきていい?」
「嗚呼、いいぞ笑」
「ありがと! お父さん。あ、そう! 前にお父さんが好きって言ってたケーキ、買ってこようと思うんだけどさ……お金、足りなくって。お金ほしいな……」
「分かった。ほら、5000円で足りるか?」
「うん! ありがと!」
父親は迷いもなくお金を渡した。
正直、羨ましかった。
姉貴は父親に愛されている。
俺は、愛されていない。
愛されたかった。
ただ、それだけだった。
……まぁ、考えても無駄だったんだけどね。
「じゃあ、行ってきます!」
「気をつけろよ〜」
「はーい!」
姉貴が出ていく。
扉が閉まった瞬間、部屋の空気が変わった。
父親と二人きり。
重く、冷たい空気が流れる。
会話はない。
テレビの音だけが響いているはずなのに、俺には自分の心臓の音ばかりが聞こえていた。
俺はできる限り、存在を消した。
目立たないように。
邪魔にならないように。
そこにいないかのように。
ただ、時間が過ぎるのを待った。
一時間が経つか、経たないか。
「ただいまぁ!」
姉貴が帰ってきた。
「おかえり」
「はい、どーぞ! あと、これお釣りね」
「ありがとな笑」
また、父親が笑った。
姉貴と一緒にいると、父親はよく笑う。
それを見ると、少しだけホッとする自分がいた。
父親が機嫌よく笑っていれば、怒鳴り声を聞かずに済むかもしれない。
そんなふうに思っていたのかもしれない。
「お父さん、料理してくるね!」
「気が利くなぁ。お前は立派な女になるぞ笑」
「えへへ笑」
姉貴が嬉しそうに笑う。
「あ、そう……風翠」
「は、っ……はい」
突然名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
姉貴が俺を見ていた。
「少し手伝ってくれない?」
「分かった……」
その瞬間、父親の視線が突き刺さった。
背筋が凍るような、冷たい視線。
俺は何も言えず、姉貴のあとを追って台所へ向かった。
---
台所に入ると、姉貴が突然口を開いた。
「風翠」
「ん?」
「私のプリン、少しあげる」
「……?」
プリン。
それが何なのか、俺にはよく分からなかった。
(プリンって、なに……?)
「スプーン取って」
「ん、」
言われたとおりにスプーンを取る。
「はい、あーして」
俺は言われるままに口を開けた。
そして――
一口。
口の中いっぱいに、甘さが広がった。
「……!」
美味しい。
こんなに甘くて、美味しいものがあるんだ。
「美味しい……?」
姉貴が俺の顔を覗き込む。
俺は何度も頷いた。
「コクッ、コクッ゛」
「笑……初めて食べたね」
姉貴は優しく笑った。
そのときだった。
「……何してるんだ?」
背後から、低い声が響いた。
「……っ!」
姉貴の身体がびくりと跳ねる。
「何してるんだって言ってんだよ!!! なぁ゛!?」
「ち、違うの! わ、私があげたくって……食べてほしかったのっ、風翠はッ゛」
「うるさい!!!」
「……っ!」
姉貴が怯んだ。
「俺の金だろ? 何勝手にコイツに与えてるんだよ」
「ごめんなさい、っ……」
「ご、っ゛……めんなさ、っい……」
俺も謝ろうとした。
けれど、言葉がうまく出てこなかった。
「来い……」
父親が俺の右手首を掴み、強引に引っ張った。
「俺の金で勝手に食うとは、いい度胸だな!!!」
そのあとのことは、よく覚えていない。
ただ、怒鳴り声が聞こえて。
身体が痛くて。
早く終わってほしいと、何度も願った。
けれど、終わらなかった。
ここは田舎だった。
周囲に助けを求めても、誰も通報しない。
父親はそれを分かっていたのかもしれない。
俺は、まるでサンドバッグのように扱われた。
(逃げないと……ッ゛)
(確実に、っ……死ぬ゛……)
いつからだろう。
そんなことを考えるようになったのは。
日が経つにつれ、俺の身体は大きくなっていった。
それと同じように、父親の酒癖は悪くなり、暴力もひどくなっていった。
やがて、姉貴にまで手を上げるようになった。
それでも、最後にはいつも俺のせいにされた。
「違うの゛!! 風翠が、っ……!」
姉貴が泣きながら訴える。
「また迷惑かけやがってッ゛……!!!」
「違ッ゛……!」
何を言っても届かない。
何を説明しても、信じてもらえない。
殴られて、意識を失うこともあった。
意識が戻っても、痛みは消えなかった。
治りかけていた痣が消える頃には、また新しい痣が増えていた。
そんな日々を繰り返すうちに、俺の中で何かが切れた。
プツン、と。
それまで必死に耐えていた何かが、音もなく切れた気がした。
何もかも、どうでもよくなった。
怖いとも、悲しいとも思わなかった。
何も感じなかった。
そして、気づいたときには――
辺りは血の海だった。
「……っ」
何が起きたのか、理解できなかった。
恐怖と混乱で頭が真っ白になり、俺はその場から逃げ出した。
もう、あの家には戻れなかった。
---
家を出てから、しばらくは廃墟を拠点にして過ごしていた。
寒くて、暗くて。
安心して眠れる場所なんて、どこにもなかった。
家を出てから、頭痛もひどくなっていった。
その痛みが訪れると、決まって過去の光景が頭の中に蘇った。
呼吸が浅く、速くなる。
目の前がぼやける。
冷や汗が止まらなくなる。
どうすればいいのかも分からず、ただ痛みが過ぎ去るのを待つしかなかった。
そんなある日。
たまたま身を寄せていた場所が、別の反社会組織の拠点だったらしい。
気づいたときには、体格のいい大人たちに囲まれていた。
(……誰か……)
(誰か、いる……っ)
そのときだった。
バァ゛ン!!!!!
