持て余してしまう夜が、いっぱいある。
たとえばバイトも大学の課題もない、部屋にひとりきりのしんとした夜。私は、気を抜くと感傷的になってしまって、楢原のことを考える。
寂しさや虚しさに責める宛先があるのはいい。体内で漂流してしまうような名づけようのない感情はあまり好きじゃない。
悲しくなるのも、切なくなるのも、楢原のせいだって分かるから、あとは楢原のことを考え続けて、腹を立てたり、泣いてみたりすればいいだけだ。
恋愛の思考回路にはもうくっきりと轍があって、私、何度も同じ寂しさや虚しさを抱くことの意外性のなさに、安心している節すらある。
◇
大学の講義が終わって、電車で自分の住む街まで戻っている夕方のことだった。
夜は、楢原が私の部屋に来るはずだったのに、数分前に、<百、ごめん、今日無理になった>というメッセージが届き、車窓の向こうの景色は、その刹那にがたんと彩度を落とした。
いいけどなんで、と一度は入力したけれど、すぐに消して、<了解、またこんどね>とだけ送信した。
既読はつかなくて、想像の中の楢原は、楢原が好きそうな、私の知らない女の子と、私の知らないソファでいちゃついていた。
惚れたものが負け、とは言うけれど、惚れたものにしか勝負の概念は存在していなくて、楢原は自分が勝っていることすら理解していない。
だから、私はさらに負ける。
楢原とのトーク画面をしばらくじーっと見つめていたけれど変化はなかったから一駅分で諦めて、インスタを眺めて気を紛らわせることにした。
リール動画は、どうでもいい映像ばかりを流してくれるからいい。頭を使うことなくぼんやりと息をする、その時間欲しさにリール動画を眺めて、この世界ってどうでもいいことで溢れているなと感心すらする。
だけど、途中で、ヤバいエピソード五選なんて至極くだらない動画が画面に表示されて、その中で三位に輝いていた、喧嘩したら彼氏の歯ブラシでトイレ掃除をする、というエピソードに、私はどうしてか釘付けになってしまった。
楢原にドタキャンされた切なさを紛らわせるためにリール動画を見ていたはずなのに、喧嘩もできないし、彼氏でもないのに、私の部屋に自分の歯ブラシを置いている楢原は、憎くいほどに無防備だよね、そういうところも好きで、でも、復讐のひとつくらいはいつだって楢原にしてみたい、に思考が行き着く。
常識人の顔をしながら、私はいくらでも理性を失うことができるから、部屋に戻ったら、楢原の歯ブラシで、トイレ、はさすがに嫌だから、洗面所の掃除をしようとかたく決意して、また楢原とのLINEのトーク画面に戻る。
既読は、ついていない。
楢原とは、バイト先で出会った。
大学は違うけれど、同い年で、ちょうど同時期に同じ居酒屋の求人に応募して採用された私たちだった。
楢原は、冗談を交えながら話すことも聞くことも上手で、何よりも背が高くて顔がよかったから、初手で半分やられていた。
女の子の好意をこれまでうんざりするほど押し付けられてきただろうな、と分かるような容姿で、その好意の数々をあまり悪びれもせずに弄んできたのだろうな、と分かるような性格をしていた。
そんな彼に、簡単な恋愛しかしてこなかった簡単な私が惹かれてしまうのなんて、あっという間だった。
最初はただのバイト仲間だったけれど、バイト終わりにバイトの人たちも含めて飲みに行くようになって、それから少しして、サシでも飲みにいくようになって、その何度目かで楢原の部屋に誘われた。
その時にはもう楢原のことを好きになりすぎていたから、拒む選択肢は、私にはなかった。
慣れてるんだろうなと頭では分かっていたけれど、楢原と楢原の部屋でセックスをして、この男は本当に慣れているんだなと自分のからだで理解した。
俺、けっこう遊んでるんだよねと、自分のだらしなさをわざわざみんなに言いたがる、自分に酔っているタイプの男は大学の知り合いの中に何人かいたけれど、楢原にはそういうみっともなさはなくて、根っこの部分できちんと不誠実な男だった。
