訳あり男装令嬢は、龍神様に娶られる

「それに着替えて着いてきてください」

 いつも薄暗い牢にいれられ何日も過ごすうちに、今日がいつか分からくなった。でも食事を運ぶ下働きの者でなく女中頭が来たということは、これから龍降ろしの儀が執り行われるのだろう。

「匡稀様がお会いしたいとおっしゃっています」

 着替えは億劫だけど、兄様に呼ばれているなら行かない理由はなかった。牢に入れられた時のままだった学ラン姿から、白の浴衣姿になる。

 兄様は屋敷の裏の中庭にいた。青白い月明かりに照らされながら、複雑な陣が描かれた中心に座っている。いつもより呼吸が穏やかで、私を見つめる瞳には力があった。

「……兄様」
「おいで、綾紀」

 なぜだろう。いつもと同じ、優しい兄様の声が恐ろしいと思う。後ずさりたくなるのにそれを許さない力があって、兄様の瞳にとらわれたように動けなくなる。手招きされたら、兄様を優先しなければいけないという使命感がわきあがり、私はゆっくりと兄様に近づいた。震えた手足なのに、自分でも驚くくらい足取りはしっかりしている。

「いい子だね」

 少し前までは嬉しかった兄様の笑顔。だけどやっぱり今は――こわい。

「両手を」
「兄様……今から儀式なのに、神力を私に渡すのですか?」
「ああ。心配しなくて大丈夫。僕を信じてごらん」

 こわいけど、信じたいと思う。一心同体、ずっと一緒に育ってきた。龍代家の理不尽を、二人で乗り越えてきのだから。

「分かりました……兄様を信じます」
「うん。ありがとう」

 笑顔に導かれるように、兄様の顔の前に両手を差しだした。そこに兄様の手が重なり、握られる。いつもはヒヤリと冷たいのに、今日はほんのり温かい。末端まで血が通っている証拠だ。本当に今日は調子が良いみたいだ。
 神力が体内に注がれてくるのが分かる。だけど――

「――っ!」

 注がれる神力の量が明らかに多かった。戸惑い手を振り払おうとしても上手くいかない。兄様の爪が食いこむくらい、強く握られている。

(熱い――!)

 臓腑が焼かれるようだ。作り変えられるような、とも言える。何をしているのか聞きたいのに、喉元を掴まれるような苦しさがあり上手く声が出せない。そうするうちに視界が一段高くなった。

「……っ、兄様!」

 やっと出せた声は、いつもより低く……兄様ととてもよく似た響きだった。

「これはどういうことだ?」

 縁側に座っていたお祖父様が立ち上がり叫んだ。私の手を握ったまま兄様が立ち上がり、引き上げられるように私も地に足をつけた。……兄様と、同じ視線だ。

「なにをしたの。教えてちょうだい」

 焦りがにじむお母様の声がする。すると顔を伏せたまま、兄様は笑い始めた。

「はは……あはは……ふふ…………」
「兄様?」

 やっぱり、私の声が低い。今まではどこか中性的で、声変わりをしたのかしていないのか判断に迷う音だった。けれど今は、まるで本当に性別が男性になってしまったかのような――

「綾紀。ちゃんと『男』になれたね。どう? 嬉しい?」
「……なんの話をしているのですか?」
「おや? 綾紀は龍神を慕っているのでは? だから考えたのさ。龍降ろしは綾紀がすればいい。そうすれば、ずっと龍神とともにいられるからね!」

 まだ疑問符を浮かべる私たちに言い聞かせるように、兄様は説明した。

「だから神力を注ぐ量を多くしてみたんだ。今までは些細な変化だったけど、今日なんか完璧に男の声じゃないか。思った以上に上手くいって驚いているよ」

 些細じゃない。今までだって月のものが止まったり、胸が平たいままだったり、身体的な女らしさはほぼ育っていなかった。あきらめていた。そこに希望をくれたのは、龍神様だ。
 ――嫁になれ。
 尊大で、自信家で、長生きしているはずなのに感性が若くて――――優しい。夢みたいな二日間の思い出を胸に天に召されたなら。そう思っていたのに――!

