高校二年生の夏、好きな男と一緒に、ひと気のない電車に乗って隣町にある海まで行った。
彼が持ってきた有線のイヤホンの、片方は彼の右耳、もう片方は私の左耳につないで、電車に揺られながら、彼のスマホから流れる彼の好きなバンドの曲をふたりで静かにずっと聞いていた。
電車の窓の向こうを流れていく景色は、どの瞬間も祝福と名づけたくなるようなものだった。トンネルの中の暗闇でさえ、彼が隣にいればそうだった。
彼とのはじめてのデートだったから、私は買ってから一度も着ていなかったとっておきの薄緑のワンピースを着て、うすくメイクもしていた。彼は、爽やかなポロシャツを着ていて、会ってすぐに、「俺、ださくない?」と不安そうな顔で私に聞いた。
可愛い、という言葉を待ちながら、私は首を横に振ったけれど、彼はほっとした顔をしただけで私の服を褒めてはくれなかった。だから、「私は、ださくない?」と、結局、自分から聞いてしまった。彼は「そういうのって俺が何か言ってもいいの? 言っていいなら、すごい好きな感じ、ではある」とぼそぼそと返事をしてくれた。
たぶん、私は、幸せだった。
高校二年に進級するタイミングで文理のクラス分けが行われて、文系特進のクラスで彼とは同じになった。それが彼との出会いだった。
たまたま隣の席だったから喋るようになって、親しくなって、席替えをして隣の席じゃなくなってから、もっと親しくなった。
ほんの少し努力をしないと喋れない距離感になったからこそ、自覚できて、膨張した恋心だった。
夜な夜なLINEでやり取りをするようになって、寝落ち通話をしたことだってある。授業中に、休み時間に、ひそかに視線を絡ませるだけの甘酸っぱい遊びを何度も楽しんだ。
「俺ら、付き合うのは、どうなんだろ。分かってるかもしれないけど、俺、円花のこと、好きっていうか」
中間考査で部活がなかった梅雨どき、薄暗い放課後の教室で、彼に下手くそな告白をされた。私は、「いいと思うよ。私も好き、だし。付き合う、べき」と、下手くそに頷いて、それで、私たちは付き合うことになった。
あとで考えてみれば、最初は、彼は彼女が欲しくて私は彼氏が欲しかった、それだけなのかもしれない。でも、その相手だったらあなたがいい、という面では一致していたから、恋の最低条件は十分に満たしていて、私たちは私たちがきちんと好きだった。
二人だけの電車内に、かったるそうな声のアナウンスが響いて、私たちは海の見える無人駅で電車からおりた。まわりには誰もいなかったから、私と彼はイヤホンを互いの片耳につないだまま、海までむかった。
浜辺におりてからようやく、私と彼はイヤホンを自分の耳から外した。
夏風をからだいっぱいに受けながら、波音の響くふかふかの砂浜をスニーカーで踏んで歩いた。彼は眩しそうに目を細めながら、水平線よりも遠くを眺めていた。彼が何を考えているのか、私は分からないまま、彼の横顔をじっと見つめていた。
ずっと一緒にいたいとか、今が一番楽しいなとか、どれくらいの熱量で私たちって好き合ってるんだろうとか、くだらないことばかり考えていた。
ワンピースは夏風で遊んで、膨らんだり萎んだりしていて、めくれているところを見てしまったら、彼はちょっと照れたりするのだろうかと馬鹿みたいな想像もした。
「気持ちー」
「ね」
「どうしよ。どんどん好きになってる」
「海?」
「なんで。違う、円花」
「急に?」
「言ったのはね、いきなり思ったわけじゃないよ」
「海来たから言いたくなったの?」
「……思ってた返事と違う」
「私もどんどん好きになってるけどさ、そんなの正解出すの難しいよ」
「じゃあ、言い直す。俺、円花のこと、どんどん好きになってる」
「……私も」
「はは、正解してくれて、ありがと」
「どういたしまして。でも、本当だからね」
「いや、いいよ。今のは完全に俺に言わされただけ」
「言いたいことを言わされただけ」
「じゃあ、ほんとか」
彼は、眩しそうな顔のまま、口を変な形にして笑った。
海の似合う人だなと思った。その時、私の好きなタイプは海が似合う人になった。
彼が好きだった。
綺麗な貝を探したり、堤防に座って話したり、海を背景に写真を撮ったり、数時間ほど彼と二人で海の時間を過ごした。
水面の光の粒も、空を飛び回るトンビも、彼の横顔もかけがえのないものだったけれど、私の中で、一番忘れられないことは、海から無人駅に戻る道すがらで彼とした約束だった。
