朝、胸元にもぞもぞと動く気配がして目覚めれば、白蛇が着物の袂から内側に入りこもうとしていたところだった。思わずそれをつかみんで布団の外に投げてから、それが龍神様だったと気がついた。
「わあああ龍神様!? すみません!」
「……俺を放るとはいい度胸だ。寒いだろうが」
気だるげな声がして、龍神様はあたたかい場所を求めるように布団の中にもぐってくる。寝る前は枕元でとぐろを巻いていたはずなのに。
「寒さに弱いなんて、蛇みたいですね」
「失礼な……」
まだ眠いのか、言い返す声に勢いがない。でも、悪態の一つくらいついても罰は当たらないと思う。
兄様の神力により、私の胸はほとんど成長してないけれど、これでも乙女なのだ。蛇の姿とはいえ言葉を交わせる時点で、動物にじゃれつかれるのとは訳がちがう。
恥ずかしいし、照れるのだ。
「龍神様の……へんたい! 今度着物のなかに入ろうとしたらもう一緒の布団で寝るのは禁止です!」
「へいへい。なんとでも……ふあぁ」
「……もうこんな時間! 準備をしないも」
まだ眠気まなこの龍神様を布団にのこし身支度を整えたのだった。
*
今日も学校へ行く前に兄様の部屋に寄る。兄様なら、私のこの戸惑いを理解してくれるのではないか。そんな期待をこめて障子を開いたら、目があった兄様は、憂いの表情から一気に目を見開いた。
「兄様、おはようございます」
「綾紀……それは」
「見えますか? 龍神様です」
「いや……何も…………」
「え」
信じられなかった。
私に龍神様が見えるのは、兄様の神力を受け取っているからだ。だから兄様も同じだと疑わなかった。
「兄様にも見えると思ったのですが……あ、ちなみに今は白蛇みたいなお姿なんです」
「そう、なのか。見えなくて残念だよ」
「でも朗報があります。龍神様が言うには、龍降ろしの儀が終われば、兄様は元気になれるらしいのです。それに儀式のあとも兄様の意識は消えないし、肉体を乗っ取られることもないそうです!」
「綾紀は龍神様と話ができるのかい?」
「はい! 兄様の神力をいただいているおかげです!」
「そうか……僕の」
ふと、兄様の目に力がこもった気がする。龍降ろしの儀は兄様の意識が消失する日でないと分かり、希望をもってくれただろうか。
いつも通り兄様から神力をもらい部屋を後にする。部屋に入る前よりも龍神様の姿がくっきりと見えるようになり、私は嬉しくなった。むしろ昨日より瞳がつぶらで、鱗の並びが美しく見える。どきりと胸が高鳴った。
「あの兄貴、けっこうな食わせ者かもしれないな」
学校まで行くと龍神様が言うので、昨日のように襟巻きになってついてきてもらっている。ほかの人に龍神様は見えないから、私は声でなく頭のなかで龍神様に語りかける。
『兄様が?』
「さっき目があったぞ」
『……本当に?』
「しかもあれだけ神力があれば、俺が人の姿に見えただろうよ」
『ええ? 龍神様は人の姿にもなれるんですか?』
「ああ。色男でびっくりするぞ』
人の姿か。どんな感じなんだろう。昨日今日で蛇の姿が定着しつつあるから不思議な感じだがする。
「見たいか?」
『え、えーと……緊張してしまいそうなので、今のままがいいです』
「ふうん。蛇だというわりに気に入ってるのか」
まあ俺はこの姿も美しいからな、と私の首元で、胸を張るように体をそらして威張っている。小さな蛇の姿だから可愛いけれど、もし大人の男性が同じ仕草をして可愛げが感じ取れるだろうか。想像してみたけれど、ちょっと不気味な気がする。うん、やっぱりこのままがいいな。一連の思考を読んだのか、龍神様は盛大にため息をついた。
「ことごとくお前は失礼だな。俺はどんな姿でも愛らしいし美しいぞ」
『心に留めておきます』
