紫呉は鬼神の力を持っているせいか、もしくは名門時鬼家の当主であるためか、威圧感のある空気を纏っており、いつも厳しい表情をしているため近寄りがたい印象を与える。
 だが、実際にはとても面倒見がよい人間のようだった。
 お抱えの着物屋を屋敷に呼んで凛に高価な着物を買い与えたり、珍しい洋菓子を毎日のように土産として買ってきてくれた。
 凛を気遣ってくれていることが伝わり、申し訳ないと思いつつ、嬉しくもあった。

 だが凛には紫呉に返せるものなどなく、その恩に報いることができず、心苦しい。せめてもの礼として凛は朝食を作ることにした。
 一通り朝食を作り終わったところで、しずが大慌てで調理場に駆け込んできた。

 「まぁまぁ! 朝食を作ってくださったのですか?」
 「勝手をして申し訳ありません」
 「いいえ、それは構いませんが、炊事なんて時鬼家当主の奥方様がされることではありません!」
 「い、いえ、私は奥様ではなく、ただの居候です。このくらいさせてください」
 「ですが、家政婦の仕事などさせられませんよ!」
 「私がお返しできるのはこのくらいなのです。しずさんのお手伝いをさせてください」
 「ですが……」

 問答をしていると、紫呉が調理場に顔を出した。顔を洗ったばかりなのか、前髪が少し濡れている。
 「何かあったのか?」
 「まぁ坊ちゃん!ちょうどいい所に。坊ちゃんからも炊事は家政婦の仕事だから凛様はしなくていい言ってくださいな! それに水仕事されたら、また手荒れがひどくなってしまいます」
 「凛、たしかに君の食事は美味い。作ってくれるのは嬉しいが、しずの言う通り、君は炊事や水仕事はしなくていいんだ」
 「ですが、紫呉様に何か恩返しがしたいのです。いつも良くしていただいているのに、何もお返しができず。このままではごく潰しになってしまいます。お願いです。何か紫呉様のお力にならせてください」

 学もなく、美しくもない自分が出来ることなど、下働きの仕事程度のことで、それを取り上げられてしまっては凛が紫呉に返せることなど何もないのだ。

 (そうしたらこの屋敷から出て行けと言われてしまうもしれない)

 住む場所が無くなってしまうのは困るというのはもちろんある。
 だが、屋敷から出て行くということは紫呉とも会えなくなるのだ。それは嫌だった。
 凛の持つ人外の力を理解し、受け入れ、優しく接してくれる紫呉の元に居たいという気持ちが、いつしか凛の中で芽生えていた。
 必死に懇願するように紫呉を見ると、紫呉は何か逡巡しているようだった。そして、ようやく口を開くものの躊躇する素振りがあった。
 
 「実は、君に頼みがある」
 「なんでしょう? 私にできることならなんでも致します」
 「……あまりそのようなセリフを男に言うのは感心しないな」
 「?」
 「まぁいい。ちょっと来てくれ」

 そう言って紫呉は凛を伴って書斎へ向かった。そして書斎に着くと、引き出しからハンカチを取り出す。
 夏の入道雲のような真っ白い木綿の生地のそれは、大きさからするに男性物のように見える。
 だが、四辺の一部に鮮やかな紫色の糸でリンドウの花が刺繍されていた。

 (誰かからの贈り物かしら?)

 明らかに女性から男性への贈り物だと思われる。美丈夫の紫呉のことだ。女性からの贈り物など山ほど貰っているだろう。
 いや、こうして大切に持っているのだがら、紫呉の特別な女性からの贈り物なのかもしれない。
 そう思うと急に胸がギュッと締め付けられ、もやもやとしてくる。
 今までない体の異変に、凛は戸惑ってしまった。
 だが、そんな凛の心中に気づかないようで、紫呉は凛にハンカチを差し出し、真剣な目で凛を見た。

 「もし、嫌ならば断わってくれてもいい。君の能力を利用するようで気が引けるが、もし可能ならこのハンカチの持ち主の名前を、君の力を使って知ることはできないか?」

 苦渋の決断という表情の紫呉を見て、凛に力を使わせることに葛藤があるのだろうと察せられる。
 だが紫呉のためならば、そんなことは全く気にならない。むしろこんなことで紫呉の役に立てるのであればいくらでも力を使う。

 「分かりました。やってみます」

 凛はハンカチを受け取って小さく微笑むと、目を閉じた。
 いつものように物に刻まれた記憶が凛の脳に流れて来る。

 まず見えたのは夕暮れ時に土手に座る2人の人物だった。
 一人は男の子だ。艶やかな黒髪が吹く風によってサラサラと揺れていた。よく見るとどことなく紫呉の面影があった。
 そしてもう一人、少年の隣に座っているのは20代くらいの男性のようだが、顔ははっきりと見えない。
 その男性は懐からハンカチを取り出すと少年に優しく語り掛けた。

 『きっと君の力が役に立つ時が来る。そして大切な人を守る力になるよ』

 その声は凛の良く知っている声だ。そしてその人物の姿も。
 (この声……まさか)
 驚いて目を開けた凛は、思わずぽつりと呟いていた。
 「お父様……」
 「え?」
 「どうして紫呉様がお父様のハンカチを持ってらっしゃるんですか……?」
 「まさか、あの男性は君の父君だったということか?」
 凛は驚きのあまり目を見開いたまま、ゆっくりと頷いた。

 「あの……紫呉はお父様とお知り合いだったのですか?」
 「いや、あの人とは偶然出会って一度だけ話しただけだ」
 確かに、もし知り合いだったのならば紫呉は父の名を知っていたはずだ。
 名前を知らないのであれば、二人はどういった関係なのか想像がつかない。

 「その、どこまで視た?」
 「詳しくは視えませんでした。ただ父が子供の頃の紫呉様にハンカチを見せて、一言二言話していたのを見ただけです」
 すると紫呉は安堵のため息を漏らした。
 「そうか、まぁ、色々あって彼には世話になった恩人なんだ」
 歯切れの悪い様子に踏み込むのも気が引けて、凛はそれ以上追及しないことにしたが、一つだけ尋ねることにした。

 「あの……少しはお役に立てたでしょうか?」
 「もちろんだ。ありがとう。君のその力のお陰で、ずっと知りたかった恩人が何者でその名前を知ることができた」
 (初めて、この力を使ってお礼を言われたわ)
 目を細めて微笑む紫呉の顔を見た瞬間、凛の胸がトクトクと高鳴るのを感じた。
 「そうだ。今週の土曜日、良かったら銀座に行かないか?」
 凛からハンカチを受け取った紫呉は、懐かしそうにそれを見た後、そう提案した。