生活は、ドミノ倒しのようなものだ。
自分なりに、一つ一つをどれだけ大切にしていたとしても、何か一つ重要なものがだめになれば、必然であれ、偶然であれ、そのまわりのいくつかの物事は崩れてしまう。
◇
就活の時期になってすぐに就活悦に浸りはじめた彼氏に振られた。
「俺ってほんとに自分がないんだなってようやく気づけたんだよな。あとさ、俺と芹那って、高め合える関係とかではなかったじゃん。この先、一緒にいてもお互い幸せのままいられんのかな、微妙かもなって思っちゃったのね、俺は。……いったん、ひとりになりたいんだよ。芹那のことは好きだけど、こんな俺じゃだめだから。まじで、ごめん」
自己分析を始めたら、自分に何もないことに気づいてしまったらしい。距離を置くのじゃだめなの、と聞いたら、それじゃ意味ないから、としんみりとした顔して首を横に振った。
冷めたなら、冷めたって言え。就活始めたら私にかまうのがだるくなったとか、好きじゃなくなったとか、はっきり自分が傷つけたと思える方法を選ぶことから逃げるなよ。そう思いながらも、こいつ、本当にしょうもないなという気持ちの方が大きかったから、渋らずに別れを受け入れた。
一生モノの恋とかそういうものではなかった。ひとりじゃ寂しくて、一緒にいたかっただけだったのかもしれない。だけど、就活に自分から洗脳されにいったしょぼい彼氏でも、自分の生活においては大きな存在だったから落ち込みはした。
彼氏と別れた二日後に、一限の講義に寝坊して、それで欠席カウントがたまってしまったから、落単が決まった。気持ちを無理に切り替えようとして、部屋の大掃除に踏み切ったら、ベッドと壁の隙間に、彼氏が好きだったサッカークラブ、アーセナルFCのユニフォームが埃塗れで見つかって、いつかの夜中に、それをわざわざ着た彼氏と一緒にプレミアリーグを見た時の幸せな記憶がよみがえってしまって、ちょっと病んだ。
それから一週間が経って、洗濯機が急に動かなくなってしまった。コンセントを抜いてみたり、叩いてみたりしても、何の反応も見せない死んだ洗濯機に、溜息を吐きながら中にたまった洗濯物を取り出した。
一番近くにあるコインランドリーは、あり得ないほど高額だったから、コインランドリーでぼったくるとかあるんだ、はやく潰れろよ、と不快な気持ちにたっぷりとなり、マンションから少しだけ離れたところにある、ガソリンスタンドとセットになっているコインランドリーまで行くことにした。
洗濯かごを抱えて歩くのがちょっと恥ずかしかったから、選んだのは、ひと気の少ない深夜帯。二十四時間営業のセルフ給油スタイルのガソリンスタンドの後ろで、コインランドリーの眩い光は夜の中で少し浮いていて、異世界と交差する場所のように感じた。
時間も時間だしさすがに誰もいないと思ったけれど、中には、男が一人いて、パイプ椅子に座って、窮屈そうに足を組みながら壁によりかかってスマホをいじっていた。
年齢は、ぱっと見では自分と同じくらいで、二十代前半だろうなと思った。ゆるっとした服にスポーツブランドの高そうなスニーカーをはいていて、ストリート系のファッションに興味があるんだなと分かる感じの着こなしだった。
一度目が合ったけれど逸らされて、男の視線はまたすぐにスマホに戻った。
正直に言って、かなり好みの顔をしていたけれど、愛想もよくなかったし、色んなことに冷めているタイプの男のような気がした。
一番、安いスモールサイズの洗濯乾燥機にかごの中身を突っ込む。そこまではよかった。だけど、そのあとすぐに問題にぶち当たる。
機械についているお金の投入口に何度お金を投入しても、お金が返ってきてしまうのだ。
なるほど、これが生活を台無しにする、倒れたドミノの記念すべき五つ目。