そんなやりとりをしているうちに、気づけば校門が視界に入るくらい近くなってきた。一人で歩くよりも早く着いたように感じるのは、龍神様と話すのが楽しかったからだろう。
「匡稀さん、おはようございます」
「ああ、おはよう」
居合わせた女学生たちが挨拶をしてくれる。
神力で声や筋肉量を変化させているとはいえ、男装は男装。成人した同級生に比べれば、私は学校の男子で一番と言っていいくらい華奢だと思う。逆にそれが親しみやすさにつながるのか、女性から思いを寄せられることは少なくない。
放課後の予定を聞かれ、角がたたない断り文句を考えていたら、「よ、色男!」と頭のすみで龍神様の声がした。唐突に、しかも脱力する内容に思わず吹き出してしまう。私を囲っていた女学生たちが首を傾げるが関係ない。
(ああ、楽しい)
龍神様といると、心や表情がほぐれて行くのが分かる。いや、今まで凝り固まっていたのにすら気づいていなかったのだ。
(こんな日々がもっと続けばいいのに)
昨日の今日なのに、こんなことを考えてしまうなんて。龍神様と一緒にいられるのは、龍降ろしの儀までなのに。あと六日。限られた日々を大切に過ごさないといけない。後悔のないように、一日一日を噛みしめていこうと誓ったのだった。
*
放課後、昨夜訪れた川に、私と龍神様は再訪していた。いつも通り直帰しようとした私を、龍神様が止めたのである。遊びに行くぞとはりきる龍神様と対照的に、私は行きたいところがなかった。
「町には行かないのか。髪飾りとか、女の好きそうなものが並んでるだろう」
「この姿で行ったら不審がられます。だいたい私には似合いません」
「そうか? お前は可愛いから、なにを選んでも似合うだろう」
「か、……もう、龍神様の可愛いは敷居が低すぎます。一応、私は男装しているんですよ? この姿で可愛いはプライドが傷つくと言いますか」
私の首元に収まっていた龍神様の頭がにゅっと伸び、私と目を合わせてくる。じっと見つめられると吸いこまれそうな黄金色。
「姿形じゃねぇ。俺は綾紀のふるまいや表情が可愛らしいと言っている」
「……龍神様は軟派です」
「はーいはい。蒙古斑も消えてないようなお子様に吠えられても痛くも痒くもないね」
「さ、さすがに蒙古斑はありません!」
「ほう? 見せてくれるのが楽しみだ」
「見せません!」
こんなにも簡単に心を乱されるのは、失礼なことを言われたからだ、と思うのに、一番動揺するのは龍神様があっけらかんと笑う声を聞くときだ。なんとも愉快そうで、なんの含みもない笑い声。いいなあ、と惹かれてしまう。
そして不敵に目を細めて笑われると、胸の鼓動がはやくなるのだ。でも、嫌じゃない。
龍神様の予想できない言動に振り回されるのが楽しい。
もっともっと一緒にいたい、話したい、もっと――
(だめだめ。だって、こうして会えるのは期限つきなんだもの)
後悔しないようにとは思ったけれど、このままじゃお別れが辛くなるだけだ。
だって別れを想像するだけで、高鳴った鼓動は潮が引いた後みたいに静まり、締め付けられるような苦しさが胸から体全体に広がるのだから。
「町に行かないならこっち来な」
そう言うなり、龍神様は私の襟巻きをやめて空を飛び始めた。
泳ぐように体全体をくねらせながら、私の前を浮遊する。
*
到着したのは、昨夜来た川に面した原っぱだった。秋桜が満開で、赤や桃色の花が風に揺れている。鱗雲が広がる空は、まるで白い花が咲いているよう。
視界すべてが花束でうまるみたいだ。昨夜は水の中でくつろぐ龍神様をみていて気がつかなかったし、家と学校との往復ばかりで、近所にこんな景色があるなんて知らなかった。
「綺麗……」
「いいだろう。ここらは春になると菜の花畑が広がる。桜並木の地平線ができて、それはもう見事だぞ」
「すごい。見てみたいです」
