眠い、頭がふわふわする。

 私は赤い本を閉じた。時計を見ると、丑三つ時をとっくに過ぎていた。
伝染鬼の半分近くを一気に読んでしまった。

 この後なにが起きたのだろうか。知りたいけど、今日はそろそろ寝よう。

 ソファでこのまま寝てしまいたいのを我慢して、空になったマグカップを洗い、布団を敷いた。

 疲れていたのか、不眠症で眠りが浅く寝つきも悪い私には珍しく、一瞬で深い眠りが訪れた。

気付くと知らない場所に立っていた。
日本昔話のような光景が広がっている。
田舎にある私の実家でも、ここまで古めかしい集落はない。

 割烹着姿で井戸端会議をする中年女、田畑を耕す着物の男達。
まるで、タイムスリップしたみたいだ。

 突然、長閑な光景に翳が差す。

太陽が雲に隠れたのだろうか。空を見上げるが、青空には雲一つない。
それなら、どうしてこんなにも薄暗いのだろうか。

背筋に冷たい汗が流れた。私の気持ちを読み取ったように、さらにワントーン辺りが暗くなる。

周囲の人々が一斉にこちらを振り向いた。
その目は黒い穴のようになり、頬はこけ、肌は青褪めていた。
それだけじゃない。すぐ傍にいた割烹着の主婦の一人は頭が陥没してどす黒い血を流し、遠くで草抜きをしていた老爺は胸を赤黒く染め、犬の散歩をしていた老婆は首からどす黒い飛沫を上げていた。

