約束の日曜日。先日の既読スルー以来、Hからはなんの音沙汰も無いのが少し気になっていましたが、私は朝からウキウキしながら外出の準備をしました。
 新しくできた素敵なコンセプトカフェでランチということもあり、ばっちりお洒落し、時間に余裕をもって家を出ました。おかげで三十分も前に待ち合わせ場所についてしまったので、ベンチに座ってHを待ちました。
 カフェのインスタを眺めながら、何を話そうか、ランチの後はどこに行こうかなどと考えていると、時間が経つのはあっという間でした。でも、約束の時間になってもHは来ませんでした。到着報告のラインも、既読になっていません。
 Hはルーズなところがありますが時間には正確で、今まで待ち合わせに遅れたことは一度もありませんでした。
 もしかして事故にでもあったのだろうか。不安な想像が頭を掠め、私はすぐにHに電話しました。

「助けてっ」

 電話が繋がるなりHの切羽詰まった声が響き、私は焦りました。

「H、大丈夫?」

「……が……くる。すぐ……ガガッ」
 ノイズが酷く、何を言っているのか分かりません。

「……本、で、駄目……絶……い」
「H、どうしたの。ねぇ」

 呼びかけながら、私はほとんど泣きそうでした。このままHに会えなくなる気がしたのです。

「××通り……、来るっ」

 そう言うなり電話は切れました。
 ××通りはすぐそこです。私は人混みを掻き分けて走りました。ぶつかって舌打ちされたり睨まれたりしましたが、気にしてはいられません。
 なんとか××通りに辿り着くと、向かいの歩道で悲鳴が上がりました。
 反射的にそちらを向くとHがいました。髪を振り乱して走っています。私は慌ててHに駆け寄ろうとしました。ですが運悪く横断歩道が赤になってしまい、車が一斉に動き出してしまいました。

「危ないっ」

 ふらふらと車道に向かうHに、誰かが叫びました。
Hは道に踊りだしました。両腕を振り回して、ダンスでもしているみたいに。
 笑っているような、泣いているような。とにかく変な顔をしているのが、やけにはっきりと見えました。
 そして、右折車が猛スピードでHのいる横断歩道に突っ込んできました。

 ドンッ、……ぐしゃっ。

 地響きみたいな音とともにHが出鱈目なポーズで宙を舞い、数秒遅れて卵が潰れたみたいな音が聞こえてきました。

「H、しっかりして」
 駆け寄った時には、Hは虫の息でした。
「勘弁してくれよっ」
Hを撥ねた車の運転手が絶望した顔で降りてきて、膝をつきました。

「すげー、生事故現場」

 若い男の人が嬉しそうに叫んで、スマートフォンを構えています。
 気がつくと、沢山のレンズが事故の様子を映していました。我こそはトップ記者と、みんな興奮した顔をしていました。
 その時、私は異様な視線を感じました。
 振り返ると、野次馬に紛れて真っ白な女がHをじっと見下ろしていたのです。
 とっさに見てはいけないモノだと感じましたが、視線が外せません。
 女がゆっくりとこちらに顔を向けました。
 女の両目はあらぬ方を向いているのに、私は視線が合った気がしました。

「あはははぁ、あはあはぁっ」

 女は笑っていました。真っ黒な口を開け、南国の鳥のような凄まじい声です。そこに、けたたましいサイレンの音が重なりました。

 まもなくやって来た救急車に、私は何が何だか分からないまま乗せられました。機械に繋がれるHを見下ろしながら、予約した店にキャンセルの連絡を入れなければ、などと思っていると、Hがかっと目を見開き叫びました。

「○×$×◎☆!」

 何を言っているのか、まるで分かりません。頬はげっそりと青白く、罅割れた唇にどす黒い血がこびりついています。これはもう駄目だと素人目にも分かるくらい、死相が浮かんでいます。なのに、Hは叫び続けました。

「○×$×◎☆!」
「押えろっ、抗けいれん剤を早く」

 あちこち捻じ曲がった体の一体どこに、そんな力が残っていたのでしょう。Hが激しく身を捩り、救急隊員の人たちが慌てて処置にあたりました。

「○×ק♯◎×!」

 一際大きく叫ぶと、Hはぐるっと瞳を廻らせました。つられて窓を見た私は、おかしなものを見てしまいました。
 青いカーテンの向こうに、大きな黒い影が映っていました。窓にベタッと張りついているようにも見えます。
 ぐるんと白目を剥き、Hはまもなく息を引き取りました。

 あれは一体なんだったのでしょう。
 あれ以来、時々誰かが窓を叩きます。だからカーテンは開けません。
 本は今も手元にあります。もしよければ、お送りしましょうか?