「当たり前だろう。その景色のなかで婚礼をあげよう。綾紀の白無垢がきっと映える」
「婚礼って」
春なんて、何ヶ月先だろう。私は一週間後の心配をしているのに。これは龍神様なりの優しさなんだろうか。それとも、現実を楽観視し過ぎているだけなんだろうか。
「……龍神様は意地悪です」
「今度は意地悪ときたか。ずいぶんと気安くなってきたな。いい傾向だ」
「そういう口調だとからかわれているとしか思えません……でもいいんです。婚礼のことまで考えてくださって。もう思い残すことはありません」
私の首元からはなれてふわふわと飛び、まるで蜜蜂のように花のにおいを嗅いでいた龍神様がその場で静止した。
「なぜ、無理だと決めつける?」
「だって……難しいのは分かっているつもりです」
「なぜ言いきれる。前例がなくともこれからあるかもしれないだろう。すでにある川の流れですら、毎日姿を変え、進路は変化するというのに」
そんな壮大な話をされても困ってしまう。私が今生きる環境は、なるべくしてなったものだ。家も、家族も、性別や能力だって、ひとつも選んで生まれることはできない。たとえば、男装なんて嫌だ自分らしく生きたいと抗っていたとしても、頭を押さえつけられ従わされただろう。なにより、私よりずっとつらいであろう兄様のことを考えると、私が、と言えるわけがないのだ。
「川の流れは……変化しているのかもしれません。でもその違いは私には分からない。確かめようとして、大きな流れにのみこまれるだけです」
「今は俺がいるだろう。あらゆる方法をよく考えろ。思考停止は普遍でなく破滅に近づく。歩みを止めないものだけが、新たな未来にたどり着くのだぞ」
「そんなことを……言われても」
「……よし、これをお前にやろう」
俯いていたから気づかなかったけれど、いつの間にか龍神様は何かを咥えていた。
両手で受け取り、まじまじと確認する。
親指の爪くらいの大きさと薄さの、何か。陽に当たると七色の淡い光をまとうのが不思議で美しい。
「キレイですね」
「俺の逆鱗だ」
「逆鱗!?」
龍の体を覆う鱗のうち、一枚だけ逆についているという、あの?
「取ってもいいのですか?」
「平気だ。ただし無くすなよ」
「そんな大事なもの、受け取れません……!」
「だったら後生大事に持っておくんだな。身につけておくといい」
「身につけると言っても……」
とりあえずハンカチに包んでみる。ズボンのポケットでは、何かの拍子に割ってしまいそうだ。学ランの内ポケットに入れておくことにした。
「どうだ?」
「なにがでしょう?」
「俺の逆鱗までやったんだぞ。今後の恐れなんて吹っ飛んだだろう」
「ええと……」
大事なものをいただいて、龍神様が私を気遣ってくれているのはとてもよく分かった。その気持ちはとても嬉しくて、胸があたたかくなる。きっと鱗の輝きを見るたび、私の心には灯がともるだろう。けれど、それで未来の憂いがなくなるわけではない。次第にまた俯く私の様子を見て、龍神様は「ふむ」と何かを思案した。
「お前を混乱させるのは俺の本意ではない。互いに頭を冷やし、龍降ろしの儀でまた会おう」
「え? ま、待ってください!」
龍降ろしの儀まで会えないなら、もう一生会えないのと同じだ。そんなの私は望んでいない。せめてあと何日か、一緒に過ごせたらそれをよすがに生きていけると思ったのに。だけど龍神様は、「またな」とこちらを見つめたまま、無数の光の粒になって消えてしまった。
「そんな……」
こんな別れ方があるだろうか。さっきまで春の婚礼の話をしてくれていたのに。
「……いいえ。もとから私には過ぎた話だったのよ」
本来なら見えないはずの龍神様を見て、言葉も交わせた。嫁になれと言ってくれた。それで十分……と、考えられるようになるのは少し時間がかかりそうだけど。