銃声が響いた。
「大丈夫!?」
声がした。
俺と同じくらいか、少し年上に見える青年が、次々と大人たちを倒していく。
「もぉ、皆遅すぎるよ!」
青年はそう文句を言いながらも、迷うことなく動いていた。
一人。
また一人。
気づいたときには、そこに残っていたのは俺と青年だけだった。
青年の顔には血がついていた。
それでも、彼は俺を見ると、驚いたように目を見開いた。
「あざ……すごいね。全部、あいつら……?」
(何か言わないと……っ)
「あ、……ち、がっ……うっ……」
声がうまく出なかった。
恐怖のせいなのか、長い間まともに人と話していなかったせいなのか。
自分でも分からなかった。
「そっか、そっか……」
青年はそれ以上追及しなかった。
「ちなみに、名前は?」
「ふ、ぅ……す……」
名前を言いかけた、その瞬間。
グラッ――。
視界が大きく歪んだ。
身体を支えられず、そのまま倒れ込んだ。
---
次に目を覚ましたとき、俺は明るい部屋のソファーに横になっていた。
「気づいた? おはよ。体調どう?」
目の前には、あの青年がいた。
「あ、……おはよう……ござ、います……」
「もぉ、びっくりしたんだよ。急に倒れるから……」
青年はそう言ってから、俺の顔を覗き込んだ。
「てか、君、軽すぎだよ。ちゃんとご飯食べてる?」
「……」
答えられなかった。
食べていたかどうか。
最後にいつ食べたのか。
そんなことすら、すぐには思い出せなかった。
「ねぇ……君の名前、なんていうの?」
青年は自分の胸を指さした。
「俺はね〜、星架っていうの! 呼び捨てで呼んでいいよ」
そして、思いついたように言った。
「てかさぁ、君、俺の家族になってよ!」
「……えっと、」
突然の言葉に、何も返せなかった。
そんな俺を見て、星架は少し慌てたように笑った。
「急にいっぱい言ってごめんね。まず、名前教えてほしいな」
「……風翠、ですっ……」
「風翠ね! 別に敬語じゃなくてもいいよ」
「けーご……?」
「です、とか、ます、とかをつけることだよ」
「あ……分かった……」
「うん!」
星架は嬉しそうに頷いた。
「風翠は何歳なの?」
「七歳……」
「嘘!? 絶対嘘だ! 七歳がこんなにしっかりしてるわけないもん!!」
「ほんとに七歳だよ……?」
「じゃあ一年生だね!」
「うん」
「学校は?」
「……行ったことない。お姉ちゃんは行ってたけど」
「お姉ちゃんいたんだね! 今、どこにいるの?」
「知らない……」
「そっか……。家族は? お父さんとか、お母さんとか……」
「……っ゛」
身体が強張った。
言葉が出ない。
あの声が、あの顔が、頭の中に浮かんだ。
「……ごめんね。無理に話さなくてもいいよ。ごめんね」
星架はそう言って、俺の背中を優しく擦ってくれた。
その瞬間。
目から、無数の雫がこぼれ落ちた。
止まらなかった。
どれだけ拭っても、次から次へと涙があふれてくる。
(泣いちゃだめだ……)
(泣き止まないと、殴られる……っ)
「ごめん、゛なさい……っ」
声が震えた。
「泣き止みますからぁ、゛ッ……」
泣きたくて泣いているわけじゃなかった。
止めようとしても、止まらなかった。
「……」
星架は、俺を責めなかった。
怒鳴らなかった。
泣き止めとも言わなかった。
ただ、優しく背中を擦り続けてくれた。
「別に、泣きたいときは泣いていいんだよ……」
「……っ」
「無理に泣き止む必要なんかないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は息を呑んだ。
今までにない感覚だった。
うまく言葉にはできない。
けれど、温かかった。
泣いてもいい。
声が出なくてもいい。
何かを説明できなくても、怒られない。
そんなことが、本当にあるんだ。
「……っ、う……」
また涙がこぼれた。
今度は、泣き止まなければと必死になることもなく。
星架は俺が落ち着くまで、ずっとそばにいてくれた。
「……お腹すいたぁ」
やがて、星架がぽつりと呟いた。
「うどん作ったら食べる?」
「……うん、っ゛……!!!」
思わず、声に力が入った。
「了解……笑。ちょっと待っててね」
