私は、今から百年程前に神戸の商人の娘だった母のもとに生まれた。
父は漁師だった。裕福な商家の娘と、漁師の身分違いの恋。駆け落ち同然だったと聞く。
それを、母の一家は許したらしい。母の一家では男が早世し、残された子どもは母だけだった。だから、多少のことに目を瞑ってでも跡継ぎが欲しかったようだ。
流石に父が商いをするわけにはいかなかったようで、父は漁師として働き続けた。
――そしてある日、獲ってしまった。
人間とも魚ともいえない、得体の知れない存在を海の底に撒いた網で掬ってしまった。
それは、海の神の眷属だった。
地上に上がった眷属はみるみる衰弱し、間もなく命を失い――そして、海の神の怒りを買った。
その怒りが降り注いだのは父ではなく、娘の私だった。
半妖半人の人魚として、歳をとることのない停滞した命を押し付けられた。
その肉を食べれば不老不死になるという噂を聞きつけた人々から追われるように生きてきた。
生まれてから百年たっても、呪いを受けたその日から私の姿は変わっていない。
「北海道に来たのは逃げるため、だったのですか?」
「その気持ちがなかったわけではないけど、私はここに住まわされたの」
「誰に?」
「江戸を東京と改めた人たち。近代化を目指す彼らにとって、妖の存在は人々を惑わす時代遅れで余計なものだったらしいわ」
私はさておき、それまで妖と人はつかず離れずの距離で暮らしていた。
だけど、人知を超えた存在というものを忌み嫌った連中がいた。
「だから、私だけじゃなく妖の多くが開拓使に紛れ込ませるような形でこの地に送られたわ。厄介者をそれらしい理由をつけて、まとめて遠くへ追いやったのね」
「そんな、ひどい……」
「どのみち、見た目が変わらないんじゃ同じ土地に長くは住めなかったから。人の少ないこの場所は悪いことばっかりじゃなかった」
それに、貴方に会えた。
その言葉は、声にはならなかった。
拒絶されても構わないと思ってヒカリを助けたはずなのに、いざ面と向かうとその恐怖で足が震えていた。
「貴方と出会った時、貴方は私の停滞した時間に変化を与えてくれそうな気がした。だから、自分の正体を隠したまま貴方に近づいた。許してほしいとは言わない。貴方の思うようにしてくれて構わない」
突き放すように伝えるつもりが、声が震えてしまった。せめて、表情にでないように力を込める。
「僕が思うように、ですか」
ヒカリは少しの間顎に手を当てて何かを考えていた。
空気が痛い。怖いのだ。騙されたと糾弾されるのが。
停滞した時間とか無限の命とか、そんなものは一切関係ない。
ただ、一人の人間として――目の前の人に拒絶されるのが怖かった。
「決めました」
やがて、ヒカリがふわりと表情を崩す。
「ナギサさんさえよければ、僕と一緒になってくれませんか」
「……一緒?」
「ああ、つまり夫婦として――」
「言わなくていい。言っている意味は分かる。分かるけど、分からないの。だって、私は」
ヒカリの言葉に戸惑って、言葉がどれも意味をなさない。
だって、そんなことって。都合のいい夢だと言われた方が納得できる。
ヒカリは小さくはにかんで混乱した私の言葉を受け止めてくれた。
「あの男と向かい合った時、僕はナギサさんのためなら死んでも構わないと思いました。目が覚めたとき、ナギサさんが目の前にいてホッとして――全てを聞いても、僕の気持ちは何も変わらないんです」
そこまで話してから、ヒカリは小さく頭をかいた。
「困りましたね。ナギサさんが百年前から生きていてくれてよかったなんて、そんな身勝手なことを考えてしまうくらいには、僕は貴方のことが好きらしい」
ドッドッドと胸が高鳴る。
百年も生きてきて、今更こんな感情にさらされるなんて。
その扱い方を私は知らない。勉学や芸事を教えてくれた母も、駆け落ち同然で父を選んだ時のことはあまり教えてくれなかった。
落ち着け。一時の感情に流されるな。今はよくても、いつか後悔するときが来てしまうかもしれない。
「でも、呪われた私の体はきっと貴方との子を成すこともできない」
「構いませんよ。僕には既に多くの子がいますから」
「え」
「かつて僕が教師だった頃の教え子たちが、この国のあちこちに羽ばたいています。僕の仕事はきっと彼らが受け継いでくれるでしょうが、彼らを僕以上の人間に育て上げる仕事が残ってますからね」
ヒカリの言葉が真に思っていることなのか、私を気遣ってのものなのかはわからなかった。
唯一分かったのは、私が何を言ったところでヒカリは引き下がらないということだけだ。
そんなの、もう、どうしようもない。
呪いとか不老不死とか妖とか、全部飛び越えてきてしまっているのだから。
無意識のうちに、震える手をヒカリへと伸ばす。
「貴方が生きている間だけでいい。止まってしまった私の時間を、共に動かしてほしい」
さっきから、声は震え続けていた、
遥か昔、とっくに枯れてしまったと思っていた涙が溢れだしてくる。
そんな私の体をヒカリがぎゅっと抱きすくめた。
ああ、ここは。
海の底と違ってとても暖かい。
