言葉通りの青信号は、あなたにしか見えていない可能性がある。

Wさんは大学で教授をしている。
授業開始時間の関係で、通勤時間はまちまちだ。

だが11月27日の朝、阿左美通り一丁目の交差点で気になるものを見かけた。

「青信号と言ってもね、実際のところあれは緑信号だよ。はじめに設置されたとき政府は緑信号と呼称したのに、当時の新聞が青信号だなんて書いたもんだから今でもそうなっているけれど、国際規格でもちゃんとあれは「緑」なんだ。まあ、イギリスでも黄色信号をアンバーと、つまりは琥珀色と言うそうだけれどね?」

 Wさんが見たのは、緑信号でしたか?

「いいやぁ? そうじゃないから困ってるんだぁ。メガネの度が合ってなかったんじゃないか、視神経に変調あるんじゃないか、果ては僕自身の脳ソミまで疑って精神科に行ったんだけれどね、アンタは健康だ問題ないと太鼓判を押されたよ。太鼓判と言えばね、あれはもともと戦国時代の金貨の装飾のことで、これについて面白い話が」

 いえ、Wさんが見かけたものについて、お伺いしたいのですが。

「ん? うん……ああ、そういえば、それについてまだ説明していなかったね。僕は考えごとがあると散歩をする癖があってね。いいアイディアを思いつくと無限に歩けてしまうものだから靴を何足も壊したもんだ。指紋や耳紋で個人を特定できるように、靴のすり減った状態でも個人を特定できると思う、案外個性が出るよ」

 あの……?

「大丈夫だいじょうぶ、話は覚えている。そのとき僕が立ち止まったのは、ちょうど靴のかかと部分が外れていると気付いたからだ、歩くたびにパカパカ開いた、こりゃ困った、靴屋はどこだと周囲を見渡したときに見つけたんだ。青信号だったよ。いやあ、驚いたね、あれは」

 なぜ驚いたのでしょう?

「そりゃ君、先程言った通り、青信号とは名ばかりで、実際のところは緑なんだ。あれを青だと表現する現代人はいないよ。けれど、僕が見たのは間違いなく「青」かったんだ。グリーンではなくブルー。歩行者信号のランプが真っ青に光っていた」

 それは、見間違いではなく?

「僕が真っ先に疑ったのも、それだ。機械の故障でなければこちらの故障だ。視神経か脳神経かのいずれかに異常を来たしたに違いないってね。だがね、思い返すと妙なんだ」

 なにがでしょうか?

「僕が見たのは「青」信号だ。つまりね、たとえ僕の色の認識が間違っていたとしても、赤のランプが灯っていなかったことに違いはないんだ。光っていたのは逆のランプだ。だっていうのに、ほとんど誰も渡ろうとしなかったんだよ。見たところ周りには四人ほどいたのに誰も前に進まなかった」

 ほとんど、と言いましたか?

「ほお、鋭いね。そうだよ。ほとんどだ。四人は信号待ちしているとき特有の惚けた顔をしていたけれどね、一人だけ違った、青信号を当たり前のように渡った。その様子は僕だけじゃなくて他の人も見ていたはずだけれどね、誰も追随しなかった」

 車は、通らなかったのですか?

「ああ、通らなかった。行儀良く停止ラインで止まったままだった。信号の色と、立ち止まる四人の通行人がいなければ、それは日常的な光景だったとすら言える。本当に後悔したね、あのときは」

 どうしてでしょうか?

「そりゃ君、靴がひどいことになっていて追いかけられなかったからだよ。僕もあの青信号を渡りたかった。その先で何が起こるかを知りたかった。呆然としている間に信号が点滅し始めてね、タイミングとしても無理だった。いや、そうした常識的な判断を捨て、靴も捨て、僕は靴下で走るべきだったのかもしれない。けど、咄嗟にその決断はできなかった」

 ……その青信号を渡った人は、どのような人だったのでしょうか?

「ん? うん? おお! わからない!」

 はい?

「君に言われるまで気づかなかった。四人の待つ人々については詳細に思い出すことができるが、たしかに渡ったものについて僕はなにも記憶していない。男だったのか女だったのか、背は高かったのか低かったのか、大人か子供か、何一つとして記憶の引っかかりがない、青信号を渡った者としか憶えていない! これはとても興味深い!」

 そうですか。

「青信号を見た後、急いでテープをカバンから取り出して破損箇所をグルグル巻きにして、その渡った人を追いかけたんだけれども、いやあ、今考えればバカだねぇ。僕は誰かも分からない相手を必死に追いかけたんだ」

 興奮しているところ恐縮ですが、それが理由ですか?

「ん、何がだい」

 Wさんが授業を止め、帰宅することもなく、1日のほとんどの時間を散歩に費やしている理由です。

「そうだね。今度こそ、突き止めたい。一度は出会えたんだ、次も出会えるさ。それにね、チャンスは二倍だ」

 どういうことでしょうか?

「信号機というのは歩行者用と車用のものがある。「青」信号を渡った人間は、よくわからないものだった。なら、車の「青」信号を通過するのも、きっとよくわからないものだよ」

そう笑うWさんには現在、捜索願いが出されている。
家族が迎えに来るより先にWさんは姿を消した。