伝染鬼

気付けば朝がきていた。

 私は慌てて枕元のスマホを手に取る。
二〇二五年九月二十日土曜日。時刻は午前八時。大丈夫、変なことは一つもない。

「なんだ、ただの夢か」

 ホラー映画も怖い話も苦手で避けているのに、どうしてあんな夢を見たのだろう。
はっきりと幽霊や妖怪が出てきたわけじゃなかったのに、異様に怖かった。
ずいぶんと古い時代っぽい夢だったな。

「時代劇も見てないんだけどな」

 異様に肩が重い。うんと伸びをしてからベッドを降りた。
 ふと、勉強机に目を遣る。そこには黒い櫛が置いてあった。

「それはもう、アナタのもの」

 そう言って微笑んだ、あの紅の着物の美しい女の悪辣な笑顔を思い出した。

「なに、この櫛……」

 気味が悪い。
私はティッシュを一枚とって黒い櫛を摘まみ上げると、そのまま包んで部屋のゴミ箱に捨てた。

 昼過ぎ、私と歩美と真鈴は待ち合わせ場所の公園に集まった。

二人を怖がらせたくなかったので、夢のことは黙っていた。
重たい気分をふりはらうように、他愛ない話をして笑いながら野呂紗千の家に向かった。

 野呂紗千の家のカーポートには一台も車が停まっていなかった。
とりあえず玄関のチャイムを鳴らすけど、反応が無い。

「出かけてるのかな?」
「車がなかったから、そうかも」

 歩美の質問を肯定しながらも、それにしたって変だと感じていた。

 郵便受けに残ったままの数日分の新聞、ダイレクトメールや葉書も入ったままだ。
狭い庭は雑草が好き放題伸び、廃屋のような雰囲気を醸していた。

「家の人が帰ってくるの、ここで待ってたらいいじゃん」

 真鈴が必死な顔でそう言うから、私も歩美も断れず、野呂家の前で立ち話をしていた。
 十数分後、隣の家の玄関が開いた。

少し腰は曲がっているが、元気いっぱいのおばあさんが大人しそうなゴールデンレトリバーを連れてでてきた。

「こんちには」

 私はすかさず挨拶をしながら、おばあさんに近付く。

「こんにちは」

 おばあさんが足を止めてにっこり笑う。
ゴールデンレトリバーは、おばさんの横に行儀よくお座りした。

さっきまで穏やかな顔をしていたゴールデンレトリバーが、神妙な顔でじっとこちらを見ていた。

 ゴールデンレトリバーは人懐っこい犬種だ、遊んでほしいのだろうか。
遊んであげたいのはやまやまだが今はそんな場合じゃない。

私は話を続けた。

「あの、野呂さんの家の方は不在ですか?」
「そうよ。何の用事なの?」
「紗千さんの仏壇に手を合わせにきたんです」
「まあ、おじょうちゃん、さっちゃんのお友達なのね」
「はい、クラスメイトだったんです」
「残念だけど、野呂さんは引っ越しちゃったのよ」
「えっ?」

 驚いて大きな声が出たからだろうか。
大人しく座っていたゴールデンレトリバーが立ち上がり、急に唸り声を上げた。
私のじっと見て、大きな声で「ワンッワンッ」と二回吠える。

「あらやだわ、ゴローったら吠えたりして。こら、シッ」
「ワンッワンッ!」

「いやね、いつもは不審者を見たって吠えたりしないのに。ちょっと玄関で待っててちょうだい」

 おばあさんはゴローのリードを自分の家の玄関に繋ぎ、また戻ってきた。
ゴローは警戒するように目と歯を剥いて、じっと私たちを見ている。

「あの、引っ越したのはいつですか?」
「あの事件があって、五日後ぐらいよ」
「あの事件?」

 問い返すと、おばあさんは私たちを手招きして集め、囁き声で言った。

「野呂さんの奥さん、殺されちゃったのよ。包丁でめった刺しですって。それも、殺したのは娘のさっちゃんらしいのよ」

「ウソでしょ。あの大人しい紗千が、そんなことするわけないじゃん」

 怒ったような顔で真鈴が反論すると、おばあさんは緩く首を横に振った。

「アタシねえ、見ちゃったのよ。血塗れの奥さんが救急車に運ばれていくところ。その後ろで、さっちゃんが血塗れの包丁を手に大笑いしててねえ。本当に怖かったわよ」

「包丁を持っていたからって、紗千が殺したってわけじゃないっしょ!」

「ううん、残念だけどさっちゃんは犯人よ。警察がさっちゃんをパトカーに乗せて行ったもの。でも、さっちゃん、署内で取り調べ中に倒れちゃったらしくてねえ。救急搬送されたけど、亡くなったそうよ。急性心臓発作だって。お母さんを殺しちゃったショックで死んじゃったのかしらね」

 話し相手に飢えていたのか、おばあさんは事件翌日の様子や、昔の野呂家の様子、紗千の母親は教育ママでよく紗千を叱る声が聞こえてきただの、父親は仕事だと不在で自治体の活動にも不参加だったのだの、長々と喋った。