「私が……龍降ろしを……?」

 龍降ろしができるのは男性のみ。神力で捻じ曲げた性別でもかまわないのか不明だが、単純に条件だけみれば満たしていると言えなくもない。
 龍降ろしをしたら、会えるかもしれない。それだけでない。この身に龍神様を降ろせたなら、もう離れることはない。ずっと一緒にいられるのだ。
 自暴自棄でうずくまるしかできなかった自我が立ち上がったような気がする。それは希望ともいえるかもしれない。

「突飛すぎる案だ。そもそも匡稀、お主の調子がそこまで良いなら、綾紀が龍降ろしする必要はない。伝統にのっとり、匡稀が行えばよかろう」
「そうよ。なぜそんな無駄なことをするの」

 お祖父様とお母様が口々に言う。なんて騒々しいんだろう。
 私は空を見上げた。あの日龍神様が光となって消えた空には、星々がきらめいていた。
「いいや、龍降ろしの儀は綾紀にしてもらう。僕はいい」

 甲高い声で叫ぶお母様を無視して、兄様は私の手を強く引く。転んで地面に倒れた私を置いたまま、自身は陣の外へ出て行った。あっけにとられ陣の中央から動けずにいる私を見下ろして鼻で笑うと、右手を高くのばす。

「偉大なる龍神様!」

 そんなに大声が出せたのかと驚くくらい、兄様の声は場の空気を震わせた。

「今一度地上に降り、我らに力を貸し与えたもう!」

 その声に応えるように突風が吹き、前触れなく雨が降り始めた。あんなに星々が輝いていたのに。場の空気が、天からの恵みが、私たちを撫でるように見定めるように、大きく円を描きながら陣を囲んでいく。風にのり雨が全身にぶつかってくる。目を開くのが難しくて、まぶたをかたく閉じた。

(……龍神様。会いたいです)

 一縷の望みにすがり龍神様を呼ぶ。

 パシッ!! 水の弾ける音とともに、雨風がぴたりとやんだ。
 恐る恐る目を開けば、真っさらで淡く発光する蛇のような――いや、今まで見た姿より桁違いに大きくて長い――絵巻物で見た、立派な鱗を光らせる龍がいた。

「よく頑張ったな、綾紀」
「龍神様……!」

 声は低くなり威厳のある雰囲気を纏ってしまったけれど、話し方が龍神様と同じで安心する。

 戸惑いも諦めも絶望も、全て吹き飛んで、会えた会えたとわきあがる喜びが全身をめぐる。幻でないのを確かめたくて背中あたりの鱗におずおずと触れれば、龍神様は私の頬に頭を寄せてくれた。髪の毛のようなふわふわとした毛がくすぐったい。思わず笑うと、安心したように龍神様は息を吐いた。

「待たせてごめんな」
「いいえ、いいえ! もう一度会えて嬉しいです」
「俺もだ。手遅れになる前で良かった」
「手遅れ?」
「嫁になるんだろう、俺の」
「は……い、けれど声が……きっと身体のなかも」

 もうこれは兄様の姿だ。私では――綾紀では、ない。

「そんなのどうとでもなる」

 豪快に笑う声と姿は違うけれど、やっぱり龍神様だ。どういうことか詳しく聞きたいと思ったのに、お母様の大絶叫がまたも響いた。

「龍神様! それは紛い物でございます! 貴方様をお呼びしたのはこの匡稀! 龍代を継ぐのはこちらの匡稀でございます!」

 龍神様は口を開き、隙間なく生えた歯を剥き出しにして唸った。飄々としている姿しか知らないから、眉間に何本も皺を寄せる様子に驚いてしまう。
 
「女、見苦しいぞ。我は綾紀の願いに応えたのだ。そちらのホラ吹きに用はない」
「ほ、ホラ吹き!?」
「その男はな、我の姿が見えているにも関わらず見えぬ存ぜぬとシラを通した。寝こんでいたのも仮病だろう。神力の量が歴代よりも多いのは事実のようだが、何も問題なく生活できる」
「そんなこと……ありません。僕は、僕は……」
「ふん。言い訳など興味はない」
「匡稀をこんなにも蔑ろにして! いくら龍神様とはいえ許せません!」

