別にファミレスが嫌いなわけじゃなかった。
君は、あの子との記念日には絶対ファミレスなんて選ばなかったんだろうなって、そういう「差」をはっきりと思い知らされることが、嫌いなだけだった。
◇
君と付き合って三か月が経った。
半端な数字だけど記念日だった。私たち今日で付き合って三か月らしいよ、というメッセージは日付が変わった瞬間に送りたかったけど重い気がして、夜明けを迎えてからしか君に送れなかった。
らしいよ、という言葉で、私だって別に記念日なんてそこまで意識はしてないけど一応ねって感じを出すあたり、我ながら可愛げがない。
君からは数分後に既読がついたけれど、おめでとうの言葉付きの、ポメラニアンのLINEスタンプしか返ってこなかった。
二人のことなのに、まるで他人事みたいだな。いやに虚しくなりながら、すぐにトーク画面を閉じる。
私に可愛げがないのは、君が私に可愛げを求めてくれないからだし、どうせ私が伝えなかったら君は記念日に気づかないままだった。あの子の時は絶対そうじゃなかったくせに。
そういうの全部がどろどろとした憂鬱に結びつく。記念日にわざわざ憂鬱になりたくはないのに、君のせいで、君のことが好きなせいで、朝っぱらから、世界が終わるくらいに憂鬱です。
お互いに三限がある日は、二限終わりに文系の学部棟の真ん中にあるコンビニで待ち合わせて、全学棟のだれもいない講義室で一緒にお昼を過ごすことになっていた。
君は、つるんでいる友達と遅れてやってきて、「ごめん、ちょっとぐだぐだ喋ってた」とまったく悪いと思っていないような態度で私に謝った。
君の友達の、彼女変わったんだ、こいつ次はこういうタイプなんだって顔にはもう慣れて、そろそろ違和感もなくなる頃なんじゃないのと期待している。
「今日、千夏の分も一緒に買おうかな」
「どうしたの、急に」
「えー、めでたいから?」
祝うにしてはしょぼすぎるし、そんなことで私の機嫌をとれると思わないでほしい。そう思ったけれど、ありがとー、と流す。
コンビニで昼食を買って、空いている講義室を探す。歩くのが速い君を、私は早歩きで追いかける。追いかけて、追いかけて、あとどれだけ追いかけたら、君は私に追いかけなくても大丈夫だよって思わせてくれる?
「ねー、千夏さん」
「うん?」
「なんか、この三か月あっという間だったかも。相性いいよな、俺ら。俺は千夏と付き合うの、しっくりきてるし、そっちもそうでしょ」
「だね」
「千夏といても、全然疲れないからいい。摩耗しないからずっと続くかもなって、今の俺は思ってんのね」
「なんか他人事みたい。でも、疲れないならよかったじゃん?」
「うん。はは」
見つけた空き講義室の隅で、机を挟んで向かいあって座っている。君は、コンビニの菓子パンを頬張って、うすく笑う。とん、と机の下で靴の先を君の足にあてたら、「え、なんで」とちょっと困惑していた。
ずっと続いてほしい、でも少しくらいは疲れてほしい。私、なのに、変な困らせ方しかできない。あの子ならきっと可愛く拗ねることもできるのだろう。
「楽」
「ん?」
「今日の夜って、バイトないんだっけ」
「今日ないよ。どうする? 俺の部屋くる?」
「いや、一応ね、記念の日だし、なんかちょっと二人でお祝いとかどうかなって。さっきのコンビニの奢りがお祝いだったならごめんだけど」
「あー、それはさすがにないよ。でも、記念日に祝うって発想、よく考えたら意味不明じゃん? 言うて、まだ三ヶ月だし」
「そうかな。確かに。えー、でも、どうだろ、意味はあるんじゃない?」
君が、昔からそういう考えの人間だったのならいい。確かに、記念日のお祝いなんて意味不明。相手を選ばずに君がそうなら、それはもう本当にそれでいい。でも、違うって知っているから、あ、私との関係に君は手を抜いてるんだ、って感じてしまう。
君は、かつての私が、君と付き合ってたあの子のインスタグラムをはりつくように見ていたことを知らないから、あの子と自分のことは私にばれてないと思っている。
摩耗しない君のそばで、君が摩耗しないことに、私は摩耗する。
ちょっと微妙な態度をとってしまったからか、君は、んー、と逡巡してみせた後、あ、と何かひらめいたような顔をした。
「久しぶりに、俺、ファミレス行きたいかも。ファミレスでなんとなく祝う?」
あー。なるほど。ファミレス。
◇
ディズニーランドでお揃いの服を着て眩しそうに目を細めている君と可愛い笑顔を浮かべた癒し系の彼女のツーショット。彼女のストーリーにあげられていたハイブラの香水と写真の隅っこの「なんでもない日にサプライズうれしかったな~」の小さな文字。「三か月記念にくれました」の文字とセンスのいい花束の写真。ホテルの窓から見える綺麗な夜景とそれを眺めてたところを振り返り「うわ、撮られてた、盗撮するなよ」と嬉しそうに変顔をする君に「もー、やめてください。でも連れてきてくれてありがと。きれー」と彼女の可愛い笑い声が続く動画。「一年記念日に彼と小旅行、喧嘩もたくさんするけど、いつもこんな私を好きでいてくれる人」という言葉と大量のツーショットや旅の風景が音楽に合わせて切り替わる洒落た動画。
君がまだ前の彼女と付き合っていた時に、見たくないのに何度も見にいってしまっていた、彼女のインスタグラムのアカウント。
そこに写っていた君は発光しているみたいに幸せそうで、気持ちも言葉も物も経験も、お金がかかることからお金にかえられないものまで全て、彼女に惜しみなくあげていたことも、それくらい彼女のことが好きなことも、彼女の発信からは嫌になるくらいに伝わってきた。
まだすべてを鮮明に思い浮かべることができてしまうな。それくらい、私は懲りずに毎日毎日見にいっていた。
彼女のアカウントのストーリーのハイライトや投稿からすべての君が消えたのは、ちょうど三ヶ月半前だった。
その頃、朝起きて真っ先にすることが、彼女のインスタグラムのアカウントを捨て垢からこっそりのぞいて新しい君を探すことだったから、二人の間に何かあったんだろうなということはすぐに分かった。
もともと、私と君と彼女は、一回生の時の秋学期、一般教養科目で、受講者が十人にも満たない不人気の基礎セミナーをたまたまとっていたことで知り合えた仲だった。私は彼女とも面識がありセミナーの時期はよく喋っていたし、単位を取り終わるよりも先に、君と彼女が付き合ったことを、君と彼女の両方から報告されて知った。
単位を無事にとり終えると同時に彼女との縁は切れたけれど、君とは大学の食堂で偶然会ったら一緒に食事をするくらいの、他にかぶっていた教養科目の情報をLINEで交換するくらいの、全学棟で偶然会ったら数分立ち話するくらいの、友達のようなそうでもないような関係がずっと続いていた。私だけが、ずっと好きだった。
〈いきなり、ごめん。違ったら無視でいいけど、七音ちゃんと別れたの? 私も最近彼氏と別れたばっかりで、同じ感じだったら慰め合えるなと思って。そういえば、私たち、飲みに行ったことはなかったよね〉
彼女のインスタグラムから君が消えた日の夜、思い切って君に連絡した。送った後に、長文すぎたなと後悔した。しかも、彼氏なんて君を好きになってからは一度もできてないのに大胆な嘘までついてしまった。
それでも、送信取り消しボタンを押さなかったのは、友達のようなそうでもないような関係から、前進するにしても後退するにしても、このタイミングしかないって思ったからだった。
翌朝、君からは、〈別れたよ笑 倦怠期乗り越えられなかったの向こうが笑 飲みに行きたい笑〉と、もはや痛々しいくらいの「笑」が句点の代わりにつけられた返信が来た。
笑ってないくせに馬鹿じゃん。ずっと、君が彼女と別れることを望んでいたくせに、いざ本当にそうなんだって分かったら、君が世界でいちばん可哀想な男のように思えて、私まで悲しくなってしまった。
傷のなめ合いをする体で大学近くの大衆居酒屋で開催された二人だけの初めての飲み会は、大いに盛り上がった。
私の架空の元カレも大活躍で、君の失恋の傷口を、私は真剣な相槌と架空のエピソードで頑張ってちろちろと舐めた。君も、数々の裏切り行為をされて、しまいには避妊もせずにしたがることが増えたから苦渋の決断で元カレを振るにいたった私を、慰めてくれた。大好きだったのに、どうしても許しちゃいけないことってあるよね。もちろん、全部嘘だ。
レモンサワー、ハイボール、レモンサワー、ハイボール、白黒つけられないままにすごい速さで交互に飲み続ける君は、レモンサワーの三杯目、つまり合わせて五杯目で酔ってしまって、テーブルにだらしなく肘をついてゆっくりと瞬きを繰り返した。とろけそうな君の目に、私はコークハイをちびちびと飲みながら、ひそかに見惚れていた。
「好きだったんだけどね。けっこう、死ぬほど。いや死ぬほどは嘘だけど、かなり、好きだった」
君の呟きは、店内に流れていたあいみょんに揉まれてすぐに消えた。
「分かるよ。私も、好きだったから」
君のこと、きっかけは何か分からないけど、たぶん、彼女よりも先に、君が彼女を好きになるよりも先に、私は好きになっていた。
俺のは坂本龍一リスペクトだから他のやつらとは違いますねとか何とか言って、こだわりのテクノカットを貫いていたところ、寝坊した日は黒縁の眼鏡をかけてきてたけれどそれが笑えるほど似合っていなかったところ、スマホの待ち受け画面がシャムキャッツだったところ、そういう渋さや抜けてるところもとても好きだった。顔も声も背の高さも、変にすれてないけれど、変に真面目でもなさそうなところも好きだった。
「倦怠期っていっても、俺は別にそんなことないよ。あっちが先に冷めた感じで、わりと一か月くらい前から、あ、これはもうそろそろ終わるかもなってうすうす気づいてた」
「そんな感じなんだ。意外」
「俺、犬みたいだったかも。なんかね、でも、ずっと犬みたいにできたらよかったけどさ、俺だけ必死になるのも途中で疲れてきて、そしたら、もう私のことは前より好きじゃないんだとかね、あいつは、二人の関係が悪くなっていく責任は全部俺にあるような感じで言ってきて。俺とあいつ、全然違うことに耐えられなくなって、別々の部分を壊し合ってけど、でも、そしたらいつかは全部壊れるじゃん、当たり前に。まあ、もう別れたし、戻るとかもないし、前に進むしかないよなとは思う。思うっていうか、立ち止まってても意味ないから」
「前向きだー。見習いたいよ、ほんと。さすがサッカーやってるだけある」
「いや、関係ない関係ない。しかも、俺、サッカーは自分がやるんじゃなくて、見る側ね。でも、そうだな、次は追う恋愛より、追われる恋愛の方がいいのかも。幸せにしてやりたくて無理するんじゃなくて、オッケー、一緒に幸せになるかって落ち着いた感じの」
「分かる。幸せになり合いたいんだよね、結局は」
「結局はそう」
私が君を幸せにしたいし、君は私を幸せにしてほしいけど、そういうのはどう思うの。あいみょんは、サザンオールスターズに変わって、議事録に残したら、意味ないだろこの会話って嘲笑されてしまうような私と君の言葉の応酬はその後もしばらく続いた。
君は、酔いながらも泥酔にはいたらず、私は最後まで酔いきれないまま、店員さんが「お席の時間です」と言うので、きっちりと割り勘をして店の外へ出た。
外は暗くて星なんてひとつも出ていなくて、酔ってふにゃふにゃとしていた君をヘッドライトで半分だけ照らした軽自動車が、私たちの後ろをすーっと通り過ぎて行った。
じゃあ、と君から別れを切り出されるよりも先に、「まだ、帰りたくない夜だ、何かね」と私は思い切って言った。君は、「だったら、俺の部屋来る? 近いし。俺はどっちでもいいけど、もうちょっと傷のなめ合いするのもありか」と言って、うすく笑った。
自暴自棄になってるんだろうなってなんとなく気づいたけれど、私は酔っぱらったふりをしてわざと変な角度で頷いて「いく」と答えた。
君の部屋にはまだ彼女の私物が当たり前のようにたくさん残っていて、そのどれもに打ちのめされながら見渡していると、君は背後から私のお腹に手を回して、「もうなんでもいいから、はやく慰めあうのがいいんじゃね」と耳元で言った。そのままベッドまでいって、雑に抱きしめられた。
雑な抱擁から、雑なキス。ムードもへったくれもなく雑に始まるセックスは大体最後まで雑で、それでも君に触れてもらえて触れられるだけで、私は自分の熟した片想いを成就できた錯覚さえ起こせてしまった。
思ってたよりも君は果てるのが遅いって知ったこと、君の脇腹に見つけた小さなほくろ、細身のくせに筋肉はしっかりとついていて体毛の薄い身体、もうほとんど入ってなかったコンドームの箱にひそかに嫉妬したこと、終わった後に一緒にふざけてお風呂に入って、これこのままセフレのパターン?って冗談で聞いたら、どうだろでもまだ俺ね寂しいかも、って自暴自棄を続けたままの君が可愛く甘えてきたこと。誰の走馬灯にもならないような陳腐な夜だけど、私にとっては奇跡だった。
その後しばらく、ずるずるとセックスをするだけの関係が続いて、ある日酔った勢いで、「私、楽のこと好きなのかも。傷心だったからかもしれないけどね。いったん付き合うっていうのはどうなの」と思い切って聞いたら、君も酔っていたのか「いいよ。こういうはじまりも別に悪いわけではないもんな」と誰も責めていないのに誰かに言い訳するような感じで頷いた。
それで、君は私の彼氏になって、私は君の彼女になった。ずっと好きだったくせに、好きなのかもだなんて、嘘を吐いた私に、俺も好きだよ、と君は嘘を吐き返してはくれなかった。
それでも、付き合ってからの君は、優しくて、知らなかった顔をたくさん見せてくれるようになって、君の触れ方を教えてくれて、私は毎日どきどきしていたけれど、態度には出さないように必死になっていた。
もともと君は、根がわりと優しい人だ。でも私にくれる優しさは特別なものというよりは、誰にでも配れるようなそういう類の優しさばかりだった。私は、猫のふりをした犬なのに、猫としてしか接してくれないのが君だった。
セックスで求められるだけではこころまでは満たされない。本能じゃない部分で、寂しさを誤魔化すため以外の目的で、あの子の代わりじゃなくて、ただ私を、まっすぐ求めてほしい。そういうことを、ずっと思っていて、これからもたぶんずっと思い続けることになる気がしていた。
◇
「千夏? おーい、ちーなーつちゃん」
「あ、ごめん、めちゃくちゃぼーっとしてた」
「珍しいじゃん。で、どうする夜?」
付き合う前のこと、付き合ってすぐの頃のことを思い出していた。
君は、優しく笑って机に頬杖をつく。反対の手で私の髪を撫でて、リラックスした表情で小さな欠伸をする。
今の君は、私のことをまったくもって好きじゃない、というわけではないんだと思う。少しは私を好きになってくれていると思う。君の好意を私はたまにはきちんと受け取ることができる。
でも、物足りない。だって私は、何でもない日に好きな子に香水を贈る君も、喧嘩ばかりなのに彼女を愛してた君も、それよりも何よりも、一回生の秋学期、講義中に彼女を愛おしそうに眺めていた君の眼差しを知っている。だから、全然物足りない。
「……ぼーっとしたついでに思い出したけど、私、今日あれだった。バイトのシフト変わってあげたの忘れてた」
「あ、そうなんだ。その後、会うとかでも俺はいいけど」
「いや、今日はやめとく。よく考えたら、確かに記念日ってほんと大したことないもんね」
「それは、ほんとにそう。なんか、今更だけど、千夏って理解ある彼女の代表例みたいな感じあるよね」
「なにそれー、嬉しくないんですけど」
「はは。なんでよ」
嬉しいわけがないだろ、死ねよまじで、嘘、幸せに生きて、でも、もっと私に真剣になって。君の「ファミレス」の五文字でつくられた棘を心臓にもろに食らいながら、笑えているのだから我ながら感心する。
シフトをかわってあげただなんて嘘だけど、私はどうしても君と今日はファミレスに行きたくなかった。君は私の嘘を何一つ疑うことなく、また菓子パンを頬張った。
君が私を疑わないのは、私を信じてるからじゃなくて、私にそこまで興味がないからだって、多分、君自身も分かっていないけど、私には分かる。
雑にはじまったセックスが終わりまで雑なままであるように、セフレからゆるっと交際にいたった私と君がいつまで付き合い続けられるのか分からない。でも、今はまだ、破綻を明るみにだしたくはなくて、オッケー、一緒に幸せになるかって感じの恋愛を、私の方は偽装している。
君がそれに気づくのが先か、私が限界を迎えるのが先か、ぎりぎり後者な気もするけど、まだしばらくは耐えられる。
君が好きだけど、だから、同じように好きになってほしいだけ。あの子と同じようにじゃなくてもいい。むしろ、私にだけのものがいい。別の愛でいい。
それはそうなんだけど、「差」は、感じさせないでほしい。お願いだから、手を抜いてることも、私との恋愛を舐めてることも、もう少し、うまく隠して。それくらいしようと思えるくらいには、私に尽くして。私を、悲しくさせないで。
ディズニーランドに誘えなくても、誘ってくれなくても、何でもない日にサプライズしてくれなくても、花束をくれなくても、小旅行だなんて夢のまた夢でも、セックスが雑でも、私が君にとって、理解があるだけの都合のいい彼女でも、あの子を忘れて気を紛らわせるためのつなぎでも、私たちの関係を祝うのはLINEスタンプのポメラニアンだけでも。私は君が好きで、好きで、好きで。
「終わってるよね、ほんとは最初から」
「ん。何?」
「何でもないけど、理解ある彼女ではないからね、私」
「あー、……ちょっと怒った?」
「別に。でも、やっぱり言っちゃうとね、記念日は大切にしたい派です。あともっと楽に好きになってほしい派でもある。だるいこと言ってるかも」
「……ちゃんと、好きにはなってるよ。千夏には伝わってないのかもしれないけど」
そう言って、君は少し面倒くさそうに自分の鼻先をかいた。どうしたら、可愛い私のままで君と喧嘩できるようになるんだろうって、私は考えながら、「伝わってはいるから、ありがとうとは思う。楽と付き合えて、本当に幸せだし」と早速、理解ある彼女になってあげた。
その日の夜、君のマンションからは遠いところにあるファミレスに一人で行った。
どんな自分でいっても、いつも変わらず迎え入れてくれる、それがファミレス。だから、私、ファミレスのことは嫌じゃなくて、むしろ好き。頼んだハンバーグに添えられた野菜の盛り付けが雑でも、サラダのドレッシングのかけ方が下手くそでも、安くて美味しくて簡単に豪遊できるから好き。
デートでファミレスに連れて行かれたとか、ファミレスでプロポーズされて冷めたとか、世の中には私と似たような女の子たちの不満がたくさんあって、ファミレスを馬鹿にしてるだろお前らとか的外れの反論や、ファミレスに気軽にいけるくらいの気取らない関係の方が落ち着くって分かってからが恋なんていうまあまあ苛立つ反論もある。
でも、私は、別にファミレスが嫌いなわけじゃなかった。君は、あの子との記念日には絶対ファミレスなんて選ばなかったんだろうなって、そういう「差」をはっきりと思い知らされることが、嫌いなだけだった。
どの女の子にもきっちり割り勘をする男の割り勘は許せても、狙っている女の子には格好つけて奢るくせに他の子にはそうじゃないっていう不平等な男の割り勘は許せない。そういうのと同じように、あの子には格好つけたり背伸びをしたり、それこそ犬みたいになれたくせに、私とはそういうんじゃないからとか、疲れないのがいいとか、自分自身の好意の差を、耳障りのいい言葉で正当化しているところが、本当は本気で気に食わない。
割り勘も、ファミレスも、問題の本質はそのものにはなくて、結局、他の人にはしていたのに、自分に対しては、いいところをみせようとか、もっと好きになってもらおうとか、ダサくても間違っていても、何でも、そういう風に頑張って格好つけようとしてくれないところに悲しくなるし虚しくなるのだ。
「お待たせいたしました、トマトハンバーグのセットとミートドリアでございます。あとで、ほうれん草のソテーもお持ちいたしますね。ティラミスは食後の方がよろしいですか?」
「あ、はい、食後でお願いします」
「かしこまりました。では、また、そちらのベルでお呼びください。ごゆっくりどうぞ」
店員が去って、ミートドリアから先に食べ始める。
気分が晴れる兆しはなし。テーブルの上には、二人前ほどの料理が並べられていて、そのかたわらで私のスマホも光っている。ごめんやっぱり別れたい、君とのトーク画面のところには、送信できない、送信するつもりも一切ない、でも一パーセントほどは本心の、私の言葉が打ち込まれている。
君は、私がこんなに重い女だってことを知らない。
スプーンにすくったドリアをスプーンごと口に含んだまま、打った文字を消して、また新しく打ち直す。やっぱり今日バイト終わったら楽のところいっていい?、君はスマホを触っていたところだったのか、私が送ったメッセージには一瞬で既読がついて、オッケーって言葉付きのポメラニアンのスタンプがトーク画面に現れた。
あの子と君の付き合って三か月の記念日。あの子は君から花束をもらっていた。
私と君の付き合って三か月の記念日。私はひとりファミレスでドリアを咀嚼している。
不倫、の頭文字に半濁点をつけたら、とろっとしている甘い菓子になるのは、日本語のバグだと思う。
コンビニのスイーツコーナーでたった一つ売れ残っていた百二十円のプリンを眺めていたら、昼に澤木さんに見せられた写真が脳裏をよぎった。
◇
「今度、二歳になんの。息子。可愛いだろ」
取引先から会社に帰る車の中だった。
信号待ちをしている間に、助手席に座る私に向かって澤木さんは人好きのする顔で笑って、自分のスマホの画面を、これ、と見せてきた。
それは、私が澤木さんに「クリスマスはどうしますか」と言った直後のことだったので、私は面食らい、咄嗟には返事ができなかった。
写真には、こちらに向かって笑う小さな子どもがいて、澤木さんには全く似ていなかった。
信号は、赤から青に変わり、澤木さんが車を再び走らせた。
じっと澤木さんの横顔を見つめたまま、返す言葉を見つけられずにいるなかで、自分の心臓だけはばくばくとけたたましく鳴っていた。澤木さんの表情には、戸惑いも居たたまれなさも哀れみの色も見当たらなかった。
私がはじめに好きになった彼の控えめな鷲鼻も、”息子”と呼んだ子どもの写真を見せられる前と後では一寸たりとも違わず、澤木さんは澤木さんのままだった。
「まあ、だから、クリスマスは当たり前に無理だよ。ばれちゃうだろ」
ハンドルを握る彼の左手の薬指には指環がないし、澤木さんは私に結婚していると伝えたことはなかった。
でも、私は会社に入ったばかりの時に別の人から澤木さんが既婚者であることは聞いていたから知っていて、私の部屋に澤木さんが来てお風呂に入っているときに、テーブルに無防備に置いていったスマホの通知欄を盗み見るようになってからは、自分の中で、それは人から聞いた話ではなく確かな「事実」にもなっていた。
だけど、既婚者だと分かっていながら、そのことを一度も私は澤木さんの前で口にはせず、澤木さんの方は私に隠しているつもりなのだと思っていた。
それだから、私は澤木さんが、自分が既婚者だってことを一切知らないでこいつはおれと付き合っているつもりでいるんだな、と考えているんだとばかり。
私が、そのことに気づかないふりをしているからこそ成立しているひそやかな関係なのだとばかり。
「澤木さん、結婚、してたんですか」
会社の建物の裏の駐車場に澤木さんが車を停めて、全ての音が止んだ車内で、ようやく私はそう言うことができた。
でも、知っていたから、知っていたくせに知らないふりをしていたあさましい人間にすぎなかったから、驚いたような声音にはならなかった。
これじゃあ駆け出しの大根役者みたいだなと思いながら、澤木さんの方に顔を向けたら、澤木さんはシートベルトを外しながら、はは、とあきれたように笑った。
「今更? 野波、知ってたろ。知ってて、こういうことになってるって俺は思ってたけど」
「知りません、でした」
「ほんと?」
「………」
「まあね、そういうことにしたいなら、俺は、別にいいですよ。野波が、今、知ったってことだったら、一応謝らないとだね。本当に悪かった。結婚してるし、子どももいるよ。クリスマスどうするなんて、君、ありえないこというから、改めて俺の状況を分かってもらわないとって思ったけど。なんか、あれだね、別のところでも認識にずれがあったみたいだな」
