不倫、の頭文字に半濁点をつけたら、とろっとしている甘い菓子になるのは、日本語のバグだと思う。
コンビニのスイーツコーナーでたった一つ売れ残っていた百二十円のプリンを眺めていたら、昼に澤木さんに見せられた写真が脳裏をよぎった。
◇
「今度、二歳になんの。息子。可愛いだろ」
取引先から会社に帰る車の中だった。
信号待ちをしている間に、助手席に座る私に向かって澤木さんは人好きのする顔で笑って、自分のスマホの画面を、これ、と見せてきた。
それは、私が澤木さんに「クリスマスはどうしますか」と言った直後のことだったので、私は面食らい、咄嗟には返事ができなかった。
写真には、こちらに向かって笑う小さな子どもがいて、澤木さんには全く似ていなかった。
信号は、赤から青に変わり、澤木さんが車を再び走らせた。
じっと澤木さんの横顔を見つめたまま、返す言葉を見つけられずにいるなかで、自分の心臓だけはばくばくとけたたましく鳴っていた。澤木さんの表情には、戸惑いも居たたまれなさも哀れみの色も見当たらなかった。
私がはじめに好きになった彼の控えめな鷲鼻も、”息子”と呼んだ子どもの写真を見せられる前と後では一寸たりとも違わず、澤木さんは澤木さんのままだった。
「まあ、だから、クリスマスは当たり前に無理だよ。ばれちゃうだろ」
ハンドルを握る彼の左手の薬指には指環がないし、澤木さんは私に結婚していると伝えたことはなかった。
でも、私は会社に入ったばかりの時に別の人から澤木さんが既婚者であることは聞いていたから知っていて、私の部屋に澤木さんが来てお風呂に入っているときに、テーブルに無防備に置いていったスマホの通知欄を盗み見るようになってからは、自分の中で、それは人から聞いた話ではなく確かな「事実」にもなっていた。
だけど、既婚者だと分かっていながら、そのことを一度も私は澤木さんの前で口にはせず、澤木さんの方は私に隠しているつもりなのだと思っていた。
それだから、私は澤木さんが、自分が既婚者だってことを一切知らないでこいつはおれと付き合っているつもりでいるんだな、と考えているんだとばかり。
私が、そのことに気づかないふりをしているからこそ成立しているひそやかな関係なのだとばかり。
「澤木さん、結婚、してたんですか」
会社の建物の裏の駐車場に澤木さんが車を停めて、全ての音が止んだ車内で、ようやく私はそう言うことができた。
でも、知っていたから、知っていたくせに知らないふりをしていたあさましい人間にすぎなかったから、驚いたような声音にはならなかった。
これじゃあ駆け出しの大根役者みたいだなと思いながら、澤木さんの方に顔を向けたら、澤木さんはシートベルトを外しながら、はは、とあきれたように笑った。
「今更? 野波、知ってたろ。知ってて、こういうことになってるって俺は思ってたけど」
「知りません、でした」
「ほんと?」
「………」
「まあね、そういうことにしたいなら、俺は、別にいいですよ。野波が、今、知ったってことだったら、一応謝らないとだね。本当に悪かった。結婚してるし、子どももいるよ。クリスマスどうするなんて、君、ありえないこというから、改めて俺の状況を分かってもらわないとって思ったけど。なんか、あれだね、別のところでも認識にずれがあったみたいだな」
澤木さんは煩わしそうに眉間に皺をよせて、背もたれによりかかった。
「お子さんがいたことは、本当に知りませんでした」
私が慎重に言い直すと、彼は「本当にって。まあ、どこからかが本当かどうかなんて、本当は、どうでもいいんだけどね」と答えて、疲労や憂鬱を私に分からせるためだとしか思えないような溜息を、長く吐いた。その音は耳に触れた瞬間に凍てつくような冷たいものに変わってしまって、耳の表面が痺れたように痛んだ。
新卒で入った会社をすぐに辞めてしまったあと転職活動をしばらく続けて、今の会社になんとか転職できた。
澤木さんは直属の上司で、彼の下について一年と少しが経ってから、私は澤木さんとそういう関係になった。
どちらからはじめたのか、決定的なはじまりがなくても、ゆるっとはじまってしまうものだってあるのだった。ただ、性的な触れ合いをはじまりにするのだったら澤木さんからだった。
それから、ずるずると半年ほど恋愛じみた関係が続いて、今、私は二十六、澤木さんは三十三だ。
彼は仕事のできる人だった。いつも落ち着いていて、威圧的でもなく、淡々と、つまらなさそうに自分の役割をただこなす人だった。
部下である私に必要以上の優しさをくれはしないけれど、これはこれでとても美しい働き方だなと、私は、彼に憧れていた。憧れが焦げて恋情に変わるのなんて、しょうもない私みたいな人間ならば、あっという間だった。
