玄関の扉を激しく叩く音がした。

また死霊がやってきたのか。わたしは筆を捨て、ズシズシと足音をさせて玄関に向かった。
擦りガラスの向こう、大柄なシルエットが見える。

「おーい、悟朗。いるか?」

 飄々とした声。大川だ、大川がやってきた。

「千姫よ、わたしにどうしても殺させたいのか。そうはいかんぞ」

 夢か現実か分からない。
このところ、わたしの記憶は酷く曖昧だ。

執筆の途中で寝落ちして、大川を殺す夢を見て目を覚ます。
食料を買いに行ったのに、無意識のうちに大川の家を訪問していた。
そこまでは現実だったが、そこで大川を殺してしまって泣き叫んでいるところは夢だったということもある。

 判別がつかない以上、接触しないのが一番の安全策だ。

「悟朗、お願いだから開けてくれ、話がしたいんだよ」

しつこく大川が玄関を叩く。
ふらふらと玄関に下り、わたしは錠を開けていた。

「悟朗!」

 大川がすかさず中に飛び込んでくる。

「悟朗、お前さんそんなに痩せて。連絡もくれないし、どうしちまったんだい」
「ああ、大川―…」

 わたしは人恋しさに苛まれていた。
だから、危険を承知で大川を家に通してしまったのだ。

 わたしは大川に請われるまま、鬼形村での出来事を話した。
体験記も綴っていることと大川を殺す夢を見たことだけは、彼のためにもふせておいた。

 わたしの話を聞いた大川は大きな体を丸めてしゅんと項垂れた。

「悟朗、すまねえ。俺が鬼形村なんて教えちまったばかりに」

「いいんだ、大川。まさか、本当にこんな恐ろしいことが起きるとは思っていなかったんだろう。わたしもそうだ」

「でも、俺のせいには違いないさ。なんとかする、そうだ、神社に行こう!」
「神社に行って、どうするんだ」

「お祓いをしてもらうんだ。お前さんの話に出てきた、黒塗りの櫛を持ってお祓いをしてもらおう」

「お祓いなんて、そこらの神社でやってもらったとて、形式的なものに過ぎん」

「いや、俺が懇意にしている霊能力者にお祓いしてもらおう。莫大な金銭を要求するインチキ霊能力者とは違う、普通に神社の住職をしていて、腕が確かな爺さんがいるんだ」

 大川に急かされ、わたしは呪われた黒塗りの櫛を手に彼と神社を訪れた。

 そこはごく普通の小さな神社で、宮司は白髪頭で厳めしい顔立ちの老人だった。

「親父さん、急でごめんな」

 大川が手を合わせながら言うと、宮司は厳めしい顏のまま頷いた。

「構わぬよ、お主には世話になっとる。さあ、入れ」
「ありがとな。行こう、悟朗」
「あ、ああ」

 神社の拝殿の中に案内され、わたしと大川は宮司と顔を突き合わせて座った。

 心霊スポットを訪れた話をしていわくつきの櫛を渡すと、宮司はぐりっとした目を細めて呻くように呟いた。

「えらく禍々しい邪気を放っておるな」
「親父さん、なんとかなりそうかい?」

「……櫛は儂が預かる。櫛を浄化したあと、お主らのお祓いをしよう。三日後の真昼、もう一度来い」

「あ、ありがとうございます」

 呪いから解放される。わたしは嬉々として頭を下げた。
大川も満面の笑みで宮司に礼を述べていた。
だが、宮司は浮かない顔をしていた。

 その日の夜は恐ろしい夢を見ることなく、わたしは久しぶりに平穏な日々を過ごした。

 しかし、千姫の呪縛はそんなに甘いものではなかった。
 翌日の深夜、夢を見た。またあの夢、大川を殺す夢だ。

明け方目を覚ますと、わたしの枕元にはあの黒塗りの櫛が落ちていた。
 わたしは恐怖した。

「○×△■■〇×」

 絶望するわたしの耳元で、鈴を転がすような声が呟いた。
 その日の午後、宮司から電話がかかってきた。

「西園寺、すまぬ」

 わたしは何もかも察した。一言も返せないわたしに構わず、宮司は捲し立てる。

「お主から預かった櫛はお祓いし、お焚き上げをした。
しかし、櫛は焼け残った。儂はもう一度櫛をお祓いして、今度は厳重に封じて神様の元で管理しておった。
だが、今朝がた確認したら、櫛は消えておった。
あれほど忌まわしい呪物は初めてじゃ。大概の霊や呪いは落としてきたが、あれは儂の手には負えぬ。
儂だけじゃない、恐らく、この世の誰の手にも負えぬ」

「ああ―…」

 絶望の呻きを漏らしたわたしに、宮司は「すまぬ」ともう一度告げて電話を切った。
 大川が信頼を寄せる霊能力者にもどうしようもなかった。

 選択肢はもう二つしかない。わたしが死ぬか、大川が死ぬかだ。

 もういい。大川は親身にわたしの相談にのってくれた。
彼はわたしを騙そうとしたわけじゃない、態と不幸に落そうとしたのではなかった。

彼はファン第一号としてわたしの怪奇小説を心待ちにしていてくれた。
わたしが金のために書きたくないロマンス小説や、歴史小説を死んだ顔で書いていることに心を痛めてくれていた。
創造の泉が枯れ果てて苦しむわたしを、再び気鋭の怪奇小説作家として蘇らせてくれようとしただけだった。

今日、すべてを終わらせる。

わたしは友人を救うのだ。ツー、ツーと不通の音を鳴らす受話器を戻し、わたしは玄関の棚に置きっぱなしだった鎌を持ってきた。

友人を憎み、殺そうとした鬼は去る。

最期の仕事だ。この体験談を一冊の本に纏め、友人に手紙をしたためる。

わたしには鬼子と呼ばれた千姫が憑いていた。
千姫の鬼が伝染して、わたしを鬼に変えてしまったのだ。
せめてもの抵抗に、鬼は現世に姿を現さずに消え去る。

さようなら、現世。そしてよき友大川よ。