 お母様の握っていた短剣が放られた。お母様の神力がこもっているのか、空をきる速度が速い。
 
「やめて!」

 龍神様に当たらないでと願った瞬間、私は剣の軌道に立ちはだかっていた。みぞおちに衝撃がはしる。貫かれるような、鋭い痛みがあり、何かが割れるような音がした。

「割れる?」

 短剣は足元に転がっていた。当たった場所に右手で触れる。……なんともない。穴が開いてもおかしくないと思ったのに。次の瞬間、指先が巾着袋の厚みに気づいて「あ」と気づいた。あわてて袋の中身を確認する。やっぱり。以前龍神様がくれた逆鱗が粉々に砕けていた。カケラになっても美しい光を放っているのが、より守りきれなかったのを痛感して悲しくなる。
 
「何をしている」

 龍神様が膨らむように大きくなった。

「よくまあ我を責めることができたな。お主は母親の身でありながら息子だけを贔屓し、綾紀を蔑ろにしてきただろう!」

 雷が庭の木に落ちた。

「これは俺の逆鱗だ。よくも傷つけてくれたな」
「も、申し訳ございませぬ!」

 お祖父様が慌てて頭を下げた。何か申し開きをしているけれど、再び降り出した雨の勢いが強すぎて聞こえない。兄様の言い訳も、お母様の嘆きも。

「俺に触れていれば雨にも雷にも当たらない」

 私に向けた龍神様の声は優しかった。こんな悪天候でも、龍神様の声だけは鮮明に届く。見上げれば、黄金の瞳が声色と同じように優しく弧を描いた。

「綾紀、行こう」

 背中に乗るよう促される。拒否する理由もないため素直によじ登る。首のあたり……と思われる部位に腕を回した。しっかり掴まるよう言われて頷いたとたん、龍神様は空へ昇っていき、気づいたときには霞がかった山のなかにいた。見上げてもてっぺんが見えない竹が林になって揺れている。

「さあ、そろそろ決着をつけようか」
「決着……ですか?」
「こういうこと!」

 地面におりた私の体全体を、小さな竜巻が包んだ。痛みも息苦しさもない。不思議とあたたかくて、明るい。体が軽くなっていくのが清々しい。頬に手を当てたらいつもと感触が違うのに驚いて手の平をまじまじと見つめる。節のないほっそりとした手指だった。まさかとあちこち確認する。筋肉質だった手足の輪郭が丸みを帯びでいた。喉に触れてもでっぱりはなかった。

 (もしかして……)

 やがて風の勢いがゆるくなり、頭の方から空へ消えていく。よく眠れた朝みたいに頭がすっきりとしていた。

「お、さっぱりしたな」
「龍神様……って、えええ!?」

 知らない人がそこにいた。
 だから、私は自分の声が元に戻る……どころかいつもより高いことに、すぐには気づかなかった。
 青みがかった白銀の、背中まで届く髪の毛と黄金の瞳をもつ、まるで龍神様が人の姿をとったような人物がそこにいた。

「いや……俺だが」
「しゃべってる……」

 頭のなかに響いてくる声でなく、耳で聞いている。呆けている私を困ったように見つめる様子に覚えがある。こんな……私より頭一つ大きいところから感じる視線が、肩から見つめてくるものや、はたまた遥か頭上から見下ろされるもの一緒なんて、そんなわけないのに。

(でも、知ってる)

 この気づかわしげな視線を。何よりも私の胸を震わせる声を。豪快な態度のわりに、そっと労るように触れてくるのも。

「龍神様……人の姿にもなれたんですね」
「ああ。龍降ろしの儀が終わったからな」
「! そうだ、儀式が終わったら私のなかに龍神様が? でも目の前にいて? あれ? そもそも私の声……なんか違う!?」
「あはは! 忙しないの」
「わ、笑ってないで教えて下さい!」
「ふむ。では近くに寄れ」

