お返事いただけるとは思わず、驚いています。
 E先生は壁に衝突した勢いで右腕と胸骨を骨折し、入院しました。この事件について表立って何か言われることはありませんでしたが、人気のある先生だったのでクラスメイトの目は冷たく、無傷の僕は針の筵でした。でも僕のせいなので仕方がありません。

 事故から一週間後、B君の提案で、僕はTちゃん、B君と一緒にお見舞いに行きました。
 先生は六人部屋の窓際のベッドに、一人で入院していました。
「貸し切りですか、ラッキーですね」
 軽口を叩いたB君に、先生は曖昧に笑っていました。若くてきれいだった先生が、げっそりとやつれて骸骨みたいでした。
 病室にはぷんと消毒薬の匂いが漂っていました。薄暗くて陰気な雰囲気です。こんな所にいたら、ますます具合が悪くなるのではないかと、僕は心配になりました。
 先生は時々、仕切りカーテンの向こうや備えつけの家具の裏などに視線を走らせ、落ち着かない様子でした。口数も極端に少なく「へぇ」「あぁ」などと、消えそうな声で相づちを打つばかりです。
 ただ、Tちゃんが気をきかせて「カーテン開けましょうか?」と、パイプ椅子から腰を浮かした時だけ、

「駄目、覗かれるから!」

 と、大声を出しました。
 病室は四階です。僕たちは先生の言っている意味がよく分からず、顔を見合わせました。
 気まずくなったのか、TちゃんとB君が飲み物を買いに行きました。そのすきに僕は先生に尋ねました。

「あの日、先生は何を見たんですか?」
 
 先生の顔がみるみる白く歪みました。

「何も見てない」
 
 強い口調でした。それきり先生は僕を見ようとしませんでした。
 
 結局、僕たちは三十分もしないうちに病室を出ました。
「先生、変だったよね」
 帰り道、Tちゃんがじっと僕を見つめて言いました。
「生徒乗せて事故ったんだぜ。大怪我だし。落ち込んでても仕方ないんじゃね?」
 B君が軽い口調で答えました。
 後から思えば、僕を気遣ってくれていたのかもしれません。ですがその時は、あの異様な痩せ方を落ち込んでいると表現したB君の鈍感さに、内心呆れていました。Tちゃんはまだ何か言いたそうでしたが「そうね」と呟いて、会話を切り上げました。
 お見舞いは思ったより早く終わりましたが、あたりはかなり暗くなっていました。燃えるように赤い夕陽が、町を切り絵のように黒く染めています。
 会話はありませんでした。お調子者のB君も、むっつりと押し黙っています。
 駅まで十五分ほどの道のりを俯き加減に歩いていると、ふと電柱の後ろに白い影を見つけました。影はちょうど病院の正面に佇んでいます。
「ねぇ、あれ」
 呟きかけて僕は慌てて口を噤みました。

『覗かれるから!』

 半ば怒ったような先生の声がふいに甦ったのです。
頭の中に、四階をじっと見上げる白い女の像が結ばれていきます。女はにぃと笑ってこちらを振り向くのです。

 見ちゃだめだ。

 僕はともすれば顔を上げそうになるのを、必死で押しとどめました。
 どきんどきん。
 心臓が苦しいくらい脈打っています。
 白い影の潜む電柱に近づくにつれ、太鼓みたいに鳴り胸が破れそうです。
 たった数十メートルの距離が、ずいぶん長く感じました。

 もう数歩ですれ違う――。

 いよいよ心臓が弾けそうでした。
 どうして、車の滅多に通らない狭い道に三人並んでしまったのでしょう。
 一番右を歩いている僕は、女のすぐ前を通り抜けなくてはいけません。かといって、今さら一列になったり、二人の後ろに並ぶのも不自然です。
 僕は焦点をぼかし、足元を見つめて歩きました。
他の二人には女が見えていないのか、何も言いません。
 視界の隅で、白い女が顔をこてっと横に倒しました。あの左右てんでばらばらの瞳で、僕を見ているのでしょか。
 湿り気のある風が耳のあたりを撫で、酷い臭いがしました。あらゆる生ものを腐らせて混ぜ合わせたような強烈な臭いです。
 虫の羽音のような音が聞こえてきます。よくよく聞くと、話し声のようでした。念仏でも唱えるみたいに低く高く女が呟いています。

 聞いてはいけない。

 とっさに心の耳に蓋をしました。全身にぶわっと鳥肌がたち、ガタガタと震える膝で、僕は懸命に前に進みました。
 永遠のような一瞬でした。無事に女の隣をすり抜けた後も、しばらく震えは止まりませんでした。
「じゃあ俺、電車逆方向だから」
 そういって手を振るB君と別れた後、僕はTちゃんと同じ電車に乗りました。

