─────この世には「3人に1人は忘れられない人がいる」らしい。



好きな人がいた。

中学3年生から高校卒業するまで、誰にも打ち明けないで、ずっと密かに想っている人がいた。

中3の時クラスが同じで、席が隣同士だった。

誰に対しても平等で、優しくて、面白くて。

憧れでもあり、本当に、大好きだった。


同じ高校を受験すると知った時は人生で一番勉強した。

彼も受かったと人伝に聞いた時は本当に嬉しくて、なんでも出来る気さえした。

進んだ分野が違ったから3年間同じクラスにはなれなかったけれど、それでも、廊下ですれ違った時、姿を見つけた時、笑い声が聞こえた時。

笑われるかもしれないけれど、それだけで毎日頑張れた。


高2の夏、彼に彼女が出来たと知った時は、3日くらいまともにご飯が食べられなかった。

だけど、諦めようとは思わなかった。

なにも求めていなかったし、好きでいられればそれで良かったから。


年が明けた頃には彼は彼女と別れていたけれど、チャンスだとは思わなかった。

卒業が近づいても告白はしなかった。

この気持ちは想うだけでずっと充分だった。

好きだったこの気持ちは確かに本物だったけれど、私の中でずっと大切に閉まっておこうと決めていた。


それから私は大人になった。

それが、未練として形づくっていることにずっと気が付かないまま。


────だから、驚いたの。


「えっ……?」


《──久しぶり。俺の事覚えてる?》


息を呑む。呼吸が止まった。
10年越しの、彼からのメッセージ。


どうして。なんで。

嘘だと思った。夢だと、思った。


この恋は10年前に終わったはず。終わらせた……はず。


連絡先は消していなかった。

正確に言うと、消せなかった。もう二度と会うことは無いと分かっていても、ずっと消せないままでいた。


震える力のまま、私は送信ボタンを押す。


《久しぶり!覚えてるよ》

《よかった〜。元気?》

《ずっと元気やったよ〜!》

《おー、俺もずっと元気やった(笑)》


高校生の頃なんて、視線すら交わることなんて一度も無かったのに。

なにが、起きているの。

こんな奇跡簡単には受け止めきれなくて、彼からのメッセージを何度も何度もスクロールし、確認してしまった。

ただひたすらに好きでいただけだった純粋無垢なあの頃の気持ち。


心の奥底に固めておいたはずの青春が……少しずつ、ゆっくりじわりと溶けてゆく。


高校を卒業してからは、これまで3人の男性と付き合った。

私のほうから好きになることは無かったけれど、ともに過ごしていくうちに私は彼等をちゃんと好きになって、その気持ちに絶対嘘は無かった。


だけど私……夢を見ていた。


その時彼氏が居ても居なくても、私、よく彼の夢を見ていた。

目を覚ました頃にはその夢はもう呆気なく霞んでいき、私の記憶に残ることは無かったけれど、確かに、あの時と同じ彼の温もりがそこにはあった。






「よ。久しぶり」


彼の車に乗り込み、顔を伏せたままバタン、と扉を閉める。


「ちょっと、久しぶりすぎる……」

「はは。ほんまにな、約10年振り?」

「うん。そんくらいやと思う」

「てかさ、ちょっと1個いい?坂下、可愛くなりすぎてビビるねんけど」

「っ…!ありがとう、照れる……」



《───今度ご飯行かへん?》


彼──古野(ふるの)と連絡を取るようになって
一週間が経った頃。

ついに古野からご飯のお誘いが来てしまった。

一向に途切れないメッセージのやり取りに、もしかしたら……って淡い期待はしていたけれど、本当に誘われてしまうなんて。

止まらない奇跡に頭が混乱する。


《うん。行こう》


予定はすんなり決まった。

お互い地元暮らしだった為、私の家の近くまで古野が車で迎えに来てくれることになった。

約束の日までまだ期間はあったので、とりあえず休みの日に美容院とネイルサロンに駆け込んで、新しい服も買った。

浮かれてるな、と自分でも思う。

必死さに何度も笑いが込み上げてきそうになった。


だけど今……古野、可愛いって言ったよね?