 私と龍神様の間はひと一人分程度。十分近いのにと首をかしげたら「遅い」と手を引かれ、私は龍神様の胸にぽすんとおさまった。突然のことに抗議しようと見上げれば、まつ毛がふれあいそうなくらい近くに顔がある。
 月光に似た肌色に流れ星の流線を集めたみたいな髪、なにもかもを照らす太陽と同じ色の瞳……色男だと自賛していたのも納得だ。空の美しい光を全て集めたような神々しさに目がくらみそうになる。
 思わず俯いた私の頭を、龍神様は両手ですくいあげた。よほど私は情けない顔をしているのか、龍神様は眉を下げ困ったように微笑んだ。

「こら。そらすな」
「だ、だって……」
「俺の目をよく覗いてみろ」

 ちょうど雲の合間に隠れがちだった月が綺麗に顔を出し、龍神様の輪郭をほのかに光らせる。その瞳の中には浴衣を着た一人の――

「どっからどう見ても可愛い女だろ」
「か、かわ……」
「だからよく見せてくれ」
「ひいぃ……無理です……」

 声が尻すぼみに小さくなっていく。笑われるかと思ったけれど、獣人様の表情は真剣なままだった。

「やっとだ」

 目を細めて嬉しそうに私の顔に触れたり髪を撫でる。今まではいつ触れても少しひんやりしていたから、初めての温もりに鼓動が不規則にはねてしまう。
 しばらくそのままでいたら、ふいに背中を押され私の頭はまた龍神様の胸におさまった。背中に回った両腕にゆっくりと力がこもり、私と龍神様の距離はなくなって、互いの吐息まで聞こえる。

「ずっとこうして触れたかった。この髪をすいて、背中を撫でてみたいと思っていた」

 耳元で囁かれると、元々ほてり始めた体がさらに熱くなる。しかもさりげなく耳も撫でてくるものだから、私はかたまるしかない。腕の力を緩め、私の顔を確認した龍神様は、盛大に吹き出した。

「どうした。茹で蛸にも負けないくらい赤くなったな!」
「龍神様のせいですよ! 人の姿になった途端、おかしなことばかり言って……ちゃんと驚く暇もないです!」
「仕方ないだろう。これでも浮かれているんだ。こうして人の姿で実体が持てたのは初めてだからな」
「そうなんですか?」
「お前の兄はたしかに神力の量が桁違いだった。お前に注がれた分と、あの兄の体に存在していた分、全部吸い取った結果がこれだ」

 龍神様が私の右手を取った。導くように動かされ、手のひらがたどり着いたのは龍神様の左胸。

「……鼓動が、聞こえます」
「だろ? これが実体を持つということだ。おそらく神力がない者でも、俺の姿は見えるだろう」
「神力がなくても……? 龍神としての力は無くなったということですか?」
「いいや? 人の姿にも龍の姿にもなれる。今までは現世で存在するために人の肉体を間借りしていたが、その必要が無くなったということだな。まあ、神力の供給は今後も必要だが」
「すごい……兄様の力でそんなことが」

 私の性別を勝手に変えて、なんの説明もなく龍降ろしをさせようとしていたことはショックだけれど、龍神様が人として生活できるようになったのは感謝しないといけない。

「兄貴だけじゃないぞ。お前の神力も、こうして触れ合うことでもらっている」
「え? 私に神力はないはずでは?」
「いいや、違う」

 龍神様は首を横に振った。
「綾紀の神力は兄貴の神力に蓋をされていた。だから神力が全く無いように母親たちには見えたんだろう。そして綾紀自身もその力を自覚できなかった」
「たしかに……」

 まだ自分のものと思うには違和感のある、ほっそりとして丸みを帯びた手のひらを閉じたり開いたりしてみる。さっきまでは感じなかった、兄様の神力とは別の力の流れを感じる。これが私の神力ということなんだろうか。

「赤ん坊のころから本能的に兄貴の神力を受け入れていたんだろう。奴を生かすために」
「全然……気がつきませんでした」
「その証拠に、兄貴の神力を取り除いてやったら、本来の性別らしい体になっただろう?」
「龍神様の力ではないのですか?」
「俺は蓋を壊しただけだ。とにかくお前も相当強い神力を持っているぞ。そう考えるとお前らの母親ってすごいよな。方向性が残念すぎるが」

