紫呉の肩に寄りかかり、凛がすうすうと小さな寝息を立てて眠っている。
 
 今日は約束通り紫呉は凛を誘って銀座へ向かった。
 ほとんど冴咲家の屋敷から出たことの無かった凛は、銀座の人込みを見て目を丸くすると、「ひ、人が多いです。どうしましょう」と動揺して動くことができなかった。
 紫呉はそんな凛を見て、可愛らしいと思いながら微笑むと、さりげなく凛の手を握りながら、銀座の街を巡った。
 宝飾店や小間物屋を覗き、いくつか贈ろうとしたのだが、頑なに固辞されてしまった。

 (どんな贈り物をすれば笑ってくれるのだろうか)

 実は紫呉は凛の心からの笑みを見たことがなかった。
 今まで贈り物をしても、申し訳なさそうだったり、恐縮した表情になるばかりで、笑顔で受け取ってもらったことがない。
 決して嫌がっているとか喜んでいないわけではないだろう。だが、自分が笑っていないことにさえ自覚はないようだ。
だから紫呉は凜が喜んでくれそうな物を探しながら銀座を回るが、今のところ凜が心から笑ってくれる気配はない。
 ただいつもより高揚しているのは伝わってくるし、物珍しそうにショウウィンドウを見ていたり、街並みに驚いたりしている様子は紫呉が今まで見たことの無い凛の表情だった。

(笑顔が見たかったが、これでも十分だな)

 紫呉がそう思いながら入ったフルーツパーラーで、凜は初めて食べるプリンアラモードを緊張の面持ちで掬って口に運ぶ。すると一口食べた凜は目を見張ると、ふっと表情を和らげて小さく笑った。
 それは紫呉が初めて見る凛の笑顔だった。その表情に紫呉は釘付けになった。

 「どうされたのですか?」

 じっと見つめていたのがバレてしまったのか、凛が首を傾げて尋ねる姿がまた愛らしく、紫呉はつられるように笑いながら答えた。

 「いや、可愛いと思って」

 答えを聞いた凛は顔を真っ赤にして俯いてしまったのを、紫呉は目を細めて見つめた。
 凛と一緒に居ることに内心浮ついていたせいもあったと紫呉は自覚していたものの、その後も凛の喜ぶ顔が見たくてつい色々と連れまわしてしまった。
 そのため、疲れてしまったのか、凛は帰りの車に乗った途端にうとうとし始め、今は紫呉の肩にもたれてすうすうと眠ってしまった。

 (あの時はこんな気持ちになるとは思わなかったな)

 紫呉は凜の寝顔を見つめながら、凛と出会った時のことを思い返した。



 そもそもの出会いは、冴咲家を訪れた時だった。
 倉田と入れ替わった紫呉の正体を看破した凛に興味を持ったのがきっかけだ。

 「なぜ、彼女は自分の正体に気が付いたんだ?」

 その理由が知りたくなった紫呉は凛を追って接触した。
 紫呉の鬼神の力は人の本質を見抜く力を持ち、触れた人間の記憶をも見ることが出来る。
 だが、凛に触れた時にはいつもと違う反応があった。
 潤んだ黒曜石のような凛の瞳に吸い込まれるように見つめて、逸らすことができなかった。触れた手から伝わる熱にドクンと心臓が強く鼓動を打ったかと思うと、気持ちが昂り、血が沸騰したように熱くなった。
 胸がジンとして甘く痺れていく。魂が捕らわれるような感覚に襲われた。

 (なんだ、これは?)

 驚いて手を放すと、呆然とした面持ちで凜を見た。凛もまた床に座ってこちらを見上げていた。
 動揺を抑えて紫呉はその場を後にしたが、動悸は止まらなかった。
 だが視るべきものは見えた。何故凜が紫呉の正体が分かったのか。

 (あれは追憶視の力だ)

 追憶視――それは物に触れてその記憶を視る力の事だ。
 おおかた落とした万年筆を拾った時に視たのだろう。
 だが、新たな疑問が浮かんだ。
 追憶視の力は冴咲家の直系しか持たない力だ。なのに、何故彼女は使用人などしているのか?