澤木さんは煩わしそうに眉間に皺をよせて、背もたれによりかかった。
「お子さんがいたことは、本当に知りませんでした」
私が慎重に言い直すと、彼は「本当にって。まあ、どこからかが本当かどうかなんて、本当は、どうでもいいんだけどね」と答えて、疲労や憂鬱を私に分からせるためだとしか思えないような溜息を、長く吐いた。その音は耳に触れた瞬間に凍てつくような冷たいものに変わってしまって、耳の表面が痺れたように痛んだ。
新卒で入った会社をすぐに辞めてしまったあと転職活動をしばらく続けて、今の会社になんとか転職できた。
澤木さんは直属の上司で、彼の下について一年と少しが経ってから、私は澤木さんとそういう関係になった。
どちらからはじめたのか、決定的なはじまりがなくても、ゆるっとはじまってしまうものだってあるのだった。ただ、性的な触れ合いをはじまりにするのだったら澤木さんからだった。
それから、ずるずると半年ほど恋愛じみた関係が続いて、今、私は二十六、澤木さんは三十三だ。
彼は仕事のできる人だった。いつも落ち着いていて、威圧的でもなく、淡々と、つまらなさそうに自分の役割をただこなす人だった。
部下である私に必要以上の優しさをくれはしないけれど、これはこれでとても美しい働き方だなと、私は、彼に憧れていた。憧れが焦げて恋情に変わるのなんて、しょうもない私みたいな人間ならば、あっという間だった。
きらめきとか、ときめきとか、そういうものを欲して、私は、澤木さんに恋していたわけではなかったけれど、しんじつ、そういうものも、もらってしまっていた。
忘年会で酔いが深まる最中に堀りごたつの下でこっそり靴下越しにつま先で私の脛をつついてきた大人気のなさや、私の住むマンションの入口から部屋まで手を繋いで「離したくない手だなこれ」と言った少年のような笑顔。淡白さからははみ出たそういうギャップにどきどきした。
気持ちがいいキスを丁寧に私に仕込んだのも彼だった。セックスの時にはたっぷりと甘く酷い男になるところも、穏やかな寝息も、汗ばんでいてもなおさっぱりとした体臭も。彼の持つどの色彩にも私は私の恋心を見つけることができてしまえるようになってしまっていた。
でも同時に、澤木さんがとても薄情な人間であることも理解していた。
まさか、結婚していることを私に言わなかったのが、伝えて面倒になるからではなく、どうせ知っているだろうから、ということだとは思わなかったけれど。
かなわない恋だと分かっていたのだ。せめて、その悲壮感にひとりで酔い続けられるような、悲劇的な恋愛であってほしかっただけだった。
既婚者だと知っているのに、知らないふりをして恋愛しているいけない女と、既婚者だと嘘を吐いてるのに、それでも気持ちを止められない理性の半分ない男。
そういうことのはずだった。
だのに、そうでないならもう、それは本当に、ただ、愚かで、倫理観の欠片もなく、浅ましく、光のある言葉では何にも回収されないような、それでもいいとはどれだけ酔っていても思えないような、汚いだけのいい年した大人ふたりがやるような。
「不倫」
「ん?」
「不倫、ってことです、よね。私と澤木さんの今の状況って」
澤木さんは、私の言葉に驚いたような顔をして、首を傾げた。
薬指に指環はないけれど、もう彼は誰かの父親なのだった。二年よりも前から、私と出会った時にはすでに、そうなのだった。私はうっすらとした吐き気を感じて、俯いた。
正しかったことなんてないけれど、自分が思っていたよりも自分も相手も正しくなかったのだということに、少し耐えられなくなって、不正解にもグラデーションがあるんだ、と分かった。
「何言ってんの、今更。それ以外の何でもないだろ」
「………」
「どうした? 俺が息子の写真を見せたから、そういう言葉、わざわざ口にしたくなっちゃった?」
「………」
「まあ、なんでもいいけど。君の気持ちが変わったところで、状況は何も変化してないよ。俺は君のことが可愛いなって思うけど、君も俺を好きでいてくれているんだろうけど、最初から最後まで不倫ではあるでしょ。離婚するつもりもないし。野波は、聞き分けがいいから、分かってくれてると思ってたけど、違うの」
そう言って澤木さんは先に車から降りた。
何でもない顔で会社に戻らなければならない。その場にひとりでとどまることなんて許されず、私もシートベルトを外す。
澤木さんは、助手席のドアを開けて、私に手を差し伸べてくる。
その手が憎いくらい温かいことを私は知っている。その手がどう私の身体に触れるかも、私は知っている。どう私の髪を撫でるかも、どう私を抱きしめるかも。でも私のための手ではない。今までも、これからも。
会社の人に見られたら、とそれこそ今更なのに、今更なことも含めて、本当に怖くなってしまう。
首を横に振ってひとりで降りたら、「あんまり拗ねないで。その拗ね方、俺は好きじゃないよ」とちぐはぐな文句を押し付けて、彼は私に背をむけてすたすたと建物の方へ歩いて行ってしまった。
あなたが平然と不倫をする人だとは思いませんでした、失望しました、だなんて、言えるわけがない。そこまで正しくないとは、思いませんでした、失望しました。知らないふりをしていた私にも、気づいてたなら同じように失望してください。お願いだから。失望し合って、それくらいしか、もう二人だけで独占できるものはないじゃないか。違う。そんなこと思ってない。
ただ、本当の意味で、失望しました。同じように失望してください。澤木さん、あなたは正しくないのに、いつも正しそうな顔ばっかりしてたじゃないですか。気持ち悪いんですよ。私たち、ほんときしょすぎですよ。言えない。だって、そうだ。そもそも、失うための望みだって、正しいものではなかった。
だから、失えるものなんて何もないのだった。
私の気持ちが勝手に変わっただけで何もしていることに変わりない、という彼の言葉は、皮肉にも、不正解の中では一番正解に近かった。
◇
何度も何度も、コンビニの入退店の音楽が片耳から片耳へ流れていく。
車での一件のあとも澤木さんもいつもと変わらず、私に接してきた。
残業はせずに、十六時半に早上がりして、そういえば火曜日と木曜日はいつも早く退勤していたなと気づいて、子どもを預け先から迎えに行く担当の日だったのかもしれない、と初めてその可能性を思った。
<昼間はごめんなさい。今年あと一度くらいはふたりで会いたい>
彼の退勤後すぐにショートメッセージを送ったけれど、返事はすぐには来なかった。鞄の奥底にスマホを押し込んで、私も澤木さんが退勤した一時間後には会社を出た。
そのまま帰ればよかったけれど、自分が何をしでかすのかもう分からなくって、自分の地盤がぐらぐらと揺らいでいて、そういう自分にも一気にとても疲れてしまって、いつもとは違う地下鉄に気持ちより身体が先に乗り込んでいた。
二十分ほど揺られて降りたのは、大学生の時に住んでいた街で、四番出口をあがってすぐのところにある行きつけだったコンビニに私は入った。
大学生の時、不倫、なんてファンタジーに近い言葉だった。
斜め後ろから手が伸びてきて、プリンが見事選ばれる。振り返りはせずに一歩ずれて、プリンがあった場所の隣に所狭しと並べられている不人気のレーズンサンドを二つ手に取って、レジまで行った。
四七六円をカードで支払っているあいだに、タイミングよく、四股もそうだな、とひらめく。四人も恋人を掛け持ちしたら、お相撲さんの迫力のある所作と重なってしまう。愛人もそう。恋よりも愛の方が真っ当な気もするけれど、恋人と愛人ではえらい違いだ。そういうのは全て日本語のバグ。
こんな日に限って、頭が冴えている。
コンビニを出ると、しとしとと雪が降っていた。
今日はオールだろ絶対、俺明日一限あるってー、サボれサボれ。後ろを変な髪色の大学生たちが通過して、ジャンカラに入っていく。
サボりとかオールとか、とにかく言いたいお年頃だ。私にもあった。
懐かしかった。まだ、今よりは、正しかったあの頃。
頭は冴えている。でも、泣けと言われたら今すぐ号泣できてしまうな。死ねと言われたら、駅まで戻って、来た地下鉄に突っ込んで死ねるかも。ああ、でも、だめだ。それができないように、飛び降り防止のゲートがある。それに、死んだって、何したって、別に自分がやったことがなくなるわけではない。
償いたいわけでもないのかもしれなかった。
反省もしていない。今更、反省なんてしてはいけない。
相手方を恨むことだってできてしまうような人間だ。澤木さんに子どもさえできていなければ、もしかしたら。私の方が奥さんより先に出会っていれば。澤木さんの奥さんと子どもが不慮の事故でいきなり死んだらあとはもう。そういうことを思えてしまう。自分の思考や態度に、死んだほうがいいよ、と思う。
凍てつくような風が吹く中で、懐かしい通りを早足で歩いて、私が向かったのは動物園のすぐ近くのマンションだった。
すたすた歩いてはいるものの、ここにくるのは実に三年半ぶりで、前に来たのは、はじめて入った会社で心を病んで、死んだほうがいいよ、ではなく、死んで楽になりたい、と思っていた時だった。
ああもうおしまい、自分の魂を撤収させなければ、と思った時に、頼れてしまう人が、私にだってこの世界にいる。
でも、何のアポもとらずに来てしまったな、出かけていたら、まだ大学にいたら、そうしたら私どうすればいいのだろう。そう思ったけれど、連絡をとるために、鞄の底からわざわざスマホを取り出したくなかった。
そもそも引っ越した可能性だってある、と自分の後先考えない行動にようやくうんざりしながらも、覚悟を決めて、目的地であるマンションの105号室の呼び鈴を鳴らすと、その数十秒後に、扉が開く。
顔をのぞかせたのは、お目当ての、顔色のあまりよくないひょろりとした男だった。
赤の他人が出てこなかったことに胸をなでおろしながら、「いきなりごめん」と一応謝ると、男はまだ状況を掴めていないのかぽやぽやとした頼りない表情で、数秒停止して、それから「とりあえず、入りなよ」と困ったような顔で言った。
男に続いて玄関に入ると、室内なのに寒くて、「暖房けちってるの」と聞くと、「当たり前だよ」とうすい背中が即答した。だのに、男は私が部屋に入るとすぐに暖房をつけてくれて、くちゃくちゃになった毛布まで渡してきた。
男の部屋は前に来た時とはちっとも変わっておらず、典型的な研究者の部屋、だった。
本の山々と、散らかった机、テレビはなくて、食べかけの弁当が床にそのままになっていた。窓際の花瓶に活けられた淡い色の花だけが、秘密裏に美しい私生活、という感じがする、その男によるその男のためだけの部屋だった。
私は渡された毛布にくるまって窓辺まで行って、突っ立ったまま、男を見た。
「園山」
「ん?」
「なんで、ここに来たか聞かないの」
「今から聞こうとしてたけど。久しぶりっていうのが先か、考えてた。だって、三年ぶりくらいだろ」
「どっちも言えばいいのに」
「……じゃあ、久しぶり。野波、ちゃんと自分のこと守れて生きてた?」
あ、この人は変わらないんだ。何にも、ずっと、変わらずに善良で優しいままの人間なんだ。そう思った瞬間、身体から力が抜けてしゃがんでしまいたくなったけれど、そういう脱力すら許せなくて、私はぐっと足に力をいれて頷いた。
男――園山は、ならよかった、と幸の薄い下手くそな笑みを浮かべて、椅子に座った。
「研究、順調?」
「ぼちぼちかな。でも最近は、卒論の相談ばっかり受けてて自分のがまずくなってる」
「あ、そういう時期か」
「まあ、なんとかするけど。野波は? 順調? いろいろと」
「順調だったら、ここには来てない」
「それはそれで寂しいけど。でも、野波の場合はそうか。というか、本当に突然だよな」
そう言って、園山はちょっと変な感じで瞬きをした。
園山は、幸が薄そうだけれども、身体もとても薄いけれど、相変わらず、穢れに触れたことがないような美しい男だなと思った。私が知っている人間の中でいちばん洗練されているのが園山だった。
「仕事は順調。本当に、転職してよかったって思う。やりがいも、ある」
「でも、それだけじゃないから、俺のとこにいきなり来た、であってる?」
「あってる」
「俺が帰ってなかったら、どうしてたの。危ないよ。明日も仕事だろ。連絡くらいくれれば」
「スマホ、触りたくなかったから。ごめんね」
「家にいて本当によかった」
「ね。あと、園山が引っ越してなくて、よかった」
「大学を卒業するとき、言ったはずだけど。この街にいるうちは絶対にこの部屋にいるからねって、そしたら野波は、海みたいな場所だなって、いつでも帰れるってことか、みたいなこと言って」
「うん。覚えてる。でも、そういうのって、口で言うだけで満足できるものだから。三年前もたぶん同じような会話したよね」
「うん。した。なんか、そう思うと、全部あっという間だな」
園山と出会ったのは、大学三年生の時だった。
研究分野も近く、同じゼミに所属することになった彼とは、課題意識もとても似ていて、意気投合したことがはじまりだった。
園山は子どもがすきで、子どもの不幸が嫌い。
彼は口癖のように、全員がじゅうぶんに幸せにはなれないかもしれないけれど、もし不幸せな子どもがいたとして、その不幸せの全てがあなたの責任だというわけでは絶対にない、一緒に最善を尽くすからって、目を見て、ずっと伝えていたいんだと思う、と口にしていた。長くても覚えているのは、それくらい何度も何度も、彼がそう言っていたからだ。
自分と関わった人間全員に惜しみなく自分の優しさをあげようとするような男だったから、親しくなればなるほどに、私は園山によりかかり、他人を頼るっていうのはこういうことなんだ、と彼をもって知った。
それは今までの依存とは全く違うもので、命綱ではなく、お守りを握っているような感覚だった。今もその感覚は変わっていなくて、でも、もうここまできたら依存なのかもなとも少し思う。
二十二歳の私は就職を選び、園山は大学院を選び、でもそれからも私と園山の人生は交わるのだろうという確信があって、現にその通りになっている。
窓辺の花をじっと見下ろしていたら、また、スマホの画面に写る幼い子どもが頭に浮かんで、慌てて鞄からコンビニで買ったレーズンサンドを取り出す。
園山に渡すと、「俺、レーズン苦手なんだ」と言いながらも彼は一度はそれを受け取った。だけど、数秒後、「ごめん、せっかく買ってきてくれたんだろうけど。やっぱり、苦手だから美味しく食べられない」と申し訳なさそうな声と共にレーズンサンドが返ってきた。
なんなんだよと思いながら、何にも面白いことなんてないのに、可笑しくなってしまって、私は笑ってしまう。
そしたら、園山が子どもがとても好きなこと、ずっとだから子どもを不幸せから遠ざけるような居場所支援の研究をしていること、私だってとても好きだったこと、だれも不幸せになってほしくないのにそれよりも澤木さんを好きでいること、澤木さんに子どもがいること、その子は何も悪くないこと、でも子どもがいるかどうかなんて、そんなの関係なしにずっと不倫してたこと、こんな恋愛を続けるはずじゃなかったこと、こんなところで園山に謝ってもらう資格だって本当は自分にはないんだってこと、もう、こと、こと、こと、が一斉に自分に押し寄せてきて、いつの間にか、その場にしゃがみこんでしまっていた。
私だって別にレーズンサンドは好きじゃなくて、でも、売れ残っていて、可哀想で、それで園山とふたりで食べようと思って買ってきたのだった。
園山は、学生時代の後半、私のそばにいすぎたせいで、私の情緒が不安定で、いつもはひた隠しにしているけれど本当はジェットコースターみたいな人間なんだって知ってしまっているから、しゃがみこむ私に慌てて寄り添うなんてこともなく、椅子に座ったまま、黙っていた。
暖房の音だけがしばらく響き、私はレーズンサンドの食品表示をじっと睨みながら、思い切って息を吸いこんだ。
プリン、と言った。不倫、と言い直した。
「既婚者と付き合ってた」
澤木さんと私だけの、昼間の車内には希望なんてなかったから、失望もなかった。でも、ここには、ほんの少しは希望がある気がした。それは園山が私を評価してくれている部分が少なからずあるんじゃないかって自惚れかもしれないけれど、でも、私たちは終わっているような関係ではないから、ここにはやっぱり失望だってある気がして、少し怖かった。
「既婚者だって知ってて付き合ってたんだけど、付き合ってるんだけど、でも、まあいっかとか思っちゃってた。私は騙されているってことですむかなって。好きで、どうしてもかは分からないけど、本当に好きで、手放したくない、触れていてほしい、相手だった。でも、今日ね、とつぜん、相手に子どもがいるんだって知って、その子どもが二歳になるくらいなんだってことも知って、相手が、私が騙されているわけじゃなくて不倫だって分かってて付き合っていると知ってたってことも知って、だから相手は騙すことすらしてなかったわけで、なんか、なんか、どっちも、終わっているなと思って」
「うん」
「その子どもがね、いなかったらとか、死んだらとか、そういうことも考えちゃって、なんか、なんか、本当に終わってるなーって、でも、なにも悪いことしてないですって顔で地下鉄乗って、ここまできて、そしたら、歩きながら思い出した、本当にみんな、本当にみんなだよ、幸せになってほしいって願ってた時のこととか、だれも不当に悲しみませんようにって思いながら、卒論書いてた時のこととか、でも、その相手の子どもの不幸せの片棒をかついでるよな私って、それでも、全然平気なんだよなあって、今更、ごめんなさいとかしていいわけないし」
「……野波、いつの間に、そんなことになってたの」
「ね。なんか、大学卒業してから、失敗ばっかりしてる。メンタル病んで、仕事速攻で辞めて、園山に泣きついて、転職して、そこで恋愛したかと思えば、不倫で、知ってるくせにずっと続けてて、また園山のとこきて、本当に何してんだろうね」
「…………」
「いったん、殺して」
「え、無理。一緒に生きてたい」
汚い真実を告げたというのに、園山は本当に心の底から思っているような声音でそう言ってから少し間をおいて、「不倫のこと、俺に言いたくて、ここまで来た感じ?」と恐る恐ると言った口調で尋ねてきた。
そっと頷いたら、「言って、どうしたかったの?」と再び尋ねられたので、今度は首を横に振った。
園山の声は優しくて、五歳くらい精神年齢を引きずり降ろされるような不思議な力があるせいで私は甘えた気持ちになりながら、首を何度も横に振った。
澤木さんは、私にこんな一面があるだなんて思ったこともないだろう。園山にしかみせない、卑怯な私だった。
もう言いたいことはなくなってしまって、確かに私はどうしてここに来たのだろう、と考えながら、レーズンサンドの食品表示を睨み続けていたら、園山が椅子からおりて、私に近づいてきた。
見上げると、ペンとコピー用紙をもって、なだめるような表情で口元をぐにょぐにょさせている園山がいて、彼は、私のそばにしゃがみこんだ。それから、コピー用紙を床に置いて、そこにペンを走らせる。
歪な三角形があらわれて、なんだなんだと首を傾げると、「今、関わってる施設で暮らしてる高二の子に、教えてもらったんだけど」と園山が話し出した。
「どんなに歪な三角形でも、どんなに綺麗でも、醜くても、三角形である限り、ひとしく、それぞれの内角を三等分線を引いて、それぞれどっかの、ちょっとちゃんとした言葉忘れちゃったんだけど、とにかくな、どっかの交点を結ぶと正三角形ができるんだって。どんな三角形も、正三角形を内包しているらしい。正しさが、ひとしくある。モーリーの定理って呼ばれていて、その子はユーチューブで見たって言ってた」
ほら、と園山が、歪な三角形の内角を雑に三等分して線を伸ばす。そして交点をつないであらわれた三角形は、全然、正三角形には見えなかったけれど、きちんと行えば、きちんとした正三角形になるらしかった。
園山は、「俺、下手くそで駄目だね」と困ったように笑った後、私の顔をのぞきこむように見た。
善良な人間の言葉は、きれいごとじゃなくて、きれいだから、茶化すことだって私、できなくて、はじめてきちんと叱られたような気持ちになりながら、園山と視線を絡めた。
「その相手のことは俺、分からない。何か事情があってたとしても、不倫がいいとは言えないし。野波が既婚者と付き合ってたってことも、いまいち受け止めきれないって言うか。それがどれくらい悪いことかは、普遍じゃないし、俺には分からないし。でも、野波が野波の中で正しいってことを見つけたから、ここに来たんじゃないかなって、俺はすこし思うから。あなたはいつもそうな気がするから。だから、別に、悪いなって思うんだったら、ごめんなさいって思うことを自分に許したっていいじゃんって思うし、今更だろうがなんだろうが、正しくあろうとしたいなら、それを許したっていいじゃんとも思う」
「……モーリーと何か関係あるの?」
「はは、確かに。ないかも、悪い、ない、たぶん。でも、なんで俺がいきなりこの話を野波にしたかったかっていうと、別に、野波、死ぬほどのことはしてないし、罪悪感を抱くことに、罪悪感を抱いていたら、もう無限ループだから、いったん、最悪なことをしました、でもまだ終了できるか分かりません、でもいったん最悪なことをしましたって立ち止まれてはいます、でもいいんじゃないかなと思って。つまり、それが野波の善の部分っていうか、内にある正三角形の部分だから、それをなかったことには野波もできないんだよって、いいたくて。伝わってる?」
「あんまり」
「えー、あんまりか」
園山は困ったように目を細めた。あなたの目尻のしわ程度でいいから、私だって、本当は、もっとまともになりたい。
号泣しろと言われても、今は絶対に泣きたくなかった。でも、泣きそうだった。
嘘を吐いていた。伝わっている。十分、十分、伝わっている。
今日の昼間、澤木さんに子どもの写真を見せられた時、私は自分が大切に抱えようとしてきた悪事に、裏切られたと思ったんだ。揺らいだ。地震だった。
その地震は、良心を揺すって、揺すられた良心がはじめて恋愛よりも重くなった。天秤の、反対方向に、傾いた。その自分の一貫性のなさを、許してはいけないと思って、でも、許してもらいたくて、楽になるためにではなく苦しむために許してほしくて、ここまで、やってきたのだ。
「ほんとは、伝わってる」と、園山が描いた歪な三角形の中にある歪な正三角形を見つめながら呟くと、園山は「せっかくここまで来たんだから、学生の時にふたりでよく行ってた中華料理屋、今から行く?」と私の背をぽんぽんと叩きながら、言った。
絶対に泣きたくないのにそう思えば思うほどに泣きたくなってくる。我慢するために眉間にぐっと皺を寄せて頷いたら、園山は呆れたように笑って「ほんとはさ、こういうことになる前に、会いに来てほしいし、会いに行きたいから、今度はよろしく。友達なんだから」と先に立ち上がろうとした。でも、私は引き留めて、「お願いがあるんだけど」と図々しくまた園山をしゃがませる。
「見守っててほしい」
そう言って鞄の奥底からスマホを取り出して、澤木さんとのSMSの画面を開いた。
澤木さんからは一時間ほど前に、<俺もごめんね。もちろん会うよ>と返事が来ていた。
息子の存在を知って取り乱してもなお会いたいと澤木さんに送った私の愚かさをきちんと園山にも見てほしかった。そのうえで、今から私がすることを見守っていてほしかった。
園山は私の意図をくんでくれたのか、じっと私のスマホの画面を見下ろしていた。私は画面上に表示されているキーボードに触れ、一文字ずつ慎重に文字を打っていった。
<すみません。よく考えたんですけど、やっぱり息子さんがいるとなると、ちょっと重いので。もう個人的には会わないことにしたいです。急に気が変わって本当に申し訳ないですけど、このあたりで終わりで大丈夫です。ただ、澤木さんのことは、仕事の面ではとても尊敬しているので、これからは、ただの上司と部下としてお願いいたします。返信不要です>
こんなメッセージ一つで終われるとは全く思っていない。そんなに簡単なことじゃないって分かってる。
でも、今、終わろうと思えていた。好きだ。それは、本当だ。あなたに惹かれていた。でも、失望もし合えない関係に未来なんてなくて、未来なんてなくていい恋愛に今の私の全てを捧げ続けられるほどに、人生は長くない。不倫で、二十代の後半全てを費やして、何が残る?