血に穢れていない人は鍬や包丁、大きな石などの凶器を手に、けたたましい笑い声をあげて頭を激しく左右に振っていた。みんな、目が爛々と輝いている。

 狂っている。

 私は叫びそうになるのを必死に堪えて、急いでその場を離れた。
とにかくこの場所から逃げなくては。

 サイレンのような笑い声から逃げるように走っていると、いつの間にか山奥に迷い込んでいた。

 ボロボロの吊り橋が見える。後ろから狂ったように笑う声が追いかけてきていた。

 渡るしかない。
 私は一気に橋を駆け抜けた。

後ろを振り返ると、橋の向こうには凶器を手に首を左右に振りながら笑っている人々の群れができていた。
だが、誰も橋を渡ってこない。

 それでも安心できない。どこか隠れられる場所を探すが、橋のこちら側はそんなに広くなくて、社があるだけだった。

 社は小屋ぐらいの大きさがある。格子戸は開いていた。

 中に入ると牢屋があった。牢屋の向こうには人がいる。
金色の蝶々が飛ぶ紅の着物を纏った、艶やかな長い黒髪に外国人のような青い瞳の美しい女だった。

女が私の足元を指さす。

「拾って」

 反射的に私は腰を屈め、彼女の白い指先が示すものを拾い上げた。
それは綺麗な黒塗の櫛だった。

拾ってしまった瞬間、私は何故だかゾッとした。女が真っ赤な唇を吊り上げ、白い歯を見せてにいっと嗤う。

「それはもう、アナタのもの」

 櫛が黒い煙となる。煙はスーッと私の胸の中に沁み込んで消えた。それはとても、嫌な感触だった。

「○×△■■〇×」

 意味不明な言葉を女が呟いた。その言葉が、私は何故だかとても怖かった。

「な、何よ。どういう意味よ!」

 眦を吊り上げる私に、女は薄く笑った。

「アナタはもう、ワタシのもの」

目の前が暗転する。気付けば私は日本昔話に出てきそうなあの村に戻っていた。

村からは、穴のような目に青褪めた肌で血塗れで日常生活を営んでいた人々は消え去っていた。だが、凶器を手に笑っていた狂った人々は相変わらずそこにいる。

彼らがいっせいに私を見た。みな、一様に嬉しそうに目を三日月に細めると、私に向かって駆け寄ってきた。

「嫌よ、来ないでっ」

 私はまた走り出す。

トンネルが見えてきた。トンネルの近くには『鬼形村』と書かれたボロボロの木の立て札がある。

 私は足を止めた。
 魔物の口腔のような漆黒のトンネルが怖かったからだ。

 すっかりあがってしまった息を整えながら、思考する。

 これは夢に違いない。寝る前に読んだ悟朗の『伝染鬼』の情報を、頭の中で寝ながら整理しているから、こんな夢を見たのだ。

 頭で理解していても、久しぶりの全力疾走で痛む喉も心臓も、背中を伝う冷や汗の感覚も、鮮烈な恐怖も、すべての感覚が本物だ。たとえ夢の中でも、これだけリアルに感覚も感情もあると、夢の悪影響が寝ている身体にも及ぶのではないか。

 たとえば、恐怖や痛みのあまり心臓発作で永眠となる。などという想像をしてしまい、すごく怖かった。

 起きろ、起きろ!

 走りながら頬を叩いたり、腕をつねったりする。
 本物の痛みが私を苛む。だけど、現実に戻ることはできなかった。

 どうしたら目が覚めるだろう。

「アハハハハハハッ」

 近くで声が聞こえた。
振り返ると、着物姿の人物が首を左右に振りながら、こちらに向かって走ってきていた。
 その人の顔だけは、何故だか靄がかかっていてはっきりと見えなかった。

 あれに追いつかれてはいけない。

 理由はわからないが、私はそう思った。

 怖い。だけど、トンネルを抜ければひょっとすると、助かるかもしれない。
一縷の望みを託して、私は漆黒の闇に飛び込んだ。

 少しくらい外の灯が届いていてもよさそうなのに、一歩踏み込んだ瞬間から中は真っ暗だった。

振り返ると、鬼形村の方が異様に明るく光っている。気を抜くと、まばゆい光に吸い寄せられそうになる。

 明るい場所にいきたい。

 強烈な願望を堪えて、私は暗闇の中を突き進んだ。足元はもちろんのこと、手を顔の前に持ち上げても、指先すら見えない。
 そのうち、本当に私は存在しているのだろうかという疑念に駆られた。

 時間の感覚も、距離感もすっかりなくなっていた。前も後ろも暗闇が続いている。本当に出口に向かっているのか、また入り口に戻っているのではないか。

 心細くなってきた時、パッと一瞬だけ辺りが明るくなった。

「なにが光ったの?」

 呟いた疑問が闇に吸い込まれる。
 もう一度、光をちょうだい。
 心の中で祈ると、またパッと光が閃いた。
 もっと、もっとよ。

 強く願うのを聞き届けたかのように、パッ、パッ、パッと強い光が連続で点滅する。
そのおかげで、立ち止まらずに歩き続けられた。

 だけど、その光は恩恵ではなかった。
 明滅する光の中、何か青白く細長いものが浮かび上がった。

 それは徐々に、私に近付いてきている。

 背筋がぞおっと冷えた。
 一歩、また一歩と近付いてきているのは、白い着物を纏った人間だった。

 首から上がない。いや、違う。頭に黒い頭巾を被っているのだ。

 黒い頭巾に気付く頃には、その人物は私に手が届く距離まで近付いていた。ぼんやりしているから分かりにくいが、小柄で華奢なのでたぶん女だ。

 いつの間にか弱々しい橙の光がトンネルに灯っている。

その光が、私の瞳に恐怖を映した。

 黒頭巾の人物が手を振り被っている。その手の中でぎらりと何かが光った。
 刃物だ。よく研ぎ澄まされた鋭利な包丁を持っている。

 殺される。

 そう思った瞬間、私は腕を振り上げていた。いつの間にか私の手にも凶器が握られていた。

それは細長い刺身用の包丁だった。私が実家から持ってきて愛用しているそれとよく似ていた。
よく見ると、黒頭巾の人物も同じ物を握っている。

ざくっ。

嫌な感触が手のひらから全身に伝わる。

肉を切る手ごたえ。嫌悪すべきその感覚に、何故だか私は快感を覚えた。

「あああぁぁぁぁぁっっ!」

 歓喜なのか、絶望なのか。私の喉から甲高い叫びが迸った。