「うん!」
星架が立ち上がる。
俺はその背中を見つめた。
この人は、俺を殴らない。
俺が何かを食べても、怒鳴らない。
泣いても、責めない。
そんな当たり前のはずのことが、俺には信じられないくらい嬉しかった。
---
「……懐かし笑」
「大きくなったね笑」
「俺らも歳はとるからね〜笑」
そんな会話を交わしながら、俺は熱々のうどんを口に運んだ。
あの日、初めて出会った青年。
初めて、泣いてもいいと言ってくれた人。
そして、初めて――自分の居場所になってくれた人。
目の前の温かいうどんを見つめながら、俺はもう一度、小さく笑った。
今から数十年前の話。
俺は、ごく普通の家庭だと思い込んでいた。
姉弟差別なんて当たり前。
学校にすら行かせてもらえず、外出も許されない。口答えをすることさえ許されなかった。
普通とはかけ離れた生活。
今思えば、俺は家に監禁されていたと言っても過言ではなかった。
---
(お腹すいた……)
「お、お父さん……お腹空いた、」
「あ゛? うるせぇ゛な!!! テレビが聞こえん!」
父親はそう怒鳴りつけると、テレビの音量を上げた。
「居座らせてあげてる分際で……」
その言葉に、俺は口を閉ざした。
何も言わない。
何も求めない。
そうしていれば、少なくとも怒られる理由は増えないから。
ガチャッ。
「お父さん、ただいまぁ!」
姉貴が帰ってきた。
「もうこんな時間か……おかえり、風楽」
「見て見て〜! お父さん! テストで100点取ったんだよ!」
「おー、すごいなぁ! さすが俺の子だ!」
父親が笑った。
姉貴も嬉しそうに笑っている。
そう。
俺は、この父親と血が繋がっていない。
俺は母親の浮気相手との間に生まれた子どもだった。
詳しい事情なんて知らないし、知りたいとも思わない。
ただ、母親は俺を産んだあと、この家に置き去りにして、浮気相手のもとへ逃げたらしい。
それだけは知っていた。
「ねぇねぇ、おやつ買ってきていい?」
「嗚呼、いいぞ笑」
「ありがと! お父さん。あ、そう! 前にお父さんが好きって言ってたケーキ、買ってこようと思うんだけどさ……お金、足りなくって。お金ほしいな……」
「分かった。ほら、5000円で足りるか?」
「うん! ありがと!」
父親は迷いもなくお金を渡した。
正直、羨ましかった。
姉貴は父親に愛されている。
俺は、愛されていない。
愛されたかった。
ただ、それだけだった。
……まぁ、考えても無駄だったんだけどね。
「じゃあ、行ってきます!」
「気をつけろよ〜」
「はーい!」
姉貴が出ていく。
扉が閉まった瞬間、部屋の空気が変わった。
父親と二人きり。
重く、冷たい空気が流れる。
会話はない。
テレビの音だけが響いているはずなのに、俺には自分の心臓の音ばかりが聞こえていた。
俺はできる限り、存在を消した。
目立たないように。
邪魔にならないように。
そこにいないかのように。
ただ、時間が過ぎるのを待った。
一時間が経つか、経たないか。
「ただいまぁ!」
姉貴が帰ってきた。
「おかえり」
「はい、どーぞ! あと、これお釣りね」
「ありがとな笑」
また、父親が笑った。
姉貴と一緒にいると、父親はよく笑う。
それを見ると、少しだけホッとする自分がいた。
父親が機嫌よく笑っていれば、怒鳴り声を聞かずに済むかもしれない。
そんなふうに思っていたのかもしれない。
「お父さん、料理してくるね!」
「気が利くなぁ。お前は立派な女になるぞ笑」
「えへへ笑」
姉貴が嬉しそうに笑う。
「あ、そう……風翠」
「は、っ……はい」
突然名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
姉貴が俺を見ていた。
「少し手伝ってくれない?」
「分かった……」
その瞬間、父親の視線が突き刺さった。
背筋が凍るような、冷たい視線。
俺は何も言えず、姉貴のあとを追って台所へ向かった。
---
台所に入ると、姉貴が突然口を開いた。
「風翠」
「ん?」
「私のプリン、少しあげる」
「……?」
プリン。
それが何なのか、俺にはよく分からなかった。
(プリンって、なに……?)
