僕は何が起きたのか理解できず、しばらく呆然と立っていた。そして、急に鍵を盗まれたことへの怒りが湧いてきて、「待てえ」と老人を追いかけた。
 松林の中の一本道をまっすぐに走っていけば、あの車止めの空き地があるはずだし、老人を捕まえることができると思った。簡単なことだと。
 しかし、不思議なことに、松林はどこまで行ってもまっすぐな道が続くばかりで、空き地も、砂地も見えてこなかった。あれだけいた家族ずれの姿もどこにもない。僕は一人残された気分になった。
 その時、海の方から波のぶつかる大きな音が聞こえてきた。反射的に、海へと駆け出して行った。
 まばゆいばかりの太陽光のもとで、海面から天高く海獣が舞い上がっている姿が見えた。飛び散る海水の水滴が太陽の光を浴びて、きらきらと輝いている。
 何度も舞い上がり、僕の目の前にその姿を惜しげもなく見せていた。初めてじっくりとその姿を見て、何か神々しいような深い感動を覚えた。僕は海獣に受け入れられたような気がしたのだ。
 どうやら、僕はここに取り残されたようだ。あの海獣のいる世界にいられるのは、一人だけなのかもしれない。だとすれば、あの老人は、僕が現れるまでの間、ずっとこの世界に一人ぼっちだったのかもしれない。
 だから、老人は、僕と出会えたことを喜んだし、鍵を奪うようにして先にこの世界を抜けていったのだ。
 次の誰かが現れるまで、僕はこの世界で、あの海獣を見守り続けなければならないのだろう。それがいったい何年先なのか、何十年先なのか、わからない。でも、僕は何か諦めにも似たすっきりした気持ちになっていた。
 その気持ちを察したかのように、海獣は海上に顔をあげ、僕の方をじっと見つめていた。
 初めて海獣の顔をまともに見た。
 魚ではない。恐竜でもない。襞のくぼみなのか、虚ろな穴なのかわからない目で、海獣はじっと僕の方を見ていた。
 怖くはない。何となく愛嬌さえあった。
 僕はあの老人に騙されたのかもしれない。あの老人はずっとこの世界から逃げ出したかったのだろう。そこに現れた自分はいいカモだったのだ。してやられたという感じだった。しかし、悔しさはなかった。これでよかったのかもしれないという気持ちが、少しずつ心の中に広がっていった。そんな気持ちにさせてくれる、海獣だった。
 海獣を見ることができる次の人間が現れるまで、僕はここで年老いていかねばならないのだろう。
 そんな僕を見つめる海獣は、少し微笑んだような気がした。