遠回りをして駅に戻る途中で、彼は道端にぽつんと置かれた公衆電話を見つけた。
幼い頃は、街中でよく見かけた公衆電話だけど、高校に入ってから見かけることは少なくなっていた。彼も、同じようなことを感じていたみたいで、きちんと調査もしていないのに、公衆電話は近い未来で絶滅する、と二人で結論付けて、寂しくなり合った。
公衆電話がなくなっても不都合なんて何もないのに、二人だけのお揃いの気持ちがただ欲しくて、寂しがっただけだった。
「いいこと思いついたんだけど」
「何?」
「これから街とかで公衆電話見つけたら、見つけた方がそこで相手のスマホに電話かけることにしない?もちろん、出られない時は出られないけど。そういう、俺と円花だけの、誰も理解できない感じの約束? があったらいいじゃんって思うんだけど」
「……何それ」
「ごめん、ただの思い付きだから、全然、却下してくれてもいいやつね」
「絶対する。最高の約束すぎて、びっくりしちゃった」
「最高すぎ、の何それ、だった?」
「そうに決まってるじゃん。じゃあ、その約束、今からね。私が、かけてきていい?」
彼が嬉しそうに頷くから、私は走って公衆電話まで行って、彼のスマホに電話をかけた。
どんどん好きになってる。なってた。私のタイプは、海が似合って、誰も理解できない感じの二人だけの約束をしてくれる人になった。これからも彼を好きなままでいたいと思った。
十円分だけお互いを見合いながら電話で話した。
彼が好きだった。
それから、私と彼は高校生活を送る中で公衆電話を見つけるたびに、お互いに電話をかけた。彼への電話は繋がったり繋がらなかったりした。私も何度か出られない時があった。
彼は、俺の場合は違う、と言うかもしれないけれど、私の恋愛の核は、彼と海のそばでした公衆電話の約束だった。
高校三年生になってからも、しばらく電話のかけ合いは続いたけれど、夏に入る前に、彼からは電話が一切来なくなった。
私は、それでも、街で公衆電話を見つけるたびに何度も彼のスマホに電話をかけた。何度も、何度もかけた。だけど、彼は出なかった。
鈍くはないから、途中で嫌でも気づく。嫌われたんだろうなと思った。嫌になったんだろうなと分かった。飽きたとか、他に好きな人ができたとか、ひとの気持ちが変わるのは、生きていたら、仕方がないことだから。
でも、いつの間にか、私にとって、彼とした約束は恋の全てのようになってしまっていたから、公衆電話を見つけたら、どうしても、私は彼に電話をかけてしまった。
一年が経った。二年が経った。三年が、四年が、経った。
もう、私と彼は付き合っているとは呼べないんだろうな。別れたことになっているんだろうな。勝手に。でも、どっちが勝手だったんだろう。私の方が勝手だったのかな。でも、わざとじゃなかったんだよ。絶対に私が悪いわけではないはずだよ。ちがう?
そういうことをふらふらと考えてみたことも、彼を好きだったことも、少し忘れてしまうくらいの時間が過ぎた後も、私は公衆電話から彼のスマホに電話をかけることをやめられなかった。
海のそばが落ち着くから、私は一人になった後もよく海へ行った。晴れた日は、波の音を聞きながら、ぼんやりと海を眺めて、長い時間を過ごした。
どんどん思い出せないことが増えていって、本当はもう、彼の顔も鮮明には思い出せなくなっている。
遠距離って自分には向いてないんだな、しなくて正解だったなあって自嘲してから、そもそも私には彼氏もたぶんいないことになってるし、とさらに自嘲を重ねる。
私にはもう、約束しかないのだった。
日が暮れた後、知らない海辺の街をふらふらしていたら、ひっそりとした公園の隅に公衆電話の明かりを見つけて、寂しさに散り散りになりそうになりながら、気が付けば、そこに私は向かっていた。
彼のスマホの電話番号には、ルート2の一部が隠されていて、もう何度も数字を押したから、ボタンは自然に動いてしまうほどだった。どうせでないと分かっていながら、もう期待はしていないのに、いつものようにかけてしまう。
どうせ、でない。でないでいい。でないでほしい。でも私には、もうこの約束しかない。
コール音を聞きながら、繋がらないという結果を、私はいつも、ただ待っていた。
「はい、もしもし」