打ち終わって、送信ボタンを押す。それからすぐにスマホの電源を落として、園山に視線を向けた。
「ありがとね、まあ、いったん、終わり」
「俺、何もしてないよ」
「園山の存在。園山は、いつもいつも、私の人生の大切な時に、ピリオドを打つ手助けをしてくれる」
「……俺じゃなくて、今回はモーリーじゃないか」
「ふは、そうかも。でも、園山、ありがとう」
園山は、ちょっと居心地が悪そうな顔で、どういたしまして、と言って、今度こそ立ち上がった。私も立ち上がる。身体が少し軽くなっているように感じた。
園山がいて、本当によかったなと思った。この世が、恋愛だけじゃなくて、本当に本当によかったなと思った。
「園山、この三角形の紙、もらっていい?」
「え、別にいいけど、作図失敗してるよ? 書き直す?」
「いいの。これを持ってたら、揺らがない気がする。揺らいだらまた園山に会いに来ていい?」
「全然いいけど、今度はほんとに連絡して」
「分かった。園山も、私にしてほしいことあったらいって。頼りないかもしれないけど」
「特にない。一緒に生きてるって思えるだけで、いい感じかもな。でも、もう少し、会いたいよ。それこそ、野波が元気な時とか。いつか、動物園にオットセイ見に行こ」
「はは、分かった。あと、今からの中華、私が奢る」
「うお、それはめちゃくちゃ嬉しい。金ないから」
園山が笑う。本当に幸の薄そうな笑顔。でも、安心する。明日、澤木さんと会った時、私は絶対に絶対に、園山の善良さのことを考えていようと思った。それから、自分の正三角形のこと。
モーリーの言う通りに、私は私の力でしてみせたい。
私のスウェットの下に潜ろうとした君の手を拒んで、「ごめん、生理なんだ」と言ったら、君は少し残念そうな顔をした。
つけっぱなしのテレビの中ではついさっき女性が刺されて死んで、ベッドサイドテーブルには君の飲みかけの缶酎ハイが置かれている。
私の部屋のベッドの上、君は、落胆の上に気まずさを解消させるような笑みをすぐに重ねた。
がっかりさせてしまった上に気まで遣わせてしまったんだと思って、「全然、口でするよ」と、私は咄嗟に言ってしまう。
全然したいと思ってないのに、がっかりされるよりは平気だから。君の手に触れて、なんだか、ねだるみたいな声になる。
君は、その瞬間、驚いたような顔をして、次の瞬間、眉間にぐっと皺をよせて、不満げな顔を作った。
君の表情はころころ変わって、私はそのすべてに翻弄されながら、君の手から自分の手をそっと離す。
「なんで、そんなこと言うの」
珍しく君の声が冷たいことに戸惑いながら、私はへらへら笑って、「だって」とだけ言った。だって。
君は、さらに怖い顔になって、「無理なんだけど」と言う。
あ、引かれた、と分かった時には、君は私に背を向けていた。もう、私はへらへらも笑えなくなった。毛布にひとりでくるまって横たわる君の背中をじっと見つめていたら、心臓が早鐘を打ち始める。
「ごめん」
すぐに言う。引かないでほしい。がっかりしないでほしい。嫌いにならないでほしい。君と同じ毛布に入れないまま、私はベッドの上で正座をして、君の背中をじっと見つめる。自分のベッドなのに、自分の居場所なんてもうないように思う。
「ごめん」
もう一度言ったら、君がもぞりと動いて、こっちをようやく見てくれる。怒ってたはずなのに、振り返って私を見た君は、失敗した子供みたいに悲しそうな顔をしていた。なんでなのか、私にはわからなくて、でももう許してくれるまで、私は謝るしかないって思った。
「ごめん、無理だよね、下品なこと簡単に言う女」
「……そんなこと思ってないんだけど」
「ごめんね」
「俺も、ごめん。びっくりして。あと、そういうの元カレとは普通だったのかな、とか」
私は首をたくさん横に振る。
元カレなんていない。付き合ってくれたのなんて君が初めてで、私は、今まで誰かの都合のいい相手くらいにしかなれたことなかったよ。
ちょっと涙が出そうになるけど、今は泣くときじゃないから、我慢する。自分はたぶん世の中でいうところのメンヘラだけど、かわいい子じゃないとそういうのって許されないと思うから、私みたいなのは、ひとりきりの時にこっそりしかだめ。
嫌われたと思った。嫌わないでほしい。好きになってほしいとは違う。
君は、まだ悲しそうな顔のまま、ベッドの端によって、毛布を広げる。入ってほしい、ということだと分かったから、私はその通りにする。
横になって、同じ毛布にくるまると、もう一度、君は「ごめん」と言って、私を抱きしめた。
私が余計なことを言うから険悪になりかけただけなのに君は優しくて、いい人で、戸惑ってしまった私のことをなだめてまでくれる。だから。
「私の方が、ごめんね」
「もう、謝んないで」
君はそう言って、空気を和ませるような軽いキスをしてくれる。それから、もう、ただ優しいだけの顔でちょっと笑う。
だから。私は、また不安になる。
───君は、いつか、こんなどうしようもない私に、愛想を尽かすに決まっている。
本当は、毎秒、不安な私だった。
どうせ、君はいつか私に飽きる。君と付き合って半年が経ったけれど、どんどん不安になっている。
君が好意を向けてくれる度に、性欲を向けてくれる度に、ありがとうよりも、こんな私なのに、ごめんねと思ってしまう。
嬉しさよりも、申し訳なさよりも、嬉しさよりも、申し訳なさ。そういう自分に自己嫌悪する。負のループ。
自己肯定感が低すぎる。分かってる。でも、肯定できるような自分がどうしても見つからない。
君の気持ちを、まっすぐに受け取れなくて、君がなんで私なんかを好きでいてくれるのか本当に分からない。半年経ったのに、ずっと分からないままだ。
でも、私、絶対君に嫌われたくもなくて、みっともない疑問符を必死に隠して、君のそばに、すんといる。
こんなのは、でも、何も今に始まった話ではなかった。
君と付き合う前から私はこんな女だった。
好きになった人が、私を好きになってくれたことなんてなかったから。他にも理由はたくさんある。四捨五入すれば、たぶん、生きてきた全部が理由になる。
小学生の時、いいなと思ってた相手の靴箱にいれたラブレターは翌日にびりびりに破られてさらされた。別の子だったら、そうはされなかっただろうなと思う。罰ゲームだったってことにした。
高校生の時、放課後の教室で、三森ちゃんっていう美人の友達と一緒にスマホにいれたゲームアプリの話で盛り上がっていたら、近くにいたクラスメイトの男子に、お前ね同じゲームやってるからって三森みたいに可愛くなれるわけじゃないからね、と茶化すように言われた。ただ、ウケを狙っただけの発言だったと思う。
どうしてそんなことを言われないといけないのって腹が立ったけれど、冗談に本気になるしたたかさが私にはなかった。三森ちゃんは怒ってたけど、私はへらへら笑って、ひとりで傷つくことしかできなかった。
三森ちゃんに慰められるのもいやで、ゲームも消せなくて、でもしっかりと傷ついてたから、家に帰ってひとりで泣いた。
破られたラブレターとクラスメイトの言葉、その他の、選ばれなかった、大切にされなかった、塵のような経験が立派に積もって山となって、その上にしか私は、立ったことがない。
容姿に自信がなくて、でも、自分を傷つけてきた人たちを見返したいとも思えない。
そもそも、容姿だけじゃなくて、怠惰で、誰の一番にもなれなくて、時間にもルーズで、フットワークも軽くなくて、死にかけの星みたいな光だけを抱えて、だらだらと生きてる。
ひたすら重たいことを考えながら、君の体温に安心する以上に憂鬱になっていたら、君の安らかな寝息が耳に届く。君は、こんな私の隣で無防備に眠ってくれる。
とても綺麗な顔をしている。私にはもったいない。やっぱり、ごめんなさい、と思う。
でも、君のことが好きで、私、どうしようもない。
翌朝、君は一限があるからといって、先に私の部屋を出ていった。
玄関まで見送って、ひとりになった部屋でスマホを確認していたら、私と君の好きなバンドが新曲を出したという情報が目に入る。すぐに君とのLINEでそれを共有する。君からはスタンプだけが返ってくる。
君が私と付き合うよりも前に、私と一緒にしたいから真似をして買ったんだって教えてくれたLINEスタンプ。私は、ひとりだから、ようやく許されて、ちょっと泣く。
君との出会いは軽音サークルだった。好きなバンドがかなりかぶっていて、でも、二年くらいはずっとただのサークル仲間だった。
軽音サークルは、大学に入学したばかりの時につるんでいた可愛い女の子が、派手髪の先輩に熱心に勧誘される隣で、君もよかったら、とついでのようにチラシを渡されたのがきっかけで入っただけ。でも、もともとバンドが好きだったし、キーボードもやってみたかったから、ちょうどよかった。
サークルの時間も、その後の飲み会も、自分には誰の視線も向かなくて、そういうことを思い知りたくなくて、バンドの練習に集中したり、テーブルの隅で早々と酔ったりして、私はやり過ごしていたけれど、そんな中でも仲良くしてくれる人たちは何人かいて、そのうちの一人が君だった。
好きなバンドやアーティストがかぶっていたというのも大きかったと思う。みんなでライブやフェスにいったり、飲みに行ったり、一回生の夏休みは君と私を含めた五人で旅行にも行った。
君は、みんなに優しくて、面白くて、かっこよくて、時々、寝癖をつけてだぼっとしたパジャマのまま大学にくるところしか駄目なところを見つけられないくらい魅力的な人だった。
そんな君を少し離れたところで眺めているだけで、私はよかった。
だけど、君が、大好きなバンドのライブに誘ってくれて、みんなでじゃなくて、はじめて、私と君の二人でライブを見に行くことになって、関係が変わった。
大好きなバンドの大好きな曲を聞きながらぼろぼろ泣いてしまった私の手に、隣にいた君はそっと触れて、それから、優しく繋いでくれた。ライブが終わるまで、君は私の手を離さず、ずっと繋いでいた。
帰り道で、「絶対に気づいてなかっただろうけど、俺、かなのが好きだよ」と君は言った。
心臓のまわりだけ変になるくらい嬉しかったけれど、君が私を好きだなんてそんなことはやっぱりあり得ないと思って、ライブの熱にあてられただけだって自分を落ち着かせながら、「そういうの、いいよ」と私は言った。
そしたら君は、夜道で立ち止まって、ちょっと不安そうな顔で「それはごめんなさいってことであってる?」と首を傾げた。
そんなことあり得ないと思って私は首を横に振った。
私は、私のことを好きになってくれる人ならみんな好きだった。だって、そんな人、いなかったから。
首を横に振っていたら、まだ耳元に残っていた大好きなバンドのボーカルの声が落ちていって、「俺と付き合う相手なんてけっこう誰でもいいけど、かなのと付き合うのは絶対に俺がいいなって、俺、どうしても思っちゃう」なんて君の難しい言葉に、ライブの余韻が消えた。
君が私を好きなら、それはもう私だって君が好きだ。あり得ないから、あり得ないけど、でもそれなら、それはもう、そうだった。
「私も、朝日のこと、じつは、好き」と言ったら、「ほんとに?」と君の声がちょっと跳ねた。
斜めに頷いて「好きだけど、でも、朝日が、私のことを好きなんて、ありえないから」と言ったら、「なんで、ありえるだろ。好き、だいぶ好き、引かれるかもだけど、かなり前から、かなののこと大好きだよ、俺」と早口が返ってきた。
思わず君を見上げたら、君は、「女の子に大好きって生まれて初めて言った。恥ず、でもほんとだから撤回はしない」と私だけを見て、照れ臭そうに苦笑いを浮かべた。
どこが好きなの、いつから好きなの、どうして、私なの。その時いっぱい君に聞きたいことが浮かんだけど、全部聞けなかった。騙されていてもいいって私も生まれて初めて思えてしまって、「付き合ってほしい」と言う君に、頷いた。
悲しくなりたくなかった。虚しくなりたくなかった。うれしさより不安の方が大きかったけれど、でも、うれしいのも本当だった。
「私でいいなら、お願いします」と、たどたどしく返事をしながら、いつ、君が私を好きじゃなくなって、私は君に振られることになるんだろうって考えていた。
君はかっこよくて、私には本当にもったいない人。一回生の時に君が同じ学部の綺麗な子と付き合っていたのを私は知っているから、余計になんで私なのって考える。
二人でライブにいった夜は、ふつうじゃなくて、君も変な気を起こして私なんかに告白してしまって、でも、まだ振るにしては可哀想だから、おなさけで、私と付き合ったままでいるんじゃないかって考える。
そういうことを、いつも、いつも、考えている。
半年も経ったのに、自分から振れなくてごめんね、と思う。
君の彼女はさ、バイト帰りのコンビニでくたびれたサラリーマンに一緒にアイス食いませんかって、手抜きのナンパをされても、他の子みたいに鬱陶しく思えなくて、私はまだ女の子として終わってはないんだ、って、心底安心して、ナンパしてくれてありがとうって、サラリーマンに感謝できてしまうような女だよ。
君にそう言ったら、君はなんて言うんだろう。私、絶対言えないから、想像もしない。
◇
思い込みかもしれないけれど、あの夜から君とは少し距離ができた気がしていた。
生理は昨日終わったけれど、生理、終わったよなんて、君には言えるわけがないし、言うことでもない。
もうそろそろ振られるのかもしれない。傷つく練習をしないといけないのに、いつかは振られて当たり前なのに、君に振られる想像をするたびに胸が痛くなって、途中でやめてしまう。
「かなの、今日ってこのあと何もない?」
サークル終わりに、君はLINEで聞けばいいことをわざわざみんながいるところで言った。私は頷くだけにして、君より先に片づけを終えてから学生会館の外で君を待っていた。
数分後に、君がやってくる。ここで振られるのはやだな、と馬鹿みたいなことを思っていたら、「帰ろ。送る」と君は言って、先に歩き出した。
慌てて、追いかけて隣に並ぶ。「急にどうしたの」と聞いたら、「別に」と君が首を横に振る。
私が振られるって思ってたことなんて、君は考えもしてなかっただろうなと思う。君のそういうところが好きで、私にはもったいなくて、私、嫌われたくないのに、嫌われるようなことを言いたくなる。自分でも分かってあげられない自分が時々あらわれて、死んじゃえと思う。
「生理、終わったよ」
君にだけ聞こえる小さな声で言ったら、君は前を見たまんま、「ふーん」とだけ答えて、私の指に自分の指を絡めてきた。
はじめて手を繋いだ時とは、もう違う。君は、自分だけの手のように私の手に触れて、繋いでくれる。そのことの途方に暮れるようなうれしさを説明できる言葉が私の中にはあんまりなくて、でも、うれしい。うれしいと、ごめんなさい、は、いつも大体一緒になって生まれる。
そっと君の手を握り返す。しばらくお互い黙ったまま無言で歩いていたけれど、
「ほんとは、喧嘩してみたかった」
私のマンションのすぐ近くの公園の前を通り過ぎた時に、唐突に君がそう言った。
私は思わず立ち止まってしまって、君を見た。君は、ちょっと寂しそうな顔で私を見下ろしながら、繋いだ手に力をこめてきた。
「この前、かなのに怒っちゃったじゃん、俺」
「……あー、うん」
「あの時さ、喧嘩になるかなって思ったんだよ。ダサい嫉妬とかもあったけど、それだけじゃなくて、喧嘩できるかなって」
「……なにそれ」
「かなのと喧嘩してみたいなって、最近、考えてたから」
君が私を分からないように、私も君を分からなくて、君がそんなことを思っていたなんて、君の口から聞いても私はあんまり分かってあげられなかった。
でも、羨ましいなとは心の底から思った。喧嘩なんて、それで嫌いになり合えてしまうかもしれないのに、したいって思える君の人間的なあかるさが、私、ただ羨ましいなと思った。
「でも、かなの落ち込んでたから、失敗だったなって。試すみたいなことして、ごめん」
「……別に、全然、気にしてないよ」
「……だったら、いいけど」
君はちょっと不服そうに唇を尖らせて、また歩き出す。
怒ってほしいなら怒れよって言ってほしい。正解を教えてくれたら、私は絶対にその正解をえらぶから。君に、嫌われたくない。でも今は、何よりも、振られなくて、本当によかったって思ってる。
以心伝心なんてこの世には存在しないから、私は、ここまでなんとか生きのびてきたの。
君は、本当に私を送るだけだったようで、マンションの前で私の手を離した。
本当はもう少し一緒にいたかった。でも、「泊っていく?」なんて、自分からは言えない。
でも、でもね。喧嘩したいなんて思ってくれて、私はとてもそんなことは思えないけれど、うれしかった。君が手を繋いでくれて本当はいつも、心細いけどうれしかった。今日は、もう少し、一緒にいたい。一緒にいても不安だけど、ひとりだともっと不安だから、一緒に、いてほしい。
どれも言えなくて、わがままも言えない可愛くない彼女でほんとうにごめんね、で思考は停まる。
「じゃあね」と自分から切り出す。
「玄関まで行くけど」と君は言ったけど、「私が、朝日、見送りたいから」と、きっぱり断る。君は、また一瞬だけ不服そうな顔をしたけれど、すぐにあきらめたように笑った。
「じゃあ、うん。家着いたら電話する」
「うん、送ってくれてありがと」
「いーえ」
ひらひらと手を振って、君は私に背を向けて帰っていく。私は、遠ざかっていく君の背中をじっと見つめながら、呪いのように思ってしまう。
帰らないで。帰らないで。振り向いて。振り向いて。こんな私だけど。こんな私で本当にごめんだけど、振り向いて。いやにならないで。振り向いて。
でも、振り向かなかったら悲しくて、悲しくなりたくはないから、きりのいいところで自分から背を向けた。
こんなこと、いつまで続くのかなって思う。君はいつまで私のそばにいてくれるんだろう。
もういいけど、もうよくなくて、君が優しくしてくれるたびに、君が君の気持ちをくれるたびに、私は私がいやになる。
自分の部屋にひとりで戻って、すぐに玄関の鍵を閉めた。
しん、とした空間で、こっそりとため息を吐く。
扉の内側には、「レディ・バード」の映画のポスターが貼ってある。
それは君が付き合ってすぐのときに私に教えてくれた、明るく生きるためのライフハックだった。
自分の好きな人を玄関に貼っておくと毎日ちょっとは幸せに家を出れる、と君は言っていたけど、私は全然だめだ。そういえば、君は、玄関の扉の隅に、私と撮ったプリクラを貼ってくれてた。それをはじめて知った時のことを思い出して、今更、胸がつまる。
大好き、君のこと。本当に、大好きなの。でも、重いこと、ひたすら考えてる。こんな彼女で、本当にごめんね。
また、いつものように君が私にくれた好意を燃料にして自己嫌悪を始めようした時、玄関のベルが鳴った。
警戒しながらも、ドアスコープをのぞく。そうしたら、さっき別れたばかりの君がいて、急いで、私は扉を開けて、外に顔を出した。