 そういえば、龍代家はどうなったのだろう。今の状況を尋ねたら、さも当たり前のように兄様が倒れ、てんやわんやしていると龍神様は答えた。

「さっきはしゃぎすぎたんだろ、自業自得だな。ま、何年も仮病で臥していたんだ。あと数ヶ月のびてもどうってことないだろう。これまでを反省するいい機会だ。」
「お兄様は、何がしたかったんでしょうか」
「すべての責任をお前に押しつけて逃げおおせるつもりだったんだろうよ。家以外で生きる術を用意しなかったのはお粗末だけどな」

 兄様がそんなに利己的な人だなんて信じられない……信じたくない、が正しいかもしれない。優しくて逆境に耐えるすごい人だと思っていたから。

「母親もしばらく寝こむかな。ま、妙なマネしても俺がいれば手も足も出せないから気にするなよ。じーさんには後で事後処理の仕方を伝えないとな」
「はあ……怒涛ですね」
「大変だったな」
「そ、そうですよ。龍神様が実体をもてることを知っていたら、この何日間も希望を持てたのに」

 駄々っ子みたいな、我ながら嫌な言い方だと思う。きっと龍神様にも予測が難しい状況だったとだろうに。
 なのに龍神様は揶揄うことも誤魔化すこともせず、「悪かった」と頭を下げた。

「あの家族の冷酷さに気づけなかったのは俺の落ち度だ。ただ、俺だってそれなりに気落ちしていたんだぞ。逆鱗をやっても喜んでくれなかったじゃないか」
「嬉しかったですよ! どんなに救われたことか」

 冷たい牢にいる間、忍ばせた逆鱗を何度となく眺めては、龍神様とのやりとりを思い出して気を紛らわせていた。

「いいや何にも伝わってない。だからお前ら人間の流儀を学んでいた」
「人間の流儀?」

 龍神様がこちらに身を乗り出した。少しかがんで目線が同じになる。私の情けない赤ら顔がまたもまじまじと見られてしまう。せめてと対抗して視線を逸らしていたら、目尻から頬にかけて指が添わされた。
  
「……ずっと、こうして頬に触れ、唇の感触を確かめたかった」

 すべるように唇を親指が撫でていく。さらなる熱が呼び覚まされるようだ。これ以上は熱くならないと思った体のあちこちで弾けるものがある。

「こういうとき、人間は好きだとか愛しいと言うのだろう?」
「す、」
「好きだ、綾紀」
「待ってください。その、龍神さ、」

 待たないと言う返事の代わりに、私の体温に負けないくらい熱い唇がおりてきた。
 龍神様が人としての実体を持ったと言うのは、国のお偉方の間ではちょっとした騒ぎになったようだ。
 人として扱うか、それとも神として? と、その対応に大変混乱したらしい。

 その結果、小高い丘の上にある小さな屋敷が龍神様に当てがわれた。最初は都近くの立派な屋敷――龍代の屋敷の倍はありそうな――はどうかと打診されたのを、「子どもが増えてからでいい」と龍神様が一蹴した。
 紆余曲折を経て、人里離れた現在の住処に落ち着いた。龍神様は飛べるから、わざわざ都に住む必要は無かった。山一つ分が私有地だから本人は気ままに過ごしている。住みこみの使用人を置いていないこともあって、龍の姿で過ごすことも多い。
 龍降ろしの儀に関する詳細は龍神様から帝に伝えられ、お母様やお兄様、お祖父様の立場は微妙らしい。
 助けて欲しいと書簡が届くようだけど、私が読む前に龍神様が燃やしてしまう。

「保身と自己愛しか読み取れないうちは読まなくていい。きちんと謝罪が書いてあったら見せてやる」
「龍神様のお気づかいはありがたいですが、みんながどのように過ごしているのか気になります」
「書簡をよこすくらいなら元気だろ」
「詳しく知りたいのです」