そんなことがあっていいの?古野の顔が見れないよ。


「お腹空いてるやんな?テキトーに店入っていい?」

「うん。ウチ……あっ。私も、お腹ぺこぺこ」

「え?うんちって言った?今」

「っ、ちゃう!!……えっと、一人称がウチで…治そうと思ってるねんけどたまに出ちゃうねん」

「へ〜。確かに関西の女子ってウチって言う人多いよな」

「そうそう。でもウチもー26歳やし治そうと頑張ってるところ」

「ちょ、坂下、言ったそばからウチって言ってもーてるって」

「え?あっ、間違えた」

「なんでやねん」


ふは、と吹き出すように笑われた。


古野は、なんにも変わっていなかった。

なんにも変わっていなさすぎて、涙が出そうになった。

声、喋り方、笑い方、仕草、笑顔。

全体的にごつっとして少し筋肉質になっているところは大人の男の人になったのだと、月日が遥かに流れたことを実感させられたけれど、それ以外は10年前の古野だった。

大好きだった古野のままで困る。



「いらっしゃいませ」


連れてきてもらったのは、車で20分ほど走らせた場所にあったハンバーグ屋さん。

店員さんに案内されて、席に着く。


「俺これにする。いつもこれ。ガチ美味い」


弾んだ声でお決まりのメニューを指差しで教えてくれる。

どれにしようかとじっくりメニュー表に目を通すけれど、結局古野絶賛の明太子マヨネーズハンバーグを2つ注文した。


「ん、めっちゃ美味しい」

「美味しいやろ〜俺のオキニ、ここ」


古野のお気に入りのお店を教えてもらって、ちょっと頬がだらしなく緩みそうになる。

いけないいけない。


「坂下さぁ、……彼氏おるん?」

「エッ?!お、おるわけないやん、おったら今日も行かへんよ」

「はは。そうやんな、よかった」


……その良かったは、なんの良かった?

ダメダメ。

これ以上期待したらダメ。

期待するにはまだ早すぎるって、脳の危険信号が騒がしく鳴っている。


「あ、そうや。坂下、奥山って覚えてる?」

「奥山くん?覚えてるよ。高3の時同クラやった」

「そーや、4組やったっけ?この間奥山の結婚式あって行ったんよ。でさ、コイツおもろすぎて、ちょ、写真見て」


青春時代をタイムスリップしたかのように、学生時代の積もった話をひたすら聞いて、ひたすら話して。


「ちょ、お腹いたい、古野おもろすぎ……」

「おい笑いすぎやって!なんもしてへんって俺」

「古野って何話してもおもろく感じるねん」


そうだ。私古野のこういうところが大好きだった。

席が隣だった時、毎日涙がでるほど笑わせてくれてた。

『坂下ツボ浅いから何しても笑ってくれるから気持ちーわ』

呆れたように、一緒に笑ってくれるところも好きだった。






「奢ってもらっちゃってほんまごめん」

「いいって!坂下さっきから謝りすぎやって。そこで言う言葉って1個だけやで?ハイ問題。なんでしょう」

「……ありがとう!!!」

「いや声デカ。はは。どういたしまして」


あー。もうどうしよう。


「まだ20時か。ドライブでもする?」

「うん、運転お願いしますっ」

「まかせろ。車の運転は大得意や」


楽しくて、どうしよう。


「坂下、校歌今でも歌える?」

「えーと、……中学なら歌える」

「マジ?おもろ、歌ってや」

「ええ、えっと〜、♪♩〜なんちゃら〜みたいな」

「しぬ、何その歌。ちょ、YouTubeあるんちゃん、調べてや」


思い出す。思い出してしまう。

純粋に好きだっただけのあの頃の気持ち。

なんでなの。

なんで10年経った今でも、こんなに好きにさせるの。


どうして好きだっただけの気持ちがこんなにも無くなってないの?



