「それに着替えて着いてきてください」
いつも薄暗い牢にいれられ何日も過ごすうちに、今日がいつか分からくなった。でも食事を運ぶ下働きの者でなく女中頭が来たということは、これから龍降ろしの儀が執り行われるのだろう。
「匡稀様がお会いしたいとおっしゃっています」
着替えは億劫だけど、兄様に呼ばれているなら行かない理由はなかった。牢に入れられた時のままだった学ラン姿から、白の浴衣姿になる。
兄様は屋敷の裏の中庭にいた。青白い月明かりに照らされながら、複雑な陣が描かれた中心に座っている。いつもより呼吸が穏やかで、私を見つめる瞳には力があった。
「……兄様」
「おいで、綾紀」
なぜだろう。いつもと同じ、優しい兄様の声が恐ろしいと思う。後ずさりたくなるのにそれを許さない力があって、兄様の瞳にとらわれたように動けなくなる。手招きされたら、兄様を優先しなければいけないという使命感がわきあがり、私はゆっくりと兄様に近づいた。震えた手足なのに、自分でも驚くくらい足取りはしっかりしている。
「いい子だね」
少し前までは嬉しかった兄様の笑顔。だけどやっぱり今は――こわい。
「両手を」
「兄様……今から儀式なのに、神力を私に渡すのですか?」
「ああ。心配しなくて大丈夫。僕を信じてごらん」
こわいけど、信じたいと思う。一心同体、ずっと一緒に育ってきた。龍代家の理不尽を、二人で乗り越えてきのだから。
「分かりました……兄様を信じます」
「うん。ありがとう」
笑顔に導かれるように、兄様の顔の前に両手を差しだした。そこに兄様の手が重なり、握られる。いつもはヒヤリと冷たいのに、今日はほんのり温かい。末端まで血が通っている証拠だ。本当に今日は調子が良いみたいだ。
神力が体内に注がれてくるのが分かる。だけど――
「――っ!」
注がれる神力の量が明らかに多かった。戸惑い手を振り払おうとしても上手くいかない。兄様の爪が食いこむくらい、強く握られている。
(熱い――!)
臓腑が焼かれるようだ。作り変えられるような、とも言える。何をしているのか聞きたいのに、喉元を掴まれるような苦しさがあり上手く声が出せない。そうするうちに視界が一段高くなった。
「……っ、兄様!」
やっと出せた声は、いつもより低く……兄様ととてもよく似た響きだった。
「これはどういうことだ?」
縁側に座っていたお祖父様が立ち上がり叫んだ。私の手を握ったまま兄様が立ち上がり、引き上げられるように私も地に足をつけた。……兄様と、同じ視線だ。
「なにをしたの。教えてちょうだい」
焦りがにじむお母様の声がする。すると顔を伏せたまま、兄様は笑い始めた。
「はは……あはは……ふふ…………」
「兄様?」
やっぱり、私の声が低い。今まではどこか中性的で、声変わりをしたのかしていないのか判断に迷う音だった。けれど今は、まるで本当に性別が男性になってしまったかのような――
「綾紀。ちゃんと『男』になれたね。どう? 嬉しい?」
「……なんの話をしているのですか?」
「おや? 綾紀は龍神を慕っているのでは? だから考えたのさ。龍降ろしは綾紀がすればいい。そうすれば、ずっと龍神とともにいられるからね!」
まだ疑問符を浮かべる私たちに言い聞かせるように、兄様は説明した。
「だから神力を注ぐ量を多くしてみたんだ。今までは些細な変化だったけど、今日なんか完璧に男の声じゃないか。思った以上に上手くいって驚いているよ」
些細じゃない。今までだって月のものが止まったり、胸が平たいままだったり、身体的な女らしさはほぼ育っていなかった。あきらめていた。そこに希望をくれたのは、龍神様だ。
――嫁になれ。
尊大で、自信家で、長生きしているはずなのに感性が若くて――――優しい。夢みたいな二日間の思い出を胸に天に召されたなら。そう思っていたのに――!