なんで、と思いながら、まだ胸はつまってる。何も言わないまま、君を見つめる私に、君は呆れたような顔をしながら、はは、と笑った。
「かなの、帰ってほしくなかっただろ」
「……いや、」
「嘘。俺が、帰りたくなくて」
「………」
「今日、泊っていい?」
「……それは、別に、いい、けど」
「かなのちゃんてさ、俺のこと、ヤりたいだけって思ってたりするの? お前、どうせヤりたいだけだろって」
「何それ。そんなこと、思ったことないよ」
ただ、たまらない気持ちになってるだけだよ。それだけだよ。
後ろから、とん、と誰かに指で突かれたら、わっと泣き出してしまうかもしれない。すぐにそういう状態になるの、私。でも、君の前では、絶対に泣きたくない。
君は、どうして、こんな私を好きでいてくれるのだろう。やっぱり分からない。愛されると不安になる。私なんて、君が好きでいる意味が全くない人間だって思う。
でも、嬉しいの。不安なの。でも、嬉しいの。不安で、嬉しくて、君が大好きで、あの時、繋いでくれた手を私からはどうしても離せないでいる。
好きでいてくれて、本当に、ありがとうって、いつも思っている。自分の気持ちは、どれも決して宝石みたいに美しいものじゃないから、君に押し付けていいわけがなくて、それでも、君にどうしても触れたくなってしまって、玄関まで入ってきた君の胸に、私は、恐る恐る、自分のおでこをくっつけてしまう。
そうしたら、君は、はは、と優しく笑って、その震動で私は本格的に泣きたくなってしまった。
「珍しい。かなのが俺に甘えてくれるの」
「……私、がんばって、がんばって、これくらいなの」
君の胸元に頑張って伝えた声が、掠れてしまう。はじめて、本当の意味で、他人に甘えてしまっている気がした。自分がそんなことできてしまうなんて、一秒前の自分だって想像できていなかったし、今も信じられていない。怖い。でも、私、君の胸におでこをつけたままでいる。
「頑張ってくれて、ありがと」
「……不安になるの。いつも、いつも、不安になる」
「なんで?」
「わかん、ない」
「俺は、どうしたらいいの」
「わかんない。でも、」
「でも?」
「……好きで、いてほしい」
嫌いにならないでほしい。より、頑張って、可愛い言葉を選んでみた。
君だったら、私のラブレターを破らなかったかなとか思う。美人の友達と同じゲームをする私を傷つけなかったかなとか思う。これまで誰も選んでくれなかったすべての私を、選んでくれたのかなとか思う。いや、そんなことは、絶対にあり得ない。あり得ないけど、そうだったらいいのになあ、と馬鹿みたいなことを、叶わないからこそ願ってしまう。
「そんなの、当たり前じゃん」
そう言って、君は私をそっと抱きしめてきた。私はそれで、君の胸からおでこを離して、君の腕の中で、君を見上げる。君は本当に優しい顔をしていて、「かなのも、俺のこと、好きでいて」と、そんなの当たり前だよ、って呆れてしまうような言葉を私に返した。
「私、」
「うん?」
「……ほんとはね、朝日が、私なんかのこと好きでいてくれるの、ずっと、あんまり信じられてない」
「まじか」
「でも、別に、信じさせてほしいと思ってないから」
これ以上はもう、重い気持ちを君に押し付けてはいけない。そう思って唇を結ぶ。
そんな私の腰を、君はぐっと引き寄せて困ったように笑いながら、「なんかさあ、俺、多分、かなのよりかなのこと好きだと思うんだけど。かなの、俺に、負けるなよ」と優しい声で言った。
ああ、やっぱり。君をじっと見つめながら、思う。
こんないいひと、私にはもったいない。君は、いつか、こんなどうしようもない私に、愛想を尽かすに決まっている。
でも、今は、今、この時だけは、自分よりも、この人を信じてみたかった。信じなければいけなかった。
今、君の瞳には、どうしようもなくて、可愛くない、私だけが、映っている。
生活は、ドミノ倒しのようなものだ。
自分なりに、一つ一つをどれだけ大切にしていたとしても、何か一つ重要なものがだめになれば、必然であれ、偶然であれ、そのまわりのいくつかの物事は崩れてしまう。
◇
就活の時期になってすぐに就活悦に浸りはじめた彼氏に振られた。
「俺ってほんとに自分がないんだなってようやく気づけたんだよな。あとさ、俺と芹那って、高め合える関係とかではなかったじゃん。この先、一緒にいてもお互い幸せのままいられんのかな、微妙かもなって思っちゃったのね、俺は。……いったん、ひとりになりたいんだよ。芹那のことは好きだけど、こんな俺じゃだめだから。まじで、ごめん」
自己分析を始めたら、自分に何もないことに気づいてしまったらしい。距離を置くのじゃだめなの、と聞いたら、それじゃ意味ないから、としんみりとした顔して首を横に振った。
冷めたなら、冷めたって言え。就活始めたら私にかまうのがだるくなったとか、好きじゃなくなったとか、はっきり自分が傷つけたと思える方法を選ぶことから逃げるなよ。そう思いながらも、こいつ、本当にしょうもないなという気持ちの方が大きかったから、渋らずに別れを受け入れた。
一生モノの恋とかそういうものではなかった。ひとりじゃ寂しくて、一緒にいたかっただけだったのかもしれない。だけど、就活に自分から洗脳されにいったしょぼい彼氏でも、自分の生活においては大きな存在だったから落ち込みはした。
彼氏と別れた二日後に、一限の講義に寝坊して、それで欠席カウントがたまってしまったから、落単が決まった。気持ちを無理に切り替えようとして、部屋の大掃除に踏み切ったら、ベッドと壁の隙間に、彼氏が好きだったサッカークラブ、アーセナルFCのユニフォームが埃塗れで見つかって、いつかの夜中に、それをわざわざ着た彼氏と一緒にプレミアリーグを見た時の幸せな記憶がよみがえってしまって、ちょっと病んだ。
それから一週間が経って、洗濯機が急に動かなくなってしまった。コンセントを抜いてみたり、叩いてみたりしても、何の反応も見せない死んだ洗濯機に、溜息を吐きながら中にたまった洗濯物を取り出した。
一番近くにあるコインランドリーは、あり得ないほど高額だったから、コインランドリーでぼったくるとかあるんだ、はやく潰れろよ、と不快な気持ちにたっぷりとなり、マンションから少しだけ離れたところにある、ガソリンスタンドとセットになっているコインランドリーまで行くことにした。
洗濯かごを抱えて歩くのがちょっと恥ずかしかったから、選んだのは、ひと気の少ない深夜帯。二十四時間営業のセルフ給油スタイルのガソリンスタンドの後ろで、コインランドリーの眩い光は夜の中で少し浮いていて、異世界と交差する場所のように感じた。
時間も時間だしさすがに誰もいないと思ったけれど、中には、男が一人いて、パイプ椅子に座って、窮屈そうに足を組みながら壁によりかかってスマホをいじっていた。
年齢は、ぱっと見では自分と同じくらいで、二十代前半だろうなと思った。ゆるっとした服にスポーツブランドの高そうなスニーカーをはいていて、ストリート系のファッションに興味があるんだなと分かる感じの着こなしだった。
一度目が合ったけれど逸らされて、男の視線はまたすぐにスマホに戻った。
正直に言って、かなり好みの顔をしていたけれど、愛想もよくなかったし、色んなことに冷めているタイプの男のような気がした。
一番、安いスモールサイズの洗濯乾燥機にかごの中身を突っ込む。そこまではよかった。だけど、そのあとすぐに問題にぶち当たる。
機械についているお金の投入口に何度お金を投入しても、お金が返ってきてしまうのだ。
なるほど、これが生活を台無しにする、倒れたドミノの記念すべき五つ目。
皮肉めいたことを思いながら、何度も懲りずにお金を投入して返されてまた投入してを繰り返していたら、「金いれるとこ、そこじゃないっすよ」と稼働しているいくつかの乾燥機の音にまぎれて、低い声が届いた。
ふり返ると、ずっとスマホを触っていた男が、さっきよりもわずかに親しみやすくなった顔で、こちらを見ていた。
あ、そういえば、私、メイクしてない。しかも、部屋着だ。変なタイミングで、自分の状態に恥ずかしくなっていたら、男は、パイプ椅子から腰をあげて、私の方までやって来た。
「個別のとこ機能してないっぽいです。清算は自販機の隣にある機械でやる感じらしいんで」
「なる、ほど。すみません、コインランドリーあんまり使ったことなくて」
「ずっと、金入れてたっすよね。まあ、最初は、俺もそこにいれましたけど」
「ほんと助かりました。なんで? ってちょっと焦ってました」
「ね。でも、何回チャレンジすんだろ、とは思っちゃったすね」
私の近くに立った男は、予想していたよりも背が高くて、予想していたよりも冷めてる感じではなかった。コインランドリーとは別の、甘い香りもして、ますます、ノーメイクに部屋着という自分の戦闘力の低さを恥じてしまう。
お礼を言って、自販機の隣の機械を操作してお金をいれると、洗濯乾燥機はようやく動き出した。男の方を見ると、もう目は合わなくて、彼の視線はまたスマホに戻っていた。
何事もなかったかのように。何事もなかったのだけど。でも、ちょっとつまらないなと思った。彼氏と別れたばっかりで、ひとりであることが自分の中で浮き彫りになっていた分、さみしさを感じやすい状態だったというのもある。
洗濯乾燥機がまわる音を聞いていたら、退屈感と寂寥感がどんどん膨らんでいって、半ば衝動的に、自販機で温かいココアを二つ買ってしまった。
「よかったら、飲みませんか。教えてくれたお礼っていうか」
パイプ椅子に座って壁によりかかる男の前に立ち、買ったココアのうちの一缶を差し出すと、男は私を見上げてちょっと驚いた顔をみせた。
「そんなんいいっすよ、まじで」
「甘いの、苦手ですか?」
「や、別に。……あー、まあ、じゃあ、もらいます。ありがとうございます」
引かれたのかもしれない。でも、失恋、落単、死んだ家電、そういったものに比べたら、初対面の人間に引かれるのなんてなんてことはなかった。とはいえ、これ以上は、話しかけないほうがいいなとも思った。話せるかもと期待はしてしまっていたわけだけど、好みの顔が不自然に歪むのなんて、わざわざこんなところでみなくていい。
ココアを受け取ってくれた男からはすぐにはなれて、自分の洗濯物がぐるんぐるんとまわっている洗濯乾燥機の近くのパイプ椅子に座る。
缶に口をつけて甘ったるいココアをすすりながら、コインランドリーの窓の向こうの夜を眺めていたら、彼氏と別れてから自分の身に起きたことをまたご丁寧に頭の中で並べてしまって胃が痛んだ。
つまらない自傷は数少ない特技のひとつ。人生は山あり谷ありとかいうけれど、山を滑り落ちるのなんて一瞬のくせに、谷をはいあがるのには結構な時間が必要なのっておかしい。
というか、何よりも、コインランドリー。
洗濯だけじゃなくて乾燥までしてくれることを考えると、ここに来るのは一週間に二度ほどで済みそうだけど、それでも週に二千円以上はかかってしまう。思わぬ出費だ。
アーセナルFCのユニフォーム、だけじゃなくて、彼氏、いや、元カレが私の部屋においていった私物全部、メルカリで売ろうかな。でも、安物ばっかりだし、そこまで稼ぐことはできなさそう、あいつまじで使えないな。洗濯機なんてそんな簡単に買えるものじゃない。
コインランドリーにいるからか、いつもにまして、頭の中がぐるぐるとまわって、散らかってくる。
あーあーあーあー。うんざりしながら溜息を吐いていたら、「社会人っすか」と、不意に男の声が飛んできた。
彼は、足を組んだままこちらを見ていて、私が首を傾げたら、ココアの缶をかたむけて、こくんと飲んだ。まさか話しかけられるとは思わなかったから、少し遅れて驚いてしまう。だけど、さっきの私に引いてるわけではなかったんだと分かったから、それはよかった。
「大学生です」
「あ、そーなんだ。一緒っすね、俺も学生です。ここ来るってことは、この近くの大学っすか。G大とか?」
「いや、その隣の私立です。……G大?」
「俺は、そうっすね。G大の理学部の三年です」
「頭いいんですね。私も三年です、人文で心理やってます」
「推薦だけど。そっちは、人文に心理あるんだ、意外です。二十一の年?」
「そうです、まだ誕生日来てないけど」
「あ、でも、じゃあ、俺と同い年っすね。タメでもいいっすか?」
「全然。大丈夫です。だい、じょうぶ」
「なんか大人っぽい顔してるから、ふつうに年上だろうなって思った」
「……メイクしてなくて、恥ずかしいけど」
「あ、そうなんだ。わかんなかった。まあ、当たり前か。化粧してる顔、知らないしな」
はは、と。気さくに笑う声はハスキーで、笑った顔はさらにタイプだった。
清算方法を教えてくれた時点で、コインランドリーに入ったばかりの時からは印象が変わっていたけれど、そこからもまた少し変わる。だけど、明るい人ではないだろうなとは、言葉を少し重ねて笑顔を見た上でも感じた。
声にあまり抑揚がなくて、基本的にテンションがそこまで高くないというか、感情の起伏がそこまで表に出ないようなタイプの男。元カレよりも、やっぱり好みだ。
だけど、この人と恋愛をしてみたいなんて、そういうことをすぐにはっきりと思えるわけもなく、失恋から始まった退屈と寂しさを少しでも紛らわせられたらいいな、程度の気持ちで会話を続ける。
途中で、男が立ちあがって私のところまで来たので、そこからは近い距離で、お互いパイプ椅子に座りながら向かい合って喋ることになった。
「よく来るの?」
「けっこう来てるかもな。俺は乾燥だけだけど。何もなくても来るときあるし」
「何もなくてもってそんなことある?」
「なんか、ここ落ち着くんだよな。住んでるとこ近いし。洗濯乾燥機の音聞きながら、ぼーっとするのが好き、みたいな」
「えー、なるほど?」
「分かる?」
「いや、ごめん、わかんないけど。でも、そういうのいいなとは思う」
「そっちは?」
「私は、洗濯機いきなり壊れちゃって」
「あーなるほどな」
「何か、最近立て続けにやなこと起きてて、とどめ刺された感じ」
「まじか。まあ、やなことって、だいたいいつもあるよな。俺も、最近、バイト先いっこ潰れたし」
「え、それ実際に聞いたのはじめてかも。私は、最近、彼氏と別れた」
「どれくらい最近?」
「数日前?」
「かなり最近じゃん。それはまじでお疲れさまっすね」
ローテンションで返ってくる言葉もゆるっとした相槌も心地よくて、話が弾み過ぎないからこそ楽しかった。
会話って盛り上がったら盛り上がっただけ、いいっていうわけではない。少なくとも私はそうで、そういう人はたぶんこの世に一定数いて、彼もそういうタイプかも、となんとなく思った。
先に、終了の音を立てたのは私の洗濯乾燥機ではなく男の方の乾燥機だった。男は、立ち上がって乾燥機から乾いた洗濯物を取り出すと、それをリュックにつめて、また私の方に戻ってきた。
「じゃ、また。ココア、ありがとーございました」
「毎日のようにいるの?」
「さすがに、そこまではいないけど。まあまあいるな」
「いつもこの時間帯くらい?」
「あー、まあ、そうね」
「分かった」
「分かったって、何。まあ、いいけど、おやすみ」
「あ、うん、おやすみなさい。またね」
ん、じゃーね。と、男は最初に見た時と同じような仏頂面で頷いて、すぐにコインランドリーから出て行った。
ひとりになってようやく、初対面の相手とおやすみを言い合うことなんてあるんだ、とそわそわしてしまう。日常と非日常の境目にいるような気分だった。でも、ありがたいことに、いつの間にか、不幸の連鎖の憂鬱はほんの少しだけ薄まってくれている。
もうすっかりと温くなったココアを飲み干して、窓の外に目を向ける。男の姿はもう闇に消えて見えなくて、そこには静かな夜だけが広がっていた。
◇
「就活ってはじめてる?」
「俺は、院進するつもりだからやってないな。はじめてんの?」
「いや、全然。私も、院進するか、いったん留学しようか迷ってる」
「いったん留学って。金持ちか」
「言うだけただじゃん。まあ、現実的には、そろそろ就活しなきゃなんだけど、自分がやりたい研究がね、4年では絶対満足できないだろうし、院行こうかなーって気持ちはほんと。院行くにしろ、お金かかるけどね」
「いったん留学っていうただの海外旅行よりは、有意義な使い方じゃね、知らんけど」
「何か留学に恨みでもあるの?」
「世の中のだいたいのことを楽しく恨むのが趣味」
「悪趣味。まあでもさ、そこらへんは何でもいいんだけどね、元カレは就活し始めて、意識高い系みたいな感じになってたから、そういうのにはなりたくないっていうのはあるかなー。高め合える関係じゃないから別れようとかいって、振られたし」
「前から個人的に気になってんだけど、意識高い系と意識高いの違いって何なんだろうな。系に揶揄のニュアンスあるのが謎すぎる」
「それはたしかに」
「意識に高い低いとかないし。あと、恋愛に高め合いとか別にいらなくね、とは思うな。部活じゃねーんだし」
「まじでそうなんだよね、いたいから一緒にいるでいいじゃん」
「な」
「……ちょっと恥ずかしいこと言っちゃったかも」
「思った。でも、ほんとそーね。俺も、いたいから一緒にいるでいいじゃん、系かも」
「うわ、系って言った。揶揄?」
「はは、ちゃんとひろってくれた」
元カレの私物をメルカリで売ったら、今のところ合計七千円くらいの儲けがあった。思いの外、売れたのでよかったけれど、アーセナルFCのユニフォームはなかなか売れず、私にも、元カレは関係なく、アーセナルFCとの思い出が多少はあったことが心に引っかかって、結局、出品を取り下げた。
プレミアリーグにハマったのは元カレの影響で、元カレが好きなサッカークラブだったから、アーセナルFCを知った。でも、元カレと別れた後だって、まだプレミアリーグを視聴できるサブスクへの課金を続けようとしている身としては、アーセナルFCのユニフォームはやっぱり売れない。
「芹那の部屋に、○○忘れていってないかな?」系の元カレからの連絡は全て無視をするにとどめていたけれど、時間が経てば経つほどに、私を振ったときの元カレの言葉に対する憤りが募っていくので、精神衛生上の問題で仕方なく、元カレの全てのSNSのアカウントをブロックした。もう、彼の連絡が私に届くことは未来永劫ない。
一週間に二度ほど。メルカリでもうけたお金をコインランドリーの洗濯乾燥代にかえて得る、衣服の清潔、それからコインランドリーでの男との二人の時間。
男には一度目ですっぴんパジャマを見られたわけだけど、その後はきちんとメイクをして、外に出ても大丈夫な恰好でコインランドリーに足を運んだ。
男は、最初に会った時に言っていたように、自分の洗濯物がなくても、時々コインランドリーにやって来た。
いつも同じ系統のストリート系のファッションばかりで、スニーカーも服に合わせて変えているようだった。別にひけらかすような着こなしではなくて、派手でもない。自分の好きな恰好をひとりで楽しんでしている感じの、鼻につかないタイプのお洒落な男。