「スプーン取って」
「ん、」
言われたとおりにスプーンを取る。
「はい、あーして」
俺は言われるままに口を開けた。
そして――
一口。
口の中いっぱいに、甘さが広がった。
「……!」
美味しい。
こんなに甘くて、美味しいものがあるんだ。
「美味しい……?」
姉貴が俺の顔を覗き込む。
俺は何度も頷いた。
「コクッ、コクッ゛」
「笑……初めて食べたね」
姉貴は優しく笑った。
そのときだった。
「……何してるんだ?」
背後から、低い声が響いた。
「……っ!」
姉貴の身体がびくりと跳ねる。
「何してるんだって言ってんだよ!!! なぁ゛!?」
「ち、違うの! わ、私があげたくって……食べてほしかったのっ、風翠はッ゛」
「うるさい!!!」
「……っ!」
姉貴が怯んだ。
「俺の金だろ? 何勝手にコイツに与えてるんだよ」
「ごめんなさい、っ……」
「ご、っ゛……めんなさ、っい……」
俺も謝ろうとした。
けれど、言葉がうまく出てこなかった。
「来い……」
父親が俺の右手首を掴み、強引に引っ張った。
「俺の金で勝手に食うとは、いい度胸だな!!!」
そのあとのことは、よく覚えていない。
ただ、怒鳴り声が聞こえて。
身体が痛くて。
早く終わってほしいと、何度も願った。
けれど、終わらなかった。
ここは田舎だった。
周囲に助けを求めても、誰も通報しない。
父親はそれを分かっていたのかもしれない。
俺は、まるでサンドバッグのように扱われた。
(逃げないと……ッ゛)
(確実に、っ……死ぬ゛……)
いつからだろう。
そんなことを考えるようになったのは。
日が経つにつれ、俺の身体は大きくなっていった。
それと同じように、父親の酒癖は悪くなり、暴力もひどくなっていった。
やがて、姉貴にまで手を上げるようになった。
それでも、最後にはいつも俺のせいにされた。
「違うの゛!! 風翠が、っ……!」
姉貴が泣きながら訴える。
「また迷惑かけやがってッ゛……!!!」
「違ッ゛……!」
何を言っても届かない。
何を説明しても、信じてもらえない。
殴られて、意識を失うこともあった。
意識が戻っても、痛みは消えなかった。
治りかけていた痣が消える頃には、また新しい痣が増えていた。
そんな日々を繰り返すうちに、俺の中で何かが切れた。
プツン、と。
それまで必死に耐えていた何かが、音もなく切れた気がした。
何もかも、どうでもよくなった。
怖いとも、悲しいとも思わなかった。
何も感じなかった。
そして、気づいたときには――
辺りは血の海だった。
「……っ」
何が起きたのか、理解できなかった。
恐怖と混乱で頭が真っ白になり、俺はその場から逃げ出した。
もう、あの家には戻れなかった。
---
家を出てから、しばらくは廃墟を拠点にして過ごしていた。
寒くて、暗くて。
安心して眠れる場所なんて、どこにもなかった。
家を出てから、頭痛もひどくなっていった。
その痛みが訪れると、決まって過去の光景が頭の中に蘇った。
呼吸が浅く、速くなる。
目の前がぼやける。
冷や汗が止まらなくなる。
どうすればいいのかも分からず、ただ痛みが過ぎ去るのを待つしかなかった。
そんなある日。
たまたま身を寄せていた場所が、別の反社会組織の拠点だったらしい。
気づいたときには、体格のいい大人たちに囲まれていた。
(……誰か……)
(誰か、いる……っ)
そのときだった。
バァ゛ン!!!!!