もしかしたら付き合うことになるかもしれない、楢原も私を特別に好きでいてくれるのかもしれない。
そういう純粋な期待は、セックスが終わった後の、私に対する楢原の淡白な態度によってあっさりと打ち砕かれて、「百、セフレとかそういうのどう。ちなみに、俺はアリな」という楢原の提案によって跡形もなく消え去った。
その時、久しぶりのセックスのあとだったから、まだ下腹部には痛みがうっすらと残ったままになっていて、セフレという言葉は耳の奥ではなく、腹の下でじんと痺れるみたいに響いた。
セフレか、と思った。
それ以外の選択肢が楢原には存在していないことは、楢原の目を見ればはっきりと分かった。
そんな相手の前で、傷ついた顔をみせる度胸も、女としての経験も私にはなくて、物分かりがいいふりをして、「……ありかも。楢原、友達くらいがちょうどいいもん」と答えた。
楢原は、「それはそれでちょっと傷つくじゃん」と、私のことなんて何とも思っていないからこそ、わざとらしく傷ついた顔をつくって、本当に傷ついた人間であればできるはずがないような気安い口づけをよこしてきた。
ただの友達にセックスが加わったら、セックスのためだけの友達に変わってしまう人たちも、世の中にはいるのだろう。でも、楢原はそうではなかったから、私の恋心は余計にびしょびしょになった。
セックスをする前と変わらずふたりで飲みにも行ったし、セックスをしないままどちらかの部屋でだらだらと過ごすだけで終わることだってあった。
セフレになってからしばらくは、楢原の部屋に私が行くことが多かったけれど、楢原が居酒屋のバイトを扶養控除の関係でやめてからは、楢原が私の部屋に来るのがふつうになって、楢原は、歯ブラシ、寝るとき用のスウェット、コンタクトの予備なんかの私物を私の部屋に置くようになった。
楢原のことを、私は、どんどん好きになっていった。
触れてくれるたびに、私の話に笑うのをみるたびに、すぐ隣で穏やかな寝息を立てているのを聞くたびに、楢原と呼ぶと、ん、どうした、と楢原が優しい顔をしてくれるたびに、どろどろ好きになっていった。
付き合える未来なんてまったく想像もできなかったけれど、よく妄想はした。
楢原の気が急にがらりと変わって、うっかり私に告白してしまって、私と楢原が付き合うことになる妄想。セックスしたあともたくさん甘やかしてくれて寝言で百と私の名前を呼ぶのを聞く妄想。馬鹿みたいな妄想、妄想、妄想。
楢原に好きになってほしいという願いよりも、楢原がセフレじゃなくて百といったん付き合ってみるかとか思わないかなあ、という情けのない願いのほうが大きかったけれど、楢原の目に自分だけが映っている時は、楢原が私で感じてくれている時は、付き合うとか付き合わないとかそういうことは関係なく、楢原が私を大好きになってくれたらいいなと思わずにはいられなかった。
だけど、私、好きになればなるほどに、楢原を憎むようにもなっていった。
私が楢原を好きなこと、そのものには楢原はまったく関係がなくて、それは楢原のせいでも何でもなくて、私が勝手に抱いた感情なのに、私は強がることは上手くても本当に強いわけではないから、関係ないままでいる楢原を、大好きなまま、本当に大好きなまんまで、じゅくじゅくと恨んでしまうのだった。
楢原が好き。
楢原の歯ブラシは、洗面所の鏡のふちの汚れをとったら、見事な灰色になったけれど、水にさらして指の腹で擦ってみたら、歯ブラシの汚れはほとんど目立たなくなった。
復讐しようとしたはずなのに、全然すっきりした気持ちにはなれなくて、次に楢原が私の部屋に来た時、この歯ブラシで歯をみがいた楢原と自分がキスをしなければならないのかと考えると吐き気すらして、結局、楢原の歯ブラシは、掃除後すぐにゴミ箱に捨てた。
次に、私が楢原の歯ブラシで洗面所を掃除したことと、その歯ブラシを捨てたことを思いだしたのは、楢原が私の部屋にやって来た夜で、歯ブラシを捨ててからは一週間と少しが経ったあとだった。