皮肉めいたことを思いながら、何度も懲りずにお金を投入して返されてまた投入してを繰り返していたら、「金いれるとこ、そこじゃないっすよ」と稼働しているいくつかの乾燥機の音にまぎれて、低い声が届いた。
ふり返ると、ずっとスマホを触っていた男が、さっきよりもわずかに親しみやすくなった顔で、こちらを見ていた。
あ、そういえば、私、メイクしてない。しかも、部屋着だ。変なタイミングで、自分の状態に恥ずかしくなっていたら、男は、パイプ椅子から腰をあげて、私の方までやって来た。
「個別のとこ機能してないっぽいです。清算は自販機の隣にある機械でやる感じらしいんで」
「なる、ほど。すみません、コインランドリーあんまり使ったことなくて」
「ずっと、金入れてたっすよね。まあ、最初は、俺もそこにいれましたけど」
「ほんと助かりました。なんで? ってちょっと焦ってました」
「ね。でも、何回チャレンジすんだろ、とは思っちゃったすね」
私の近くに立った男は、予想していたよりも背が高くて、予想していたよりも冷めてる感じではなかった。コインランドリーとは別の、甘い香りもして、ますます、ノーメイクに部屋着という自分の戦闘力の低さを恥じてしまう。
お礼を言って、自販機の隣の機械を操作してお金をいれると、洗濯乾燥機はようやく動き出した。男の方を見ると、もう目は合わなくて、彼の視線はまたスマホに戻っていた。
何事もなかったかのように。何事もなかったのだけど。でも、ちょっとつまらないなと思った。彼氏と別れたばっかりで、ひとりであることが自分の中で浮き彫りになっていた分、さみしさを感じやすい状態だったというのもある。
洗濯乾燥機がまわる音を聞いていたら、退屈感と寂寥感がどんどん膨らんでいって、半ば衝動的に、自販機で温かいココアを二つ買ってしまった。
「よかったら、飲みませんか。教えてくれたお礼っていうか」
パイプ椅子に座って壁によりかかる男の前に立ち、買ったココアのうちの一缶を差し出すと、男は私を見上げてちょっと驚いた顔をみせた。
「そんなんいいっすよ、まじで」
「甘いの、苦手ですか?」
「や、別に。……あー、まあ、じゃあ、もらいます。ありがとうございます」
引かれたのかもしれない。でも、失恋、落単、死んだ家電、そういったものに比べたら、初対面の人間に引かれるのなんてなんてことはなかった。とはいえ、これ以上は、話しかけないほうがいいなとも思った。話せるかもと期待はしてしまっていたわけだけど、好みの顔が不自然に歪むのなんて、わざわざこんなところでみなくていい。
ココアを受け取ってくれた男からはすぐにはなれて、自分の洗濯物がぐるんぐるんとまわっている洗濯乾燥機の近くのパイプ椅子に座る。
缶に口をつけて甘ったるいココアをすすりながら、コインランドリーの窓の向こうの夜を眺めていたら、彼氏と別れてから自分の身に起きたことをまたご丁寧に頭の中で並べてしまって胃が痛んだ。
つまらない自傷は数少ない特技のひとつ。人生は山あり谷ありとかいうけれど、山を滑り落ちるのなんて一瞬のくせに、谷をはいあがるのには結構な時間が必要なのっておかしい。
というか、何よりも、コインランドリー。
洗濯だけじゃなくて乾燥までしてくれることを考えると、ここに来るのは一週間に二度ほどで済みそうだけど、それでも週に二千円以上はかかってしまう。思わぬ出費だ。
アーセナルFCのユニフォーム、だけじゃなくて、彼氏、いや、元カレが私の部屋においていった私物全部、メルカリで売ろうかな。でも、安物ばっかりだし、そこまで稼ぐことはできなさそう、あいつまじで使えないな。洗濯機なんてそんな簡単に買えるものじゃない。
コインランドリーにいるからか、いつもにまして、頭の中がぐるぐるとまわって、散らかってくる。
あーあーあーあー。うんざりしながら溜息を吐いていたら、「社会人っすか」と、不意に男の声が飛んできた。