 仕方ないと言わんばかりにため息をつき、正座している私の膝を枕にして寝転がった。

「龍神様!?」
「褒美がないと話す気になれん。膝くらい貸せ」

 今度は私がため息をつく番だった。でもたしかに愉快な話でないのは予想できるから、黙って枕になっておく。今日も美しい銀糸の髪をすいたら、いくらか機嫌を直してくれたようだった。

「大きな変化は無さそうだぞ。母親はたまに発狂し、兄貴は引きこもり、じーさんは会う人会う人に言い訳を並べて歩いてる」
「お母様のたまに発狂というのは……」
「そのままだ。使用人たちも手こずってるようだな」
「……そうですか」

 ともかく強く恐ろしいとしか思えなかったお母様。反面、凛として前を向く姿は憧れでもあったのに。

「ひとつ気になっていたんですが、龍神様は兄様の神力だけでなく、生気も吸ってないですか?」

 そう。龍神様は兄様が仮病を使っていたと話してくれた。
だとしたら、今ごろ兄様も家の中を動き回るくらいはできるようになっている気がする。でも実際は、生気――生きる力そのもの――も削ぎ落とされているように感じてしまう。
 
「失礼な。あいつが根性なしなだけだ。それか、根性が布団に根を張っているのかもな。ともかく今まで散々ゴロゴロしてたくせに、急に普通の生活ができるものか」
「なるほど」

 部屋から一歩も出ない生活を何年も続けているのだ。あの夜は生き生きと動いているように見えたけれど、体は相当無理をしていたはず。あの反動も、今の状況に繋がっているのかもしれない。

「信じてないな? それなら今日訪ねてくる鞠子とやらにも聞いてみろ。俺の言い分は正しいと分かるだろうよ」
「信じますよ」
「ふん。どうだか」
「拗ねてるんですか?」
「拗ねてない! 綾紀がいつまでもあいつらのことを気にするのが面白くないだけだ」

 それを拗ねていると言うんです。言い返す代わりに、今日も美しい銀糸の髪を撫でた。しばらくすると機嫌を直したのか「まあ、たまになら話してやってもいいぞ」と両口角をあげた。



「私も龍神様と同意見だわ」

 遊びに来てくれた鞠子は、お茶を飲むなり語り出した。

「今の匡稀様でも、屋敷の敷地を散歩するくらいはできると思うわ。ただ、いつも何かしら理由をつけて部屋にいたがるの」

 声をひそめ「薬はほしがるのよ。それ以上に運動が大事なのに。簡単なものもしてくださらなくて困っているわ。お父様は今にも匙を投げそうで、付き添いの私だけがハラハラしているの」
「本当にそれは兄様なのかと疑いたくなるわ」
「あんなに裏表があるなんてね……そうだわ、役者なんか向いてるんじゃないかしら。お顔は綾紀に似て綺麗なんだから」
「話を聞いた限りだと、稽古に耐えられなさそうね」
「本当だわ!」

 二人で一緒に笑う。楽しい。同級生と関わるのは学校だけで、放課後や休日をともに過ごすなんて不可能だった。ただでさえ男子校だったし。鞠子と心おきなく一緒にお茶ができるなんて、夢みたいだ。桃色の訪問着――女性用の着物が着られるようになるともつい一週間前まで思わなかった。
 そうだ、と鞠子の目が輝いた。
 
「これからは堂々とあーやって呼べるわね」
「ちょっと恥ずかしいけれど……」
「女性袴にも慣れてきたでしょう? ふふ、同じ学校に通えるのが嬉しい。ねえ、いつになったらマリって呼んでくれる?」
「鞠子さんじゃいけないの?」
「ダメ。今までは仕方ないと思っていたけど、もう遠慮しないわ!」

 手繋ぎもね、と笑う鞠子は可愛らしい。龍代家が私にしてきた仕打ちにずいぶんと憤慨していたけれど、私が龍神様とありのままの姿で暮らせるようになったことで溜飲を下げたようだ。

「あーやとは何だ?」
「龍神様!」
「お邪魔しております龍神様」

 最初こそ龍神様が見えることや、とんでもない美形であることに腰を抜かしていた鞠子だったが、何度か遊びに来ているうちに慣れていった。今では三人で会話も自然だ。
 丸テーブルの残った一席に龍神様が座るのを待って、私は龍神様に説明した。
 