昨日と今日の思い出を抱いて、私は生きていくしかないのだ。
「わあああ龍神様!? すみません!」
「……俺を放るとはいい度胸だ。寒いだろうが」
気だるげな声がして、龍神様はあたたかい場所を求めるように布団の中にもぐってくる。寝る前は枕元でとぐろを巻いていたはずなのに。
「寒さに弱いなんて、蛇みたいですね」
「失礼な……」
まだ眠いのか、言い返す声に勢いがない。でも、悪態の一つくらいついても罰は当たらないと思う。
兄様の神力により、私の胸はほとんど成長してないけれど、これでも乙女なのだ。蛇の姿とはいえ言葉を交わせる時点で、動物にじゃれつかれるのとは訳がちがう。
恥ずかしいし、照れるのだ。
「龍神様の……へんたい! 今度着物のなかに入ろうとしたらもう一緒の布団で寝るのは禁止です!」
「へいへい。なんとでも……ふあぁ」
「……もうこんな時間! 準備をしないも」
まだ眠気まなこの龍神様を布団にのこし身支度を整えたのだった。
*
今日も学校へ行く前に兄様の部屋に寄る。兄様なら、私のこの戸惑いを理解してくれるのではないか。そんな期待をこめて障子を開いたら、目があった兄様は、憂いの表情から一気に目を見開いた。
「兄様、おはようございます」
「綾紀……それは」
「見えますか? 龍神様です」
「いや……何も…………」
「え」
信じられなかった。
私に龍神様が見えるのは、兄様の神力を受け取っているからだ。だから兄様も同じだと疑わなかった。
「兄様にも見えると思ったのですが……あ、ちなみに今は白蛇みたいなお姿なんです」
「そう、なのか。見えなくて残念だよ」
「でも朗報があります。龍神様が言うには、龍降ろしの儀が終われば、兄様は元気になれるらしいのです。それに儀式のあとも兄様の意識は消えないし、肉体を乗っ取られることもないそうです!」
「綾紀は龍神様と話ができるのかい?」
「はい! 兄様の神力をいただいているおかげです!」
「そうか……僕の」
ふと、兄様の目に力がこもった気がする。龍降ろしの儀は兄様の意識が消失する日でないと分かり、希望をもってくれただろうか。
いつも通り兄様から神力をもらい部屋を後にする。部屋に入る前よりも龍神様の姿がくっきりと見えるようになり、私は嬉しくなった。むしろ昨日より瞳がつぶらで、鱗の並びが美しく見える。どきりと胸が高鳴った。
「あの兄貴、けっこうな食わせ者かもしれないな」
学校まで行くと龍神様が言うので、昨日のように襟巻きになってついてきてもらっている。ほかの人に龍神様は見えないから、私は声でなく頭のなかで龍神様に語りかける。
『兄様が?』
「さっき目があったぞ」
『……本当に?』
「しかもあれだけ神力があれば、俺が人の姿に見えただろうよ」
『ええ? 龍神様は人の姿にもなれるんですか?』
「ああ。色男でびっくりするぞ』
人の姿か。どんな感じなんだろう。昨日今日で蛇の姿が定着しつつあるから不思議な感じだがする。
「見たいか?」
『え、えーと……緊張してしまいそうなので、今のままがいいです』
「ふうん。蛇だというわりに気に入ってるのか」
まあ俺はこの姿も美しいからな、と私の首元で、胸を張るように体をそらして威張っている。小さな蛇の姿だから可愛いけれど、もし大人の男性が同じ仕草をして可愛げが感じ取れるだろうか。想像してみたけれど、ちょっと不気味な気がする。うん、やっぱりこのままがいいな。一連の思考を読んだのか、龍神様は盛大にため息をついた。
「ことごとくお前は失礼だな。俺はどんな姿でも愛らしいし美しいぞ」
『心に留めておきます』
そんなやりとりをしているうちに、気づけば校門が視界に入るくらい近くなってきた。一人で歩くよりも早く着いたように感じるのは、龍神様と話すのが楽しかったからだろう。
