龍神様が人としての実体を持ったと言うのは、国のお偉方の間ではちょっとした騒ぎになったようだ。
人として扱うか、それとも神として? と、その対応に大変混乱したらしい。
その結果、小高い丘の上にある小さな屋敷が龍神様に当てがわれた。最初は都近くの立派な屋敷――龍代の屋敷の倍はありそうな――はどうかと打診されたのを、「子どもが増えてからでいい」と龍神様が一蹴した。
紆余曲折を経て、人里離れた現在の住処に落ち着いた。龍神様は飛べるから、わざわざ都に住む必要は無かった。山一つ分が私有地だから本人は気ままに過ごしている。住みこみの使用人を置いていないこともあって、龍の姿で過ごすことも多い。
龍降ろしの儀に関する詳細は龍神様から帝に伝えられ、お母様やお兄様、お祖父様の立場は微妙らしい。
助けて欲しいと書簡が届くようだけど、私が読む前に龍神様が燃やしてしまう。
「保身と自己愛しか読み取れないうちは読まなくていい。きちんと謝罪が書いてあったら見せてやる」
「龍神様のお気づかいはありがたいですが、みんながどのように過ごしているのか気になります」
「書簡をよこすくらいなら元気だろ」
「詳しく知りたいのです」
仕方ないと言わんばかりにため息をつき、正座している私の膝を枕にして寝転がった。
「龍神様!?」
「褒美がないと話す気になれん。膝くらい貸せ」
今度は私がため息をつく番だった。でもたしかに愉快な話でないのは予想できるから、黙って枕になっておく。今日も美しい銀糸の髪をすいたら、いくらか機嫌を直してくれたようだった。
「大きな変化は無さそうだぞ。母親はたまに発狂し、兄貴は引きこもり、じーさんは会う人会う人に言い訳を並べて歩いてる」
「お母様のたまに発狂というのは……」
「そのままだ。使用人たちも手こずってるようだな」
「……そうですか」
ともかく強く恐ろしいとしか思えなかったお母様。反面、凛として前を向く姿は憧れでもあったのに。
「ひとつ気になっていたんですが、龍神様は兄様の神力だけでなく、生気も吸ってないですか?」
そう。龍神様は兄様が仮病を使っていたと話してくれた。
だとしたら、今ごろ兄様も家の中を動き回るくらいはできるようになっている気がする。でも実際は、生気――生きる力そのもの――も削ぎ落とされているように感じてしまう。
「失礼な。あいつが根性なしなだけだ。それか、根性が布団に根を張っているのかもな。ともかく今まで散々ゴロゴロしてたくせに、急に普通の生活ができるものか」
「なるほど」
部屋から一歩も出ない生活を何年も続けているのだ。あの夜は生き生きと動いているように見えたけれど、体は相当無理をしていたはず。あの反動も、今の状況に繋がっているのかもしれない。
「信じてないな? それなら今日訪ねてくる鞠子とやらにも聞いてみろ。俺の言い分は正しいと分かるだろうよ」
「信じますよ」
「ふん。どうだか」
「拗ねてるんですか?」
「拗ねてない! 綾紀がいつまでもあいつらのことを気にするのが面白くないだけだ」
それを拗ねていると言うんです。言い返す代わりに、今日も美しい銀糸の髪を撫でた。しばらくすると機嫌を直したのか「まあ、たまになら話してやってもいいぞ」と両口角をあげた。
*
「私も龍神様と同意見だわ」
遊びに来てくれた鞠子は、お茶を飲むなり語り出した。
「今の匡稀様でも、屋敷の敷地を散歩するくらいはできると思うわ。ただ、いつも何かしら理由をつけて部屋にいたがるの」
声をひそめ「薬はほしがるのよ。それ以上に運動が大事なのに。簡単なものもしてくださらなくて困っているわ。お父様は今にも匙を投げそうで、付き添いの私だけがハラハラしているの」
「本当にそれは兄様なのかと疑いたくなるわ」
「あんなに裏表があるなんてね……そうだわ、役者なんか向いてるんじゃないかしら。お顔は綾紀に似て綺麗なんだから」