「坂下、好きなアーティストおる?」

「えー……よく聴くのはリンゴマン、かな」

「おーシブ。音楽かけるわ、カラオケしよ」


カーナビで微かに再生されていたラップ調の曲を止めて、「リンゴマン…」と呟きながら再生してくれる。

古野はあまり詳しくなかったみたいだけど、唯一知っているらしい歌を一緒になって歌ってくれた。

だけど途中からわからなくなってデタラメの即興歌詞を口ずさみ始めたから、もう堪えきれなくて笑い崩れたら、

『だからツボ浅いって』

あの時と同じことを言って笑った。



一秒一秒が、いつしか夢で見た日のような。

今はずっとその夢の続きを見ているんじゃないかって、そんな感覚ですらいる。

遠くから見つめるだけで満足していたあの頃とは全然違う。

古野は今、私の為に、私の為だけに笑ってくれている。


高校を卒業してから10年間、大切に閉じ込めていたはずの古野への気持ちは、気付かないフリをしている間に大きく膨れ上がっていた。


たった1日で溢れ出てしまうほどに。


もう手遅れだった。

引き返せないところまで来ていた。

これ以上留めてはおけなかった。


だから、だから、だから。

古野のことを、私はずっと。

古野がやっぱり、好き、だったから。


だから─────。




「………坂下、いい?」


古野が突然ブレーキを踏んで、車を停めた。


舞い上がってて、気づかなかった。

だってさっきまで一緒に歌ってたじゃん。

お腹抱えて二人で笑ってたじゃん。

いつの間に?ってちょっと笑いすら込み上げてくる。


「いいって……なに、が」

「言わせんの?わかるやろ」


妙に色気を含んだ笑みを向ける古野は、そのまま私の髪を指先で絡め取る。


「付き合ってない人となんか……ムリ」

「……無理?嫌?」

「……嫌、とかじゃない。そうじゃなくて……」


心臓がどうにかなりそうだった。

正直もしかしたら、って、最悪な状況を一切想像していなかった訳じゃない。

だけどそういう関係にはなりたくなくて、どこかで構えてたはずなのに。

古野といるのがあまりにも楽しくて、古野ももしかしたら私と同じ気持ちなのかもって、期待、してしまったんだ。


─── 体 目 当 て 。


心の中で、なぞるように呟いた。

そうしたらあまりにも残酷が目の前に大きくありすぎて、視界の先にあるフューシャピンクに輝くネオンの街中を見つめながら、心の中で力なく笑った。

ここまでだ、と脳の端でもう一人の私が諦めた声を漏らしたような錯覚に陥る。

そして、私の理性が大きく音を立てながら、バラバラと崩れる音が聞こえた。


受けとめるようにして、私は古野を見つめる。

古野の瞳が大きく揺れた。

察した古野は小さく微笑んだあと、指で私の髪を耳にかけ、私は、そのまま目を閉じた。


重なった古野の唇は、優しかった。



「……んっ、……」

一度離れて、また重ねて。大切なものを扱うみたいに触れ方に、バカな私はまだ勘違いしそうになる。


「……坂下、可愛い」


いよいよ息するタイミングを与えてくれなくなった。角度を変えながら、少しずつ深くなっていく。


「……はぁっ……んっ…」

「……あーちょっとむり、も、限界、……行こ」


余裕を無くしたような、そんな表情。

そのまま車を出て、手を引かれた。


やっぱりこんなこと違うって、掴まれた手を離そうと試みたけれど、抗えなかった。

今この現実に従うことしか、今の私には出来なかった。


ずっと好きだった人。

たまに思い出してしまう人。

夢にまで現れてきて、簡単には忘れさせてくれない人。


これは未練なんかじゃないって、無理やり自分の中で納得させて、知らないふりして。

こんなにも大きくなっていたとは思わずに。



「……っ、坂下っ……」


大好きだった人とのセックスは思っていたよりも呆気なかった。

余裕が無さそうに顔を歪ませる古野は、今私の中で感じてるんだなって他人事のように思う。

乱れた声で愛しそうに私の名前を呼ぶ古野は、私のことを好きじゃない。

目が合うたび愛しそうに微笑む古野は、私のことを、好きじゃない。


私だったらヤらせてくれそうって思ってたの?

メッセージを送ってきたのは、ただセックスしたかっただけ?

本当に、体目的だったの?

私がその場で断ってたらどうしてた?本当に、これっぽっちも気持ち無い?


「────……ふる、のっ、……っ、す…」


" 好き。"


喉から漏れた空気が声になりそうだった。

慌てて古野の唇を追いかけて、余計なものが口から溢れないように、すき間を埋めるようにして必死に唇を重ねた。

そのまま古野は応えるように、深く、私を受け入れた。







「………坂下、水飲む?」

「あー、ん。飲む。ありがとう」

「体平気?」

「ん、大丈夫」

「先シャワー浴びてきていい?」

「うん。私も、その後浴びる」

「……はは。坂下、ちゃんと私、って言えてるやん」



もうそんなふうに笑わないで欲しい。

今日の目的はもう済んだ?満足した?