私が送った、<了解、またこんどね>にはずっと返信をよこさず既読すらつけなかったくせに、そんなことは楢原の中ではふつうのことで、彼は、私と会う気分になったタイミングでしか、私とのトーク画面を開いてメッセージを送ってくれない男だった。
私は楢原を好きになった時点で敗者だから、楢原との関係において主導権を握れたためしがなくて、振り返ってみたら、私とのことはすべて、楢原の思い通りになっているような気もするのだった。
<今日の夜、あいてる? 飲み会、百のマンションの近くであるから。それ終わったあとになるけど>
楢原からメッセージが送られてきた時、スマホを触っている最中だったから速攻で既読をつけて、<ぎりぎりあいてる>と返事をした。
送られてきたメッセージにすぐに既読をつけるとか、すぐにメッセージを返してしまうとか、そういう部分で相手に好意がばれたらどうしよう、なんて不安になる片想い初期のような感情は、私の中にはもう存在していなかった。
それは楢原が、そういうところで自惚れてくれるような男ではないからにほかならないけど、もしも楢原が、私の好意に気づくことがあったとしても、楢原にはそれにかまう気などまったくないだろうなと思う。
<ぎりぎりってなんなの>
<あいてないこともないってことです>
<会いたいって言ってみて>
<やだ>
<おれもやだ>
<会いたいょ>
<よのサイズ怖いな>
<じゃあぜんぶ取り消し>
<だるい飲み会だから、たぶん九時くらいにはそっちいける>
<了解、待ってるね>
<会いたいょ>
<ならはらもこわいね>
<おれはぎりぎりセーフ、百はアウト>
<こわいょ>とすぐに送り返したけれど、それには既読がつかないまま夜になって、楢原は午後九時過ぎに私の部屋のインターホンを鳴らした。
私は、楢原が来る前に、残り二つとなっていた避妊具のうちの一つを、未使用のまま、生ごみ用のごみ箱に捨てて、その上にお菓子のごみをかぶせた。
その避妊具は楢原がいつかの夜に買ってきたもので、楢原しか使うひとはいなかったけれど、いないからこそ虚しくて、楢原は自分が買ってきた避妊具の数が、前に私の部屋に来たときよりも減っていたらどう感じるんだろうと考えてしまった。
避妊具の数なんて把握していない、別に減っていたところで気にしない、のどちらかが正解だって分かっているのに、ちょっと嫉妬する、とか、ちょっと面白くない感情になる、とか、存在しない不正解を求めてしまう瞬間が、私にはどうしてもあって、その時の衝動に抗うことはむずかしい。
片想い初期のような感情をこじらせていたほうが、はるかにましな気がしなくもない。
避妊具をこっそり捨てて、他の男とセックスをしているふりをする、なんてばかばかしい工作はおこなうくせに、楢原の顔をみるまで、センチメンタルと発狂の狭間で数日前に捨ててしまった歯ブラシのことは忘れていて、玄関の扉の隙間から楢原を見上げた瞬間に、私はようやくそのことを思い出すことができたのだった。
楢原が、寒そうにポケットに手をつっこんだまま私を見下ろして、「俺、ちょっと酔ってるかも。つまんなさすぎて飲み過ぎた」と、少しだけ根性が悪そうな笑みを浮かべる。
扉を完全には開けないまま、「どういう飲み会だったの」と聞くと、彼は寒そうにしているくせに私の部屋には入ろうとしないまま、「合コン」と何にも躊躇うことなく答えた。
「つまんなくないじゃん、合コンだったら」
「もともと乗り気じゃなかったのがだめだったかも。数合わせで行っただけだし」
「酔ってるように見えないよ」
「ほんと? めちゃくちゃ酔ったふりして早帰りしたけど」
「合コンに早帰りとかあるんだ」
「俺も、初めてしたけど、やればできるっぽい」
「あのね、楢原の歯ブラシ捨てちゃった」
「んえ? どういうこと。いまのどういう脈絡?」
「あはは、脈絡はないけど、楢原の顔見て思い出したから」
「じゃあ、今日は俺、百の部屋で歯みがきできないってこと?」