「話を聞いた限りだと、稽古に耐えられなさそうね」
「本当だわ!」
二人で一緒に笑う。楽しい。同級生と関わるのは学校だけで、放課後や休日をともに過ごすなんて不可能だった。ただでさえ男子校だったし。鞠子と心おきなく一緒にお茶ができるなんて、夢みたいだ。桃色の訪問着――女性用の着物が着られるようになるともつい一週間前まで思わなかった。
そうだ、と鞠子の目が輝いた。
「これからは堂々とあーやって呼べるわね」
「ちょっと恥ずかしいけれど……」
「女性袴にも慣れてきたでしょう? ふふ、同じ学校に通えるのが嬉しい。ねえ、いつになったらマリって呼んでくれる?」
「鞠子さんじゃいけないの?」
「ダメ。今までは仕方ないと思っていたけど、もう遠慮しないわ!」
手繋ぎもね、と笑う鞠子は可愛らしい。龍代家が私にしてきた仕打ちにずいぶんと憤慨していたけれど、私が龍神様とありのままの姿で暮らせるようになったことで溜飲を下げたようだ。
「あーやとは何だ?」
「龍神様!」
「お邪魔しております龍神様」
最初こそ龍神様が見えることや、とんでもない美形であることに腰を抜かしていた鞠子だったが、何度か遊びに来ているうちに慣れていった。今では三人で会話も自然だ。
丸テーブルの残った一席に龍神様が座るのを待って、私は龍神様に説明した。
「愛称のことです。綾紀の響きは少し男性的だから、か……可愛らしい呼び方をしたいと言われて」
「ほお。親しげで良いな。俺も呼びたい」
「え、龍神様もですか?」
「それとも綾紀のままがいいか?」
こんな時にいい声で呼ぶなんてずるい。心地よい低音の響きに耳が震えるし、頬に熱がこもってきたのも自覚する。
「……龍神様のお好きに呼んでください」
「そうか。では綾紀のままで。正確には保留だな」
「ちなみにその心は」
「より照れる愛称をゆっくり考えるからだ」
「ひどい!」
鞠子が大きな声で笑い出した。
「では、私が帰った後にごゆっくりどうぞ」
人として扱うか、それとも神として? と、その対応に大変混乱したらしい。
その結果、小高い丘の上にある小さな屋敷が龍神様に当てがわれた。最初は都近くの立派な屋敷――龍代の屋敷の倍はありそうな――はどうかと打診されたのを、「子どもが増えてからでいい」と龍神様が一蹴した。
紆余曲折を経て、人里離れた現在の住処に落ち着いた。龍神様は飛べるから、わざわざ都に住む必要は無かった。山一つ分が私有地だから本人は気ままに過ごしている。住みこみの使用人を置いていないこともあって、龍の姿で過ごすことも多い。
龍降ろしの儀に関する詳細は龍神様から帝に伝えられ、お母様やお兄様、お祖父様の立場は微妙らしい。
助けて欲しいと書簡が届くようだけど、私が読む前に龍神様が燃やしてしまう。
「保身と自己愛しか読み取れないうちは読まなくていい。きちんと謝罪が書いてあったら見せてやる」
「龍神様のお気づかいはありがたいですが、みんながどのように過ごしているのか気になります」
「書簡をよこすくらいなら元気だろ」
「詳しく知りたいのです」
仕方ないと言わんばかりにため息をつき、正座している私の膝を枕にして寝転がった。
「龍神様!?」
「褒美がないと話す気になれん。膝くらい貸せ」
今度は私がため息をつく番だった。でもたしかに愉快な話でないのは予想できるから、黙って枕になっておく。今日も美しい銀糸の髪をすいたら、いくらか機嫌を直してくれたようだった。
「大きな変化は無さそうだぞ。母親はたまに発狂し、兄貴は引きこもり、じーさんは会う人会う人に言い訳を並べて歩いてる」
「お母様のたまに発狂というのは……」
「そのままだ。使用人たちも手こずってるようだな」
「……そうですか」
ともかく強く恐ろしいとしか思えなかったお母様。反面、凛として前を向く姿は憧れでもあったのに。