きらめきとか、ときめきとか、そういうものを欲して、私は、澤木さんに恋していたわけではなかったけれど、しんじつ、そういうものも、もらってしまっていた。
忘年会で酔いが深まる最中に堀りごたつの下でこっそり靴下越しにつま先で私の脛をつついてきた大人気のなさや、私の住むマンションの入口から部屋まで手を繋いで「離したくない手だなこれ」と言った少年のような笑顔。淡白さからははみ出たそういうギャップにどきどきした。
気持ちがいいキスを丁寧に私に仕込んだのも彼だった。セックスの時にはたっぷりと甘く酷い男になるところも、穏やかな寝息も、汗ばんでいてもなおさっぱりとした体臭も。彼の持つどの色彩にも私は私の恋心を見つけることができてしまえるようになってしまっていた。
でも同時に、澤木さんがとても薄情な人間であることも理解していた。
まさか、結婚していることを私に言わなかったのが、伝えて面倒になるからではなく、どうせ知っているだろうから、ということだとは思わなかったけれど。
かなわない恋だと分かっていたのだ。せめて、その悲壮感にひとりで酔い続けられるような、悲劇的な恋愛であってほしかっただけだった。
既婚者だと知っているのに、知らないふりをして恋愛しているいけない女と、既婚者だと嘘を吐いてるのに、それでも気持ちを止められない理性の半分ない男。
そういうことのはずだった。
だのに、そうでないならもう、それは本当に、ただ、愚かで、倫理観の欠片もなく、浅ましく、光のある言葉では何にも回収されないような、それでもいいとはどれだけ酔っていても思えないような、汚いだけのいい年した大人ふたりがやるような。
「不倫」
「ん?」
「不倫、ってことです、よね。私と澤木さんの今の状況って」
澤木さんは、私の言葉に驚いたような顔をして、首を傾げた。
薬指に指環はないけれど、もう彼は誰かの父親なのだった。二年よりも前から、私と出会った時にはすでに、そうなのだった。私はうっすらとした吐き気を感じて、俯いた。
正しかったことなんてないけれど、自分が思っていたよりも自分も相手も正しくなかったのだということに、少し耐えられなくなって、不正解にもグラデーションがあるんだ、と分かった。
「何言ってんの、今更。それ以外の何でもないだろ」
「………」
「どうした? 俺が息子の写真を見せたから、そういう言葉、わざわざ口にしたくなっちゃった?」
「………」
「まあ、なんでもいいけど。君の気持ちが変わったところで、状況は何も変化してないよ。俺は君のことが可愛いなって思うけど、君も俺を好きでいてくれているんだろうけど、最初から最後まで不倫ではあるでしょ。離婚するつもりもないし。野波は、聞き分けがいいから、分かってくれてると思ってたけど、違うの」
そう言って澤木さんは先に車から降りた。
何でもない顔で会社に戻らなければならない。その場にひとりでとどまることなんて許されず、私もシートベルトを外す。
澤木さんは、助手席のドアを開けて、私に手を差し伸べてくる。
その手が憎いくらい温かいことを私は知っている。その手がどう私の身体に触れるかも、私は知っている。どう私の髪を撫でるかも、どう私を抱きしめるかも。でも私のための手ではない。今までも、これからも。
会社の人に見られたら、とそれこそ今更なのに、今更なことも含めて、本当に怖くなってしまう。
首を横に振ってひとりで降りたら、「あんまり拗ねないで。その拗ね方、俺は好きじゃないよ」とちぐはぐな文句を押し付けて、彼は私に背をむけてすたすたと建物の方へ歩いて行ってしまった。
あなたが平然と不倫をする人だとは思いませんでした、失望しました、だなんて、言えるわけがない。そこまで正しくないとは、思いませんでした、失望しました。知らないふりをしていた私にも、気づいてたなら同じように失望してください。お願いだから。失望し合って、それくらいしか、もう二人だけで独占できるものはないじゃないか。違う。そんなこと思ってない。
ただ、本当の意味で、失望しました。同じように失望してください。澤木さん、あなたは正しくないのに、いつも正しそうな顔ばっかりしてたじゃないですか。気持ち悪いんですよ。私たち、ほんときしょすぎですよ。言えない。だって、そうだ。そもそも、失うための望みだって、正しいものではなかった。
だから、失えるものなんて何もないのだった。
私の気持ちが勝手に変わっただけで何もしていることに変わりない、という彼の言葉は、皮肉にも、不正解の中では一番正解に近かった。