彼は、足を組んだままこちらを見ていて、私が首を傾げたら、ココアの缶をかたむけて、こくんと飲んだ。まさか話しかけられるとは思わなかったから、少し遅れて驚いてしまう。だけど、さっきの私に引いてるわけではなかったんだと分かったから、それはよかった。
「大学生です」
「あ、そーなんだ。一緒っすね、俺も学生です。ここ来るってことは、この近くの大学っすか。G大とか?」
「いや、その隣の私立です。……G大?」
「俺は、そうっすね。G大の理学部の三年です」
「頭いいんですね。私も三年です、人文で心理やってます」
「推薦だけど。そっちは、人文に心理あるんだ、意外です。二十一の年?」
「そうです、まだ誕生日来てないけど」
「あ、でも、じゃあ、俺と同い年っすね。タメでもいいっすか?」
「全然。大丈夫です。だい、じょうぶ」
「なんか大人っぽい顔してるから、ふつうに年上だろうなって思った」
「……メイクしてなくて、恥ずかしいけど」
「あ、そうなんだ。わかんなかった。まあ、当たり前か。化粧してる顔、知らないしな」
はは、と。気さくに笑う声はハスキーで、笑った顔はさらにタイプだった。
清算方法を教えてくれた時点で、コインランドリーに入ったばかりの時からは印象が変わっていたけれど、そこからもまた少し変わる。だけど、明るい人ではないだろうなとは、言葉を少し重ねて笑顔を見た上でも感じた。
声にあまり抑揚がなくて、基本的にテンションがそこまで高くないというか、感情の起伏がそこまで表に出ないようなタイプの男。元カレよりも、やっぱり好みだ。
だけど、この人と恋愛をしてみたいなんて、そういうことをすぐにはっきりと思えるわけもなく、失恋から始まった退屈と寂しさを少しでも紛らわせられたらいいな、程度の気持ちで会話を続ける。
途中で、男が立ちあがって私のところまで来たので、そこからは近い距離で、お互いパイプ椅子に座りながら向かい合って喋ることになった。
「よく来るの?」
「けっこう来てるかもな。俺は乾燥だけだけど。何もなくても来るときあるし」
「何もなくてもってそんなことある?」
「なんか、ここ落ち着くんだよな。住んでるとこ近いし。洗濯乾燥機の音聞きながら、ぼーっとするのが好き、みたいな」
「えー、なるほど?」
「分かる?」
「いや、ごめん、わかんないけど。でも、そういうのいいなとは思う」
「そっちは?」
「私は、洗濯機いきなり壊れちゃって」
「あーなるほどな」
「何か、最近立て続けにやなこと起きてて、とどめ刺された感じ」
「まじか。まあ、やなことって、だいたいいつもあるよな。俺も、最近、バイト先いっこ潰れたし」
「え、それ実際に聞いたのはじめてかも。私は、最近、彼氏と別れた」
「どれくらい最近?」
「数日前?」
「かなり最近じゃん。それはまじでお疲れさまっすね」
ローテンションで返ってくる言葉もゆるっとした相槌も心地よくて、話が弾み過ぎないからこそ楽しかった。
会話って盛り上がったら盛り上がっただけ、いいっていうわけではない。少なくとも私はそうで、そういう人はたぶんこの世に一定数いて、彼もそういうタイプかも、となんとなく思った。
先に、終了の音を立てたのは私の洗濯乾燥機ではなく男の方の乾燥機だった。男は、立ち上がって乾燥機から乾いた洗濯物を取り出すと、それをリュックにつめて、また私の方に戻ってきた。
「じゃ、また。ココア、ありがとーございました」
「毎日のようにいるの?」
「さすがに、そこまではいないけど。まあまあいるな」
「いつもこの時間帯くらい?」
「あー、まあ、そうね」
「分かった」
「分かったって、何。まあ、いいけど、おやすみ」
「あ、うん、おやすみなさい。またね」
ん、じゃーね。と、男は最初に見た時と同じような仏頂面で頷いて、すぐにコインランドリーから出て行った。
