伝染鬼

私は真っ暗な場所にいた。自分の手さえも見えない、無明の闇だった。

「アハハハハハハハッ」

背後から笑い声が聞こえた。
遠い、遠い声。距離はまだあるけど、だんだんと声は近付いている。

私は手を突き出し、恐る恐る前に歩き出した。

暫くすると、パッと灯が点いた。一瞬だけど辺りが見えた。トンネルのような場所に私はいるようだ。

光は点いたり消えたりしている。光が灯った瞬間、前方に何か見えた。青白くて長いものだ。

光が消え、また点く。それは白い着物を纏った首無し人間だった。
光が消え、また点く。それは首がないのではない、頭に黒い頭巾を被っていた。
光が消え、また点く。それはさっきよりも私に近付いていた。

 逃げなくては。

私はそれに背を向けて走り出そうとした。
だが、背後からはあのけたたましい笑い声が近付いている。

 挟まれた、どうしよう。

 戸惑っている間に、それはまた一歩こちらに近づいている。

 光が消えた。今度は十数秒と長く暗闇に包まれていた。

 そして次に電気が点いた時、それは私の真ん前にいた。

それは小柄な私よりは大きいけれど、それほど大きくない、だけどたぶん男だった。

 黒頭巾の人物が手を振り上げる。その手には包丁が握られていた。
オールステンレスの鋭い包丁、どこかで見たことがある。

 手の中にひやりとした感触がした。
目を向けると、私も包丁を握っていた。

ステンレスのスタイリッシュな包丁。料理の手伝いをする時に使う、私専用のお気に入りだ。
よく見ると、目の前の黒頭巾の人物が持っている包丁も私のものに似ていた。

「ど、どういうこと?」

 訳がわからないまま、私は茫然と振り上げられた包丁を見上げていた。
 黒頭巾の人物が包丁を振り下ろす。包丁の先が胸に突き刺さって、痛みが爪先から頭まで駆け抜けた。

 痛い、息が苦しい、苦しい。
 このまま、死んでしまうのか。私は恐怖で震えた。

「だめ、起きろ、起きろ、起きろっ!」

 私は声の限り叫んだ。
 

自分の声で目が覚めた。窓からは朝日が射し込んでいる。
 私は勢いよく起き上がり、自分の胸元に視線を落とした。
穴も開いていないし、血も出ていない。なんともなかった。

「ゆ、夢?」

 顎を伝う汗を拭い、息を吐く。よかった、夢だ。

 ホッとして枕元の目覚まし時計を見ようとして、心臓が止まりかけた。

目覚まし時計の傍で、銀色のオールステンレスの包丁が朝日を弾いて輝いていたからだ。

 寝惚けて持ってきたのか。
いや、ありえない。だとすれば、あれはただの夢ではないということになる。

「そんなわけない、きっと寝惚けて持ってきたんだ」

 私は包丁を持って一階に降りた。

いつもどおり、一番早く起きる母が四人分の朝食を作っていた。

「おはよう涼花、今朝はいつもより早いわね」
「あ、うん。目が覚めて」
「そうなの。ちょうど朝ご飯ができたところよ。私は涼一にご飯持ってくわね。涼花も顔を洗ってご飯食べちゃって」
「わかった」

 母が兄の涼一の分のご飯をお膳にのせて二階に上がっていく。
私はその隙をついて、背中に隠したステンレスの包丁をそっと流しの下の収納ケースに戻した。

 朝食を食べると、いつもより早く学校に向かった。

 悪夢と怪現象について、一刻も早く歩美と真鈴と話したかった。

 ポツポツとクラスメイトが登校してくる。歩美はいつも通り、八時過ぎに教室に入ってきた。

「おはよ、涼花。今日は早いね」
「おはよう、歩美。あのさ、ちょっと話したいんだけど」
「えっ、なになに?」

 私は歩美に日曜日に起きたことをすべて話した。

「櫛の夢は見たけど、黒頭巾の男の夢なんて、あたしは見なかったよ」

 きょとんとした顔でそう言った歩美に、私はぽかんとした。

「え、そうなの?」
「うん。それに、家で怪現象も起きてないよ」

 いったい、どういうことだ。歩美もてっきり同じ目に遭っていると思っていたのに。

真鈴の言葉に影響されて、ありもしない怪現象を感じとり、悪夢を見たのだろうか。

冷静に考えてみると、押入れの扉の隙間はネズミの仕業かもしれないし(家にネズミがいるとは思えないが)、部屋のドアを叩く音は鳥が屋根を歩く音に似ているし、女の囁き声は風の音かもしれない。