暗めの色の短髪も男には似合っていて、ピアスをつけることを知ったのは、会って三度目の時だった。
「サークルとか、何か入ってる?」
「バスケ? あと大学のかわいーこ紹介するガールズメモリー?の運営も手伝ってたけど、しょうもなさすぎて三年にあがるタイミングでそっちはやめちゃった」
「それうちの大学とかと合同でやってるやつだろ。インスタで見たことある」
「かわいーこいっぱいいたでしょ」
「まあ、そーね。ゼミ一緒の子も一回のったしな。まあ、しょうもないっていうのは分かる」
「そっちは?」
「俺、フットサル。あとは、バイトばっかだな」
「何のバイト?」
「家庭教師とキモい時間にしまる居酒屋と、あとは単発とか」
「キモい時間にしまる居酒屋って何?」
「七時とかにしまんの。居酒屋なのに。午後三時から午後七時まで営業って、何だそれって思いながら一年の時から働いてる」
「お客さん来るの、それ」
「まあまあ?」
「ていうか、フットサルってことはサッカー好きなんだね」
「小学生の時からずっとやってたから」
「プレミアリーグみる?」
「海外サッカーはあんまり、時々、ブンデスリーガみるくらいだな。J1ばっか見てる」
「ふーん、そっちか。私と元カレはアーセナルFCが好きだった」
「アーセナル強いな。俺は、名古屋グランパス」
「ここ本拠地じゃん」
「だから大学ここにしたまである」
「ほんとに?」
「さすがに嘘」
ココア、ココア、ペプシコーラ、カフェオレ、ココア、ミルクセーキ。コインランドリーの中にある自販機で二人分の缶の飲物を買い合って、言葉を重ねれば重ねるほどに、男とのふたりだけの時間は心地よさを増していった。
それと反比例して、元カレの影はすごい速さで薄まっていって、自分の部屋から、アーセナルFCのユニフォームをのぞいて元カノの私物は全て消えた。それがコインランドリーに通い始めて一か月後くらいのことだ。
そろそろ洗濯機を買わないともったいないって分かっていながらも、なかなか踏み切ることができなくて、でも煮え切らないのはそれだけではなくて、男とパイプ椅子に座って缶片手に喋るだけの間柄に、私はひそかにもどかしさを感じるようになっていた。
「今度、お酒持ってくるから、ここで一緒に飲まない?」
ある夜、思い切って吹っ掛けてみたら、男はちょっとびっくりしたような顔をして、私を見た。
その日は、私が買ったココアを二人で飲んでいて、お互いに好きな芸人のラジオや最近大学近くの駅に落ちてる陰謀論が書かれた紙の話をしていた。
趣味が合うとか、話が合うとか、別にそういった一致は私にとっては大したことじゃなかった。話してるときの温度感がしっくりくる、そこが、彼の一番の魅力だと思っていた。
恋愛をしたいわけじゃなかったはずだけど、失恋の憂鬱が薄まった今となっては、してもいいなと思っていて、してもいいな、と、したい、には、あまり違いがなかった。
男は、ココアの缶に口をつけて時間をかけて飲んだ後、何か真意を探るような目でじーっと私を見て、おもむろに口を開いた。
「ここで、酒はなんか違うんじゃね」
「……そうかな」
「アルコールとか、この場にはいれたくないっていうか」
「こだわり?」
「ん、そーね、キモいこだわり」
拒否の言葉を口にしているくせに、男はパイプ椅子を私の方に近づけてきて、かなり至近距離で私を見下ろした。近づきすぎると、座高の違いが明確になる。
お酒より、この距離感のほうが違うんじゃないの、と思いながら、私もじーっと見つめ返す。
「まだ、元カレと別れたばっかではあるよな」
「もう、違うんじゃない?」
「未練あんの?」
「ないかな。私物、メルカリで売ったくらいだし」
「メルカリってそういう使いかたあるの知らなかったわ」
「というか、ずっと聞けてなかったけど、彼女いたりする?」
「去年の冬に別れてからできてないっすね、ほんと今更じゃね」
「興味はあったけどね。というか、お互いに、名前も知らないっていう」
「そーね」
試している。試されている。どちらも、たぶん、違うことを、互いに。至近距離で視線を絡めて試し合えば、かなりの可能性で熱が生まれる。生まれていた。コインランドリーには不似合いの熱。でも、生まれてくれて、よかったと、私は全身で思っていた。
ギ、と男のパイプ椅子が音を立てた。試す延長で、目を閉じてみる。そうしたら、また、ギ、と音を立てて、唇にかさついたものが一瞬だけ触れた。それはすぐに離れていって、また、パイプ椅子が音を立てる。
勝ったような気分になりながら、目を開けると、至近距離で私を見下ろしていた男もまた、勝ったみたいな顔をしていて、ちょっと可愛かった。
「たまってる?」
品のないことをわざと聞く。男は、首を横に振って、とん、とスニーカーのつま先を私の靴にあててきた。
「吸い込まれたわ。そっちが悪いんじゃね」
「何それ」
「目閉じないだろ、ふつう」
「普通じゃないのかも」
「元カレの私物、メルカリで売るしな」
「今、元カレはいいじゃん」
「結構、慣れてる?」
「コインランドリーで出会うことに?」
「いや、誘うの」
「そんなことない、はじめて」
「それはそれで嘘くさくね。まあ、いいんだけど」
私がいつも使っているスモールサイズの洗濯乾燥機が視界のはじっこにある。洗濯と乾燥は、私と男が試し合う前にすでに終わっていた。今日の男は、手ぶらだったから、私と男にはもう待ち時間は存在していなかった。
とん、と靴のつま先をあて返してやりたかった。だけど、かなり高いスニーカーだったらと思うと怯んでしまって、スニーカーではなく男が座るパイプ椅子のあしをを弱く蹴った。
おれんち近いけど、と男が呟くように言う。私のマンションも近いよ、と、呟くように返す。ココアじゃなくて酒飲む?と、男が首を傾げる。どっちの部屋?と、私も首を傾げ返す。
知らないひとの洗濯物だけが、乾燥機の中でまわっていて、ぐるんぐるんと小さな台風のような音を立てている。その傍らで、熱、熱、熱。熱が、生まれている。
「今日は、そっちが決めて」
「じゃあ、君の部屋で」
「君ってなに」
「名前、知らないんだもん」
「山岸」
「名字じゃん。それでいうと、私は野村」
「野村顔と言われれば、分かる気もする」
「なにそれ。下の名前も教えてよ」
「ここ出たらな。そっちも教えて、あとで」
そう言って、男は立ち上がって、私に洗濯かごを渡してきた。
飲み干したココアの缶を捨てて、洗濯乾燥機からほかほかの洗濯物を取り出してかごにつっこんでいく。その間にちらりと男に視線を向けると、目が合って、どしたの、と抑揚のない声で聞かれたから、あわてて首を横に振った。
スマホを見ていると思ったのに、こちらを見ていたことがうれしかった、なんて、初恋と同じ温度の本音は今、私にも男にも絶対に要らないものだった。
二人ではじめてコインランドリーの外へと出る。
男は、私が抱えていた洗濯かごを、さらっと奪って持ってくれて、それは私に逃げられないようにするための行為だと、私が思えてしまうようなものではなく、そういう必死さが男になくてよかったな、と私はおかしな部分で安堵する。
この一か月と少しのあいだ、見送ったり見送られたりした窓の向こう、夜の穏やかな風景のひとつに自分と男が同時になるだなんて、はじめてコインランドリーに訪れた時は思いもしなかったけれど。
自分的には、しっくりきているし、何よりも今、私と男だけが共有している熱が確かにあった。きっと、浅はかで安っぽくて、この世界を探せばどこにだってあるようなしょうもない熱。でも、熱は熱だった。
「律」
「うん?」
「名前」
「ほんとに教えてくれた」
「野村さんは」
「野村さんは、芹那」
「ふーん、芹那チャンね」
「何か不満?」
「いや、他人の名前に不満とかないけど」
自分のマンションがある方とは別の方角に男が進むから、私は大人しくついていく。
このあと、酒を飲んだとしても、飲まなかったとしても。セックスするのかな、とぼんやり思う。たぶんすることになるのだろう。むしろ、しなかったら意味わからなくてやだな、とすら思っている。
運命なんて、全部こじつけだけど、こじつける運命なら少しはあるんじゃないの、と、ふと運命のことを男の隣で考える。アーセナルFCを好きになった運命、元カレと別れた運命、洗濯機が壊れた運命、コインランドリーで男と出会って、恋愛になるかセフレで終わるかワンナイトか一か八かの運命。それでも、とにかく、私の生活は続いていくという運命。
「運命って感じあるね」
夜道の暗さを解消させるようなしょうもない冗談を言ったら、「さすがに重いな」と、真に受け取ったのか何なのか、男からはあんまり望んでいなかった言葉が返ってきて、「さすがにね」とすぐに笑って返した。
男の返事にちょっと不快になりながらも、まだ熱はたっぷりと自分の中にあって、すぐに、それはそうだよな、と思い直す。だって、コインランドリーで喋っていただけの、所詮それだけの、知らない相手なのだから。不快になるだけ無駄だ。その相手の住む場所に、今からいこうとしているのも変だけど、つまらないよりは、さみしいよりは、はるかにいい。
「まあ、でも、マチアプよりは運命?」
男は重いと言ってのけたくせに、運命についての会話を続けるらしく、私の洗濯かごを抱えながら、私を見下ろしてちょっと笑った。
私の発言に引いたわけではなさそうだった。重いな、という台詞は冗談を返しただけだったのかもしれない。本当にこの男のことを私は知らないんだなと思いながら、「確かに」とまた笑い返す。
「アプリ、やったことある?」
「ティンダーなら」
「たまってるんじゃん、やっぱり」
「大学はいりたての時な。すぐ消したけど。そっちはあんの?」
「ない。出会いとか別に部屋から出ればあるし、彼氏いたし」
「今、俺とこうなってるの考えると説得力あるっすね」
「がつがつしているように思った?」
「別に。コインランドリーで出会うとかは、特別だし」
「けっこう、ロマンチストな感じ?」
「どうだろ、自分じゃ分かんねーな。でも、マチアプより運命かもなとは思ったけど」
「私は、ロマンチックだから、星空にあなたを抱きしめていたいとか思うこともあるよ」
「ブルーハーツじゃん。しぶ。俺、ひろえなかったらどうしてたの、それ」
「ひろってくれたから問題ない。ブルーハーツは知っててほしいし」
「そーね。まあ、マチアプよりは運命で、マンションの部屋が隣同士よりは運命じゃない感じじゃね」
「そんな感じあるね」
男が、二階建てのマンションの前で一度足を止めて、私の意思を確かめるような目で見下ろしてくる。ちょっと誠実で、ちょっと可愛い感じの表情をしていた。それは私にとっては良いギャップだった。
恋愛で終わってもセフレで終わってもいいけど、ワンナイトは嫌かもな、と思いながら、「ここなんだ、どんな部屋か楽しみ」と笑って、先に歩き出す。
どこまでいっても、生活は、ドミノ倒しである。
でも、今のところ、洗濯機が壊れたところで、日々の崩壊はいったんストップしている。
男は、すぐに私に追いついて、「ふつうの男の部屋だと思うけど」と熱をはらんだ声で言う。
今から、またひとつ、物事は倒れるのだろうか。コインランドリーで出会っただけの男の部屋で、セックスをして、そのあとは? 立て直すことができる? もう私は自分の生活をすでに立て直しきっている? 自分のことだからこそよく分からない。でも。
「酒、もしかしたら部屋になかったかも」
「別になかったらなかったでいいよ。コインランドリーの外、一緒に出てみたかっただけみたいなところあるし」
「なんかいきなりずるいこと言うのな。まあ、俺も、それはそうだったけど」
「一緒じゃん」
「そーね」
でも。確かめる価値が、少しはあると思う。
高校二年生の夏、好きな男と一緒に、ひと気のない電車に乗って隣町にある海まで行った。
彼が持ってきた有線のイヤホンの、片方は彼の右耳、もう片方は私の左耳につないで、電車に揺られながら、彼のスマホから流れる彼の好きなバンドの曲をふたりで静かにずっと聞いていた。
電車の窓の向こうを流れていく景色は、どの瞬間も祝福と名づけたくなるようなものだった。トンネルの中の暗闇でさえ、彼が隣にいればそうだった。
彼とのはじめてのデートだったから、私は買ってから一度も着ていなかったとっておきの薄緑のワンピースを着て、うすくメイクもしていた。彼は、爽やかなポロシャツを着ていて、会ってすぐに、「俺、ださくない?」と不安そうな顔で私に聞いた。
可愛い、という言葉を待ちながら、私は首を横に振ったけれど、彼はほっとした顔をしただけで私の服を褒めてはくれなかった。だから、「私は、ださくない?」と、結局、自分から聞いてしまった。彼は「そういうのって俺が何か言ってもいいの? 言っていいなら、すごい好きな感じ、ではある」とぼそぼそと返事をしてくれた。
たぶん、私は、幸せだった。
高校二年に進級するタイミングで文理のクラス分けが行われて、文系特進のクラスで彼とは同じになった。それが彼との出会いだった。
たまたま隣の席だったから喋るようになって、親しくなって、席替えをして隣の席じゃなくなってから、もっと親しくなった。
ほんの少し努力をしないと喋れない距離感になったからこそ、自覚できて、膨張した恋心だった。
夜な夜なLINEでやり取りをするようになって、寝落ち通話をしたことだってある。授業中に、休み時間に、ひそかに視線を絡ませるだけの甘酸っぱい遊びを何度も楽しんだ。
「俺ら、付き合うのは、どうなんだろ。分かってるかもしれないけど、俺、円花のこと、好きっていうか」
中間考査で部活がなかった梅雨どき、薄暗い放課後の教室で、彼に下手くそな告白をされた。私は、「いいと思うよ。私も好き、だし。付き合う、べき」と、下手くそに頷いて、それで、私たちは付き合うことになった。
あとで考えてみれば、最初は、彼は彼女が欲しくて私は彼氏が欲しかった、それだけなのかもしれない。でも、その相手だったらあなたがいい、という面では一致していたから、恋の最低条件は十分に満たしていて、私たちは私たちがきちんと好きだった。
二人だけの電車内に、かったるそうな声のアナウンスが響いて、私たちは海の見える無人駅で電車からおりた。まわりには誰もいなかったから、私と彼はイヤホンを互いの片耳につないだまま、海までむかった。
浜辺におりてからようやく、私と彼はイヤホンを自分の耳から外した。
夏風をからだいっぱいに受けながら、波音の響くふかふかの砂浜をスニーカーで踏んで歩いた。彼は眩しそうに目を細めながら、水平線よりも遠くを眺めていた。彼が何を考えているのか、私は分からないまま、彼の横顔をじっと見つめていた。
ずっと一緒にいたいとか、今が一番楽しいなとか、どれくらいの熱量で私たちって好き合ってるんだろうとか、くだらないことばかり考えていた。
ワンピースは夏風で遊んで、膨らんだり萎んだりしていて、めくれているところを見てしまったら、彼はちょっと照れたりするのだろうかと馬鹿みたいな想像もした。
「気持ちー」
「ね」
「どうしよ。どんどん好きになってる」
「海?」
「なんで。違う、円花」
「急に?」
「言ったのはね、いきなり思ったわけじゃないよ」
「海来たから言いたくなったの?」
「……思ってた返事と違う」
「私もどんどん好きになってるけどさ、そんなの正解出すの難しいよ」
「じゃあ、言い直す。俺、円花のこと、どんどん好きになってる」
「……私も」
「はは、正解してくれて、ありがと」
「どういたしまして。でも、本当だからね」
「いや、いいよ。今のは完全に俺に言わされただけ」
「言いたいことを言わされただけ」
「じゃあ、ほんとか」
彼は、眩しそうな顔のまま、口を変な形にして笑った。
海の似合う人だなと思った。その時、私の好きなタイプは海が似合う人になった。
彼が好きだった。
綺麗な貝を探したり、堤防に座って話したり、海を背景に写真を撮ったり、数時間ほど彼と二人で海の時間を過ごした。
水面の光の粒も、空を飛び回るトンビも、彼の横顔もかけがえのないものだったけれど、私の中で、一番忘れられないことは、海から無人駅に戻る道すがらで彼とした約束だった。
遠回りをして駅に戻る途中で、彼は道端にぽつんと置かれた公衆電話を見つけた。
幼い頃は、街中でよく見かけた公衆電話だけど、高校に入ってから見かけることは少なくなっていた。彼も、同じようなことを感じていたみたいで、きちんと調査もしていないのに、公衆電話は近い未来で絶滅する、と二人で結論付けて、寂しくなり合った。
公衆電話がなくなっても不都合なんて何もないのに、二人だけのお揃いの気持ちがただ欲しくて、寂しがっただけだった。
「いいこと思いついたんだけど」
「何?」
「これから街とかで公衆電話見つけたら、見つけた方がそこで相手のスマホに電話かけることにしない?もちろん、出られない時は出られないけど。そういう、俺と円花だけの、誰も理解できない感じの約束? があったらいいじゃんって思うんだけど」
「……何それ」
「ごめん、ただの思い付きだから、全然、却下してくれてもいいやつね」
「絶対する。最高の約束すぎて、びっくりしちゃった」
「最高すぎ、の何それ、だった?」
「そうに決まってるじゃん。じゃあ、その約束、今からね。私が、かけてきていい?」
彼が嬉しそうに頷くから、私は走って公衆電話まで行って、彼のスマホに電話をかけた。
どんどん好きになってる。なってた。私のタイプは、海が似合って、誰も理解できない感じの二人だけの約束をしてくれる人になった。これからも彼を好きなままでいたいと思った。
十円分だけお互いを見合いながら電話で話した。
彼が好きだった。
それから、私と彼は高校生活を送る中で公衆電話を見つけるたびに、お互いに電話をかけた。彼への電話は繋がったり繋がらなかったりした。私も何度か出られない時があった。
彼は、俺の場合は違う、と言うかもしれないけれど、私の恋愛の核は、彼と海のそばでした公衆電話の約束だった。
高校三年生になってからも、しばらく電話のかけ合いは続いたけれど、夏に入る前に、彼からは電話が一切来なくなった。
私は、それでも、街で公衆電話を見つけるたびに何度も彼のスマホに電話をかけた。何度も、何度もかけた。だけど、彼は出なかった。
鈍くはないから、途中で嫌でも気づく。嫌われたんだろうなと思った。嫌になったんだろうなと分かった。飽きたとか、他に好きな人ができたとか、ひとの気持ちが変わるのは、生きていたら、仕方がないことだから。
でも、いつの間にか、私にとって、彼とした約束は恋の全てのようになってしまっていたから、公衆電話を見つけたら、どうしても、私は彼に電話をかけてしまった。
一年が経った。二年が経った。三年が、四年が、経った。
もう、私と彼は付き合っているとは呼べないんだろうな。別れたことになっているんだろうな。勝手に。でも、どっちが勝手だったんだろう。私の方が勝手だったのかな。でも、わざとじゃなかったんだよ。絶対に私が悪いわけではないはずだよ。ちがう?