「うん」
「それ大分困るんですけど。どうせこれからも要るんだし。薬局、買いに行く」
「今から?」
「うん、まだ靴脱いでないし。一緒に来て」
「靴、履けってこと?」
「そもそも、百が歯ブラシ捨てるからじゃね。まあでも、履かせてほしいなら、靴くらい履かせてやるけど。あ、おんぶがいい? おんぶも、できなくはない」
「あはは、馬鹿じゃん。ちょっと、待ってて。寒いからコートだけ羽織る」
私は、一度玄関の扉を閉めて、急いで部屋までコートを取りに行く。コートを羽織って、靴を履いてから玄関の扉を開けると、楢原は壁によりかかってスマホを触っていた。
じっと画面を見つめる横顔に寂しくなりながら、「楢原、おんぶして」と冗談を言うと、楢原はすぐにスマホから顔をあげてくれて、私を見ながらうすく笑った。
「まじ?」
「まじ」
「靴とコート脱ぐならいいよ」
「あはは、何それ。嘘だよ、行こう」
「ん、行こ」
楢原は私に手を差し出したりはしない。セックスの時にしか、私は楢原と指を絡めたことがない。
でも、隣には並んでくれるし、歩くスピードだって私に合わせてくれる。
全く酔っているようには見えなかったけれど、たくさん飲んだのは本当だったのだろう。隣を歩く楢原からは仄かにアルコールの匂いがして、楢原の香水の香りに混じって、知らない花のような香りも微かにした。
私のマンションからは歩いて五分ほどのところにある駅前のドラッグストアで安物の歯ブラシを買った後、楢原が「カップラーメン食べたいかも」と言うので、薬局の隣のコンビニに寄ることになった。
コンビニには、たまたま同じ学部の女の子がいて、楢原と一緒にいる自分として「また明日三限ね」と笑えたから、私は少し気分が良くなった。まったく関係のない人が、楢原のことを私の彼氏なのかもしれないって雑に思ってくれたら、それだけでも少しは報われる。
そんなことを考えている私の隣で、何も知らない楢原は、日清のカップヌードルと日清のソース焼きそばを両手に取って、どちらにしようか真剣に迷っているようだった。
「どっちも食べたらいいじゃん」
「いや、そんなには食えない」
「カップヌードルにしたら? シーフード美味しいよ」
「知ってますけど」
「チリトマトも」
「まじで知ってるんですけど」
「なんかムキになってる?」
「別に。百は、どれにすんの」
「え、私も食べるの? あんまりお腹空いてないんだけど」
「一緒に食べよ、無理だったら、残り俺が食べるから」
「じゃあ、私は、どん兵衛のミニ、きつね」
「ミニとかダサ」
「は? うざ」
「はは、怒った。どん兵衛ミニな。俺、ノーマルにする、あと買いたいもの何かある?」
「買ってくれるの?」
「ん、ついでだし」
楢原は、どん兵衛のきつねのミニと日清のカップヌードルを積んで片手でもつ。
優しさとは、違う。思わせぶりとも、違う。だけど、楢原の気まぐれとかついでの行為に、私は簡単に嬉しくなってしまうし、嬉しくなりながら、あんまり私を喜ばせるなよぶん殴るぞ、と可愛げの欠片もない傷ついた少年のような心で思う。
楢原が買ってくれるというのに、欲しいものも特になくて、結局チロルチョコを三つ選んで渡したら、楢原は、「どういうチョイスだよそれ」と、機嫌良さげに破顔した。
楢原が好き。
でも、私、楢原の考えていることは、私と付き合う気がないんだってことと、別に私のことが特別に好きなわけじゃないんだってことと、面倒なことが好きじゃないってことくらいしか分からない。
チロルチョコ三つと、どん兵衛のミニと日清のカップヌードルをまとめてレジに持って行って会計を済ませた楢原は、インスタントラーメンはすぐに食べる気だったらしく、コンビニのイートインスペースにあったポットで湯を沸かして、手際よく食べる準備をし始めた。
「ここで食べるの」と聞いたら、「いや、食べながら帰る」と即答されて、その発想はなかったなと悔しくなる。