ひとりになってようやく、初対面の相手とおやすみを言い合うことなんてあるんだ、とそわそわしてしまう。日常と非日常の境目にいるような気分だった。でも、ありがたいことに、いつの間にか、不幸の連鎖の憂鬱はほんの少しだけ薄まってくれている。
もうすっかりと温くなったココアを飲み干して、窓の外に目を向ける。男の姿はもう闇に消えて見えなくて、そこには静かな夜だけが広がっていた。
◇
「就活ってはじめてる?」
「俺は、院進するつもりだからやってないな。はじめてんの?」
「いや、全然。私も、院進するか、いったん留学しようか迷ってる」
「いったん留学って。金持ちか」
「言うだけただじゃん。まあ、現実的には、そろそろ就活しなきゃなんだけど、自分がやりたい研究がね、4年では絶対満足できないだろうし、院行こうかなーって気持ちはほんと。院行くにしろ、お金かかるけどね」
「いったん留学っていうただの海外旅行よりは、有意義な使い方じゃね、知らんけど」
「何か留学に恨みでもあるの?」
「世の中のだいたいのことを楽しく恨むのが趣味」
「悪趣味。まあでもさ、そこらへんは何でもいいんだけどね、元カレは就活し始めて、意識高い系みたいな感じになってたから、そういうのにはなりたくないっていうのはあるかなー。高め合える関係じゃないから別れようとかいって、振られたし」
「前から個人的に気になってんだけど、意識高い系と意識高いの違いって何なんだろうな。系に揶揄のニュアンスあるのが謎すぎる」
「それはたしかに」
「意識に高い低いとかないし。あと、恋愛に高め合いとか別にいらなくね、とは思うな。部活じゃねーんだし」
「まじでそうなんだよね、いたいから一緒にいるでいいじゃん」
「な」
「……ちょっと恥ずかしいこと言っちゃったかも」
「思った。でも、ほんとそーね。俺も、いたいから一緒にいるでいいじゃん、系かも」
「うわ、系って言った。揶揄?」
「はは、ちゃんとひろってくれた」
元カレの私物をメルカリで売ったら、今のところ合計七千円くらいの儲けがあった。思いの外、売れたのでよかったけれど、アーセナルFCのユニフォームはなかなか売れず、私にも、元カレは関係なく、アーセナルFCとの思い出が多少はあったことが心に引っかかって、結局、出品を取り下げた。
プレミアリーグにハマったのは元カレの影響で、元カレが好きなサッカークラブだったから、アーセナルFCを知った。でも、元カレと別れた後だって、まだプレミアリーグを視聴できるサブスクへの課金を続けようとしている身としては、アーセナルFCのユニフォームはやっぱり売れない。
「芹那の部屋に、○○忘れていってないかな?」系の元カレからの連絡は全て無視をするにとどめていたけれど、時間が経てば経つほどに、私を振ったときの元カレの言葉に対する憤りが募っていくので、精神衛生上の問題で仕方なく、元カレの全てのSNSのアカウントをブロックした。もう、彼の連絡が私に届くことは未来永劫ない。
一週間に二度ほど。メルカリでもうけたお金をコインランドリーの洗濯乾燥代にかえて得る、衣服の清潔、それからコインランドリーでの男との二人の時間。
男には一度目ですっぴんパジャマを見られたわけだけど、その後はきちんとメイクをして、外に出ても大丈夫な恰好でコインランドリーに足を運んだ。
男は、最初に会った時に言っていたように、自分の洗濯物がなくても、時々コインランドリーにやって来た。
いつも同じ系統のストリート系のファッションばかりで、スニーカーも服に合わせて変えているようだった。別にひけらかすような着こなしではなくて、派手でもない。自分の好きな恰好をひとりで楽しんでしている感じの、鼻につかないタイプのお洒落な男。
暗めの色の短髪も男には似合っていて、ピアスをつけることを知ったのは、会って三度目の時だった。
「サークルとか、何か入ってる?」