ねえ古野。私が、簡単な女で良かったね。






「なあ坂下、カラオケあってんけど。ちょっと歌って帰ろ」


お互いシャワーを浴び終えたらもう理性に蝕まれた私たちはそこには居なくて、気まづさなんてものも何処にも存在していなかった。

きっと古野の人間性が自然とそうさせているんだと思う。


「カラオケ?古野なんか選んでや」

「カラオケといえばコレやろ」


古野が選んだ曲は20年ほど前に流行った、今でも愛されているラブソング。

私も大好きな歌で、ミュージックアプリにもダウンロードしてる歌だった。

古野がサビに入る直前、1つしかなかったマイクを渡してきた。

一番盛り上がるところだったからまさか交代だと思わず、慌ててマイクを受け取って、息を吸う。


《──あなたに逢いたくて 眠れないあの夜 夢を見たんだ なけなしの未来を背負って》


手をエアーマイクにして、古野も歌う。

しっとりとした歌詞だけれど、アップテンポなこの歌。

ライブ会場にいるファンのように古野が片手を左右に大きく振ったから、私も真似してみた。


あーあ。これから私はこの歌を耳にする度にきっと古野のことを思い出してしまうんだろう。

今日のことを思い出すたび、私は……私は何を思うんだろう。



青春ソング、アニメの主題歌、古野のおふざけデタラメ演歌。

何曲か歌って、気づいたら時刻は日付を超えていた。

お互い何も言わなかったけれど、自然な流れで帰る支度を始めていた。


「ちょー俺の靴下ないって」

「え?あるやろ、布団の中とかちゃうん?」

「えー、……あったわ。ナイス坂下」


ベッドに腰かけて、見つかった片足の靴下を履く古野。

私はもうほとんどの支度を終えて、コートを羽織る。


結局ホテル代の料金も全て古野が出してくれた。

結構な額にビックリして申し訳なくなったけれど、少しだけ、ざまあみろって気持ちを古野の背中にぶつけておいた。


帰りの車はお互い何も喋らなかった。

多分お互い意図的に言葉を発さなかったんだと、なんとなくそう思う。

カーナビからランダムで流れるリンゴマンの歌が全て私の好きな歌だったから、リンゴマンが味方してくれているような気分になった。



近くでいいよって言ったのに、結局古野は家の前まで送ってくれた。

「今日はありがと。楽しかったわ」

「こちらこそ。運転もありがとう」


「じゃあ、また。連絡する」

「……うん」


ひらりとあっさり手を振って、古野はハンドルに手をかけた。

私はシートベルトを外して、車のドアハンドルへと手を伸ばす。


このまま車を降りれば、もう最後。

二度と、古野とは会わないような気がした。

古野はまた、って言ったけれど、また、っていつのこと?

連絡する、って言ったけれど、連絡はいつしてくれるの?


本当に"次"はあるの?

なんにも響かない口約束。

「あの、」 私は咄嗟に口を開いていた。


どうせこれが最後なら。
最後になってしまうのなら。

大切に閉まっておいた気持ちを、私は守りたいと思った。
あの時確かに恋をしていた私自身を、私は、守りたいと思った。


伝える言葉を探しているうちに、古野が「なに、どーしてん」と痺れを切らして小さく笑った。


「……最後にいっこ、言いたいことある」

「ん?」


古野がハンドルから手を離す。

もう、知ってさえくれればそれでいいと思った。



「───ずっと、古野のことが好きでした」



声に出して言葉にしてみたら、好きだったあの頃の感情がすぐ手の届く場所にあった。

涙が出そうになったのは、古野に気持ちが届かないからじゃない。


見ているだけで充分だったあの頃。

想うだけで充分だったあの頃。

好きを伝えるなんて私には関係ないことだと思っていた、あの頃。


この気持ちを無かったことにしようとしていた自分に、
ずっと後悔していたことに今更気が付いたからだ。


「………っ、え…?」


大きくまんまるに目を見開いて、手を拳にして口元を隠す古野は、本当に何も知らなかったって顔。


「……え、いつから?……とか聞いていいんこれ」

「中3。……から高校卒業、まで。なんなら今も、気持ち思い出してる……」

「っ、マジで? 言ってや」

「ええ?!無理やったそんなん。だって勇気無かったし自信も無かったし……でもなんかずっと古野がほんまに好きやった、よ」


一度言葉にしてしまえば、もうあとはすらすらと。

自分の想いが言えてビックリした。

告白って意外にもこんなもんかと思った。

もっと鉛みたいに重くて、声という声にならないものなのかと思ってた。


「……ふふ。ごめんなんか急に。聞いてくれてありがとう。それだけ。伝えれて良かった」

「いや、全然。マジで……ありがとう」


少し涙目に見えたのは私の単なる見間違い?
そんな古野にあともうひとつ。

分かりきっている可能性だけど、最後の私からのお願いを聞いて欲しい。


「……もし、今の気持ち聞いてもまた会ってくれるんやったら連絡ください。友達として、やったら、もう会わない」

「………わかった」


物理的とは違う。

今古野の瞳には、ちゃんと私が映っている。

もうそれだけで充分だと思った。


今度こそ私は、車のドアハンドルへと手をかける。



「───坂下」

「なに?」

「……ありがとう。またな」



大好きだった笑顔で古野が笑う。

私は「うん」と笑って頷き、バタン、と車の扉を閉めた。




それからもう二度と、古野から連絡が来ることは無かった。




─────この世には「3人に1人は忘れられない人がいる」らしい。


私もきっとその中の一人だった。


もしあの時、彼から連絡が来ていなかったら、彼に気持ちを伝えていなかったら、私はどのように歳を重ねていたんだろうと、ふと思う。

あの頃見つけられなかった未練が、今こうしてかたちとなって報われた。


だから、今はまだ捨てないでいようと思う。



私の青く、愛しい痛みを。



Fin.