 (それに冴咲家の扱いを見るとまともな扱いはされていないのだろう)

 丹造に叱責されて部屋を出て行く凛の後ろ姿が思い出される。すると、胸がざわめき、凛の潤んだ瞳が忘れられない。
 何故なのか。
 そして一つの可能性に思い至った。
 古来より、鬼神にはそれを支える”花”が必ず存在する。花とは「運命の相手」「番」そう言った存在だ。
 凛は自分の花なのではないか?
 そう考えると、凛に触れた時に魂が引きつけられた感覚の意味も分かる。そして何より、凛とひと時も離れていたくない。
紫呉は考えた末に丹造に掛け合い、凛を時鬼家に迎え入れることにした。

 丹造はその提案に最初は渋ったが、金を積むと掌を返して同意した。
 多額の金に加えて、華族との縁を結べることが利だと考えたのだろう。
 こうして紫呉は凛を時鬼家に迎え入れた。
 そして凛から聞いた彼女の生い立ちは壮絶なもので、冴咲家への怒りが込み上げてきた。

 紫呉の鬼神の力であれば彼らの命など軽く奪えるが、そのような手を使わなくても時鬼家の地位と権力と金を使えば冴咲家など潰すのは容易い。
 だが、それよりもまずは凛の心の傷を癒すことが先決だと紫呉は考えた。
 時鬼家で自由に好きな事をして、欲しい物に囲まれて、幸せに過ごして欲しい。
 そのための労力も金も惜しくはないとさえ思った。

 だが紫呉の想いい反して、凜は生活に最低限必要なものしか欲さず、使用人の仕事を続けようとした。
 その姿からは「自分に価値が無くなれば追い出されてしまう」という不安と恐怖が滲み出ているように見えた。

 (使用人の仕事をしなくても、君を追い出したりしないのに。ずっと俺の元に居て欲しいのに)

 そんな紫呉の思いに凛は気づかず、自分の場所を守ろうと仕事をこなし、紫呉に寄り添う姿はいじらしいが、同時にもどかしくもあった。

 (凛自身が、自分には価値があるのだと自覚すればいいのだろうか)

 価値がないと思う根底には多分、追憶視の能力により虐待されていたことがあるのだろう。
 どうすれば凛に自信を持ってもらえるのか考えていたある日、不意に昔ある男性に言われた言葉を思い出した。
 『きっと君の力が誰かの役に立つ日が来る。そして大切な人を守る力になるよ』
 凛にも同じ言葉を知って欲しい。
 彼女の力を利用するようで紫呉は悩んだが、本音を言うとあの時自分を励ましてくれた男性の正体も知りたいという思いもあった。
 だから紫呉は男性が落として言ったハンカチの追憶視を依頼した。

 幼い頃、紫呉は時鬼家を継がなくてはならない重圧と、鬼神の力によって人の心の醜い部分を見続けていたことで、人を信じることが出来なくなった。
 そしてそんな自分の能力が嫌になり、紫呉は屋敷を抜け出したことがある。
 その時出会った男性に励まされたのだ。
 追憶視の結果、彼は凜の父親だった。そのことに驚くと共に、紫呉は凜との運命を再確認した。

 不意に肩に寄りかかっていた凛が身じろぎしたので、紫呉は現実に引き戻され、凛の寝顔を見つめた。
 今日は、以前紫呉が贈った淡い紫の振袖に身を包み、うっすらと化粧を施している。艶やかな髪には銀細工の簪がついていた。
 簪を褒めると母親から譲り受けたものだと凛は言った。
 彼女の幸せを込めて贈られた銀細工の簪に触れて、紫呉はぽつりと呟くように言った。

 「凛、愛してる。何があっても離さない」

 眠っている凛には聞こえていないだろう。でもそれでいい。
 今はまだ伝える時ではない。
 もう少しだけ凛が心を開き、その笑顔を自分に向けてくれた時には、この気持ちを伝えよう。紫呉はそう思いながら凛の寝顔を見つめた。