「私が……龍降ろしを……?」
龍降ろしができるのは男性のみ。神力で捻じ曲げた性別でもかまわないのか不明だが、単純に条件だけみれば満たしていると言えなくもない。
龍降ろしをしたら、会えるかもしれない。それだけでない。この身に龍神様を降ろせたなら、もう離れることはない。ずっと一緒にいられるのだ。
自暴自棄でうずくまるしかできなかった自我が立ち上がったような気がする。それは希望ともいえるかもしれない。
「突飛すぎる案だ。そもそも匡稀、お主の調子がそこまで良いなら、綾紀が龍降ろしする必要はない。伝統にのっとり、匡稀が行えばよかろう」
「そうよ。なぜそんな無駄なことをするの」
お祖父様とお母様が口々に言う。なんて騒々しいんだろう。
私は空を見上げた。あの日龍神様が光となって消えた空には、星々がきらめいていた。
いつも薄暗い牢にいれられ何日も過ごすうちに、今日がいつか分からくなった。でも食事を運ぶ下働きの者でなく女中頭が来たということは、これから龍降ろしの儀が執り行われるのだろう。
「匡稀様がお会いしたいとおっしゃっています」
着替えは億劫だけど、兄様に呼ばれているなら行かない理由はなかった。牢に入れられた時のままだった学ラン姿から、白の浴衣姿になる。
兄様は屋敷の裏の中庭にいた。青白い月明かりに照らされながら、複雑な陣が描かれた中心に座っている。いつもより呼吸が穏やかで、私を見つめる瞳には力があった。
「……兄様」
「おいで、綾紀」
なぜだろう。いつもと同じ、優しい兄様の声が恐ろしいと思う。後ずさりたくなるのにそれを許さない力があって、兄様の瞳にとらわれたように動けなくなる。手招きされたら、兄様を優先しなければいけないという使命感がわきあがり、私はゆっくりと兄様に近づいた。震えた手足なのに、自分でも驚くくらい足取りはしっかりしている。
「いい子だね」
少し前までは嬉しかった兄様の笑顔。だけどやっぱり今は――こわい。
「両手を」
「兄様……今から儀式なのに、神力を私に渡すのですか?」
「ああ。心配しなくて大丈夫。僕を信じてごらん」
こわいけど、信じたいと思う。一心同体、ずっと一緒に育ってきた。龍代家の理不尽を、二人で乗り越えてきのだから。
「分かりました……兄様を信じます」
「うん。ありがとう」
笑顔に導かれるように、兄様の顔の前に両手を差しだした。そこに兄様の手が重なり、握られる。いつもはヒヤリと冷たいのに、今日はほんのり温かい。末端まで血が通っている証拠だ。本当に今日は調子が良いみたいだ。
神力が体内に注がれてくるのが分かる。だけど――
「――っ!」
注がれる神力の量が明らかに多かった。戸惑い手を振り払おうとしても上手くいかない。兄様の爪が食いこむくらい、強く握られている。
(熱い――!)
臓腑が焼かれるようだ。作り変えられるような、とも言える。何をしているのか聞きたいのに、喉元を掴まれるような苦しさがあり上手く声が出せない。そうするうちに視界が一段高くなった。
「……っ、兄様!」
やっと出せた声は、いつもより低く……兄様ととてもよく似た響きだった。
「これはどういうことだ?」
縁側に座っていたお祖父様が立ち上がり叫んだ。私の手を握ったまま兄様が立ち上がり、引き上げられるように私も地に足をつけた。……兄様と、同じ視線だ。
「なにをしたの。教えてちょうだい」
焦りがにじむお母様の声がする。すると顔を伏せたまま、兄様は笑い始めた。
「はは……あはは……ふふ…………」
「兄様?」
やっぱり、私の声が低い。今まではどこか中性的で、声変わりをしたのかしていないのか判断に迷う音だった。けれど今は、まるで本当に性別が男性になってしまったかのような――
「綾紀。ちゃんと『男』になれたね。どう? 嬉しい?」
「……なんの話をしているのですか?」
「おや? 綾紀は龍神を慕っているのでは? だから考えたのさ。龍降ろしは綾紀がすればいい。そうすれば、ずっと龍神とともにいられるからね!」
まだ疑問符を浮かべる私たちに言い聞かせるように、兄様は説明した。
「だから神力を注ぐ量を多くしてみたんだ。今までは些細な変化だったけど、今日なんか完璧に男の声じゃないか。思った以上に上手くいって驚いているよ」
些細じゃない。今までだって月のものが止まったり、胸が平たいままだったり、身体的な女らしさはほぼ育っていなかった。あきらめていた。そこに希望をくれたのは、龍神様だ。
――嫁になれ。
尊大で、自信家で、長生きしているはずなのに感性が若くて――――優しい。夢みたいな二日間の思い出を胸に天に召されたなら。そう思っていたのに――!
「私が……龍降ろしを……?」
龍降ろしができるのは男性のみ。神力で捻じ曲げた性別でもかまわないのか不明だが、単純に条件だけみれば満たしていると言えなくもない。
龍降ろしをしたら、会えるかもしれない。それだけでない。この身に龍神様を降ろせたなら、もう離れることはない。ずっと一緒にいられるのだ。
自暴自棄でうずくまるしかできなかった自我が立ち上がったような気がする。それは希望ともいえるかもしれない。
「突飛すぎる案だ。そもそも匡稀、お主の調子がそこまで良いなら、綾紀が龍降ろしする必要はない。伝統にのっとり、匡稀が行えばよかろう」
「そうよ。なぜそんな無駄なことをするの」
お祖父様とお母様が口々に言う。なんて騒々しいんだろう。
私は空を見上げた。あの日龍神様が光となって消えた空には、星々がきらめいていた。