「バスケ? あと大学のかわいーこ紹介するガールズメモリー?の運営も手伝ってたけど、しょうもなさすぎて三年にあがるタイミングでそっちはやめちゃった」
「それうちの大学とかと合同でやってるやつだろ。インスタで見たことある」
「かわいーこいっぱいいたでしょ」
「まあ、そーね。ゼミ一緒の子も一回のったしな。まあ、しょうもないっていうのは分かる」
「そっちは?」
「俺、フットサル。あとは、バイトばっかだな」
「何のバイト?」
「家庭教師とキモい時間にしまる居酒屋と、あとは単発とか」
「キモい時間にしまる居酒屋って何?」
「七時とかにしまんの。居酒屋なのに。午後三時から午後七時まで営業って、何だそれって思いながら一年の時から働いてる」
「お客さん来るの、それ」
「まあまあ?」
「ていうか、フットサルってことはサッカー好きなんだね」
「小学生の時からずっとやってたから」
「プレミアリーグみる?」
「海外サッカーはあんまり、時々、ブンデスリーガみるくらいだな。J1ばっか見てる」
「ふーん、そっちか。私と元カレはアーセナルFCが好きだった」
「アーセナル強いな。俺は、名古屋グランパス」
「ここ本拠地じゃん」
「だから大学ここにしたまである」
「ほんとに?」
「さすがに嘘」
ココア、ココア、ペプシコーラ、カフェオレ、ココア、ミルクセーキ。コインランドリーの中にある自販機で二人分の缶の飲物を買い合って、言葉を重ねれば重ねるほどに、男とのふたりだけの時間は心地よさを増していった。
それと反比例して、元カレの影はすごい速さで薄まっていって、自分の部屋から、アーセナルFCのユニフォームをのぞいて元カノの私物は全て消えた。それがコインランドリーに通い始めて一か月後くらいのことだ。
そろそろ洗濯機を買わないともったいないって分かっていながらも、なかなか踏み切ることができなくて、でも煮え切らないのはそれだけではなくて、男とパイプ椅子に座って缶片手に喋るだけの間柄に、私はひそかにもどかしさを感じるようになっていた。
「今度、お酒持ってくるから、ここで一緒に飲まない?」
ある夜、思い切って吹っ掛けてみたら、男はちょっとびっくりしたような顔をして、私を見た。
その日は、私が買ったココアを二人で飲んでいて、お互いに好きな芸人のラジオや最近大学近くの駅に落ちてる陰謀論が書かれた紙の話をしていた。
趣味が合うとか、話が合うとか、別にそういった一致は私にとっては大したことじゃなかった。話してるときの温度感がしっくりくる、そこが、彼の一番の魅力だと思っていた。
恋愛をしたいわけじゃなかったはずだけど、失恋の憂鬱が薄まった今となっては、してもいいなと思っていて、してもいいな、と、したい、には、あまり違いがなかった。
男は、ココアの缶に口をつけて時間をかけて飲んだ後、何か真意を探るような目でじーっと私を見て、おもむろに口を開いた。
「ここで、酒はなんか違うんじゃね」
「……そうかな」
「アルコールとか、この場にはいれたくないっていうか」
「こだわり?」
「ん、そーね、キモいこだわり」
拒否の言葉を口にしているくせに、男はパイプ椅子を私の方に近づけてきて、かなり至近距離で私を見下ろした。近づきすぎると、座高の違いが明確になる。
お酒より、この距離感のほうが違うんじゃないの、と思いながら、私もじーっと見つめ返す。
「まだ、元カレと別れたばっかではあるよな」
「もう、違うんじゃない?」
「未練あんの?」
「ないかな。私物、メルカリで売ったくらいだし」
「メルカリってそういう使いかたあるの知らなかったわ」
「というか、ずっと聞けてなかったけど、彼女いたりする?」
「去年の冬に別れてからできてないっすね、ほんと今更じゃね」
「興味はあったけどね。というか、お互いに、名前も知らないっていう」
「そーね」