ぜんぶ、恐怖心による私の勘違いだったということか。

 それならそのほうがいい。この話題にはもう、触れないほうがいいのかもしれない。

 私はすっかりホッとして、歩美といつも通りドラマや漫画の話題で盛り上がった。


真凛はいつもより遅く登校してきた。

いつもなら歩美と一緒に真凛に「おはよう」と近付いていただろう。
だけど、今日はできなかった。

 いつも髪をポニーテイルにして、制服もスカートを折って短くしたりスカーフをリボン風に結んだりしてお洒落をしている真鈴が、今日は酷い有様だったからだ。

髪はおろしっぱなしでボサボサ、スカーフは適当に結んであり、スカートは膝を隠すぐらいの長さだった。
金曜日にしていたリストバンドはしていない。ミミズが這ったような醜い傷が手首にたくさんついていて、痛ましかった。

「ちょ、真鈴ってば、どうしちゃったんだろ」
「わからない、嫌な感じがする……」

 話し掛けたかったけど、チャイムが鳴って古賀先生が来てしまった。



 一限目の英語がはじまる。
まだ若くてかっこいい、人気英語教師の佐野先生が教室に入ってきた。

 佐野先生は真鈴お気に入りの先生だ。勉強嫌いで授業中はたいてい寝てしまっている真凛だが、佐野先生の英語だけはいつもちゃんと起きて黒板を、もとい、佐野先生を真剣に見つめている。

 だけど、今日は違う。真鈴の顔は相変わらず暗い。半分俯いており、今にも寝てしまいそうだ。
 授業が半分を過ぎた頃、いきなり真鈴が椅子をひっくり返して立ち上がった。

「成海、どうした? トイレか」

 真鈴は佐野先生に答えることなく、ふらふらと歩き出す。その手には、何故か金槌を持っていた。

 あの金槌、見覚えがある。

小ぶりでグリップが愛らしいピンクの金槌。
あれは、技術の授業で木のプランターを作って以来、DIYに嵌った真凛が揃えた工具の一つだ。

「アハハッ、アハハハハハハッ」

 真鈴は心底愉快そうに笑いながら、金槌を振り被って、前から三番目の席に座っていた新井美奈に飛びかかった。

「ちょっ、なんなのっ! キャアアァッ!」

 新井が悲鳴を上げる。

 チョークを放り投げて駆け寄った佐野先生が、間一髪のところで真鈴の腕を取り押さえた。
そのまま真鈴の手から金槌を奪い取る。

「何をやってるんだ、成海。こんなもの持って、危ないじゃないか!」
「やめてよ、返して、それはワタシの、ワタシのぉぉっっ!」
「だめだ、落ち着け成海!」

 佐野先生が金槌を遠ざけると、真鈴は悲鳴のような叫び声を上げた。
それから激しく手首を掻き毟る。

「あああぁぁぁっっ、痒い、痒い、痒い痒いぃぃぃっ」
「お、おい。大丈夫か、血が出てるじゃないか」
「ああぁぁぁっ、かゆぃ、かゆいぃぃっ、かゆいいぃぃぃっ!」
「やめるんだ、成海!」

 佐野先生に取り押さえられても真鈴は暴れていた。
佐野先生はそのまま真鈴を抱きかかえ、引き摺るように保健室に連れて行ってしまって、英語は自習となった。

 その日、帰りの会がはじまっても真鈴は教室に帰ってこなかった。