鞠子が帰ったあと、二人で入れ直した新しいお茶を飲みながら、ポツリと龍神様がつぶやいた。

「俺も愛称がほしい」
「龍神様が?」
「そうだな。愛称というより、名付けをしてほしい」
「名付け……」

 そこまで言われてやっと気づいた。ずっと龍神様と呼んでいたけれど、これは愛称でも、名前でもない。

「綾紀は、誰が名付けた? まさかあの母親ではないだろう」
「……はい。この名前をつけてくれたのはお祖母様です」

 もう、この世にはいないお祖母様。物心つくかどうかで亡くなってしまったからあまり覚えていないけれど、『よく生き残った』と言って頭を撫でてくれたのは覚えている。
 そういえば、お祖母様は『よく生まれてきた』とは言われなかった。
 その理由も、今ならわかる。
 兄様の代わりに余剰な神力を引き受けて、お腹の中で死んでしまうと思われていたからだろう。だから『生き残った』という表現だったのだ。
 
「せっかく生き残れたのだから、お空にいかないよう、たくさんの縁と繋がりますように、と呪文みたいに会うたび言われました。……だから、糸へんの漢字ばかり使った名前にしたのかもしれません」
「いいな、それ。俺も糸へんの名前がいい。何か考えてくれ」
「いきなり言われても……」

 恐れ多い、と反射的に思った。だけど龍神様の瞳がいつも以上に輝いている。はぐらかすのも、後回しにも出来そうにない。
 私だって、できるなら素敵な名前を考えてあげたい。偉大で強大な力を持つ龍神様。そんな彼に名前を授けられるなんて、このうえない栄誉ではあるのだから。
 腕を組んでああでもない、こうでもないと紙に書き留めていると、席を立った龍神様が私を後ろから抱きしめた。

「ちょ、集中できないのでやめて下さい」
「俺にはかまわず考えてくれ」

 それは無理な相談だった。背中の熱が気になって、本当になにも思いつかなくなってしまった。

「ちょっと頭を冷やします!」

 いきおいよく立ち上がり、追いかけてくる龍神様を無視して庭に出た。
 とっくに日が暮れた空には満天の星が輝いている。視界を横切る天の川は、龍神様の髪色によく似ていた。

(そういえば出会ったばかりのころ、綺羅星(きらぼし)のような人だと思ったっけ)

「綺羅星」

 龍神様と出会うまで、私は自分に何もないと思っていた。私が何かしても、周囲が幸せになることはないと。
 でもそれは、責任転嫁していただけだと今なら分かる。
 兄様が回復すれば何もかも解決すると信じていた、と言えば聞こえはいいけれど、幸せは他人に託すものではないのだ。
 望みをもって最後まであきらめなければ、新たな道がひらける。それを教えてくれたのも龍神様だった。

(私は龍神様に大事なことをたくさん教えてもらっている)

 少し強引で、はちゃめちゃで……お茶目なところもある龍神様。
 星はいつも空にある。見上げれば同じ輝きで応えてくれる。その輝きに飽きることはなく、いつまでも魅力される。
 私から見た龍神様は、そんな感じ。

「綺羅星の……綺羅(きら)様はどうでしょう?」
「きら? どのような字を当てるのだ」

 適当な木の棒を拾い、土の上に書く。月がまるで覗きに来たようなタイミングで雲から出てきて、私の手元を照らしてくれた。
 
「こうです。糸がふたつ。私と一緒です」
「だったらそれがいい! 今日から俺は綺羅と名乗るぞ!」
「愛称はどうしましょう? きーちゃんとか?」
「……数日前、庭に来た鳥をそうやって呼んでいなかったか?」
「そうでしたっけ?」

 あははと誤魔化す。龍神様の……綺羅様の視線が痛い。

「愛称はいい。綺羅という名前が気に入ったからの」
「それは良かったです」
「……なあ」
「はい?」
「もっと呼んでくれ」

 綺羅様も隣に腰掛け、私の肩を抱きよせた。ちょっと声が低い。ただでさえ麗しい外見を惜しげもなく寄せてくる。色男モードだ。これで近づかれて勝てた試しがない。

「き、綺羅様」
「声が小さい」

 瞳にお互いが映るところまで近づかれて、思わず下を向いた。

「綺羅様」
「ん」

 顔をそらして無防備になったつむじや耳元に、綺羅様は唇を寄せては離すをくり返す。意地になって俯いたままでいたら、かすれた声でもっととねだられた。私はやけになって叫んだ。

「綺羅様……綺羅様、綺羅様!」
「ふふ、必死だな」
「……満足ですか?」
「ああ。ありがとう、綾紀」

 私を解放した綺羅様は、満面の笑みで頷いた。珍しく頬に朱がさしているのをみたら、胸の奥まで照らされるようで。やがてそれは、長く凍らせて目を逸らしてきた私の願望を思い出させてくれた。

 私の両目から涙があふれてくる。次から次へ、とめどなく流れていく。

 綺羅様の表情が一変した。真っ青な顔で慌てふためいている。
 そう言えば、彼の前で泣くのは初めてかもしれない。……泣くこと自体、もう何年もしていなかった。心の振り子がそこへ向かうのを我慢していたから。
 
「どうした? 抱きしめる力が強すぎたか? 苦しかったか?」
「いいえ、違うんです。……嬉しくて」
「? 喜ぶ要素があったか?」
「はい。以前家庭を持ちたいとお伝えしましたよね。それを諦めていたんです」
「それはこれからだろう。もう悲しむようなことじゃない」
「嬉し涙と言ってるじゃないですか。嬉しいんです」
「何が」
「名付けの親になれたのが。だって、名付けなんて、子供が産まれないとできないじゃないですか」

 生き物を飼ったこともなかったし。……機会があったとしても、私と一緒に不幸にしそうで飼う決意はできなかっただろう。

「名付けの機会なんて、一生ないと思っていたんです。それが叶ったのが嬉しくて……気づいたら泣いてました」
「何を言う。泣くのはまだ早い」
「わっ!」

 そのまま抱き上げられた。龍神様の左腕に私が腰かけるような形だ。視界が高くなり、いつも頭ひとつ分高い綺羅様を私が見下ろしている。

「俺たちはこれからもっと親密になり、そのうち本当に子どもが出来るだろう。その時まで涙は取っておくんだ」
「……はい」

 返事をしたものの、今までどうやって堪えていたのか不思議なくらい、涙はあとからあとから流れて止まらない。

「だから取っておけと……綾紀に泣かれるのは胸がざわつく」
「ですから、嬉し泣きなのです。龍神様が優しいせいですよ」

 すると、唐突にキスされた。啄むように何度も唇が重ねられ、戸惑ううちにいつの間にか涙はひっこんでいた。

「……もう、驚かせて泣き止ませるなんて意地悪ですね」
「違う。名付けたなら責任持って呼んでくれ」
「え……?」
「さっき龍神様と呼んだだろう。今後も間違えるたびにこうして口を吸ってやる!」
「ええええ!」

 このときほど、屋敷の周りが広い原っぱで良かったと思う。
 動揺して龍神様と呼んでしまい、再びキスの嵐を受けた私の悲鳴を誰にも聞かれずに済んだから。



 そし後、綺羅様の言ったとおり私たちは子宝に恵まれた。
 最初の子が産まれた瞬間、私よりもさきに綺羅様が号泣したのは、私だけの秘密だ。