「お願い。どうか、私の光になって」
父は漁師だった。裕福な商家の娘と、漁師の身分違いの恋。駆け落ち同然だったと聞く。
それを、母の一家は許したらしい。母の一家では男が早世し、残された子どもは母だけだった。だから、多少のことに目を瞑ってでも跡継ぎが欲しかったようだ。
流石に父が商いをするわけにはいかなかったようで、父は漁師として働き続けた。
――そしてある日、獲ってしまった。
人間とも魚ともいえない、得体の知れない存在を海の底に撒いた網で掬ってしまった。
それは、海の神の眷属だった。
地上に上がった眷属はみるみる衰弱し、間もなく命を失い――そして、海の神の怒りを買った。
その怒りが降り注いだのは父ではなく、娘の私だった。
半妖半人の人魚として、歳をとることのない停滞した命を押し付けられた。
その肉を食べれば不老不死になるという噂を聞きつけた人々から追われるように生きてきた。
生まれてから百年たっても、呪いを受けたその日から私の姿は変わっていない。
「北海道に来たのは逃げるため、だったのですか?」
「その気持ちがなかったわけではないけど、私はここに住まわされたの」
「誰に?」
「江戸を東京と改めた人たち。近代化を目指す彼らにとって、妖の存在は人々を惑わす時代遅れで余計なものだったらしいわ」
私はさておき、それまで妖と人はつかず離れずの距離で暮らしていた。
だけど、人知を超えた存在というものを忌み嫌った連中がいた。
「だから、私だけじゃなく妖の多くが開拓使に紛れ込ませるような形でこの地に送られたわ。厄介者をそれらしい理由をつけて、まとめて遠くへ追いやったのね」
「そんな、ひどい……」
「どのみち、見た目が変わらないんじゃ同じ土地に長くは住めなかったから。人の少ないこの場所は悪いことばっかりじゃなかった」
それに、貴方に会えた。
その言葉は、声にはならなかった。
拒絶されても構わないと思ってヒカリを助けたはずなのに、いざ面と向かうとその恐怖で足が震えていた。
「貴方と出会った時、貴方は私の停滞した時間に変化を与えてくれそうな気がした。だから、自分の正体を隠したまま貴方に近づいた。許してほしいとは言わない。貴方の思うようにしてくれて構わない」
突き放すように伝えるつもりが、声が震えてしまった。せめて、表情にでないように力を込める。
「僕が思うように、ですか」
ヒカリは少しの間顎に手を当てて何かを考えていた。
空気が痛い。怖いのだ。騙されたと糾弾されるのが。
停滞した時間とか無限の命とか、そんなものは一切関係ない。
ただ、一人の人間として――目の前の人に拒絶されるのが怖かった。
「決めました」
やがて、ヒカリがふわりと表情を崩す。
「ナギサさんさえよければ、僕と一緒になってくれませんか」
「……一緒?」
「ああ、つまり夫婦として――」
「言わなくていい。言っている意味は分かる。分かるけど、分からないの。だって、私は」
ヒカリの言葉に戸惑って、言葉がどれも意味をなさない。
だって、そんなことって。都合のいい夢だと言われた方が納得できる。
ヒカリは小さくはにかんで混乱した私の言葉を受け止めてくれた。
「あの男と向かい合った時、僕はナギサさんのためなら死んでも構わないと思いました。目が覚めたとき、ナギサさんが目の前にいてホッとして――全てを聞いても、僕の気持ちは何も変わらないんです」
そこまで話してから、ヒカリは小さく頭をかいた。
「困りましたね。ナギサさんが百年前から生きていてくれてよかったなんて、そんな身勝手なことを考えてしまうくらいには、僕は貴方のことが好きらしい」
ドッドッドと胸が高鳴る。
百年も生きてきて、今更こんな感情にさらされるなんて。
その扱い方を私は知らない。勉学や芸事を教えてくれた母も、駆け落ち同然で父を選んだ時のことはあまり教えてくれなかった。
落ち着け。一時の感情に流されるな。今はよくても、いつか後悔するときが来てしまうかもしれない。
「でも、呪われた私の体はきっと貴方との子を成すこともできない」
「構いませんよ。僕には既に多くの子がいますから」
「え」
「かつて僕が教師だった頃の教え子たちが、この国のあちこちに羽ばたいています。僕の仕事はきっと彼らが受け継いでくれるでしょうが、彼らを僕以上の人間に育て上げる仕事が残ってますからね」
ヒカリの言葉が真に思っていることなのか、私を気遣ってのものなのかはわからなかった。
唯一分かったのは、私が何を言ったところでヒカリは引き下がらないということだけだ。
そんなの、もう、どうしようもない。
呪いとか不老不死とか妖とか、全部飛び越えてきてしまっているのだから。
無意識のうちに、震える手をヒカリへと伸ばす。
「貴方が生きている間だけでいい。止まってしまった私の時間を、共に動かしてほしい」
さっきから、声は震え続けていた、
遥か昔、とっくに枯れてしまったと思っていた涙が溢れだしてくる。
そんな私の体をヒカリがぎゅっと抱きすくめた。
ああ、ここは。
海の底と違ってとても暖かい。
「お願い。どうか、私の光になって」