 だけど、おばあさんの話は私の耳を素通りしていった。

野呂紗千が母親を刺殺し、自らは心臓発作で死んだという話が、あまりにも衝撃的過ぎたからだ。

「つい話し込んじゃってごめんなさいねえ。さっ、ゴローちゃん行きましょう」

 陰惨な話をしたあとだというのに、おばあさんは朗らかな様子で犬の散歩に出掛けて行った。

河岸の火事は平穏で退屈な生活のスパイスでしかないのだろう。
 だけど、その場に残された私たちは、薄暗い影を置いていかれた気分だった。

「謝る機会もないじゃん。これじゃあワタシ、呪われたままじゃないっ!」

 真鈴が頭を抱えてしゃがみ込む。

「落ち着いて、真鈴」

「落ち着いてられないって、昨日の夜も出たもん! 笑ってんだよ、ずっと、大声で笑ってんの! 怖くて寝らんない。寝ても変な夢ばっかみるし―…」

「笑い声なんて幻聴だよ。きっと、紗千のことを気に病んでるから」

 歩美が蹲る真鈴を励まそうと声をかけた。
その言葉が私には引っ掛かった。

「野呂さんのことを気に病むって、なんで?」

 私の質問に、わかりやすく歩美と真鈴の顔が固まった。

「二人とも、野呂さんに恨まれるような覚えがあるってこと?」
「そ、それは……。ねぇ、真鈴」
「ちょっと、いろいろあってさ。でも、あれぐらいで呪われるとかないし」
「隠さないで、ぜんぶ話して」

 歩美と真鈴が顔を見合わせた。どうする、と視線で相談し合っているみたいだ。じれったくなり、私はまず自分が隠し事を打ち明けることにした。

「私も呪われたかもしれない。だから、ちゃんと教えて」

 私の暴露に二人が驚いた顔をする。

「やだぁ、冗談だよね、涼花」
「マジ、こんなときにジョークとか聞きたくないし」
「冗談なんか言ってない、本当の話」
「わかった、紗千のことぜんぶ話す。だから、涼花のハナシも聞かせてよ」
「うん」
「そんじゃ、ワタシの家に来なよ。今日は誰もいないしさ」

 私と歩美は真鈴の家に移動した。

 シングルマザーの真鈴の母親は仕事が忙しく、今朝から九州に出張で、帰ってくるのは明日の昼過ぎだそうだ。

「ワタシ、今夜は一人でいるのムリ。ね、涼花も歩美も泊まってよ」

真鈴に頼まれて、私と歩美は彼女の家に泊まることになった。
真鈴の部屋にお茶とお菓子を用意して、三人でローテーブルを囲んだ。

「ワタシらと紗千のこと、話すね。本当のこと知っても、嫌いになんないでよ」

 そう前置きして、真鈴は話をはじめた。

真鈴と歩美は紗千と小学校からのつきあいで、中学生になってからも仲が良かったそうだ。
中学一、二年の時は二人のどちらも紗千とは違うクラスで部活も違ったので、たまに休日に会って遊ぶだけの関係だったけど、三人のグループラインで頻繁にやりとりしていたのだという。

中学三年生の今年、三人ははじめてそろって同じクラスになった。
はじめは三人で仲良くしていたが、四月半ば頃、クラスのリーダー的ポジションの新井美奈とその子分に紗千が目を付けられ、紗千は三年一組の憐れな仔羊になってしまったそうだ。

 紗千は根暗で大人しくてオタクで、もともと標的になりやすい存在だったこともあり、いじめはクラス全体に広がった。

 紗千の悪口を書いた手紙が出回り、全員が紗千をシカトするようになり、陰ではノートや教科書への落書き、持ち物を捨てるなどの嫌がらせが横行していたらしい。

 歩美と真凛も他の子と同じように、紗千を無視し、悪口を言っていたそうだ。
ようするに二人は巻き添えを恐れて、友達の紗千を見捨てたのだ。

 私は六月に転校したばかりの時を思い出す。

 教室の片隅にひとりポツンと座っていた紗千に話しかけようとしたら、歩美と真鈴に止められた。

「涼花、話しかけると嫌がられちゃうよ」
「歩美の言う通り。あのコはああやって、一人で本読んでたいヤツなんだって」

 あの言葉を真に受けて話しかけるのをやめた自分も、いじめに加担していたのだ。

 話を聞き終えた私は気分が重かったが、あくまで平然とした顔を保った。

「ぜんぶ話してくれてありがと。恨まれてると思っていたから、呪われただなんて言い出したってことだね」
「あんな意味不明な手紙よこしてくるなんて、そうっしょ。じっさい、ワタシの周りでヘンなことばっか起きてるし」
「やっぱり、手紙を読んでから怪現象がはじまったの?」

「ウン。部屋の電気がいきなり消えたり、ちゃんとドアをしめたはずなのにいつのまにか隙間が開いてたり。しかも、その隙間から誰かが見てんだよ」

「誰かってどういうこと? 紗千じゃなくて?」

 歩美が怪訝な顔で問い返すと、真凛は力なく首を横に振った。

「覗いてんのは、紗千じゃなかった。目、青かったし」
「青い、目―…」

 昨夜の夢を思い出した。牢に囚われた赤い着物に長い髪の女。
彼女の瞳は、恐ろしいほど美しい青い目だった。

「やっぱ、涼花もなんかあったわけ?」

 真凛に尋ねられて、私は頷いた。

「変な夢を見た」

 私は今朝見た夢の内容を語った。そして、あの櫛のことも。

「ちょっ、待って。ワタシの持ってる櫛って、夢から持ち帰ったってこと?」

 真鈴は真っ青な顔で、ポーチから櫛を取り出した。
金の蝶が飛び交う黒塗りの櫛。

「やっぱり、今朝、私の机にあったのと同じものだ」
「マジっ、やだっ」

 真凛が櫛を部屋の隅に放り捨てる。

「真鈴は私が見た夢、見てないの?」

 真鈴は暫く考え込んでから、蒼い顔で答えた。

「それ、見たかも。忘れてたし、夢も櫛も気にしてなかったけど、たぶん、見た」

「あ、あたしもだよ。昨日の夜、涼花とおんなじ夢を見たよ。牢屋に女の人がいて、櫛を拾ってくれって頼んでくる夢」

 こわごわと歩美が申告する。
私たち三人は顔を見合わせた。