試している。試されている。どちらも、たぶん、違うことを、互いに。至近距離で視線を絡めて試し合えば、かなりの可能性で熱が生まれる。生まれていた。コインランドリーには不似合いの熱。でも、生まれてくれて、よかったと、私は全身で思っていた。
ギ、と男のパイプ椅子が音を立てた。試す延長で、目を閉じてみる。そうしたら、また、ギ、と音を立てて、唇にかさついたものが一瞬だけ触れた。それはすぐに離れていって、また、パイプ椅子が音を立てる。
勝ったような気分になりながら、目を開けると、至近距離で私を見下ろしていた男もまた、勝ったみたいな顔をしていて、ちょっと可愛かった。
「たまってる?」
品のないことをわざと聞く。男は、首を横に振って、とん、とスニーカーのつま先を私の靴にあててきた。
「吸い込まれたわ。そっちが悪いんじゃね」
「何それ」
「目閉じないだろ、ふつう」
「普通じゃないのかも」
「元カレの私物、メルカリで売るしな」
「今、元カレはいいじゃん」
「結構、慣れてる?」
「コインランドリーで出会うことに?」
「いや、誘うの」
「そんなことない、はじめて」
「それはそれで嘘くさくね。まあ、いいんだけど」
私がいつも使っているスモールサイズの洗濯乾燥機が視界のはじっこにある。洗濯と乾燥は、私と男が試し合う前にすでに終わっていた。今日の男は、手ぶらだったから、私と男にはもう待ち時間は存在していなかった。
とん、と靴のつま先をあて返してやりたかった。だけど、かなり高いスニーカーだったらと思うと怯んでしまって、スニーカーではなく男が座るパイプ椅子のあしをを弱く蹴った。
おれんち近いけど、と男が呟くように言う。私のマンションも近いよ、と、呟くように返す。ココアじゃなくて酒飲む?と、男が首を傾げる。どっちの部屋?と、私も首を傾げ返す。
知らないひとの洗濯物だけが、乾燥機の中でまわっていて、ぐるんぐるんと小さな台風のような音を立てている。その傍らで、熱、熱、熱。熱が、生まれている。
「今日は、そっちが決めて」
「じゃあ、君の部屋で」
「君ってなに」
「名前、知らないんだもん」
「山岸」
「名字じゃん。それでいうと、私は野村」
「野村顔と言われれば、分かる気もする」
「なにそれ。下の名前も教えてよ」
「ここ出たらな。そっちも教えて、あとで」
そう言って、男は立ち上がって、私に洗濯かごを渡してきた。
飲み干したココアの缶を捨てて、洗濯乾燥機からほかほかの洗濯物を取り出してかごにつっこんでいく。その間にちらりと男に視線を向けると、目が合って、どしたの、と抑揚のない声で聞かれたから、あわてて首を横に振った。
スマホを見ていると思ったのに、こちらを見ていたことがうれしかった、なんて、初恋と同じ温度の本音は今、私にも男にも絶対に要らないものだった。
二人ではじめてコインランドリーの外へと出る。
男は、私が抱えていた洗濯かごを、さらっと奪って持ってくれて、それは私に逃げられないようにするための行為だと、私が思えてしまうようなものではなく、そういう必死さが男になくてよかったな、と私はおかしな部分で安堵する。
この一か月と少しのあいだ、見送ったり見送られたりした窓の向こう、夜の穏やかな風景のひとつに自分と男が同時になるだなんて、はじめてコインランドリーに訪れた時は思いもしなかったけれど。
自分的には、しっくりきているし、何よりも今、私と男だけが共有している熱が確かにあった。きっと、浅はかで安っぽくて、この世界を探せばどこにだってあるようなしょうもない熱。でも、熱は熱だった。
「律」
「うん?」
「名前」
「ほんとに教えてくれた」
「野村さんは」
「野村さんは、芹那」
「ふーん、芹那チャンね」
「何か不満?」
「いや、他人の名前に不満とかないけど」
自分のマンションがある方とは別の方角に男が進むから、私は大人しくついていく。
