王宮に併設された闘技訓練場。
そこでは刃と刃がぶつかり合う音と、騎士たちの雄叫びが反響しては空に消えている。
月に一度の模擬戦が行われているこの日の訓練場では、傷の浅い深いに関わらず絶え間なく怪我人が発生していた。
その騎士たちの治療をしているのが聖女、マナであった。
半年ほど前に『大聖女ドロシアの娘』という名目で王宮に呼ばれて以降、聖女として怪我や病気を癒すという役目を負って王宮に仕えている。
この日のマナも懸命に治療に励んでいる最中だったが、彼女の顔はどこか陰を落としているように見える。
マナは模擬戦の日が本当に嫌だったのだ──。
「噂通り『落ちこぼれの聖女』だな。こんな傷くらいさっさと治したらどうだ?」
「『あの大聖女』の娘なら、数秒で傷の一つや二つ治せるんじゃないのか?」
「こんな聖女なら、いてもいなくても変わらないな」
治療を受けた騎士たちは口々に似たような言葉をマナへ投げかける。
戦さながらの実技で騎士たちの闘気や殺気が高まっており、マナへの当たりもいつも以上に強いものになっていた。
もう慣れたとは言え、繰り返し聞かされる冷ややかな言葉にマナの心はじわじわと蝕まれていく。
「私の治癒魔法がなかったらどうするんですか? 治療をやめてもいいんですよ?」
なんて嫌味の一つでも言ってやりたくなったが、実際には言葉に出来ず脳内で浮かんでは消えていく。
目の前にいる怪我人を見捨てられるような性分ではなかったし、これも母のような立派な大聖女になるためだと自身に言い聞かせ、必死に耐えながら治癒を続けていた。
──だから模擬戦の日は嫌。
母と比較し、自分を蔑ろにしてくる騎士たち。でもそれより、力のない自分と何も言い返せない自分に腹が立つ。
ただ唯一救いだったのは、ちゃんと謝辞を述べてくれる騎士もいてくれることだった。
「マナ様、いつもありがとうございます」
「ご自愛しながら頑張ってくださいね」
「お母様のような大聖女になられることを遠くから祈っています」
感謝されたくて治癒をしているわけではないが、やはり礼を言ってもらえるのは嬉しかった。この人たちの言葉が自分の原動力となり、辛くてもめげずに頑張れているのだと気持ちも朗らかになる。
こういった騎士たちの励ましがなかったら、きっと今頃は泣きながら治療をしていたに違いない。
続々と絶え間なく現れる怪我人に、真っ白な聖女服は砂埃と血痕でどんどんと汚れていった。
田舎育ちだったので汚れなどは全く気にしないが、肌に張り付くようなワンピースの聖女服は動きにくくてあまり好きではなかった。それでも着ているのは、国王からの指示だったからだ。
もう一つ加えると、マナの見た目はどこにでもいる普遍的な十五歳の娘でしかなったので、誰から見ても『聖女』だとわかるようにするためでもあった。
茶色い長い髪と茶色い瞳、それに背も平均的。
でも、母譲りの茶色い瞳は好きだった。
「おい! 早くしろよ!」
次に回ってきた騎士の怒鳴り声が響く。
そんなに怒鳴らなくても聞こえるのにと内心でぼやきながらも、何を言われてもいいよう心の準備をして治療に入る。
「お前、あのドロシア=ウィンズレット様の娘なんだって?」
「はい」
「へぇ。その割に、陳腐な治癒魔法しか使えねえな。本当に大聖女の娘か?」
やっぱり、そうきたか。
心の準備をしておいて正解だったなと、また内心でため息をついた。
にやにやと右の口角だけ上げて見下すようにこちらに視線を向けている騎士に対して、精一杯の作り笑顔で応じる。
「……申し訳ないです。今は亡きお母様に負けない聖女になれるよう、日々精進しております」
そう返した時だった。
背後から場を和ませる穏やかな声が聞こえてきた。
「まあまあ。マナの治癒魔法があるとないとでは大違いですよ。我が騎士団にとっても、彼女は必要な存在なんです。ねえ、マナ」
声のする方へと振り返る。そこには優しい微笑みを浮かべている国王──フェアラートが立っていた。
「……フェアラート様!」
動揺した騎士の顔がこわばっていく中、すぐに彼は落ち着きのある声で騎士に告げる。
「マナがいてくれるから皆本気で剣を交えられるんです。貴方のその怪我も、本来なら跡が残ってしまうかもしれないんですよ」
「はっ……! 不躾な物言い、大変失礼いたしました」
騎士は慌てながらフェアラートに詫びると、治療も済んでいない内に「もういい!」と声を荒げ、この場から逃げるように歩き出す。
──謝るなら私の方にじゃない?