「匡稀さん、おはようございます」
「ああ、おはよう」
居合わせた女学生たちが挨拶をしてくれる。
神力で声や筋肉量を変化させているとはいえ、男装は男装。成人した同級生に比べれば、私は学校の男子で一番と言っていいくらい華奢だと思う。逆にそれが親しみやすさにつながるのか、女性から思いを寄せられることは少なくない。
放課後の予定を聞かれ、角がたたない断り文句を考えていたら、「よ、色男!」と頭のすみで龍神様の声がした。唐突に、しかも脱力する内容に思わず吹き出してしまう。私を囲っていた女学生たちが首を傾げるが関係ない。
(ああ、楽しい)
龍神様といると、心や表情がほぐれて行くのが分かる。いや、今まで凝り固まっていたのにすら気づいていなかったのだ。
(こんな日々がもっと続けばいいのに)
昨日の今日なのに、こんなことを考えてしまうなんて。龍神様と一緒にいられるのは、龍降ろしの儀までなのに。あと六日。限られた日々を大切に過ごさないといけない。後悔のないように、一日一日を噛みしめていこうと誓ったのだった。
*
放課後、昨夜訪れた川に、私と龍神様は再訪していた。いつも通り直帰しようとした私を、龍神様が止めたのである。遊びに行くぞとはりきる龍神様と対照的に、私は行きたいところがなかった。
「町には行かないのか。髪飾りとか、女の好きそうなものが並んでるだろう」
「この姿で行ったら不審がられます。だいたい私には似合いません」
「そうか? お前は可愛いから、なにを選んでも似合うだろう」
「か、……もう、龍神様の可愛いは敷居が低すぎます。一応、私は男装しているんですよ? この姿で可愛いはプライドが傷つくと言いますか」
私の首元に収まっていた龍神様の頭がにゅっと伸び、私と目を合わせてくる。じっと見つめられると吸いこまれそうな黄金色。
「姿形じゃねぇ。俺は綾紀のふるまいや表情が可愛らしいと言っている」
「……龍神様は軟派です」
「はーいはい。蒙古斑も消えてないようなお子様に吠えられても痛くも痒くもないね」
「さ、さすがに蒙古斑はありません!」
「ほう? 見せてくれるのが楽しみだ」
「見せません!」
こんなにも簡単に心を乱されるのは、失礼なことを言われたからだ、と思うのに、一番動揺するのは龍神様があっけらかんと笑う声を聞くときだ。なんとも愉快そうで、なんの含みもない笑い声。いいなあ、と惹かれてしまう。
そして不敵に目を細めて笑われると、胸の鼓動がはやくなるのだ。でも、嫌じゃない。
龍神様の予想できない言動に振り回されるのが楽しい。
もっともっと一緒にいたい、話したい、もっと――
(だめだめ。だって、こうして会えるのは期限つきなんだもの)
後悔しないようにとは思ったけれど、このままじゃお別れが辛くなるだけだ。
だって別れを想像するだけで、高鳴った鼓動は潮が引いた後みたいに静まり、締め付けられるような苦しさが胸から体全体に広がるのだから。
「町に行かないならこっち来な」
そう言うなり、龍神様は私の襟巻きをやめて空を飛び始めた。
泳ぐように体全体をくねらせながら、私の前を浮遊する。
*
到着したのは、昨夜来た川に面した原っぱだった。秋桜が満開で、赤や桃色の花が風に揺れている。鱗雲が広がる空は、まるで白い花が咲いているよう。
視界すべてが花束でうまるみたいだ。昨夜は水の中でくつろぐ龍神様をみていて気がつかなかったし、家と学校との往復ばかりで、近所にこんな景色があるなんて知らなかった。
「綺麗……」
「いいだろう。ここらは春になると菜の花畑が広がる。桜並木の地平線ができて、それはもう見事だぞ」
「すごい。見てみたいです」
「当たり前だろう。その景色のなかで婚礼をあげよう。綾紀の白無垢がきっと映える」
「婚礼って」