そういうことをふらふらと考えてみたことも、彼を好きだったことも、少し忘れてしまうくらいの時間が過ぎた後も、私は公衆電話から彼のスマホに電話をかけることをやめられなかった。
海のそばが落ち着くから、私は一人になった後もよく海へ行った。晴れた日は、波の音を聞きながら、ぼんやりと海を眺めて、長い時間を過ごした。
どんどん思い出せないことが増えていって、本当はもう、彼の顔も鮮明には思い出せなくなっている。
遠距離って自分には向いてないんだな、しなくて正解だったなあって自嘲してから、そもそも私には彼氏もたぶんいないことになってるし、とさらに自嘲を重ねる。
私にはもう、約束しかないのだった。
日が暮れた後、知らない海辺の街をふらふらしていたら、ひっそりとした公園の隅に公衆電話の明かりを見つけて、寂しさに散り散りになりそうになりながら、気が付けば、そこに私は向かっていた。
彼のスマホの電話番号には、ルート2の一部が隠されていて、もう何度も数字を押したから、ボタンは自然に動いてしまうほどだった。どうせでないと分かっていながら、もう期待はしていないのに、いつものようにかけてしまう。
どうせ、でない。でないでいい。でないでほしい。でも私には、もうこの約束しかない。
コール音を聞きながら、繋がらないという結果を、私はいつも、ただ待っていた。
「はい、もしもし」
だけど、久しぶりに、本当に久しぶりに、コール音は途切れて、受話器の向こうから声がした。驚いて、私は声が出なかった。
「あの、どちら様ですか?」
彼の声ではない、ということは、分かった。どう聞いたってそれは可愛い女の人の声で、私は、どうしても声が出せなかった。
そのまま黙っていると、電話口から少し離れたところで、「ちょっと、勝手に出ないで」と男の慌てたような声が聞こえた。
それはまぎれもなく彼の声で、私は泣きそうになったけれど、涙はちっとも出なかった。
「もしもし」
彼の声が、こちらにまで届く。涙は出ないのに、懐かしくて、悲しくて、よかった、と思って、混沌とした感情に支配されてしまって、声はやっぱりでなくて、私は受話器をただぎゅっと握りしめていた。
「…………………まどか?」
気持ち悪くてごめん。怖いことしてごめん。ごめん。ごめん。本当に、ごめんなさい。本当はたくさん謝りたいことがあったのに、色々と忘れてしまっている。言いたいのに、言葉につまって、私は何も言えなかった。
そのうちに時間が来て、電話は切れてしまった。
だけど、私はそこから一歩も動けなくて、どうしてこんなことになったんだろう、と考えてみたけれどどうしても分からなくて、完全に日が暮れて闇に包まれた後、もう一度だけ、彼のスマホに電話をかけた。
でないでいい。でないでほしい。でも私には、もうこの約束しかない。
最近は、いつも同じことを思っている。そればっかりを思っていた。
今度の電話は、コール音が一回で途切れ、すぐに、「もしもし」と彼の声が飛んできた。それは声なのに、懐かしい匂いがして、海の匂いだと分かった。
「円花、だよな。………久しぶり。……本当に、久しぶり」
怖いことしてるって分かってる。怖がらせてるって、分かってる。でも、彼の声は優しくて、何かを諦めたあとにしか出せないような柔らかさで、それでいて、寂しそうに聞こえた。
でもその寂しさは、もう私がお揃いにできるようなものではなくて、私は、受話器を握る手にぎゅうっと力をいれた。
「ずっと、電話、とれなくてごめん」
いいよ。いいけど、寂しかった。でも、もう彼の顔を私はやっぱりはっきりとは思い出せない。
「でも、今日が相応しいタイミングなんだろうなって、思ったから。これで、円花じゃなかったら、ちょっとやだけどな」
受話器は壊れた翻訳機のように、彼の言葉たちを、満ち足りた寂しさ、に変換する。
円花だよ、と言う。ごめんね、何度も何度も電話かけて、と言う。でもでてくれて嬉しい、と言う。
彼は受話器の向こうで、はは、と掠れた声で笑った。笑ってほしいわけじゃなかったはずなのに、笑ってくれてよかったと思う。私に何度も電話をかけられたというのに、怖がっている感じはしなくて、本当によかった、と思う。
「夕方は、ごめん。一緒にいた人が、不審に思って、とってしまったらしくて。……ずっと、絶対に、俺はでないようにしてたんだけど。でも、そんなの、ずっとは、無理だよな。ごめん。……円花、聞こえてる? 俺ね、俺、……あのさ、一年くらい前に、ようやく好きな人、できた。恋愛的な意味で、ようやく。少し前に、付き合えることに、なったんだけど。同じ学部で研究室が一緒で、あ、俺、大学では臨床心理やってて、院試にもこの前合格したから、春から大学院なんだけど、って円花、分かるかなあ。円花に言うのも変だけど、悲嘆カウンセリングの研究、やってて、って本当に、円花に言うことじゃないかもしれないんだけど。……色々と、無神経だったら、ごめん。いや、謝るのも、変かもな」
謝られて、ようやく、彼の顔をほんの少しだけ思い出す。
眩しそうにする顔。泣いていた顔。恥ずかしそうに笑っていた顔、怒っていた顔、眠たそうな顔、ふざけた時にちょっと幼くなった顔、キスをしたあとの顔。
ほんの少しだけを、いっぱい、思い出す。
そうなんだ、と言う。本当に私に言うことじゃないよね好きな人とか他の人と付き合うことになったとか絶対に私に言うことじゃないよねでも元気そうで本当によかった本当によかったよ、と私は言う。
「円花。俺、乗り越えるんじゃなくて、重ねてくんだって、今は、思ってるの。そうやって、思えたんだよ。時間がかかったけど、俺はね、円花への気持ちをなくさないまま、別の大切な人に、恋することも、愛することも、できるんだって思う、から。浮気みたいになってんのかな、これ。でも、円花のこと、ほんとに、好きだったから。ずっと好きなままかは、あの時の俺は、分かんなかったけどさ、でも、好きだったのは、絶対に、本当なんだ」
少しだけを、いっぱい、いっぱい思い出して、でも、肝心なことは、何も思い出せなかった。
彼は、電話の向こうで、はは、とまた掠れた音で笑った。満ち足りた寂しさ、満ち足りた寂しさ、そういう風に私には届いて、私は、もう受話器も握れなくなった。
でも、良かった、とだけ思っていた。あなたが、生きていて、あたらしい恋をしていてよかった、と、自分でも不思議なのに、本当に思っていた。
「円花、俺のこと、呪ったりする?」
無神経なことを彼が聞いて、でも、それも満ち足りた寂しさとして私には届いた。無神経だなあと思いながら、呪わないよ、と言う。「呪わないでよ、円花に呪われたらやだよ」と、彼はまた無神経な言葉を重ねて、はは、と掠れた声で笑った。
呪えない。呪い方なんて、知らない。だって、私にはもう、この約束しかないのだ。本当に、それだけなのだ。
ごくん、と彼が唾をのみこむ音が、こちらに届く。
呪わないよ、ともう一度、言う。呪わない、呪わない、幸せになって、幸せになって、言うけど、伝わったどうかは分からなくて、本当に思っているはずなのに、本当のところ、思うということがどういうことなのかも、もう私は分かっていなかった。いきなり分からなくなってしまった。
「円花」
彼に呼ばれて、何、と言う。彼は、また、ごくん、と唾をのみこんで、はは、と困ったような音で笑った。
海の、海の匂いがした。
「円花が死んじゃってから、もう五年くらい経つんだよ。まだ、車に轢かれちゃったの、痛い? もう痛くなかったら、いいなって思ってる。本当に、それだけは、ずっと、俺、ずっと、ずっと思ってる。痛くありませんように、って思いながら、非通知から電話がかかってくるスマホの画面、俺、ずっと、見てた。俺が生み出した幻かもしれないんだけどさ、でも、もう痛くありませんように、ってそれだけは、本当にずっと思ってるんだよ」
満ち足りた寂しさは、少しだけ形を変えて、生温かい願い事のようなものになって私に届いた。
もう痛くないよ大丈夫だよ、と言う。
本当は、もう何も感じない。
だって、私にはもう、約束しかなくて、本当は、彼との思い出も、ほとんど思い出すことができない。彼のたくさんの顔も、ほんの少しだけしか、ほんの少しだけをいっぱいしかもう、思い出せない。
聞いた音楽があったことは微かに覚えていて、でもその音をもう忘れてしまった。彼が私にくれた言葉を忘れてしまった。
私は、私が、誰なのかも、本当はもう、あまり分からない。
「円花」
何、と言いたかった。私の声を聞いてほしかった。でも、彼には届いてないのだろうと、分かっていた。届かないほうがいいものなのだと、分かっていた。
分かっていても、約束がまだあるから、私は、私を、手放せないでいた。
「俺が約束、したからだよな」
はは、と彼はまた笑う。はは、と私は言う。はは。はは。公衆電話のボックスの向こうでは、夜よりも深い暗闇が広がっていて、こちらまで押し寄せようとしていた。でも、怖くはなかった。
「円花、もういいんだよ」
満ち足りた寂しさとは、祈り、彼の祈りなのだと、ようやく分かる。
「円花は、俺との約束、もう、守らなくていい。守らなくていいよ」
守らなくていいの、と私は言う。「守らなくていい」と、彼は言う。守らなくていいのかあ、と私は言う。「もう十分だよ」と、彼は言う。守る約束はもうないんだね、と私は言う。「守らなくていいから」と、彼は震える声で言う。
分かった、と言う。
「じゃあね、ばいばい」
彼の祈るような声が届く。その途端、電話はプツリと切れた。
いつの間にか私はまた受話器を握っていた。
暗闇はもうすぐそこまできていて、でも、やっぱり怖くなかった。むしろ、私を守ってくれるのはもう、この闇だけのような気がした。
受話器をゆっくりと戻すと、私は自分が何なのか本当にまったくわからなくなってしまって、そのまま公衆電話のボックスの外に出た。
身体なんて、もうなかった。とっくのとうになかったのだとその時になってようやく気付いた。
でも、軽かった。どんどん軽くなっていって、あ、結弦君だ、と彼の名前を思い出した時、暗闇はいっぺんに光って、そのまま私をのみこんだ。
じゃあね、ばいばい。
結弦君。
たぶん、私は、幸せだった。
自分が無邪気でいればいいだけだと思った。
完璧に、無邪気になりきれたらよかった。
◇
居酒屋で流れる音楽も、スキー場で流れる音楽も大体決まっている。マリーゴールドを、俺は居酒屋で何度聞いてきたか分からない。
スキー場だったら、ヒロイン、粉雪、雪の華。プレイリストって、どのタイミングで移り変わるんだろうなと思いながら、テーブルの隅でハイボールをごくごくと喉に通す。
大学の書類が手違いで実家に届いてしまったから、郵送してもらえばよかったけれどそれを断って、久しぶりに地元に帰った。
帰省することを、高校三年生の時に仲が良かった友達のひとりに伝えたら、飲みに行こうぜと言われて、他にクラスでつるんでいたやつらもいれて男五人でプチ同窓会をすることになった。
会えるのを結構楽しみにしていた。
でも、みんな地元の大学に進学したから、自分だけがよその空気を吸って帰って来たやつみたいになっていた。
高校三年生の時と同じように笑い合ってるはずなのに、ちょっとの違和感をずっと感じてしまって、その分、酒が進む。
マリーゴールドは夏色をはさんで、若者のすべてになる。好きな曲で、少しだけ元気が出る。
つるんでたやつのひとりが、マルチタスクが苦手でそれを克服するために半年くらい前から三股をかけているという酷い話をしはじめて、わっと盛り上がる。
やばいよそれは、と俺もけっこう笑ってしまう。
自分が股をかけようとは思わないけど、ゲスい話は聞く分には楽しくて、もう今更、よく知っていた友達相手に軽蔑なんてしない。でも、いつまでこいつはそんななのかな、いつの間にそんな風になったのかなとはうっすら思う。
「就活で使えたらいーんだけどな。結構、三人とうまくやるの才能だと思うぞ」
「それ、コツとかあんの?」
「コツー? えーなんだろ、同じコミュニティ避けるとか?」
「お前、もっと高み目指せよ? 四人目は三人目と同じコミュニティな」
「俺が、マルチタスクの天才になってもいいんすか?」
「それは好きにしろ、まじで」
ぎゃははは、とみんな笑う中で、俺も笑う。
軽蔑は本当にしない。でも、こういう話で笑っている自分を、今の彼女には絶対に見られたくないなとは思う。
「辻岡は相変わらず?」
話題はいつの間にか移り変わり、自分に話を振られる。
この流れだと恋愛のことだろうなと思って、「あー、彼女?」と苦笑いをしつつ聞き返す。
辻岡いるのかよ俺知らんかった、俺も前の彼女と別れたってとこで辻岡の恋愛歴止まってるわ、と俺以外の四人のうちの二人がネットのゴシップ記事を読むときみたいな顔を俺に向ける。
彼女、の話を、あんまりこいつらにはしたくないな。そう思ってしまいながらも、ノリを合わせないなんてあり得ないから、「いるいる、みんな知ってるもんだと思ってた」と返す。
「今どれくらいだっけ?」
「八か月くらい?」
「他の女は?」
三股のノリはまだ続いているようで、にやついた顔が俺に聞く。
女遊び、煙草、酒、麻雀、そういうものが高校生と大学生に差をつけるみたいな感じ。
幼い頃に仮面ライダーのアクションシーンを真似ていた時と、何か違うのだろうかと冷めたことを考える俺と、そういうものに浸かっていたいと思う俺は、ちょうど五分五分だった。
「俺は一人だけ。股かける元気もないし、モテないし」
「嘘つけ、お前、高校んときは大分モテてただろ」
「そんなことない。でも、俺らの高校、物好き多かったよな。なんでこいつが? みたいなの結構あった気がする」
「つーか、股かける元気ないって、じじぃかよ」
「それはいきすぎでしょ」
「うわ、でた、辻岡の「でしょ」」
「はは、何それ」
「地元離れてから、使いだしたやつな。「でしょ」」
「しょうがないでしょ、まわりのやつみんな使うし」
「今日、あれな、でしょって言ったら、イッキな」
「こわっ、気をつけよ」
イッキで盛り上がるノリは、大学に進学してから自分が所属しているコミュニティにはなかった。
もうこいつらとは本当に違う世界にいるのかもしれない。誰も悪いわけではないのに、違和感は疎外感に形を変える。そういうものを誤魔化したくて、とにかく笑う。
「今の彼女、どんな子?」
「どうって、ふつうだよ」
「顔見たい、見せろよ」
「えー、だるいって」
「普通に気になるだろ、辻岡の彼女は」
このまま渋っていたらもっとだるいことになるのは目に見えていたので、嫌な顔はしつつもスマホのカメラロールを漁る。
あんまりこいつらには見せたくない。いい反応が返ってくる気がしないから。いい反応も俺の望むいい反応ではないと分かりきってるから。
でも、こいつらに何を思われたって、何も変わるわけじゃない。だからノリを悪くするよりは、見せた方が百倍はマシだ。
プリクラの写真を見せるのはさすがに違うかと思って、二人でうつっている写真の中でも彼女の方が比較的に可愛く見える写真を選ぶ。
拡大して、彼女だけを画面に表示させてみんなに見せる。
四人の視線が違うタイミングで、俺のスマホの画面に向かう。ここに彼女がいなくて本当によかったなと、変なタイミングで心底から思う。
「ぜっっったい、こういう感じの子は遊んでるだろ」
四人のうちの一人が、唇の端にビールの泡をつけたまま強い声で言う。それに、げらげら笑う声を聞きながら、俺は、見た目で判断するなって、と適当な言葉を笑いながら返す。
「いや、俺は分かる。これは、モテるっていうより、遊んでるって感じの女じゃん」
「さすがに失礼だってお前。辻岡泣くって」
「いや、勝手に泣かせないで」
「でも、辻岡あれじゃね。前付き合ってた子の方が顔は可愛かったんじゃね?」
午後九時を過ぎた居酒屋は、人気のポップスとアルコールと周りのやつらの騒がしさの力を借りて、大体の人間のデリカシーというものを殺す。
さすがにそれは失礼すぎるだろ、と、俺が帰省することを伝えた相手が、俺の今の彼女と元カノの顔を比べたやつの頭を軽くはたいた。
むっとするとか、冷静な感じで諭すとか、そういう労力を使う気には一切なれなくて。だるいな、と思いながらも、俺は鈍いふりをして笑うのだけはうまいから、「いや、このくらいがちょうどいいんだって」と、ノリを合わせて、「でしょ」という語尾を使ってもないのに、ハイボールの残りを一気に飲み干した。
◇
高校生だった時の俺が、高校生だった時のあいつらと一緒にいるのが一番楽しかったのかもしれない。解散して、居酒屋の前で四人が帰っていくのを見送ったあと、すぐに思った。
ひとりになった瞬間にどっと疲れて、壁によりかかって長く息を吐く。
もう二度と会わないとかそういうことはない。
きっとまた帰省したら会って飲むことになるのだろうけど、その時も今と同じ気持ちになるのだろう。その確信だけはすでにあった。
楽しかったけれど、恋愛の話を真剣にし合うような間柄ではなかった。
高校生の頃だったらそうだったのかもしれないけれど、今はもう完全にそうではなくなっていた。かといって、他に話すこともないから、だれだれがなになにしたとか、あの女はああだこうだとか、そういう話しかできない。
本当は、居酒屋で流れるプレイリストがどのタイミングで変わるんだろうなとか、そういう、どの類の悦にも浸ることができない、明日には忘れるような話ばかりしていたい。
そういう自分をさらけ出せる友達も、さらけ出したいと思える友達も、もうここにはいないと理解するための同窓会だった。
実家に徒歩で戻りながら、スマホを操作する。
<何してるの>と、彼女にLINEを送る。すぐに既読がついて、<飲み会終わったの?>と、返信が来たから、勢いで通話ボタンを押してしまう。
”こういう感じの子は遊んでるだろ”───居酒屋で言われた言葉がよみがえる。俺がその言葉を解散後も気にしてるって、あいつは絶対考えないだろうなと思ったら、少し笑えてくる。
LINEからかけてしまったから、夜道に呼び出し音が響いていた。そのままにして歩いていたら、途中で音が途切れて、画面に彼女があらわれる。
そこでようやく自分がビデオ通話のボタンを押してしまっていたことに気づく。
寝るところだったのか、薄暗い中で、彼女のメイクをしていない顔だけが怪しく光っていた。確かに、元カノの方が顔は可愛い。でも、顔だけと付き合っていたいわけでもない。
「どうしたの?」
「どうもしてないよ」
「……ちょっと酔ってる? 飲み過ぎた?」
こういう感じの子は遊んでるだろ。また、いやな声がよみがえる。でも、完全に不正解ではきっとなくて、いまだにそれに動揺してしまっている自分にうんざりした。
たぶん、今付き合ってる彼女は俺よりも経験がある。その全てが恋愛経験なのか、ただの性経験なのかは曖昧だけど、でも変なところでこなれていて、何でそれをしようとするの、と俺がびっくりしてしまうような言動を時々とるから、その度に俺は、しょうもない男になってしまっている気がする。
「そんなに酔ってないよ」
「酔ってるよ」
「俺、顔、赤い?」
「ちょっと赤い」
「まじか」
「楽しかった?」
「……微妙だったかも」
恋人にしか本音を吐けないような男にはなりたくなかった。でも、そうなのだから仕方がない。
彼女にだけは言えないことだってたくさんあるのに、都合がいいなと我ながら思う。
女の子もいたの?とか、本当は聞いてほしい。どういう話したの?とかも、本当は聞いてほしい。そういう自分の気色の悪い願望は、彼女にだけは、言えない。
地元で、地元で出会ったわけではない相手と話すのは少し変な感じで、十八年間過ごしていたはずの街の風景が、彼女の声を聞きながらだと、少し違って見えた。
「今日、何してた?」
「……私は、買い物行って、最近できたカフェでのんびりしてた。ほら、タルト屋さんあったところに新しくオープンしたの、この前二人でスーパー行った帰りに見たじゃん。あそこ」
「ひとりで?」
「うん、ひとり。……あ、今度、一緒に行く? 行くっていうより、私が、行きたいだけ、なんだけど。ごめん、ふたりで一緒に行けたらいいよねって話してたのに、時間あったから。ひとりで先に行っちゃった」
会話はよくからまわる。付き合って半年以上も経つのに、いまだに全然からまわる。
そろそろ俺に気を遣おうとするなよ、そんなすぐに怒らないよ、嫌いになるわけないよ、だから、俺の顔色ばかりうかがわないでよ。
そういう気持ちで苛立って、でも、そのたびに、彼女のことが嫌になるのではなくて、もっと、もっと、俺に気持ちを渡してほしい、という彼女を求める方へ向かう。
他の男との経験はけっこうあるはずだろうに、男の好意を受け取った経験はリセットされるのか、俺の好意は宙に浮きがちで、酔っているからか、その虚しさは苛立ちに即変換されて、「すぐに謝んなくていいって、いつも言ってんじゃん」とちょっと尖った声で返してしまう。
そういう自分の情けなさを誤魔化すように、「そろそろ実家つくから、切るね」と大袈裟に優しい顔をつくって口角をあげた。
彼女の方も、無理に作ったような笑顔で、「かけてくれてありがと。おやすみ」と返してくる。
「かなの、不安かなと思って。急に、声、聞きたくなった」
本当は自分が不安だっただけなのに、理解ある恋人のふりをして、画面越しに彼女を見つめる。
そっちが不安なだけでしょ、なんて、彼女は絶対に言い返してこない。本当は、言い返してほしい。言い返せよと怒鳴ったら、ぼろぼろ泣いてくれるのかなと思ったことだって、前に何度かある。
「ありがと。朝日のそういうところ、私ね、本当に、好きだから」
でも、絶対に、彼女は言い返さない。それどころか、無理に作った笑顔ではなくて、本当に嬉しそうに笑うから、また俺は彼女が好きになって、それ以上に自分の情けなさで叫びだしたくなる。
通話を切ったあと、彼女が消えた画面をしばらくじっと見ながら歩いた。
帰りたいなと思った。地元に帰ってきたはずなのに、帰りたかった。でも、彼女のもとへ帰ったところで、絶対的な安心感があるわけではない、ということも分かりきったことだった。
まだ実家には戻りたくなくて、少し遠回りをすることにした。地元は、また地元に戻り、でも、もう俺の街ではない気がする。
