マナは結界を破ろうと必死に足掻いていた。
 治癒魔法、鎮静魔法、解毒魔法、浄化。
 いろいろなことを試みているが結界は破れずにいる。あの魔女の言った通りなのが悔しくてたまらない。
 どうやっても打破できない現状が、マナの目を腫れさせている。

 王宮の方から何度目かの衝撃音が聞こえた。空気を振動させて地面さえも揺らしているかのような音。
 
「一体なにが起きているの……!?」

 マナは息を呑んだ。
 一刻も早くこの結界から出なくては。
 しかし、感情の(おもむ)くまま結界を叩いても破れることはない。
 ()(すべ)のなくなったマナの耳に、聞き馴染みのある声が(かす)かに入ってきた。
 
「……怖いよお」
「……なんでこんなことに」
「……助けてよお」
「……マナ様どこぉぉ」
 
 あの四人の子供たちの声だった。
 精一杯恐怖に立ち向かう、(おび)えたような声。

「あなたたち!」

 マナは思わず大きな声を出した。
 最年長の男の子が何かに気付いたような素振りを見せていたので、もう一度大声で呼びかける。
 今度ははっきりと気が付いてくれたようで、子供たちが必死に駆け寄ってきてくれた。
 最年長の男の子を除いた三人が泣きじゃくり、男の子はマナを見上げて潤んだ瞳ですがりついた。

「マナ様! 助けてください! 王宮の周りが真っ暗になっていて、いま魔物と騎士たちが戦っているんです!」
「そんな……」
 
 ──リリィの仕業(しわざ)に違いない。

 ぎゅっと唇を噛み締める。

「……『マナ様を呼べ』っていろんなところから声が聞こえて……、また裏庭にいるかと思って……。それで、裏庭まで来たら……森の様子がおかしいって……入っちゃって……うわああん」

 嗚咽(おえつ)まじりに話した男の子も張り詰めていた糸が切れたようで、他の子供たちと同じようにわあわあと泣きはじめた。

 ──許せない。
 
 静かに沸々(ふつふつ)と怒りがこみ上がってきた。
 リリィは二十年前の続きを楽しんでいる。それだけじゃない。母に封印され阻止された国盗りを再開しようとしている。

 自分ではリリィに攻撃することすら叶わない。
 それでも、母が守ったこの地区が崩壊していく瞬間を、指を(くわ)えて我慢しているだけなんて出来るはずがない。

「……わかった! 私がなんとかする! こんな結界すぐに壊してみんなを助ける! 教えてくれてありがとう!」

 子供たちを(はげ)まし勇気づけるため笑顔に(つと)める。少しでも不安を取り除きたかった。

「ここは危ないから、森から出て裏庭のもっと遠くへ逃げて。全部終わったら、また一緒に鬼ごっこしようね」

 マナの優しい微笑みに子供たちは(うなず)いて涙を拭く。最年長の子が皆を(ひき)いて森の外へと走っていった。

「私に力がないばっかりに……。ごめんなさい……」
 
 マナは胸元に手を当て、形見であるブルーダイヤモンドを取り出した。
 両手で強く握りしめ、母のことを思い出す。


 ───心からマナが何かを望んだ時、いつかマナの力になってくれるわ
  

 母の言葉が響く。
 心から何を望んでいるか、今ならわかる。
 
「お母さんお願い……。お母さんのように、私もみんなを助けたい。守りたい……! だから、私に全てを守れる力を……」

 祈りと共に手を合わせると、ブルーダイヤモンドから青白く強い光が(あふ)れだす。
 その(まぶ)しさにマナは思わず目をつむってしまった。

 …………
 ……
 …

 恐る恐る目を開けてみると、何をしても破れなかった魔女結界が破れていた。

「結界が……。お母さんの力……?」

 マナは不思議そうに辺りを見回す。

「俺の力だ」

 耳にしたことのない声が頭上から聞こえた。
 見上げた先の空に浮いていたのは、大きな漆黒の翼を広げている男だった。
 黒く長い髪をなびかせ、騎士のような服装で身を包んでいる。そして、その服さえも黒い。
 切れ長で(するど)い目つきの奥にある瞳は、ブルーダイヤモンドのように鮮やかで深みのある青い輝きをしていた。