春なんて、何ヶ月先だろう。私は一週間後の心配をしているのに。これは龍神様なりの優しさなんだろうか。それとも、現実を楽観視し過ぎているだけなんだろうか。
「……龍神様は意地悪です」
「今度は意地悪ときたか。ずいぶんと気安くなってきたな。いい傾向だ」
「そういう口調だとからかわれているとしか思えません……でもいいんです。婚礼のことまで考えてくださって。もう思い残すことはありません」
私の首元からはなれてふわふわと飛び、まるで蜜蜂のように花のにおいを嗅いでいた龍神様がその場で静止した。
「なぜ、無理だと決めつける?」
「だって……難しいのは分かっているつもりです」
「なぜ言いきれる。前例がなくともこれからあるかもしれないだろう。すでにある川の流れですら、毎日姿を変え、進路は変化するというのに」
そんな壮大な話をされても困ってしまう。私が今生きる環境は、なるべくしてなったものだ。家も、家族も、性別や能力だって、ひとつも選んで生まれることはできない。たとえば、男装なんて嫌だ自分らしく生きたいと抗っていたとしても、頭を押さえつけられ従わされただろう。なにより、私よりずっとつらいであろう兄様のことを考えると、私が、と言えるわけがないのだ。
「川の流れは……変化しているのかもしれません。でもその違いは私には分からない。確かめようとして、大きな流れにのみこまれるだけです」
「今は俺がいるだろう。あらゆる方法をよく考えろ。思考停止は普遍でなく破滅に近づく。歩みを止めないものだけが、新たな未来にたどり着くのだぞ」
「そんなことを……言われても」
「……よし、これをお前にやろう」
俯いていたから気づかなかったけれど、いつの間にか龍神様は何かを咥えていた。
両手で受け取り、まじまじと確認する。
親指の爪くらいの大きさと薄さの、何か。陽に当たると七色の淡い光をまとうのが不思議で美しい。
「キレイですね」
「俺の逆鱗だ」
「逆鱗!?」
龍の体を覆う鱗のうち、一枚だけ逆についているという、あの?
「取ってもいいのですか?」
「平気だ。ただし無くすなよ」
「そんな大事なもの、受け取れません……!」
「だったら後生大事に持っておくんだな。身につけておくといい」
「身につけると言っても……」
とりあえずハンカチに包んでみる。ズボンのポケットでは、何かの拍子に割ってしまいそうだ。学ランの内ポケットに入れておくことにした。
「どうだ?」
「なにがでしょう?」
「俺の逆鱗までやったんだぞ。今後の恐れなんて吹っ飛んだだろう」
「ええと……」
大事なものをいただいて、龍神様が私を気遣ってくれているのはとてもよく分かった。その気持ちはとても嬉しくて、胸があたたかくなる。きっと鱗の輝きを見るたび、私の心には灯がともるだろう。けれど、それで未来の憂いがなくなるわけではない。次第にまた俯く私の様子を見て、龍神様は「ふむ」と何かを思案した。
「お前を混乱させるのは俺の本意ではない。互いに頭を冷やし、龍降ろしの儀でまた会おう」
「え? ま、待ってください!」
龍降ろしの儀まで会えないなら、もう一生会えないのと同じだ。そんなの私は望んでいない。せめてあと何日か、一緒に過ごせたらそれをよすがに生きていけると思ったのに。だけど龍神様は、「またな」とこちらを見つめたまま、無数の光の粒になって消えてしまった。
「そんな……」
こんな別れ方があるだろうか。さっきまで春の婚礼の話をしてくれていたのに。
「……いいえ。もとから私には過ぎた話だったのよ」
本来なら見えないはずの龍神様を見て、言葉も交わせた。嫁になれと言ってくれた。それで十分……と、考えられるようになるのは少し時間がかかりそうだけど。
昨日と今日の思い出を抱いて、私は生きていくしかないのだ。