楢原の考えていること、一秒後にとる言動、そういうことを少しは分かりたいし、せめて分かったつもりにはなりたいのに、やっぱり全然分からなくて、時々、何なのそれはと思わず笑ってしまうような可笑しなこともするから、その度に、私は、楢原のことを好きになってしまう。
楢原は、私を、辛い気持ちにはさせるけれど、一緒にいるときは、決して退屈にはさせない。そういうところが沼みたいで、私はいっこうに楢原に萎えることができないでいる。
カップヌードルとどん兵衛のミニにお湯を注ぎ終えた楢原は、どん兵衛の方を私に渡して、コンビニの外へ出た。
薬局に向かった道とは別の方に歩き出すから、「どこ行くの」と聞いたら、得意げな顔で「内緒」と返される。
「そういうのいいって、楢原」
不満を言いながらも、楢原が楽しそうだから、私も楽しくなってしまって、なるほど私の情緒を不安定にさせて、私をしんどい気持ちにさせるのは、負の感情だけが原因じゃなくて、ようは負と正の感情のふり幅のせいなんだなと、変なタイミングで真理に気づく。
楢原が足を止めたのは、夜は昼に比べて人通りがめっきりと減る大通りにかけられた歩道橋の上だった。
見晴らしがよくて、国道の向こうの向こうまで確認できる。何台もの車のテールランプとヘッドランプが連なるように光っていて、私は、その景色そのものが美しいのか、楢原と見ているから美しく感じているのか、自分ではよく分からない。
「さっき飲み屋から百のとこ行くまでに、ここ見つけたから。一回、歩道橋の上で、ラーメン食べてみたかったんだよな」
「何それ」
「そういうのあるだろ」
「あるかなあ。楢原はでも、そういうとこあるよね、時々、変なことしたがる」
「生きてたら、だいたい何でも飽きてくるから。たまに、変なことしといたほうがいいよ」
「楢原のせいで、私まで変なことしなきゃじゃん」
「な。どういたしまして」
「感謝してないからね」
はは、と楢原が笑って、転落防止柵の上にカップヌードルを置いた。
車が、歩道橋の下を通り過ぎていく。
楢原とふたりきりで世界に浮いているような気持ちになる。夜を彩る何台もの車の光はどこまでもきれいに見えて、また、忘れたくない楢原との時間が増えてしまうな、と満たされて、それ以上に、心細さを覚える。
互いのからだに触れ合う時間よりも、こういう時間が増えてしまうことのほうが、怖いことだった。
どうせいつか終わると分かっているのに、セフレでもなんでもいいから永遠だったらいいなと思う。永遠のセフレ。でも、それは、永遠の恋人の下位互換でも何でもない。
隣で、楢原が麺を啜り出す。寒いからか、湯気が煙のように広がるのがはっきりと見える。
私は、じっと湯気を見つめていた。楢原の横顔を見つめていた。楢原は夜の歩道橋の上では眩しくなくて、それだけが救いだった。
「楢原。楢原の歯ブラシ、なんで捨てたか聞きたい?」
楢原がずず、と大胆に麺をすすって咀嚼した後、カップヌードルをまた柵の上に戻してこちらを見た。私は、まだどん兵衛の蓋をあけていない。伸びるよ、と楢原が言う。伸びた方が好きだから、と私は嘘を吐く。
「歯ブラシ、なんで捨てたと思う?」
「いや、分かるわけないって。なんで?」
「ムカついて」
「はは、どういうこと」
楢原は、本当に何も分かっていないという顔で笑う。
それからまたあっさりとカップヌードルに視線を戻そうとしたから、「楢原にムカついたからだよ」と完全に横顔になってしまう前に、私は言った。
私と楢原の下を大きなトラックが通り過ぎて行って、視界の端で車のライトが鋭く光るのをとらえる。
楢原は、私が歯ブラシを捨てた理由なんてさほど興味もないような表情で瞬きをして、「なるほどな」と0点の相槌を打った。
「楢原の歯ブラシでね、洗面所の掃除をして、そのままにしておくつもりだったけど、その歯ブラシで歯みがきした楢原とはもうキスしたくないなって思っちゃったから、捨てたんだよね」
「俺がさっき買ったのも、同じ目に合う可能性ある感じ?」
「ううん、もうない。一回、やってみたかっただけだから」