彼女とは進学した大学の軽音サークルで出会った。
一回生の時から仲は良かったけれど、その時は俺も別の人と付き合っていたし、彼女にも何人か相手がいそうな雰囲気があった。
サークルの中でも、彼女は一時期、ひとつ上の先輩と付き合っているわけでもないのに特別に親密な感じだった時があって、多分それに感づいていたのは俺くらいだったと思う。そういうことが分かるくらいには、ずっと気にしている相手だった。
彼女は、いつも自分に自信がない感じで、その場にいるのに自分はいないという不在の顔がうまい子だった。
あらゆることに無関心であるのとは違う。起きてるドラマは全て他人事で、自分はつねにその外にいて眺めているだけだから、というような控えめさがある。
自己肯定感が高くて気が強い女の子の方が好みだったはずなのに、正反対の彼女にいつしか惹かれていた。
独占欲は、彼女が自分以外の男を選ぶのも自分以外の男に選ばれるのも面白くない、という形で生まれて、今しかないというタイミングで告白した。
失恋、酒、同窓会、いいなと思う相手とうまくいく可能性を高めるためのラッキーアイテムは人それぞれだろうけど、俺の場合は好きなバンドのライブだった。
彼女も好きだったバンドのライブに、彼女だけを誘って一緒に聞きに行った帰りに告白して、付き合うことになった。嬉しかった。でも、振られないだろうな、となんとなく分かっていた。
歩いているうちに、酔いはさめていく。見慣れた街並み、つぶれた店、新しくオープンしたらしい知らない店。
でも、と思う。
彼女は、たぶん、俺のことが特別に好きなわけではなかったと思う。
俺が彼女を好きだって告ったから、まあいっか、ってなっただけで。本当はそうだよな、と彼女に確かめる気なんてないし、俺から別れを切り出す気は今のところないけれど、いつまで俺たちはこのままなのかなとは、時々思う。
告白した時は、自分が無邪気でいればいいだけだと思った。完璧に、無邪気になりきれたらよかった。
だけど、そんなことはできなくて、逆に、俺は自分の中にあったはずの無邪気さを徐々に失っている気すらしている。
実家が見えてきたところで、スマホが音を立てたから確認すると、彼女からLINEのメッセージが届いていた。
たぶん、すぐに謝らなくていいときつい口調で言ったことを、彼女はうっすらと気にしているんだろうなと思った。
<車とかにひかれないで、気をつけて帰ってね>という言葉と、おやすみの文字付きのコジコジのスタンプが届いていた。
今電話をかけても彼女はまたすぐに出るだろうし、午前三時にかけたって出ると思う。そういう人だった。尽くそうとするタイプの子。
でも、それは俺が好きだからというわけでは、たぶんない。じゃあ何だ、と聞かれてもうまく答えられないけれど、俺だからというより、彼氏だから、俺が彼女を選んだ物好きな男だから、という感じが強い。
コジコジは、タップしたら期間限定の無料スタンプだということが分かったので、俺もすぐにダウンロードして、同じスタンプを彼女に返す。
同じものを持っていたい。彼女よりも俺の方がたぶん女々しい。でも、そういう俺の重さを彼女は知ろうとしない。
上澄みばかりに触れてすくって握ってみたところで、ひらいてみたらほとんど何もない。
虚しくて、でも好きで、足りなくて、足りないくらいがちょうどいい、わけがない。
時々、深いところまで強引に触れようとして、溢れ出した彼女の本音や弱さをかき集めて、俺は俺の恋愛をしている。
自分が手に入れた感じがしないから満たされてないのか、彼女のことが好きだから満たされないのか、そのあたりは考えてみたところではっきりとは分からないから、真剣には考えない。
◇
地元から、大学のある街に戻った日は、一度、自分の部屋で雑に荷ほどきをしてから彼女に会って、そのまま彼女の部屋に泊まった。
彼女の狭いセミダブルのベッドの上で、同じ毛布にくるまって、地元の友達の話を彼女が聞いてはくれないから自分からして、少しつまらない気持ちになった。
若者のすべてが居酒屋で流れていたことを報告したら、彼女は、フジファブリックだったら茜色の夕日が一番好きだと嬉しそうに言って、ふたりで横になったままフジファブリックを少し聞いた。
それから、フジファブリックをシャッフル再生させたまま、ぼんやりと自分のスマホでインスタを眺めていたら、久しぶりに元カノの投稿が流れてきて、そういえば、と思う。
元カノは、俺とのことをインスタによく投稿したり、撮った俺との写真や俺単体の動画をストーリーズで流したりしていたけれど、彼女はそういうことを一切しない。
アカウントはあるのに、投稿はひとつもなくて、ストーリーズで、時折、バンドの曲を共有したり、空をのせたりするだけだ。
そういうところも、付き合う前はいいなと思っていた。なのに、今は、なんでしないんだろう、とうっすら思う。
「かなのって、あんまりインスタやらないよな」
すぐ隣にいる彼女に聞いたら、彼女はぼんやりとテレビを眺めたまま、「誰も興味ないだろうなって思うから、躊躇っちゃう」と寂しいことを言った。
「そんなことないよ。俺、かなのちゃんの見たいし」と言ったら、「なんで朝日が」とくすくす笑われる。本気だったのに冗談だと思われたようだった。自分に向けられる関心を、彼女はいつもあまり本気にしない。
俺自身は、インスタは完全に見るだけで、ストーリーズでさえほとんどしないくせに、彼女にだけ求めるのは違うよなと思いながらも、元カノみたいに少しはあげてくれてもいいのに、という気持ちもなかったことにはできなかった。
言葉にできない分、毛布の中で引き寄せて、身体をくっつける。彼女は拒むことはなかったけれど、テレビをひたすら見ていた。
自分の思考の鬱陶しさを消したくて、その後しばらく、インスタのリール動画をぼんやり眺めていたら、町中華の映像が流れてきて、急に中華の口になる。
後ろから抱きしめるような体勢のまま、彼女に「明日、久しぶりに中華食べに行く? バイト終わった後になっちゃうけど」と提案する。
そうしたら、彼女はテレビからようやく顔を俺の方に向けて、ちょっと困ったような表情で、「飲みに行く約束してる」と言った。
「だれと?」と俺は躊躇うことなく聞いてしまう。彼女は嫌な顔ひとつせずに俺の質問に答えようとする。
彼女の口から出た名前は、サークルの同期で、俺もよく知っている女子三人だった。彼女とその子たちが仲良くしていることは知っているし、自分も知っている相手だと安心する。
でもこの安心を、彼女には悟られたくはなくて、「仲良しだもんな、かなのたち」と、自分が聞いたくせにそこまで興味がないというトーンで返す。
俺は不誠実で、なのに彼女は俺が不誠実だって知らないから、「やさしいからみんな」と嬉しそうに小さく笑って、俺を自分のさみしい瞳に真っ直ぐ映す。
誠実でいたい、彼女と同じ誠実さがほしい。見破ってほしくないふりをして、本当は見破ってほしい。俺の弱さも、不誠実さも。彼女にだけ見破られたい。
すぐにたまらない気持ちになる。
自暴自棄に似た性欲が生まれて、俺を見つめる彼女に口づける。
「どこで飲むの」
「大学の近くに新しくできたところ」
「じゃあ、バイト終わり迎えいく。大学の裏門とこで待ち合わせして一緒帰ろ」
「……ありがと。朝日が疲れてなかったら」
「体力あるから」
「体力は、たしかに、朝日あるよね」
今度は、彼女から、口づけられる。
毛布の下で足を絡めて、口づけを深めていったあと、舌だけを出して、互いに舌先をくすぐり合う。
男を気持ちよくさせるのが上手いなと思う。自分が気持ちよくなることよりもきっとはるかに。
そんなことできるなよ、と童貞の時のような気持ちになる。彼女がそういう行為に慣れている分だけ、加虐心が生まれる。いつになったらこういう自分から卒業できるんだろうと思う。
明るいままの部屋で、毛布をベッドの下に落として、彼女が身につけているものを全て脱がせる。
彼女は明るいところで裸をみられることが好きじゃないって知っているのに、今日はわざと嫌がることをしようとしていた。
照明のリモコンに手を伸ばそうとするから、その手を掴んで、「今日、このままがいいんだけど」と無邪気なふりをして伝える。彼女は少し嫌な顔をしたまま、「萎えちゃうかも、朝日が。消そうよ」と、素肌を手で隠しながら馬鹿な事を言う。
「なんで俺が萎えるの。そんなわけないじゃん」
「でもさ」
「……別にでも、かなのが嫌なら、いいよ、やっぱりいつも通り、ちょっと暗くしよ」
聞き分けのいい恋人のふりをしながら、ほんの少しだけ納得がいっていないみたいな顔はみせる。言葉では相手に寄り添うふりをするくせに、リモコンに手を伸ばさない。
嫌がることをしたい。こんな気持ちが正しいわけないのに、じゃあ、どうやって、あなたに俺は近づけばいいのか、時々、本当に分からなくなる。
喧嘩してみようと思ったこともあった。喧嘩してみたかった。俺を傷つけてほしかった。失敗した。
傷つけることだけはいつも失敗しない。だから、きちんと好きでいることに、成功したことがない。俺がこんな計算をしていることなんて、彼女は気づいていない。
あのね、かなの。かなのが付き合っているやつは、こういう男だよ。絶対、言わないけどな。
「やっぱり、このまましたい」と、彼女は俺に手を伸ばして、俺の顔色をうかがうように微笑んだ。
しよう、ではなく、したい、という言葉遣いだって、気を遣わせたのだと分かっていた。それでも俺は鈍いふりして、彼女にまた口づける。
「ほんとにいいの」
「いいよ」
「無理させてるんだったら、俺、嫌なんだけど」
「朝日とのことで、無理とか、私、あんまりないから」
それもそれで寂しくて、もう自分が彼女に何を求めているのかさえ、分からなくなってくる。
そのまま行為に及んで、彼女の歪む顔をじっと見つめていた。そうされることも彼女は好きじゃないって分かっているのに、じっと見つめていた。
顔を覆おうとする手をシーツに縫い付けるように固定して、顔を背けようとしたら無理にキスをして。最初から最後まで、自分本位に行為をすすめて、それなのに、私を雑には扱わないから朝日は優しい、と言わんばかりの顔で彼女は俺を自分の目に映すから、そんなわけないだろ馬鹿じゃねーの、と思った。
試してばかりいる。試すたびに傷つけて傷ついて、でも無傷で善良な顔をし合いながら、そばにいる。
明るくて暗い恋愛で、二人だけで幸せになるにはどうしたらいいんだろう。そういう歌を、誰か歌ってほしい。そうしたら、それを彼女と二人で聞きにいって、俺は、ちょっと泣くと思う。
◇
次の日の夜、バイト終わりに大学に向かったら、すでに裏門には彼女の姿があった。
手を振ったら、控えめに振り返してくれる。
ひどいセックスをするくせに、俺が手を振ってそれを彼女が自分に向けられた手だとちゃんと分かって振り返してくれるだけでも本当はうれしい、という気持ちも俺の中にはあって、傷つけたいも、絶対に傷つけたくないも、どちらも本当で、嫌になる。
彼女のマンションに並んで歩いて向かう。
その途中でコンビニによって、ピザまんを半分こして食べた。彼女は自分の話をあまりしないけど、サークルの同期との飲み会が楽しかったのか、飲み会でした話を少し俺にもわけてくれる。
「若者のすべて、流れてたよ」
「やっぱり居酒屋だと、どこでも流れるのかもな」
「KIRINJIも天才バンドも流れてた」
「どの曲流れてた?」
「エイリアンズと、ダラダラ」
「いいじゃん、今度そこ行きたい」
「うん、おすすめ。料理もおいしかったから」
「一緒に行こ。他の人も誘うのありじゃない? 久しぶりに、サークル飲み俺もしたいし」
「やった」
「かなの、嬉しいの?」
「……うん」
すぐにたまらない気持ちになる。
彼女の手をすくって、いつもとは違ってわざと、恋人繋ぎではなくて、握手するみたいに繋いだ。
俺たちの横を通り過ぎていった車の行方をぼんやりと追って見えなくなった後、「今日、一緒に風呂入ろ」と、無邪気を装った顔を彼女に向けて笑ったら、彼女は俺を見上げて、うすく笑い返してきた。
何を考えているのか分からなくて、傷つけたい、が優勢になる。
いや、違う。もっと、やさぐれたような気持ちだった。脈略なんて何も無く、ひとりで拗ねているような、くだらない気持ちになっていた。
「最近、朝日、あれだね」
「あれって何」
「あれは、あれだよ」
「あー、ね。溜まってるのかも。ヤりたいだけではないけど、今ちょっと風呂でエロいこととかしたくなってる。内緒にして」
「そんなの誰に言うの。いいよ、別に、お風呂でしても」
彼女は、ふふ、と安心した顔で笑って、口を変な風にもごもごとさせた。
付き合ってから、本当はずっと、性欲しかない男だって彼女に思われないようにがんばっていた。
実際に、性欲を満たすために付き合っているわけではなくかったし、それが第一ではなくて、本当にあなたが好きだから、あなたと付き合っているんだって、彼女に思ってもらうことに必死になっていたこともあった。
だけど、付き合って八ヶ月が経った今はもう、なんとなく理解していた。
彼女は、俺に好意を向けられるよりも、ただの性欲を向けられる方が安心した顔をする。そういう人だった。
いつも不安そうな顔ばかりで、俺の好意をそのまま受け入れることは難しそうにしているくせに、俺の性欲は、自分から引き出そうとすることだってある。
それが何でなのかは俺には分からなくて、でも間違いなく、俺は、彼女よりは彼女のことが好きだと思う。
やさぐれた気持ちのまま、だって、かなのはどうせ性欲の方が安心するんだろ、という目で、彼女を見下ろす。
我ながら、冷めた目をしていたと思う。
好きなのに、関係に傷をつけるようなことばかりしてしまう。そのまま彼女を見ていたら胸が痛くなったから、視線をずらしてまた前を向いた。
いつも、いつも、本当は、傷つけたかった。傷つけた分だけ、傷つけ返して欲しかった。絶対に、傷つけたくもなかった。
でも、絶対に傷つけないことよりも傷つけることの方が何百倍も簡単だった。傷つけてないような顔をして何度もずるいやり方で傷つけていた。
彼女はきっとそのほとんど全てを知らないまま、俺の隣にいる。
好きなのに、足りなくて、どうしたら、装おうことなく、偽ることなく、彼女の善良な恋人になれるんだろうか。
情けないことを彼女の隣でひたすら考えながら歩いていた。
するとふいに、握手するみたいに繋いでいた手が一度ほどかれて、指と指をしっかりと絡めるような恋人繋ぎに変えられた。
びっくりして、すぐには何も言えずに、彼女に視線を戻す。彼女はじっと前を見つめて黙ったまま、ただ不安げな表情を浮かべていた。
街灯と車のライトに照らされて、彼女の彩度が毎秒変わる。遅い速度で点滅しているように、俺の目には映っていた。
今の今まで傷つけたいと思っていた。
だから、その分だけたまらない気持ちになってしまう。
甘えるのが本当に苦手なくせに、彼女が手の繋ぎ方を自分から変えたこと。性欲の方が安心するんだろ、なんて、嫌なことを考えていた俺の隣で、そんな俺の気持ちなんて全く知らないくせに、彼女が精一杯甘えようとしてくれたこと。
傷つけたい、のすべてが、絶対に傷つけたくない、に勢いよくひっくり返って、その反動で、少し泣きたくなった。
「かなの」
「……なに」
繋ぎ直してくれた手にぎゅうっと力をこめて、じっと彼女を見つめる。彼女は、恐る恐るといった様子で俺を見上げた。
その刹那で、頑張ろうと思えてしまう。やっぱり頑張らなければいけないと思い直す。
できる限り、無邪気でいる。誠実でいる。だから、やっぱり、これからも、俺のこと好きでいてほしい。もっと好きになってほしい。
「ほんとにかわいい。今、どきっとした」
重い気持ちを、できるだけ軽い言葉に変えて彼女に伝える。
そうしたら、彼女は、「そういうの、朝日いいんだよ。でも、うん。……うれしい」と、困ったような、嫌がっているような、不安そうな、でも少しだけ嬉しそうな、信じられないような、もう俺にはよく分からない表情で頷いて、すぐに視線を前に戻した。
その一連の動作をじっと見つめながら、せめて今この時から日付が変わるまでは、今夜だけは、いったん許そうと思った。
自分の情けない気持ちも、ひどい気持ちも、それ以外の全ても。
明るくて暗い恋愛で、二人だけで幸せになるために、今夜だけは、今夜だけは。誰も歌わないから泣くことでもなくて、でも、今夜だけは。今夜だけは。
俺は、夜の光でゆるやかに点滅する、何を考えているのかはっきりとは分からない彼女の横顔を、分からないまま見つめる。
ただ、見つめたままでいた。
持て余してしまう夜が、いっぱいある。
たとえばバイトも大学の課題もない、部屋にひとりきりのしんとした夜。私は、気を抜くと感傷的になってしまって、楢原のことを考える。
寂しさや虚しさに責める宛先があるのはいい。体内で漂流してしまうような名づけようのない感情はあまり好きじゃない。
悲しくなるのも、切なくなるのも、楢原のせいだって分かるから、あとは楢原のことを考え続けて、腹を立てたり、泣いてみたりすればいいだけだ。
恋愛の思考回路にはもうくっきりと轍があって、私、何度も同じ寂しさや虚しさを抱くことの意外性のなさに、安心している節すらある。
◇
大学の講義が終わって、電車で自分の住む街まで戻っている夕方のことだった。
夜は、楢原が私の部屋に来るはずだったのに、数分前に、<百、ごめん、今日無理になった>というメッセージが届き、車窓の向こうの景色は、その刹那にがたんと彩度を落とした。
いいけどなんで、と一度は入力したけれど、すぐに消して、<了解、またこんどね>とだけ送信した。
既読はつかなくて、想像の中の楢原は、楢原が好きそうな、私の知らない女の子と、私の知らないソファでいちゃついていた。
惚れたものが負け、とは言うけれど、惚れたものにしか勝負の概念は存在していなくて、楢原は自分が勝っていることすら理解していない。
だから、私はさらに負ける。
楢原とのトーク画面をしばらくじーっと見つめていたけれど変化はなかったから一駅分で諦めて、インスタを眺めて気を紛らわせることにした。
リール動画は、どうでもいい映像ばかりを流してくれるからいい。頭を使うことなくぼんやりと息をする、その時間欲しさにリール動画を眺めて、この世界ってどうでもいいことで溢れているなと感心すらする。
だけど、途中で、ヤバいエピソード五選なんて至極くだらない動画が画面に表示されて、その中で三位に輝いていた、喧嘩したら彼氏の歯ブラシでトイレ掃除をする、というエピソードに、私はどうしてか釘付けになってしまった。
楢原にドタキャンされた切なさを紛らわせるためにリール動画を見ていたはずなのに、喧嘩もできないし、彼氏でもないのに、私の部屋に自分の歯ブラシを置いている楢原は、憎くいほどに無防備だよね、そういうところも好きで、でも、復讐のひとつくらいはいつだって楢原にしてみたい、に思考が行き着く。
常識人の顔をしながら、私はいくらでも理性を失うことができるから、部屋に戻ったら、楢原の歯ブラシで、トイレ、はさすがに嫌だから、洗面所の掃除をしようとかたく決意して、また楢原とのLINEのトーク画面に戻る。
既読は、ついていない。
楢原とは、バイト先で出会った。
大学は違うけれど、同い年で、ちょうど同時期に同じ居酒屋の求人に応募して採用された私たちだった。
楢原は、冗談を交えながら話すことも聞くことも上手で、何よりも背が高くて顔がよかったから、初手で半分やられていた。
女の子の好意をこれまでうんざりするほど押し付けられてきただろうな、と分かるような容姿で、その好意の数々をあまり悪びれもせずに弄んできたのだろうな、と分かるような性格をしていた。
そんな彼に、簡単な恋愛しかしてこなかった簡単な私が惹かれてしまうのなんて、あっという間だった。
最初はただのバイト仲間だったけれど、バイト終わりにバイトの人たちも含めて飲みに行くようになって、それから少しして、サシでも飲みにいくようになって、その何度目かで楢原の部屋に誘われた。
その時にはもう楢原のことを好きになりすぎていたから、拒む選択肢は、私にはなかった。
慣れてるんだろうなと頭では分かっていたけれど、楢原と楢原の部屋でセックスをして、この男は本当に慣れているんだなと自分のからだで理解した。
俺、けっこう遊んでるんだよねと、自分のだらしなさをわざわざみんなに言いたがる、自分に酔っているタイプの男は大学の知り合いの中に何人かいたけれど、楢原にはそういうみっともなさはなくて、根っこの部分できちんと不誠実な男だった。
もしかしたら付き合うことになるかもしれない、楢原も私を特別に好きでいてくれるのかもしれない。
そういう純粋な期待は、セックスが終わった後の、私に対する楢原の淡白な態度によってあっさりと打ち砕かれて、「百、セフレとかそういうのどう。ちなみに、俺はアリな」という楢原の提案によって跡形もなく消え去った。
その時、久しぶりのセックスのあとだったから、まだ下腹部には痛みがうっすらと残ったままになっていて、セフレという言葉は耳の奥ではなく、腹の下でじんと痺れるみたいに響いた。
セフレか、と思った。
それ以外の選択肢が楢原には存在していないことは、楢原の目を見ればはっきりと分かった。
そんな相手の前で、傷ついた顔をみせる度胸も、女としての経験も私にはなくて、物分かりがいいふりをして、「……ありかも。楢原、友達くらいがちょうどいいもん」と答えた。
楢原は、「それはそれでちょっと傷つくじゃん」と、私のことなんて何とも思っていないからこそ、わざとらしく傷ついた顔をつくって、本当に傷ついた人間であればできるはずがないような気安い口づけをよこしてきた。
ただの友達にセックスが加わったら、セックスのためだけの友達に変わってしまう人たちも、世の中にはいるのだろう。でも、楢原はそうではなかったから、私の恋心は余計にびしょびしょになった。
セックスをする前と変わらずふたりで飲みにも行ったし、セックスをしないままどちらかの部屋でだらだらと過ごすだけで終わることだってあった。
