その暖かさは、あなたしか感じ取れていない可能性がある。

Hさんは極度の寒がりだ。
暖冬が続く今年であっても雪だるまのように着膨れる。

「辛いんですよ、本当に」

特に手足の冷えは辛く、冬はホッカイロが手放せない。

「冗談抜きで生命線です」

寒さを恨みながら歩くHさんだが、救いもあるという。

「阿左美通りの外れあたりですかね、あそこを歩いていると、たまに空気があったかくなることがあるんです」

湿気を伴った暖気が吹くのだそうだ。

「数少ない休憩ポイントですよ、アレがなければとてもじゃないけど駅まで行けない」

誰かが扉を開けたタイミングと重なったのか、工業的な排熱かはわからない。

「けど、変なんですよ。似たような時間に行く友達がいるんですけど、そういうことは一度もなかったって言うんです」

友人と一緒に歩いているとき、その暖気を浴びることは確かになかった。

「Kちゃんは寒さに強いから、そういう違いがわかんないだけだって思ってたんですけど……」

そうしたわけではなかった。

Hさんの起床時間は一定しない。毎朝、寒さによって起こされる。
その日は、今年一番の冷え込みだった。文句を言いながらもHさんが早めに家を出たのは、躊躇すれば外に出れないと判断したからだ。

「いろいろ、ヘンだったんです」

雲一つなく、空はガラスのように冷たく見えた。
車は通らず、歩行者の姿もない。
Hさんは震えながら歩いた。

「本当に本当に、寒かったんです」

雪が降ってくれた方がまだ良かった。物が少ない冷凍庫に入った気分だった。

「だから、あったかいのと出会えたときは心底ホッとしました」

ようやくたどり着いた地点だった。

「肌に張り付いた氷が溶かされたみたいで、いきなり冬から春に変わったような気分でした」

そこから抜け出して、駅方面へと歩くことができなくなった。

「でも、どこから来ているかは、わかるんです」

肌に吹き付ける方向が教えた。
Hさんは導かれるように追い求めた。

「ちょっとどうかしてるってくらい暖かくて、試しに手袋を外してみたんです」

寒さはなく、凍えることもなかったという。
手に血行の悪い白さはなく、コタツで十分温めた直後のようだった。

「冬の外であれだけ指を動かせることって、ありませんでした」

Hさんは暖気を遡り続けた。
早めに家を出たため、時間は十分あった。

「暑い、って感じたことなんて、ここしばらくありませんでした」

進むほどに熱は増し、ついには一番上のコートすら脱いだ。

「嬉しかったことを憶えてます。辛くて辛くて仕方のないことが、全部吹っ飛んだんですから。寒さに強いKちゃんとか、いつもこうだったのかな、とか思いました」

スキップするように進んだ。
暖気はビルから排出されていた。

「どこにでもあるような雑居ビルでした」

Hさんにとっては南国への入口に思えた。

入ろうとするより前に、肩を掴まれた。
Hさんの友達のKさんだった。

「あんなに怒ったKちゃん、初めて見ました」

怒鳴られた。
Hさんはほとんどの衣服を脱ぎ捨て、肌着の状態でいた。

「そこで、ようやく寒さを思い出しました」

気づけばあれだけあった暖気はどこにもなく、今年一番の冷え込みが包んだ。

「叫びましたよ」

全身を切り刻まれたような気分だったという。

「混乱して、泣いて喚いて、そのビルに入ろうとした私を止めてくれたKちゃんには、感謝しています」

まだ封鎖前だった佐比ビルに入ればどうなっていたかは、誰にもわからない。