「俺の歯ブラシで掃除?」
「うん、そう」
「アホなの? 百も、結構変なことやってんじゃん」
私にはもう何も言い返す言葉がなかったから、楢原の意識はあっさりとカップヌードルに奪われてしまう。
掃除をして汚れた歯ブラシで歯をみがいた楢原とキスをして、盛大に吐くほうがよかったのかな、とある種のヒステリックをひっそりと起こしかけたけれど、平気なふりをするのは、私、本当に得意だから、楢原はもうこっちを見ていないのに、誰も私のことなんて見てないのに、何にも考えていないような顔をわざわざして、無駄に微笑んでみせた。
「ね、百ちゃん」
そんな私の気持ちの悪い頑張りも知らない楢原は、こちらを見ないまま、また口を開いた。私は楢原の横顔をじっと見つめたまま、うん? と首を傾げる。
「俺、時々だけど、百が何考えてるか、まじで分からないんだよな」
「……そんなもんじゃない? 何も考えてないし」
「ま、そうか。何も考えてなさそうではある」
「あはは、うん」
「でも、ほんとはそんなことないだろ、って、俺は言えちゃうんだけどな」
「ここにきて好感度あげておきたいの?」
「このひとだけは自分を分かってくれてるとか、人間、そういうの大好きだろ」
「種明かししてる時点で、私にそれする気ないじゃん」
「はは、ばれた。まあ、そうね。そういう騙してるだけのだるいことをしなくていいから、百、いいんだよな」
楢原は、私が何を考えているか分からないというけれど、それは、私が楢原の考えていることがほとんど分からないのとは全然違うと私は知っている。
分からない、に行き着くのに、私と楢原が同じ道を通ることはない。楢原の場合は、私のことを考えようとしていないからで、楢原が私を分からないのは、私のように相手のことを考え過ぎた結果では決してない。
どん兵衛の蓋をあけて、食べ始める。もう麺はけっこう伸びていて、でもどん兵衛のきつねのメインは、おあげみたいなところがあるから、楢原が隣にいるから、正直、何だってよかった。
食べ終わるまで、楢原はもう何も喋ろうとはしなかったから、私も黙っていた。
沈黙も苦ではなくて、そばにいるだけで幸せなのに、楢原は一秒だって私の恋人であったことはないし、これからだってない。
食べ終わった後のゴミは、楢原がコンビニでもらったレジ袋にまとめていれてくれた。一緒に買ってくれたチロルチョコをひとつ楢原にあげて、私も口直しにひとつ食べることにした。
口の中で溶かしながら、のぼってきた方とは反対の階段へ向かう。
楢原は、自分のやりたかったことができてうれしかったのか、歪に膨らんだゴミ袋を人差し指に引っかけて揺らしながら、私の少し前を歩いていた。
私は楢原の陽気な背中をじっと見つめながら、いつになったらやめられるんだろう、と考えた。
楢原のことを好きでいるのを。大好きでいるのを。好きな分だけ憎んでしまうのを。いつになったら、全部、くだらないことにできるんだろうと考えた。自分からは、絶対にやめられないと思った。やめられない。やめたくない。やめたい。やめたくない。楢原しか、選べないことだった。
「なんか、私、そろそろ彼氏ほしいかも」
歩道橋の階段を下り始めた楢原の背中に、呪いをかけるようにつぶやく。呪ったつもりなのに、臆病だから、今思いついただけの言葉を吐いたみたいな軽やかな声音になってしまう。
楢原は振り返らないまま、えー、と生温い声を返してきた。
「やめといたほうがいいって。面倒じゃん」
「楢原とは違うもん、遊びたいとかそこまでないし」
「百に彼氏できたら、百とできなくなるからやだ。そういうとこは、百ってちゃんとしてそうだし。まだやめて」
「あはは、まだって。楢原、私の他にもいっぱいいるでしょ」
「そんなにいないけど」
「……いることには、いるでしょ」
「そりゃ、百だけではないけど、まじであと三人くらいしかいないよ。そこはでもお互い様な気がするけど」
「そうだね」