「俺を召喚したのはお前か?」

 男はいぶかしげにマナに問う。
 
 ──召喚……? この(ひと)の言っている意味がわからない。でも、結界を破ってくれたのも……この(ひと)
 
 マナは状況の整理が追いつかなく困惑していた。恐々(こわごわ)と言葉を選びながら、手中にあるダイヤに祈っただけだと伝える。
 
「ダイヤか。見せてみろ」

 男はゆっくりと空から降り立ち、マナの握っているブルーダイヤモンドを見て瞬時に答えを出した。

「この中には魔法陣が描かれている。召喚の魔法陣だ」
「……そんなの見えたことない」

 改めてダイヤモンドを凝視したが、やはり中に見えるのは煌めいている結晶だけだった。

「魔法しか知らないお前らでは見えんだろうな。これは魔術、全くの別物だ」
 
 ───魔術。

 大昔に禁忌とされ、使うものは誰もいない。
 母の形見になぜ魔術(そんなもの)が?
 
 男の言葉にマナの困惑は深みを増していく。
 顔をしかめながら手のひらのブルーダイヤモンドを眺めるが、やはりマナからしたら綺麗な宝石でしかない。

「で、聖女様が悪魔を召喚してまで叶えたい願いとは何だ?」

 男は機嫌が悪そうに腕を組んでいたが、マナは状況を整理するので精一杯だった。
 
 ──悪魔?

 男は確かにそう言った。感じたことのない魔力に黒い翼で空を飛んでいたことから、普通の人間ではないと思ってはいた。
 でも、それがよりによって悪魔だなんて。
 
 ───いつかマナの力になってくれるわ

 母の言葉が脳内をよぎる。
 力? この悪魔が? どんどんと頭の中がごちゃごちゃになっていく。
 
「さて、何を願うか決まったか? 力か、金か、あるいは死か……。なんでも叶えてやる。ただし、これは契約。その代償はしっかりいただいていく」

 マナの心情など知るはずもない悪魔は青色の瞳をぎらつかせ、いやらしく笑っていた。
 
「私は……、あなたを召喚したつもりはないし、あなたに叶えてほしいこともない……!」

 マナは強張(こわば)った顔で悪魔を見つめる。
 わからないことだらけだ。それでも、聖女が悪魔と契約だなんて、そんなことあってはならない。それだけははっきりとしている。
 すると、悪魔はいらやしい笑みを浮かべたまま近寄ってきた。
 
強情(ごうじょう)な女は嫌いじゃないが、お前が俺を召喚したのは事実だ。それに……」

 悪魔はマナのあごを人差し指ですくい上げ
 
「聖女の血肉、特に心臓は他の人間のそれよりも美味だと聞く。どんな味なのか……先に堪能(たんのう)してしまおうか」

と、人差し指を左胸に滑らせた。

 身体にゾクッと恐怖が駆け巡る。それはまるで、心臓にナイフを突きつけられているような感覚。
 悪魔の青い瞳は吸い込まれそうになるほど不気味で、澄み切った星空のようにまばゆい。そして、笑った口の中に(する)どく(とが)った歯が見えたことがまた恐怖心を(あお)られた。
 
 マナの身体が恐怖で硬直した直後、再度王宮の方から衝撃音がした。
 その音で正気を取り戻す。そうだ、早く王宮へ行かなければと、悪魔の手を振り払った。今本当に困っているのは自分ではなく、王宮にいる人たちだ。
 マナは一目散に王宮へと走り出す。
 
「……なるほど、この気配は魔女か」

 悪魔は不敵に笑いながら、走っていくマナの後ろ姿を眺めていた。