だけど、久しぶりに、本当に久しぶりに、コール音は途切れて、受話器の向こうから声がした。驚いて、私は声が出なかった。
「あの、どちら様ですか?」
彼の声ではない、ということは、分かった。どう聞いたってそれは可愛い女の人の声で、私は、どうしても声が出せなかった。
そのまま黙っていると、電話口から少し離れたところで、「ちょっと、勝手に出ないで」と男の慌てたような声が聞こえた。
それはまぎれもなく彼の声で、私は泣きそうになったけれど、涙はちっとも出なかった。
「もしもし」
彼の声が、こちらにまで届く。涙は出ないのに、懐かしくて、悲しくて、よかった、と思って、混沌とした感情に支配されてしまって、声はやっぱりでなくて、私は受話器をただぎゅっと握りしめていた。
「…………………まどか?」
気持ち悪くてごめん。怖いことしてごめん。ごめん。ごめん。本当に、ごめんなさい。本当はたくさん謝りたいことがあったのに、色々と忘れてしまっている。言いたいのに、言葉につまって、私は何も言えなかった。
そのうちに時間が来て、電話は切れてしまった。
だけど、私はそこから一歩も動けなくて、どうしてこんなことになったんだろう、と考えてみたけれどどうしても分からなくて、完全に日が暮れて闇に包まれた後、もう一度だけ、彼のスマホに電話をかけた。
でないでいい。でないでほしい。でも私には、もうこの約束しかない。
最近は、いつも同じことを思っている。そればっかりを思っていた。
今度の電話は、コール音が一回で途切れ、すぐに、「もしもし」と彼の声が飛んできた。それは声なのに、懐かしい匂いがして、海の匂いだと分かった。
「円花、だよな。………久しぶり。……本当に、久しぶり」
怖いことしてるって分かってる。怖がらせてるって、分かってる。でも、彼の声は優しくて、何かを諦めたあとにしか出せないような柔らかさで、それでいて、寂しそうに聞こえた。
でもその寂しさは、もう私がお揃いにできるようなものではなくて、私は、受話器を握る手にぎゅうっと力をいれた。
「ずっと、電話、とれなくてごめん」
いいよ。いいけど、寂しかった。でも、もう彼の顔を私はやっぱりはっきりとは思い出せない。
「でも、今日が相応しいタイミングなんだろうなって、思ったから。これで、円花じゃなかったら、ちょっとやだけどな」
受話器は壊れた翻訳機のように、彼の言葉たちを、満ち足りた寂しさ、に変換する。
円花だよ、と言う。ごめんね、何度も何度も電話かけて、と言う。でもでてくれて嬉しい、と言う。
彼は受話器の向こうで、はは、と掠れた声で笑った。笑ってほしいわけじゃなかったはずなのに、笑ってくれてよかったと思う。私に何度も電話をかけられたというのに、怖がっている感じはしなくて、本当によかった、と思う。
「夕方は、ごめん。一緒にいた人が、不審に思って、とってしまったらしくて。……ずっと、絶対に、俺はでないようにしてたんだけど。でも、そんなの、ずっとは、無理だよな。ごめん。……円花、聞こえてる? 俺ね、俺、……あのさ、一年くらい前に、ようやく好きな人、できた。恋愛的な意味で、ようやく。少し前に、付き合えることに、なったんだけど。同じ学部で研究室が一緒で、あ、俺、大学では臨床心理やってて、院試にもこの前合格したから、春から大学院なんだけど、って円花、分かるかなあ。円花に言うのも変だけど、悲嘆カウンセリングの研究、やってて、って本当に、円花に言うことじゃないかもしれないんだけど。……色々と、無神経だったら、ごめん。いや、謝るのも、変かもな」
謝られて、ようやく、彼の顔をほんの少しだけ思い出す。
眩しそうにする顔。泣いていた顔。恥ずかしそうに笑っていた顔、怒っていた顔、眠たそうな顔、ふざけた時にちょっと幼くなった顔、キスをしたあとの顔。
ほんの少しだけを、いっぱい、思い出す。
そうなんだ、と言う。本当に私に言うことじゃないよね好きな人とか他の人と付き合うことになったとか絶対に私に言うことじゃないよねでも元気そうで本当によかった本当によかったよ、と私は言う。
「円花。俺、乗り越えるんじゃなくて、重ねてくんだって、今は、思ってるの。そうやって、思えたんだよ。時間がかかったけど、俺はね、円花への気持ちをなくさないまま、別の大切な人に、恋することも、愛することも、できるんだって思う、から。浮気みたいになってんのかな、これ。でも、円花のこと、ほんとに、好きだったから。ずっと好きなままかは、あの時の俺は、分かんなかったけどさ、でも、好きだったのは、絶対に、本当なんだ」