「ひとつ気になっていたんですが、龍神様は兄様の神力だけでなく、生気も吸ってないですか?」
そう。龍神様は兄様が仮病を使っていたと話してくれた。
だとしたら、今ごろ兄様も家の中を動き回るくらいはできるようになっている気がする。でも実際は、生気――生きる力そのもの――も削ぎ落とされているように感じてしまう。
「失礼な。あいつが根性なしなだけだ。それか、根性が布団に根を張っているのかもな。ともかく今まで散々ゴロゴロしてたくせに、急に普通の生活ができるものか」
「なるほど」
部屋から一歩も出ない生活を何年も続けているのだ。あの夜は生き生きと動いているように見えたけれど、体は相当無理をしていたはず。あの反動も、今の状況に繋がっているのかもしれない。
「信じてないな? それなら今日訪ねてくる鞠子とやらにも聞いてみろ。俺の言い分は正しいと分かるだろうよ」
「信じますよ」
「ふん。どうだか」
「拗ねてるんですか?」
「拗ねてない! 綾紀がいつまでもあいつらのことを気にするのが面白くないだけだ」
それを拗ねていると言うんです。言い返す代わりに、今日も美しい銀糸の髪を撫でた。しばらくすると機嫌を直したのか「まあ、たまになら話してやってもいいぞ」と両口角をあげた。
*
「私も龍神様と同意見だわ」
遊びに来てくれた鞠子は、お茶を飲むなり語り出した。
「今の匡稀様でも、屋敷の敷地を散歩するくらいはできると思うわ。ただ、いつも何かしら理由をつけて部屋にいたがるの」
声をひそめ「薬はほしがるのよ。それ以上に運動が大事なのに。簡単なものもしてくださらなくて困っているわ。お父様は今にも匙を投げそうで、付き添いの私だけがハラハラしているの」
「本当にそれは兄様なのかと疑いたくなるわ」
「あんなに裏表があるなんてね……そうだわ、役者なんか向いてるんじゃないかしら。お顔は綾紀に似て綺麗なんだから」
「話を聞いた限りだと、稽古に耐えられなさそうね」
「本当だわ!」
二人で一緒に笑う。楽しい。同級生と関わるのは学校だけで、放課後や休日をともに過ごすなんて不可能だった。ただでさえ男子校だったし。鞠子と心おきなく一緒にお茶ができるなんて、夢みたいだ。桃色の訪問着――女性用の着物が着られるようになるともつい一週間前まで思わなかった。
そうだ、と鞠子の目が輝いた。
「これからは堂々とあーやって呼べるわね」
「ちょっと恥ずかしいけれど……」
「女性袴にも慣れてきたでしょう? ふふ、同じ学校に通えるのが嬉しい。ねえ、いつになったらマリって呼んでくれる?」
「鞠子さんじゃいけないの?」
「ダメ。今までは仕方ないと思っていたけど、もう遠慮しないわ!」
手繋ぎもね、と笑う鞠子は可愛らしい。龍代家が私にしてきた仕打ちにずいぶんと憤慨していたけれど、私が龍神様とありのままの姿で暮らせるようになったことで溜飲を下げたようだ。
「あーやとは何だ?」
「龍神様!」
「お邪魔しております龍神様」
最初こそ龍神様が見えることや、とんでもない美形であることに腰を抜かしていた鞠子だったが、何度か遊びに来ているうちに慣れていった。今では三人で会話も自然だ。
丸テーブルの残った一席に龍神様が座るのを待って、私は龍神様に説明した。
「愛称のことです。綾紀の響きは少し男性的だから、か……可愛らしい呼び方をしたいと言われて」
「ほお。親しげで良いな。俺も呼びたい」
「え、龍神様もですか?」
「それとも綾紀のままがいいか?」
こんな時にいい声で呼ぶなんてずるい。心地よい低音の響きに耳が震えるし、頬に熱がこもってきたのも自覚する。
「……龍神様のお好きに呼んでください」
「そうか。では綾紀のままで。正確には保留だな」
「ちなみにその心は」
「より照れる愛称をゆっくり考えるからだ」
「ひどい!」
鞠子が大きな声で笑い出した。
「では、私が帰った後にごゆっくりどうぞ」