マナはその後ろ姿に不満を込めた視線だけ送った。
「気を悪くしないでくれ。二十年前の悲劇を繰り返さないための模擬戦でもあり、みんな血の気が多くなっていてね。大切な家族を傷つけられた人たちばかりだから」
「……承知しております、フェアラート王。かばっていただき、ありがとうございます」
彼の優しい声色に少しずつ気持ちがほぐれていく。「とんでもない」と、優しく口角を上げて微笑みを返してくれた。
彼──フェアラートがこの国の王になったのは今から二年前。
弱冠二十三歳にしてネームルア国の王となったその微笑みは、すでに国王としての貫禄や気品で溢れていた。
彼のさらりと垂れた金髪は常に王冠を身につけているかのように煌めいていて、大きな目の奥にある透き通った淡褐色の瞳は全てを見透かしているようにさえ思えてしまう。
更には、世の老若男女を魅了する中世的な顔立ちをしているので、「王子様」と呼んでも全く差し支えがないほどだ。
「引き続き、よろしく頼むよ」
フェアラートはまたにこりと微笑む。王子様スマイル、とでも言おうか。この笑顔に射られてしまった女がどれほどいるのだろうと、下世話な考えが頭をめぐった。
「はい、かしこまりました」
間違っても自分は射られないようにと、気を引き締めて承る。
「……今日も優しいお言葉をありがとうございます」
「いえいえ。くれぐれも無理せずに。マナが倒れてしまったらみんな困ってしまうからね」
そう言って、木漏れ日のような暖かい笑顔を残し颯爽と去っていく。
常に彼の後ろにいる執事に憐れみのような微笑をされたが、そういうのには慣れていたのであまり気にはしなかった。
彼がこうして気にかけてくれるのはこれで何度目だろうか。
半年ほど前に王宮で仕えだした頃、みんなからの期待や尊敬や、ちょっとの好奇心などで丁重に扱われていた。
それが二ヶ月経った頃、怪我を治せる程度の聖力しかないとわかるや否や、誰が言い出したのか『落ちこぼれの聖女』というレッテルを貼られてしまい、今ではなんとも肩身の狭い王宮暮らし。
ドロシアの娘と聞いて『あの大聖女』のような力をお目にかかれると期待していた分、ただの普通の聖女でしかなったことに失望が大きかったんだろう。
実際、母のように特別な力もなければ、それを補え黙らせるような美しい見目形でもなかったので『落ちこぼれ』を否定できずにいた。
そういった時に現れてくれたのが彼、フェアラートだった。
それこそ白馬に乗った王子様であるかのように姿を見せて、元気を与えてくれる存在。
彼に対して敬意こそあれ、好意という感情までには至れなかった。
もちろん素敵でかっこいい人だと思ったりもしたが、国王を好きになったところで田舎出身の娘が相手にされるはずもない。優しくしてくれるのもきっと国王という立場上のもの、彼の人柄でみんなに優しいんだろう。
などと、どこか冷静に考えてしまって敬意以上の感情が持てなかった。
──好きって、どんな気持ちなんだろう。
まだ恋を知らないマナにとって、『好き』という気持ちはどこか不透明なものであった。
それでも事実、彼の言葉には何度も救われていたし、かばってくれることがとても嬉しかった。
──この気持ちが大きくなったら、いつか恋になるのかな。
彼の暖かな言葉を胸にしまい負傷者たちの治癒に精力を注ぎ続ける。
闘技訓練場が静まった後も、しばらくマナの仕事は終わらなかった。