少しだけを、いっぱい、いっぱい思い出して、でも、肝心なことは、何も思い出せなかった。
彼は、電話の向こうで、はは、とまた掠れた音で笑った。満ち足りた寂しさ、満ち足りた寂しさ、そういう風に私には届いて、私は、もう受話器も握れなくなった。
でも、良かった、とだけ思っていた。あなたが、生きていて、あたらしい恋をしていてよかった、と、自分でも不思議なのに、本当に思っていた。
「円花、俺のこと、呪ったりする?」
無神経なことを彼が聞いて、でも、それも満ち足りた寂しさとして私には届いた。無神経だなあと思いながら、呪わないよ、と言う。「呪わないでよ、円花に呪われたらやだよ」と、彼はまた無神経な言葉を重ねて、はは、と掠れた声で笑った。
呪えない。呪い方なんて、知らない。だって、私にはもう、この約束しかないのだ。本当に、それだけなのだ。
ごくん、と彼が唾をのみこむ音が、こちらに届く。
呪わないよ、ともう一度、言う。呪わない、呪わない、幸せになって、幸せになって、言うけど、伝わったどうかは分からなくて、本当に思っているはずなのに、本当のところ、思うということがどういうことなのかも、もう私は分かっていなかった。いきなり分からなくなってしまった。
「円花」
彼に呼ばれて、何、と言う。彼は、また、ごくん、と唾をのみこんで、はは、と困ったような音で笑った。
海の、海の匂いがした。
「円花が死んじゃってから、もう五年くらい経つんだよ。まだ、車に轢かれちゃったの、痛い? もう痛くなかったら、いいなって思ってる。本当に、それだけは、ずっと、俺、ずっと、ずっと思ってる。痛くありませんように、って思いながら、非通知から電話がかかってくるスマホの画面、俺、ずっと、見てた。俺が生み出した幻かもしれないんだけどさ、でも、もう痛くありませんように、ってそれだけは、本当にずっと思ってるんだよ」
満ち足りた寂しさは、少しだけ形を変えて、生温かい願い事のようなものになって私に届いた。
もう痛くないよ大丈夫だよ、と言う。
本当は、もう何も感じない。
だって、私にはもう、約束しかなくて、本当は、彼との思い出も、ほとんど思い出すことができない。彼のたくさんの顔も、ほんの少しだけしか、ほんの少しだけをいっぱいしかもう、思い出せない。
聞いた音楽があったことは微かに覚えていて、でもその音をもう忘れてしまった。彼が私にくれた言葉を忘れてしまった。
私は、私が、誰なのかも、本当はもう、あまり分からない。
「円花」
何、と言いたかった。私の声を聞いてほしかった。でも、彼には届いてないのだろうと、分かっていた。届かないほうがいいものなのだと、分かっていた。
分かっていても、約束がまだあるから、私は、私を、手放せないでいた。
「俺が約束、したからだよな」
はは、と彼はまた笑う。はは、と私は言う。はは。はは。公衆電話のボックスの向こうでは、夜よりも深い暗闇が広がっていて、こちらまで押し寄せようとしていた。でも、怖くはなかった。
「円花、もういいんだよ」
満ち足りた寂しさとは、祈り、彼の祈りなのだと、ようやく分かる。
「円花は、俺との約束、もう、守らなくていい。守らなくていいよ」
守らなくていいの、と私は言う。「守らなくていい」と、彼は言う。守らなくていいのかあ、と私は言う。「もう十分だよ」と、彼は言う。守る約束はもうないんだね、と私は言う。「守らなくていいから」と、彼は震える声で言う。
分かった、と言う。
「じゃあね、ばいばい」
彼の祈るような声が届く。その途端、電話はプツリと切れた。
いつの間にか私はまた受話器を握っていた。
暗闇はもうすぐそこまできていて、でも、やっぱり怖くなかった。むしろ、私を守ってくれるのはもう、この闇だけのような気がした。
受話器をゆっくりと戻すと、私は自分が何なのか本当にまったくわからなくなってしまって、そのまま公衆電話のボックスの外に出た。
身体なんて、もうなかった。とっくのとうになかったのだとその時になってようやく気付いた。
でも、軽かった。どんどん軽くなっていって、あ、結弦君だ、と彼の名前を思い出した時、暗闇はいっぺんに光って、そのまま私をのみこんだ。
じゃあね、ばいばい。
結弦君。
たぶん、私は、幸せだった。