セフレになってからしばらくは、楢原の部屋に私が行くことが多かったけれど、楢原が居酒屋のバイトを扶養控除の関係でやめてからは、楢原が私の部屋に来るのがふつうになって、楢原は、歯ブラシ、寝るとき用のスウェット、コンタクトの予備なんかの私物を私の部屋に置くようになった。
楢原のことを、私は、どんどん好きになっていった。
触れてくれるたびに、私の話に笑うのをみるたびに、すぐ隣で穏やかな寝息を立てているのを聞くたびに、楢原と呼ぶと、ん、どうした、と楢原が優しい顔をしてくれるたびに、どろどろ好きになっていった。
付き合える未来なんてまったく想像もできなかったけれど、よく妄想はした。
楢原の気が急にがらりと変わって、うっかり私に告白してしまって、私と楢原が付き合うことになる妄想。セックスしたあともたくさん甘やかしてくれて寝言で百と私の名前を呼ぶのを聞く妄想。馬鹿みたいな妄想、妄想、妄想。
楢原に好きになってほしいという願いよりも、楢原がセフレじゃなくて百といったん付き合ってみるかとか思わないかなあ、という情けのない願いのほうが大きかったけれど、楢原の目に自分だけが映っている時は、楢原が私で感じてくれている時は、付き合うとか付き合わないとかそういうことは関係なく、楢原が私を大好きになってくれたらいいなと思わずにはいられなかった。
だけど、私、好きになればなるほどに、楢原を憎むようにもなっていった。
私が楢原を好きなこと、そのものには楢原はまったく関係がなくて、それは楢原のせいでも何でもなくて、私が勝手に抱いた感情なのに、私は強がることは上手くても本当に強いわけではないから、関係ないままでいる楢原を、大好きなまま、本当に大好きなまんまで、じゅくじゅくと恨んでしまうのだった。
楢原が好き。
楢原の歯ブラシは、洗面所の鏡のふちの汚れをとったら、見事な灰色になったけれど、水にさらして指の腹で擦ってみたら、歯ブラシの汚れはほとんど目立たなくなった。
復讐しようとしたはずなのに、全然すっきりした気持ちにはなれなくて、次に楢原が私の部屋に来た時、この歯ブラシで歯をみがいた楢原と自分がキスをしなければならないのかと考えると吐き気すらして、結局、楢原の歯ブラシは、掃除後すぐにゴミ箱に捨てた。
次に、私が楢原の歯ブラシで洗面所を掃除したことと、その歯ブラシを捨てたことを思いだしたのは、楢原が私の部屋にやって来た夜で、歯ブラシを捨ててからは一週間と少しが経ったあとだった。
私が送った、<了解、またこんどね>にはずっと返信をよこさず既読すらつけなかったくせに、そんなことは楢原の中ではふつうのことで、彼は、私と会う気分になったタイミングでしか、私とのトーク画面を開いてメッセージを送ってくれない男だった。
私は楢原を好きになった時点で敗者だから、楢原との関係において主導権を握れたためしがなくて、振り返ってみたら、私とのことはすべて、楢原の思い通りになっているような気もするのだった。
<今日の夜、あいてる? 飲み会、百のマンションの近くであるから。それ終わったあとになるけど>
楢原からメッセージが送られてきた時、スマホを触っている最中だったから速攻で既読をつけて、<ぎりぎりあいてる>と返事をした。
送られてきたメッセージにすぐに既読をつけるとか、すぐにメッセージを返してしまうとか、そういう部分で相手に好意がばれたらどうしよう、なんて不安になる片想い初期のような感情は、私の中にはもう存在していなかった。
それは楢原が、そういうところで自惚れてくれるような男ではないからにほかならないけど、もしも楢原が、私の好意に気づくことがあったとしても、楢原にはそれにかまう気などまったくないだろうなと思う。
<ぎりぎりってなんなの>
<あいてないこともないってことです>
<会いたいって言ってみて>
<やだ>
<おれもやだ>
<会いたいょ>
<よのサイズ怖いな>
<じゃあぜんぶ取り消し>
<だるい飲み会だから、たぶん九時くらいにはそっちいける>
<了解、待ってるね>
<会いたいょ>
<ならはらもこわいね>
<おれはぎりぎりセーフ、百はアウト>
<こわいょ>とすぐに送り返したけれど、それには既読がつかないまま夜になって、楢原は午後九時過ぎに私の部屋のインターホンを鳴らした。
私は、楢原が来る前に、残り二つとなっていた避妊具のうちの一つを、未使用のまま、生ごみ用のごみ箱に捨てて、その上にお菓子のごみをかぶせた。
その避妊具は楢原がいつかの夜に買ってきたもので、楢原しか使うひとはいなかったけれど、いないからこそ虚しくて、楢原は自分が買ってきた避妊具の数が、前に私の部屋に来たときよりも減っていたらどう感じるんだろうと考えてしまった。
避妊具の数なんて把握していない、別に減っていたところで気にしない、のどちらかが正解だって分かっているのに、ちょっと嫉妬する、とか、ちょっと面白くない感情になる、とか、存在しない不正解を求めてしまう瞬間が、私にはどうしてもあって、その時の衝動に抗うことはむずかしい。
片想い初期のような感情をこじらせていたほうが、はるかにましな気がしなくもない。
避妊具をこっそり捨てて、他の男とセックスをしているふりをする、なんてばかばかしい工作はおこなうくせに、楢原の顔をみるまで、センチメンタルと発狂の狭間で数日前に捨ててしまった歯ブラシのことは忘れていて、玄関の扉の隙間から楢原を見上げた瞬間に、私はようやくそのことを思い出すことができたのだった。
楢原が、寒そうにポケットに手をつっこんだまま私を見下ろして、「俺、ちょっと酔ってるかも。つまんなさすぎて飲み過ぎた」と、少しだけ根性が悪そうな笑みを浮かべる。
扉を完全には開けないまま、「どういう飲み会だったの」と聞くと、彼は寒そうにしているくせに私の部屋には入ろうとしないまま、「合コン」と何にも躊躇うことなく答えた。
「つまんなくないじゃん、合コンだったら」
「もともと乗り気じゃなかったのがだめだったかも。数合わせで行っただけだし」
「酔ってるように見えないよ」
「ほんと? めちゃくちゃ酔ったふりして早帰りしたけど」
「合コンに早帰りとかあるんだ」
「俺も、初めてしたけど、やればできるっぽい」
「あのね、楢原の歯ブラシ捨てちゃった」
「んえ? どういうこと。いまのどういう脈絡?」
「あはは、脈絡はないけど、楢原の顔見て思い出したから」
「じゃあ、今日は俺、百の部屋で歯みがきできないってこと?」
「うん」
「それ大分困るんですけど。どうせこれからも要るんだし。薬局、買いに行く」
「今から?」
「うん、まだ靴脱いでないし。一緒に来て」
「靴、履けってこと?」
「そもそも、百が歯ブラシ捨てるからじゃね。まあでも、履かせてほしいなら、靴くらい履かせてやるけど。あ、おんぶがいい? おんぶも、できなくはない」
「あはは、馬鹿じゃん。ちょっと、待ってて。寒いからコートだけ羽織る」
私は、一度玄関の扉を閉めて、急いで部屋までコートを取りに行く。コートを羽織って、靴を履いてから玄関の扉を開けると、楢原は壁によりかかってスマホを触っていた。
じっと画面を見つめる横顔に寂しくなりながら、「楢原、おんぶして」と冗談を言うと、楢原はすぐにスマホから顔をあげてくれて、私を見ながらうすく笑った。
「まじ?」
「まじ」
「靴とコート脱ぐならいいよ」
「あはは、何それ。嘘だよ、行こう」
「ん、行こ」
楢原は私に手を差し出したりはしない。セックスの時にしか、私は楢原と指を絡めたことがない。
でも、隣には並んでくれるし、歩くスピードだって私に合わせてくれる。
全く酔っているようには見えなかったけれど、たくさん飲んだのは本当だったのだろう。隣を歩く楢原からは仄かにアルコールの匂いがして、楢原の香水の香りに混じって、知らない花のような香りも微かにした。
私のマンションからは歩いて五分ほどのところにある駅前のドラッグストアで安物の歯ブラシを買った後、楢原が「カップラーメン食べたいかも」と言うので、薬局の隣のコンビニに寄ることになった。
コンビニには、たまたま同じ学部の女の子がいて、楢原と一緒にいる自分として「また明日三限ね」と笑えたから、私は少し気分が良くなった。まったく関係のない人が、楢原のことを私の彼氏なのかもしれないって雑に思ってくれたら、それだけでも少しは報われる。
そんなことを考えている私の隣で、何も知らない楢原は、日清のカップヌードルと日清のソース焼きそばを両手に取って、どちらにしようか真剣に迷っているようだった。
「どっちも食べたらいいじゃん」
「いや、そんなには食えない」
「カップヌードルにしたら? シーフード美味しいよ」
「知ってますけど」
「チリトマトも」
「まじで知ってるんですけど」
「なんかムキになってる?」
「別に。百は、どれにすんの」
「え、私も食べるの? あんまりお腹空いてないんだけど」
「一緒に食べよ、無理だったら、残り俺が食べるから」
「じゃあ、私は、どん兵衛のミニ、きつね」
「ミニとかダサ」
「は? うざ」
「はは、怒った。どん兵衛ミニな。俺、ノーマルにする、あと買いたいもの何かある?」
「買ってくれるの?」
「ん、ついでだし」
楢原は、どん兵衛のきつねのミニと日清のカップヌードルを積んで片手でもつ。
優しさとは、違う。思わせぶりとも、違う。だけど、楢原の気まぐれとかついでの行為に、私は簡単に嬉しくなってしまうし、嬉しくなりながら、あんまり私を喜ばせるなよぶん殴るぞ、と可愛げの欠片もない傷ついた少年のような心で思う。
楢原が買ってくれるというのに、欲しいものも特になくて、結局チロルチョコを三つ選んで渡したら、楢原は、「どういうチョイスだよそれ」と、機嫌良さげに破顔した。
楢原が好き。
でも、私、楢原の考えていることは、私と付き合う気がないんだってことと、別に私のことが特別に好きなわけじゃないんだってことと、面倒なことが好きじゃないってことくらいしか分からない。
チロルチョコ三つと、どん兵衛のミニと日清のカップヌードルをまとめてレジに持って行って会計を済ませた楢原は、インスタントラーメンはすぐに食べる気だったらしく、コンビニのイートインスペースにあったポットで湯を沸かして、手際よく食べる準備をし始めた。
「ここで食べるの」と聞いたら、「いや、食べながら帰る」と即答されて、その発想はなかったなと悔しくなる。
楢原の考えていること、一秒後にとる言動、そういうことを少しは分かりたいし、せめて分かったつもりにはなりたいのに、やっぱり全然分からなくて、時々、何なのそれはと思わず笑ってしまうような可笑しなこともするから、その度に、私は、楢原のことを好きになってしまう。
楢原は、私を、辛い気持ちにはさせるけれど、一緒にいるときは、決して退屈にはさせない。そういうところが沼みたいで、私はいっこうに楢原に萎えることができないでいる。
カップヌードルとどん兵衛のミニにお湯を注ぎ終えた楢原は、どん兵衛の方を私に渡して、コンビニの外へ出た。
薬局に向かった道とは別の方に歩き出すから、「どこ行くの」と聞いたら、得意げな顔で「内緒」と返される。
「そういうのいいって、楢原」
不満を言いながらも、楢原が楽しそうだから、私も楽しくなってしまって、なるほど私の情緒を不安定にさせて、私をしんどい気持ちにさせるのは、負の感情だけが原因じゃなくて、ようは負と正の感情のふり幅のせいなんだなと、変なタイミングで真理に気づく。
楢原が足を止めたのは、夜は昼に比べて人通りがめっきりと減る大通りにかけられた歩道橋の上だった。
見晴らしがよくて、国道の向こうの向こうまで確認できる。何台もの車のテールランプとヘッドランプが連なるように光っていて、私は、その景色そのものが美しいのか、楢原と見ているから美しく感じているのか、自分ではよく分からない。
「さっき飲み屋から百のとこ行くまでに、ここ見つけたから。一回、歩道橋の上で、ラーメン食べてみたかったんだよな」
「何それ」
「そういうのあるだろ」
「あるかなあ。楢原はでも、そういうとこあるよね、時々、変なことしたがる」
「生きてたら、だいたい何でも飽きてくるから。たまに、変なことしといたほうがいいよ」
「楢原のせいで、私まで変なことしなきゃじゃん」
「な。どういたしまして」
「感謝してないからね」
はは、と楢原が笑って、転落防止柵の上にカップヌードルを置いた。
車が、歩道橋の下を通り過ぎていく。
楢原とふたりきりで世界に浮いているような気持ちになる。夜を彩る何台もの車の光はどこまでもきれいに見えて、また、忘れたくない楢原との時間が増えてしまうな、と満たされて、それ以上に、心細さを覚える。
互いのからだに触れ合う時間よりも、こういう時間が増えてしまうことのほうが、怖いことだった。
どうせいつか終わると分かっているのに、セフレでもなんでもいいから永遠だったらいいなと思う。永遠のセフレ。でも、それは、永遠の恋人の下位互換でも何でもない。
隣で、楢原が麺を啜り出す。寒いからか、湯気が煙のように広がるのがはっきりと見える。
私は、じっと湯気を見つめていた。楢原の横顔を見つめていた。楢原は夜の歩道橋の上では眩しくなくて、それだけが救いだった。
「楢原。楢原の歯ブラシ、なんで捨てたか聞きたい?」
楢原がずず、と大胆に麺をすすって咀嚼した後、カップヌードルをまた柵の上に戻してこちらを見た。私は、まだどん兵衛の蓋をあけていない。伸びるよ、と楢原が言う。伸びた方が好きだから、と私は嘘を吐く。
「歯ブラシ、なんで捨てたと思う?」
「いや、分かるわけないって。なんで?」
「ムカついて」
「はは、どういうこと」
楢原は、本当に何も分かっていないという顔で笑う。
それからまたあっさりとカップヌードルに視線を戻そうとしたから、「楢原にムカついたからだよ」と完全に横顔になってしまう前に、私は言った。
私と楢原の下を大きなトラックが通り過ぎて行って、視界の端で車のライトが鋭く光るのをとらえる。
楢原は、私が歯ブラシを捨てた理由なんてさほど興味もないような表情で瞬きをして、「なるほどな」と0点の相槌を打った。
「楢原の歯ブラシでね、洗面所の掃除をして、そのままにしておくつもりだったけど、その歯ブラシで歯みがきした楢原とはもうキスしたくないなって思っちゃったから、捨てたんだよね」
「俺がさっき買ったのも、同じ目に合う可能性ある感じ?」
「ううん、もうない。一回、やってみたかっただけだから」
「俺の歯ブラシで掃除?」
「うん、そう」
「アホなの? 百も、結構変なことやってんじゃん」
私にはもう何も言い返す言葉がなかったから、楢原の意識はあっさりとカップヌードルに奪われてしまう。
掃除をして汚れた歯ブラシで歯をみがいた楢原とキスをして、盛大に吐くほうがよかったのかな、とある種のヒステリックをひっそりと起こしかけたけれど、平気なふりをするのは、私、本当に得意だから、楢原はもうこっちを見ていないのに、誰も私のことなんて見てないのに、何にも考えていないような顔をわざわざして、無駄に微笑んでみせた。
「ね、百ちゃん」
そんな私の気持ちの悪い頑張りも知らない楢原は、こちらを見ないまま、また口を開いた。私は楢原の横顔をじっと見つめたまま、うん? と首を傾げる。
「俺、時々だけど、百が何考えてるか、まじで分からないんだよな」
「……そんなもんじゃない? 何も考えてないし」
「ま、そうか。何も考えてなさそうではある」
「あはは、うん」
「でも、ほんとはそんなことないだろ、って、俺は言えちゃうんだけどな」
「ここにきて好感度あげておきたいの?」
「このひとだけは自分を分かってくれてるとか、人間、そういうの大好きだろ」
「種明かししてる時点で、私にそれする気ないじゃん」
「はは、ばれた。まあ、そうね。そういう騙してるだけのだるいことをしなくていいから、百、いいんだよな」
楢原は、私が何を考えているか分からないというけれど、それは、私が楢原の考えていることがほとんど分からないのとは全然違うと私は知っている。
分からない、に行き着くのに、私と楢原が同じ道を通ることはない。楢原の場合は、私のことを考えようとしていないからで、楢原が私を分からないのは、私のように相手のことを考え過ぎた結果では決してない。
どん兵衛の蓋をあけて、食べ始める。もう麺はけっこう伸びていて、でもどん兵衛のきつねのメインは、おあげみたいなところがあるから、楢原が隣にいるから、正直、何だってよかった。
食べ終わるまで、楢原はもう何も喋ろうとはしなかったから、私も黙っていた。
沈黙も苦ではなくて、そばにいるだけで幸せなのに、楢原は一秒だって私の恋人であったことはないし、これからだってない。
食べ終わった後のゴミは、楢原がコンビニでもらったレジ袋にまとめていれてくれた。一緒に買ってくれたチロルチョコをひとつ楢原にあげて、私も口直しにひとつ食べることにした。
口の中で溶かしながら、のぼってきた方とは反対の階段へ向かう。
楢原は、自分のやりたかったことができてうれしかったのか、歪に膨らんだゴミ袋を人差し指に引っかけて揺らしながら、私の少し前を歩いていた。
私は楢原の陽気な背中をじっと見つめながら、いつになったらやめられるんだろう、と考えた。
楢原のことを好きでいるのを。大好きでいるのを。好きな分だけ憎んでしまうのを。いつになったら、全部、くだらないことにできるんだろうと考えた。自分からは、絶対にやめられないと思った。やめられない。やめたくない。やめたい。やめたくない。楢原しか、選べないことだった。
「なんか、私、そろそろ彼氏ほしいかも」
歩道橋の階段を下り始めた楢原の背中に、呪いをかけるようにつぶやく。呪ったつもりなのに、臆病だから、今思いついただけの言葉を吐いたみたいな軽やかな声音になってしまう。
楢原は振り返らないまま、えー、と生温い声を返してきた。
「やめといたほうがいいって。面倒じゃん」
「楢原とは違うもん、遊びたいとかそこまでないし」
「百に彼氏できたら、百とできなくなるからやだ。そういうとこは、百ってちゃんとしてそうだし。まだやめて」
「あはは、まだって。楢原、私の他にもいっぱいいるでしょ」
「そんなにいないけど」
「……いることには、いるでしょ」
「そりゃ、百だけではないけど、まじであと三人くらいしかいないよ。そこはでもお互い様な気がするけど」
「そうだね」
でも、私は、楢原だけだよ。楢原が、セフレはどうかって提案をしてきた時から、ずっと、ずっと、楢原だけだったよ。たぶんこれからも、楢原だけなんだよ。
楢原は私のすぐ前にいて、何の警戒心も持ってない様子で階段を下りていく。指に引っかけたゴミ袋を、ご機嫌に揺らすのを止めないまま。
今、私が、楢原の背中を両手で勢いよく押して、突き落としたら、どうなるんだろう、と咄嗟に思う。
楢原は、大けがを負うのだろうか。歯ブラシを捨てた時は冗談で済んだけれど、さすがに階段から突き落とされたら楢原だってブチ切れるにきまってる。階段の途中で楢原を突き落とした体勢のままでいる私に向かって、楢原は、終わりの言葉をはっきりと告げてくれるのだろうか。剥き出しの嫌悪を、余裕のない楢原を、少しは私にくれるのだろうか。
でも、楢原には、大けがをしてほしくない。好きだから。ブチ切れてほしくない。好きだから。終わりの言葉よりも、剝き出しの嫌悪よりも、ほんの少しだけでもいいから特別な好意がほしい。好きだから。楢原、できるだけ、幸せでいて。好きだから。
楢原が好き。
階段を下り終えたところで、楢原の隣に並んで、歩道を歩く。しばらく行くと長い横断歩道があって、渡ろうとした瞬間に、タイミング悪く信号機の青色が点滅し始めた。
人通りも少ないし車も来ていなかったから赤に変わってものんびり歩けばいいかと私は考えていたけれど、楢原は違ったみたいで、急に私の手をすくってぎゅっと繋いだかと思ったら、こちらを見下ろして十代の少年のような顔で笑った。
「百、赤になるまでに渡りきるぞ」
そう言って、私の手を引いて、楢原が走り出す。
手を取られているから、私も楢原を追いかけるしかなくて、まったく予測できなかった楢原の行動にひどく戸惑いながらも、彼のすぐ後ろを走った。
夜の風が頬にあたって耳を撫でていく。
信号機の点滅、青、楢原の揺れる髪、青、汗ばんでない常時の楢原の手のぬくもり、青、足元で響く靴の音、青、青、赤。
外ではじめて楢原と手を繋いでいるとしっかり理解できた時には、もう手は離されていて、横断歩道は渡り切ったあとだった。
大学に入学してからは運動することがめっきりと減っていたからか長い横断歩道を走っただけで私は息切れしてしまって、はあはあと荒い呼吸を繰り返しながら、自分の手のひらを脇腹に押しつけて、まだそこに残る楢原の手の温度を、冷たいコートの温度で強引に上書きする。
ちょっとだけ、泣きたくなっていた。
「……もう夜なんだから、ゆっくり渡ればよかったじゃん」
「な、でも楽しかっただろ」
「全然」
「俺は、こういうの楽しいから」
楢原は、私に向き合って、息を少しだけ荒くさせながら、はは、と心底楽しそうに歯を見せて笑った。
もういっそ、死んじゃえ。
大好きな楢原の笑う顔を見た瞬間に、私の全部で、思ってしまう。
楢原、私の隣で。死んじゃえ。死んじゃえ。
死んじゃえ。
泣きたいのがちょっとだけではなくなって、だから、ちょっとだけ泣いてしまう。
でも、楢原は、気づかない。夜でよかったけれど、昼でもきっと気づかない。気づいてほしくて、気づいてほしくない。どちらの方が、より本当か、私にはもう決められない。でも、楢原は決めてくれない。
楢原が好き。
洗面所の掃除をした汚れた歯ブラシを楢原に使わせられない。
何の警戒もせず歩道橋の階段を下りる楢原を、突き落とせない。
自分の隣で死んじゃえと思える瞬間だってあるのに、ろくな復讐もできないままで、私は楢原を好きでいる。
「百、なんか変な顔してるけど、どうしたの」
「心臓、痛いから」
「はは、いきなり走ったから?」
「……うん」
「それは運動不足過ぎるだろ。おんぶ、してあげてもいいっすよ」
「いいって。……もう死んじゃいなよ」
「お前、それは言い過ぎ。傷つくわー。俺が、百におんぶしてもらおうかな」
「楢原、軽すぎて潰れるから嫌だ」
「はは、何それ。でも、百が潰れるのは絶対だめだな」
たぶん、これからもずっと。私、楢原だけを、好きでいる。