 助かったのでしょうか。
 赤い景色が窓の外を走り抜けていきます。ふいに白い女が映りこむのではないかと、僕は気が気じゃありませんでした。

「ねぇ、何かあったの」

 耳元でTちゃんが囁くように尋ねました。固い声でした。ぶっきらぼうで、怒っているようにも聞こえます。僕は黙って俯きました。
「黙ってないで、何か言いなよ」
 Tちゃんが強い口調で促します。どうしてそんなに聞きたがるのでしょう。僕はTちゃんが恨めしくなりました。話すのが怖かったのです。もしかして先生の前にも白い女が現れたのではないか。それは、僕が先生に白い女の話をしたせいではないか。そんな疑念が頭に渦巻いていました。

「さっき、女の人、いたよね」
「えっ?」

 僕は思わず顔を挙げました。Tちゃんの顔は酷く強張っていました。

「Aさ、受験の日、帰り道で言ってたでしょ。小学生の時に白い女を見たって。もしかしてあれのこと?」

 そうだよ。そう言ったら、今度はTちゃんが女を見るようになるかもしれない。
僕は黙って首を振りました。

 がたん、ごとん。

 電車が揺れました。今さら気づいたのですが、この車両に乗っているのはTちゃんと僕だけです。僕はTちゃんのことが好きだったので、喜ぶべき状況でした。でも、ちっとも嬉しくありませんでした。

「先生の病室をじっと見てた」
 Tちゃんは怖い顔をしていました。

 がたん、ごとん。

 声に合わせるように、電車が揺れました。

「いるんだよね」

 じじっ。頭上で蛍光灯が点滅しました。一番端の優先座席も、同じように点滅しています。外はすっかり暗く、電気が消えるとそこだけ真っ暗でした。

「ほら、優先座席の所」

 ぱっと、車内が青白く浮かびあがりました。さっきまで誰も座っていなかったはずの席に、誰かが座っています。
 黒い髪がゆらゆらと揺れています。白いスカートの裾が音もなくはためきました。

「ついてきたのかな」

 僕は何も言えませんでした。次の駅まで電車はしばらく止まりません。つまり、僕もTちゃんも逃げられないのです。
 電気が消えました。すぐにブンと音を立てて点きました。
 白い女が立ち上がっていました。
 Tちゃんは顔を女に向けたまま固まっています。猫みたいに吊り上がった目が、零れ落ちそうです。口を大きく開けているせいか頬に太い皺が寄って、おばあちゃんみたいに見えました。
 電気が消えました。

「ねぇ、ついてきたんだよ」

 声が震えています。暗くて見えませんが、やっぱりおばあちゃんみたいな顔をしているのでしょか。

 ブンと音を立てて、電気が点きました。
 二つ隣のシートの間に、女が立っていました。
 ぬらぬらした黒髪の隙間から、じっとこちらを見ています。
 電気が消えました。

「ねぇ、どうしよう」

 ツンとする臭いが漂ってきました。
 酷い臭いです。あの棘みたいな歯の並ぶ口の中から漂ってきたのでしょうか。
 真っ暗な中、女がゆらゆらと揺れています。

 ゆらゆら、ゆらゆら。揺れながら近づいてきます。
 僕は慌てて顔を伏せました。

 電気が点きました。運動靴の下に水溜まりができているのが見えました。
「っ……」
 隣でTちゃんが息を飲みます。気の強いTちゃんが震えながら俯いています。
 女は真隣のシートの間に立っていました。

 バタバタバタ。白いスカートが風もないのに翻っています。
 電気が消えました。
 僕は息を止めて目を閉じ、祈りました。

「ぎゃあああー」

 ブンと音を立てて、電気が点きました。隣でTちゃんが物凄い声で叫びました。

 僕はつられて目を開けました。
 顔がありました。福笑いみたいにちぐはぐな目と目が合いました。
 瞳の色が変です。白目の部分に青黒い血管が走っています。一度見たら二度と忘れられないような瞳が、左右ばらばらにギョロギョロと動いています。

「あはぁ、はははぁ、あああはははぁ」

 女は笑っていました。ゴムみたいな手が伸びてきます。黒い爪は長く尖っています。

 連れていかれる。

 身を固くした時、電車が止まりました。賑やかな声とともに、乗客が乗り込んできます。

「うわっ」
「マジ?」

 乗客の何人かが声を上げ、苦笑いしました。Tちゃんは相変わらず俯いています。くすくす、ひそひそと、笑い声が頭の上から降ってきました。
 次の駅で、Tちゃんは何も言わずに立ち上がりました。
 僕は何と声をかけていいか分かりませんでした。黙って座ったまま、もうTちゃんが僕に話しかけてくれることは無いだろうと悲しくなりました。