でも、私は、楢原だけだよ。楢原が、セフレはどうかって提案をしてきた時から、ずっと、ずっと、楢原だけだったよ。たぶんこれからも、楢原だけなんだよ。
楢原は私のすぐ前にいて、何の警戒心も持ってない様子で階段を下りていく。指に引っかけたゴミ袋を、ご機嫌に揺らすのを止めないまま。
今、私が、楢原の背中を両手で勢いよく押して、突き落としたら、どうなるんだろう、と咄嗟に思う。
楢原は、大けがを負うのだろうか。歯ブラシを捨てた時は冗談で済んだけれど、さすがに階段から突き落とされたら楢原だってブチ切れるにきまってる。階段の途中で楢原を突き落とした体勢のままでいる私に向かって、楢原は、終わりの言葉をはっきりと告げてくれるのだろうか。剥き出しの嫌悪を、余裕のない楢原を、少しは私にくれるのだろうか。
でも、楢原には、大けがをしてほしくない。好きだから。ブチ切れてほしくない。好きだから。終わりの言葉よりも、剝き出しの嫌悪よりも、ほんの少しだけでもいいから特別な好意がほしい。好きだから。楢原、できるだけ、幸せでいて。好きだから。
楢原が好き。
階段を下り終えたところで、楢原の隣に並んで、歩道を歩く。しばらく行くと長い横断歩道があって、渡ろうとした瞬間に、タイミング悪く信号機の青色が点滅し始めた。
人通りも少ないし車も来ていなかったから赤に変わってものんびり歩けばいいかと私は考えていたけれど、楢原は違ったみたいで、急に私の手をすくってぎゅっと繋いだかと思ったら、こちらを見下ろして十代の少年のような顔で笑った。
「百、赤になるまでに渡りきるぞ」
そう言って、私の手を引いて、楢原が走り出す。
手を取られているから、私も楢原を追いかけるしかなくて、まったく予測できなかった楢原の行動にひどく戸惑いながらも、彼のすぐ後ろを走った。
夜の風が頬にあたって耳を撫でていく。
信号機の点滅、青、楢原の揺れる髪、青、汗ばんでない常時の楢原の手のぬくもり、青、足元で響く靴の音、青、青、赤。
外ではじめて楢原と手を繋いでいるとしっかり理解できた時には、もう手は離されていて、横断歩道は渡り切ったあとだった。
大学に入学してからは運動することがめっきりと減っていたからか長い横断歩道を走っただけで私は息切れしてしまって、はあはあと荒い呼吸を繰り返しながら、自分の手のひらを脇腹に押しつけて、まだそこに残る楢原の手の温度を、冷たいコートの温度で強引に上書きする。
ちょっとだけ、泣きたくなっていた。
「……もう夜なんだから、ゆっくり渡ればよかったじゃん」
「な、でも楽しかっただろ」
「全然」
「俺は、こういうの楽しいから」
楢原は、私に向き合って、息を少しだけ荒くさせながら、はは、と心底楽しそうに歯を見せて笑った。
もういっそ、死んじゃえ。
大好きな楢原の笑う顔を見た瞬間に、私の全部で、思ってしまう。
楢原、私の隣で。死んじゃえ。死んじゃえ。
死んじゃえ。
泣きたいのがちょっとだけではなくなって、だから、ちょっとだけ泣いてしまう。
でも、楢原は、気づかない。夜でよかったけれど、昼でもきっと気づかない。気づいてほしくて、気づいてほしくない。どちらの方が、より本当か、私にはもう決められない。でも、楢原は決めてくれない。
楢原が好き。
洗面所の掃除をした汚れた歯ブラシを楢原に使わせられない。
何の警戒もせず歩道橋の階段を下りる楢原を、突き落とせない。
自分の隣で死んじゃえと思える瞬間だってあるのに、ろくな復讐もできないままで、私は楢原を好きでいる。
「百、なんか変な顔してるけど、どうしたの」
「心臓、痛いから」
「はは、いきなり走ったから?」
「……うん」
「それは運動不足過ぎるだろ。おんぶ、してあげてもいいっすよ」
「いいって。……もう死んじゃいなよ」
「お前、それは言い過ぎ。傷つくわー。俺が、百におんぶしてもらおうかな」
「楢原、軽すぎて潰れるから嫌だ」
「はは、何それ。でも、百が潰れるのは絶対だめだな」
たぶん、これからもずっと。私、楢原だけを、好きでいる。