「愛称のことです。綾紀の響きは少し男性的だから、か……可愛らしい呼び方をしたいと言われて」
「ほお。親しげで良いな。俺も呼びたい」
「え、龍神様もですか?」
「それとも綾紀のままがいいか?」

 こんな時にいい声で呼ぶなんてずるい。心地よい低音の響きに耳が震えるし、頬に熱がこもってきたのも自覚する。

「……龍神様のお好きに呼んでください」
「そうか。では綾紀のままで。正確には保留だな」
「ちなみにその心は」
「より照れる愛称をゆっくり考えるからだ」
「ひどい!」

 鞠子が大きな声で笑い出した。

「では、私が帰った後にごゆっくりどうぞ」
 鞠子が帰ったあと、二人で入れ直した新しいお茶を飲みながら、ポツリと龍神様がつぶやいた。

「俺も愛称がほしい」
「龍神様が?」
「そうだな。愛称というより、名付けをしてほしい」
「名付け……」

 そこまで言われてやっと気づいた。ずっと龍神様と呼んでいたけれど、これは愛称でも、名前でもない。

「綾紀は、誰が名付けた? まさかあの母親ではないだろう」
「……はい。この名前をつけてくれたのはお祖母様です」

 もう、この世にはいないお祖母様。物心つくかどうかで亡くなってしまったからあまり覚えていないけれど、『よく生き残った』と言って頭を撫でてくれたのは覚えている。
 そういえば、お祖母様は『よく生まれてきた』とは言われなかった。
 その理由も、今ならわかる。
 兄様の代わりに余剰な神力を引き受けて、お腹の中で死んでしまうと思われていたからだろう。だから『生き残った』という表現だったのだ。
 
「せっかく生き残れたのだから、お空にいかないよう、たくさんの縁と繋がりますように、と呪文みたいに会うたび言われました。……だから、糸へんの漢字ばかり使った名前にしたのかもしれません」
「いいな、それ。俺も糸へんの名前がいい。何か考えてくれ」
「いきなり言われても……」

 恐れ多い、と反射的に思った。だけど龍神様の瞳がいつも以上に輝いている。はぐらかすのも、後回しにも出来そうにない。
 私だって、できるなら素敵な名前を考えてあげたい。偉大で強大な力を持つ龍神様。そんな彼に名前を授けられるなんて、このうえない栄誉ではあるのだから。
 腕を組んでああでもない、こうでもないと紙に書き留めていると、席を立った龍神様が私を後ろから抱きしめた。

「ちょ、集中できないのでやめて下さい」
「俺にはかまわず考えてくれ」

 それは無理な相談だった。背中の熱が気になって、本当になにも思いつかなくなってしまった。

「ちょっと頭を冷やします!」

 いきおいよく立ち上がり、追いかけてくる龍神様を無視して庭に出た。
 とっくに日が暮れた空には満天の星が輝いている。視界を横切る天の川は、龍神様の髪色によく似ていた。

(そういえば出会ったばかりのころ、綺羅星(きらぼし)のような人だと思ったっけ)

「綺羅星」

 龍神様と出会うまで、私は自分に何もないと思っていた。私が何かしても、周囲が幸せになることはないと。
 でもそれは、責任転嫁していただけだと今なら分かる。
 兄様が回復すれば何もかも解決すると信じていた、と言えば聞こえはいいけれど、幸せは他人に託すものではないのだ。
 望みをもって最後まであきらめなければ、新たな道がひらける。それを教えてくれたのも龍神様だった。

(私は龍神様に大事なことをたくさん教えてもらっている)

 少し強引で、はちゃめちゃで……お茶目なところもある龍神様。
 星はいつも空にある。見上げれば同じ輝きで応えてくれる。その輝きに飽きることはなく、いつまでも魅力される。
 私から見た龍神様は、そんな感じ。