銃声が響いた。
「大丈夫!?」
声がした。
俺と同じくらいか、少し年上に見える青年が、次々と大人たちを倒していく。
「もぉ、皆遅すぎるよ!」
青年はそう文句を言いながらも、迷うことなく動いていた。
一人。
また一人。
気づいたときには、そこに残っていたのは俺と青年だけだった。
青年の顔には血がついていた。
それでも、彼は俺を見ると、驚いたように目を見開いた。
「あざ……すごいね。全部、あいつら……?」
(何か言わないと……っ)
「あ、……ち、がっ……うっ……」
声がうまく出なかった。
恐怖のせいなのか、長い間まともに人と話していなかったせいなのか。
自分でも分からなかった。
「そっか、そっか……」
青年はそれ以上追及しなかった。
「ちなみに、名前は?」
「ふ、ぅ……す……」
名前を言いかけた、その瞬間。
グラッ――。
視界が大きく歪んだ。
身体を支えられず、そのまま倒れ込んだ。
---
次に目を覚ましたとき、俺は明るい部屋のソファーに横になっていた。
「気づいた? おはよ。体調どう?」
目の前には、あの青年がいた。
「あ、……おはよう……ござ、います……」
「もぉ、びっくりしたんだよ。急に倒れるから……」
青年はそう言ってから、俺の顔を覗き込んだ。
「てか、君、軽すぎだよ。ちゃんとご飯食べてる?」
「……」
答えられなかった。
食べていたかどうか。
最後にいつ食べたのか。
そんなことすら、すぐには思い出せなかった。
「ねぇ……君の名前、なんていうの?」
青年は自分の胸を指さした。
「俺はね〜、星架っていうの! 呼び捨てで呼んでいいよ」
そして、思いついたように言った。
「てかさぁ、君、俺の家族になってよ!」
「……えっと、」
突然の言葉に、何も返せなかった。
そんな俺を見て、星架は少し慌てたように笑った。
「急にいっぱい言ってごめんね。まず、名前教えてほしいな」
「……風翠、ですっ……」
「風翠ね! 別に敬語じゃなくてもいいよ」
「けーご……?」
「です、とか、ます、とかをつけることだよ」
「あ……分かった……」
「うん!」
星架は嬉しそうに頷いた。
「風翠は何歳なの?」
「七歳……」
「嘘!? 絶対嘘だ! 七歳がこんなにしっかりしてるわけないもん!!」
「ほんとに七歳だよ……?」
「じゃあ一年生だね!」
「うん」
「学校は?」
「……行ったことない。お姉ちゃんは行ってたけど」
「お姉ちゃんいたんだね! 今、どこにいるの?」
「知らない……」
「そっか……。家族は? お父さんとか、お母さんとか……」
「……っ゛」
身体が強張った。
言葉が出ない。
あの声が、あの顔が、頭の中に浮かんだ。
「……ごめんね。無理に話さなくてもいいよ。ごめんね」
星架はそう言って、俺の背中を優しく擦ってくれた。
その瞬間。
目から、無数の雫がこぼれ落ちた。
止まらなかった。
どれだけ拭っても、次から次へと涙があふれてくる。
(泣いちゃだめだ……)
(泣き止まないと、殴られる……っ)
「ごめん、゛なさい……っ」
声が震えた。
「泣き止みますからぁ、゛ッ……」
泣きたくて泣いているわけじゃなかった。
止めようとしても、止まらなかった。
「……」
星架は、俺を責めなかった。
怒鳴らなかった。
泣き止めとも言わなかった。
ただ、優しく背中を擦り続けてくれた。
「別に、泣きたいときは泣いていいんだよ……」
「……っ」
「無理に泣き止む必要なんかないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は息を呑んだ。
今までにない感覚だった。
うまく言葉にはできない。
けれど、温かかった。
泣いてもいい。
声が出なくてもいい。
何かを説明できなくても、怒られない。
そんなことが、本当にあるんだ。
「……っ、う……」
また涙がこぼれた。
今度は、泣き止まなければと必死になることもなく。
星架は俺が落ち着くまで、ずっとそばにいてくれた。
「……お腹すいたぁ」
やがて、星架がぽつりと呟いた。
「うどん作ったら食べる?」
「……うん、っ゛……!!!」
思わず、声に力が入った。
「了解……笑。ちょっと待っててね」
「うん!」
星架が立ち上がる。
俺はその背中を見つめた。
この人は、俺を殴らない。
俺が何かを食べても、怒鳴らない。
泣いても、責めない。
そんな当たり前のはずのことが、俺には信じられないくらい嬉しかった。
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「……懐かし笑」
「大きくなったね笑」
「俺らも歳はとるからね〜笑」
そんな会話を交わしながら、俺は熱々のうどんを口に運んだ。
あの日、初めて出会った青年。
初めて、泣いてもいいと言ってくれた人。
そして、初めて――自分の居場所になってくれた人。
目の前の温かいうどんを見つめながら、俺はもう一度、小さく笑った。