このあと、酒を飲んだとしても、飲まなかったとしても。セックスするのかな、とぼんやり思う。たぶんすることになるのだろう。むしろ、しなかったら意味わからなくてやだな、とすら思っている。
運命なんて、全部こじつけだけど、こじつける運命なら少しはあるんじゃないの、と、ふと運命のことを男の隣で考える。アーセナルFCを好きになった運命、元カレと別れた運命、洗濯機が壊れた運命、コインランドリーで男と出会って、恋愛になるかセフレで終わるかワンナイトか一か八かの運命。それでも、とにかく、私の生活は続いていくという運命。
「運命って感じあるね」
夜道の暗さを解消させるようなしょうもない冗談を言ったら、「さすがに重いな」と、真に受け取ったのか何なのか、男からはあんまり望んでいなかった言葉が返ってきて、「さすがにね」とすぐに笑って返した。
男の返事にちょっと不快になりながらも、まだ熱はたっぷりと自分の中にあって、すぐに、それはそうだよな、と思い直す。だって、コインランドリーで喋っていただけの、所詮それだけの、知らない相手なのだから。不快になるだけ無駄だ。その相手の住む場所に、今からいこうとしているのも変だけど、つまらないよりは、さみしいよりは、はるかにいい。
「まあ、でも、マチアプよりは運命?」
男は重いと言ってのけたくせに、運命についての会話を続けるらしく、私の洗濯かごを抱えながら、私を見下ろしてちょっと笑った。
私の発言に引いたわけではなさそうだった。重いな、という台詞は冗談を返しただけだったのかもしれない。本当にこの男のことを私は知らないんだなと思いながら、「確かに」とまた笑い返す。
「アプリ、やったことある?」
「ティンダーなら」
「たまってるんじゃん、やっぱり」
「大学はいりたての時な。すぐ消したけど。そっちはあんの?」
「ない。出会いとか別に部屋から出ればあるし、彼氏いたし」
「今、俺とこうなってるの考えると説得力あるっすね」
「がつがつしているように思った?」
「別に。コインランドリーで出会うとかは、特別だし」
「けっこう、ロマンチストな感じ?」
「どうだろ、自分じゃ分かんねーな。でも、マチアプより運命かもなとは思ったけど」
「私は、ロマンチックだから、星空にあなたを抱きしめていたいとか思うこともあるよ」
「ブルーハーツじゃん。しぶ。俺、ひろえなかったらどうしてたの、それ」
「ひろってくれたから問題ない。ブルーハーツは知っててほしいし」
「そーね。まあ、マチアプよりは運命で、マンションの部屋が隣同士よりは運命じゃない感じじゃね」
「そんな感じあるね」
男が、二階建てのマンションの前で一度足を止めて、私の意思を確かめるような目で見下ろしてくる。ちょっと誠実で、ちょっと可愛い感じの表情をしていた。それは私にとっては良いギャップだった。
恋愛で終わってもセフレで終わってもいいけど、ワンナイトは嫌かもな、と思いながら、「ここなんだ、どんな部屋か楽しみ」と笑って、先に歩き出す。
どこまでいっても、生活は、ドミノ倒しである。
でも、今のところ、洗濯機が壊れたところで、日々の崩壊はいったんストップしている。
男は、すぐに私に追いついて、「ふつうの男の部屋だと思うけど」と熱をはらんだ声で言う。
今から、またひとつ、物事は倒れるのだろうか。コインランドリーで出会っただけの男の部屋で、セックスをして、そのあとは? 立て直すことができる? もう私は自分の生活をすでに立て直しきっている? 自分のことだからこそよく分からない。でも。
「酒、もしかしたら部屋になかったかも」
「別になかったらなかったでいいよ。コインランドリーの外、一緒に出てみたかっただけみたいなところあるし」
「なんかいきなりずるいこと言うのな。まあ、俺も、それはそうだったけど」
「一緒じゃん」
「そーね」
でも。確かめる価値が、少しはあると思う。



