土曜日、僕はE先生と二人で、キャンプ場となる隣県の青少年の森を訪れました。
 場内の施設や設備の確認、クラスの皆で考えたオリエンテーションのシミュレーションをして、最後にテントを張る予定の森林エリアを見終わったところで、異変が起きました。
 木々の間を白い影がよぎったのです。
 鹿かそれとも狸だろうか。キャンプ場には野生動物はいないと、施設の職員は言っていました。でもこんなに山が近いのです。動物が下りてきても不思議じゃありません。

「やだ、猪とかでないでしょうね」
 意外と天然なE先生が、大袈裟に顔を顰めました。
「さすがに猪はいないと思いますけど」
「思うじゃ困るのよ。猿や鹿ならいいけど、熊や猪に襲われたら終わりよ」

 そんなことを言い合っているうちに、白い影は少しずつ近づいてきました。
かと思えば、遠くの木の間を横切ったり、背後で音を立てたりします。
 どうやら僕と先生のまわりを、円状に移動しているようです。

 がさがさっ、がさっ、がさがさがさ。

 草の根を掻き分けるような物音が、遠く近くに響きます。
 だんだん包囲されています。
 何度目かに白い影が横切った時、E先生が小さく息を飲みました。

「あれ、女の人よね?」

 E先生は青い顔で言いました。僕は怖くて俯いたまま首を振りました。

「……さて、下見も終わったし、そろそろ帰りましょうか」
 何も見なかった。とでもいうように、先生がくるりと踵を返しました。

「A君は怖い体験したことある?」
 帰り道、先生がそんなことを言い出したので、どうしてそんなことを聞くのだろうと思いつつ、僕は小学生の時の体験を話しました。先生は微妙な顔で聞いていました。
 日がだいぶ傾き始めています。僕たちは赤い光が射しこむ森の中を、ほとんど小走りで駐車場に向かいました。口達者が災いして男が逃げていくと自虐するほどお喋りだったE先生は、その間、一言も発しませんでした。

「私が中学の時も林間学校があったの。キャンプファイヤーとか夜は肝試しをして、カレーも作ったわ。雨の中で雨水まみれの温くて薄い、まっずいカレー」

 車に乗り込みキャンプ場を数百メートル離れると、先生は何事もなかったようにお喋りを始めました。今までの教師生活から先生が高校生の頃の話まで、とりとめもない話でした。途中、遅くなったお詫びにサービスエリアで夕食をご馳走してあげると、先生は高速にのりました。
 車通りは少なく、先生の赤いセレナはぐんぐんスピードを上げていきます。結構なスピード狂らしく、周りの車がどんどん後ろに流れていきました。事故を起こすのではと、僕は内心ハラハラしました。
 しばらくすると、バックミラーに白いスポーツカーが映りました。
 僕はドキリとしました。
 白いスポーツカーは追い越し車線に入り、僕たちの隣にピッタリ並びました。オープンカーで、後部座席には白い服を着た女が乗っています。
 僕は反射的に、後部座席から目を逸らしました。
運転手は茶髪の若い男です。きっと、後部座席の彼女にいい所を見せようとしているのでしょう。だから派手な色をしたE先生の車と、競うように並んできたのです。決して、白い女が僕を追いかけてきたわけではありません。
 僕はもう一度、後部座席に視線を戻しました。
 すると、後部座席の女がおもむろに立ち上がったのです。
 強い風に白いスカートがバタバタと翻っています。俯いているので顔は見えません。黒い髪が無数の触手のように、あちこちに広がっています。
 あんなことして危なくないのだろうか――…。
 違和感を覚えながらも、僕は心配になりました。運転席の男は気づいていないらしく、法定速度なんてとうに振り切っている先生の車にぴったり並んでいます。
 ハラハラしながら見ていると、女が顔を上げました。笑っているのです。瞳孔の開いた真っ黒い目を僕に向けて、青黒い口を大きく開いています。

「あはははっ、あはっ、あははぁぁ、ぎゃぁあはは」

 窓は閉まっているのに、笑い声が聞こえました。けたたましい声です。
 低い? いや高いのかもしれない。地獄の底から響くような声です。
 おばあちゃんを犠牲にしたのに、僕はまだ逃げ切れていないのでしょうか。逃げ切れないのでしょうか。
 先生がギャーと叫んでハンドルを切りました。

 以来、僕は白い色が嫌いになりました。
 助けてください。