「綺羅星の……綺羅(きら)様はどうでしょう?」
「きら? どのような字を当てるのだ」

 適当な木の棒を拾い、土の上に書く。月がまるで覗きに来たようなタイミングで雲から出てきて、私の手元を照らしてくれた。
 
「こうです。糸がふたつ。私と一緒です」
「だったらそれがいい! 今日から俺は綺羅と名乗るぞ!」
「愛称はどうしましょう? きーちゃんとか?」
「……数日前、庭に来た鳥をそうやって呼んでいなかったか?」
「そうでしたっけ?」

 あははと誤魔化す。龍神様の……綺羅様の視線が痛い。

「愛称はいい。綺羅という名前が気に入ったからの」
「それは良かったです」
「……なあ」
「はい?」
「もっと呼んでくれ」

 綺羅様も隣に腰掛け、私の肩を抱きよせた。ちょっと声が低い。ただでさえ麗しい外見を惜しげもなく寄せてくる。色男モードだ。これで近づかれて勝てた試しがない。

「き、綺羅様」
「声が小さい」

 瞳にお互いが映るところまで近づかれて、思わず下を向いた。

「綺羅様」
「ん」

 顔をそらして無防備になったつむじや耳元に、綺羅様は唇を寄せては離すをくり返す。意地になって俯いたままでいたら、かすれた声でもっととねだられた。私はやけになって叫んだ。

「綺羅様……綺羅様、綺羅様!」
「ふふ、必死だな」
「……満足ですか?」
「ああ。ありがとう、綾紀」

 私を解放した綺羅様は、満面の笑みで頷いた。珍しく頬に朱がさしているのをみたら、胸の奥まで照らされるようで。やがてそれは、長く凍らせて目を逸らしてきた私の願望を思い出させてくれた。

 私の両目から涙があふれてくる。次から次へ、とめどなく流れていく。

 綺羅様の表情が一変した。真っ青な顔で慌てふためいている。
 そう言えば、彼の前で泣くのは初めてかもしれない。……泣くこと自体、もう何年もしていなかった。心の振り子がそこへ向かうのを我慢していたから。
 
「どうした? 抱きしめる力が強すぎたか? 苦しかったか?」
「いいえ、違うんです。……嬉しくて」
「? 喜ぶ要素があったか?」
「はい。以前家庭を持ちたいとお伝えしましたよね。それを諦めていたんです」
「それはこれからだろう。もう悲しむようなことじゃない」
「嬉し涙と言ってるじゃないですか。嬉しいんです」
「何が」
「名付けの親になれたのが。だって、名付けなんて、子供が産まれないとできないじゃないですか」

 生き物を飼ったこともなかったし。……機会があったとしても、私と一緒に不幸にしそうで飼う決意はできなかっただろう。

「名付けの機会なんて、一生ないと思っていたんです。それが叶ったのが嬉しくて……気づいたら泣いてました」
「何を言う。泣くのはまだ早い」
「わっ!」

 そのまま抱き上げられた。龍神様の左腕に私が腰かけるような形だ。視界が高くなり、いつも頭ひとつ分高い綺羅様を私が見下ろしている。

「俺たちはこれからもっと親密になり、そのうち本当に子どもが出来るだろう。その時まで涙は取っておくんだ」
「……はい」

 返事をしたものの、今までどうやって堪えていたのか不思議なくらい、涙はあとからあとから流れて止まらない。

「だから取っておけと……綾紀に泣かれるのは胸がざわつく」
「ですから、嬉し泣きなのです。龍神様が優しいせいですよ」

 すると、唐突にキスされた。啄むように何度も唇が重ねられ、戸惑ううちにいつの間にか涙はひっこんでいた。

「……もう、驚かせて泣き止ませるなんて意地悪ですね」
「違う。名付けたなら責任持って呼んでくれ」
「え……?」
「さっき龍神様と呼んだだろう。今後も間違えるたびにこうして口を吸ってやる!」
「ええええ!」

 このときほど、屋敷の周りが広い原っぱで良かったと思う。
 動揺して龍神様と呼んでしまい、再びキスの嵐を受けた私の悲鳴を誰にも聞かれずに済んだから。



 そし後、綺羅様の言ったとおり私たちは子宝に恵まれた。
 最初の子が産まれた瞬間、私よりもさきに綺羅様が号泣したのは、私だけの秘密だ。

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