「できました! 見てください、ナギサさん! しばらく海面付近に並べて置いたものも劣化が進んでません!」

 海からコンクリートの棒を引き上げたヒカリには笑顔の花が咲いていた。野掛けに訪れてから暫く、火山灰を混ぜたコンクリートの棒を作って実験を行っていたわけだけど、上手くいったようだった。
 できたばかりの頃はあんなドロドロなものがこんな固い石のようになる原理は、何度説明されてもいまいち呑み込めなかったけど、ヒカリが何をしようとしているのかは段々とわかってきた。
 これまでの経過を見てきたからか、私の方までその喜びが波のようにこちらまで伝わってくる。

「よかったわね。これで次の段階に進めるのね」
「そうですね。次は防波堤本体の製作に移ります。具体的にはケーソンというコンクリートの大きな箱を作って、防波堤を作る場所まで運んでいって……」

 眩しい笑顔でヒカリが捲し立てるように語っていく。彼の語っている内容は今も理解できない部分の方が多いけど、何か凄いことをしようとしていることは伝わってきた。今はもう、海に壁を造るというヒカリの話を疑ってはいない。未だに海がどう変わるのか想像はできなかったけど。

「……ナギサさん、どうしました?」
「え、何が?」
「僕の気のせいかも知れませんが、ちょっと浮かない顔のように見えて……」

 ヒカリの眉毛が不安そうに八の字になっている。
 ああ、これはもうかなわない。認めるしかない。

「コンクリートが完成したってことは、ここでの実験は終わるんでしょ?」

 ここでヒカリがコンクリートの棒を沈めたり取り出したりしている様子を見ながら話すのが、すっかり私の日常になっていた。時にはコンクリートを作るのを見に行ったり、天狗山に登ったりするのは、これまでの生活にはなかった彩りだった。
 でも、実験が上手くいったということは、もうここでは実験はしないのだろう。これからだって会うことはできるだろうけど、今までのようにはいかないことが寂しかった。
 寂しさなんて、長らく忘れていた感情だった。忘れていたというより、慣れ過ぎて痛みを感じなくなっていた。そのはずなのに。

「実験は実験でまだ続けますよ?」

 ヒカリの言葉に、一瞬時間が止まったような気がした。

「このコンクリートが一年とか二年経ったときにどうなるかは知っておく必要がありますからね。これからも実験は続けますが……えっと、ナギサさん?」
「それならそうと言いなさいよっ!」

 思わず声が大きくなっていた。
 勝手に私の中で思い詰めていた感情が爆発してしまっただけだけど、ヒカリはぺこぺこと頭を下げる。
 
「す、すみません。ナギサさんとここで作業するのが、いつの間にか当たり前になっていて……」

 困ったようにヒカリが汗をかいてるわけでもない額を拭う。
 謝ってるけど、ヒカリは悪くない。勝手に覚悟を固めて、覆されたことに驚いて、その言葉を泣きたいくらいに嬉しいと思っているのは私なのだから。
 海のように変わらないと思っていたこの世界は、とっくに塗り替えられてしまっていた。

「私も、貴方とここにいる時間が――っ!?」

 その時、鋭い視線を感じた。あるいは、これはそう。

 殺気だ。

「仲良く話してるところ悪いんだけどよお」

 海岸からほど近い茂みの中から一人の男が姿を現す。身なりは上等とは言えず、右手に持った短刀をこれ見よがしに揺らしている。
 堅気ではないことを隠す気は毛ほどもないようだった。そして、このところ感じていた視線はこの男だったようだ。
 ヒカリがさっと私の前に出る。その様子に男はケッと唾を吐き捨てた。

「悪いことは言わねえから退いてくれねえか。用があるのはその女だけなんだ」
「そんな物騒な物もって用があると言われても、従うわけにはいかないな」

 ヒカリの言葉に男は心底面倒くさそうな顔を浮かべる。

「わかった。交渉だ。黙って退けばお前にも分け前をやるよ」
「言っている意味が分からない」

 男の顔が一瞬呆気にとられたようになり、それからケタケタと笑い出した。心底おかしそうに腹を抱えて笑っている。

「こりゃあ傑作だ。その女が何者か知らずにずっと一緒にいたのか」
「何が言いたい」
「教えてやるよ。その女は不老不死の人魚だ」

 ゆっくりと、ヒカリがこちらを振り返る。その顔には驚きと戸惑いが浮かんでいた。
 ここで違うと言えば、ヒカリは男より私を信じてくれるだろう。それくらいの自信はあった。
 だけど、男の言葉を否定できなかった。ヒカリに、嘘をつけなかった。
 ここまでずっと隠してきて、今更嘘だ何だってちゃんちゃらおかしいかもしれないけど。

「人魚の肉の噂位聞いたことあるだろ。不老不死の薬だ。恐ろしいくらい高値がつくぞ」

 男は短刀を手で何度か叩いた後、にいっと下品な笑みをヒカリに向けた。

「悪くねえ取引だろ。お前はその女を差し出すだけで大金持ちだ。こんな辺鄙な場所で働かなくてもどこでも好きに暮らすことができる」

 それから、すうっと短刀を私たちに向けて構える。

「むしろ、人魚の噂が本当か確認するために、こんな辺鄙な場所でずっと見張ってきたんだ。邪魔するならお前諸共叩ききってやる」

 私の為にヒカリが犠牲になることはない。ヒカリの前に出ようとしたけど、その道をヒカリに塞がれた。ヒカリの肩が大きく上下する。その指先が震えているのがはっきりと見えた。

「残念だけど、僕はこの辺鄙な場所で働くのが好きなんだ。ナギサさんの傍で」

 ヒカリの言葉に男の眉間に険しい皺が寄る。これまでは見せつけてくるだけだった短刀に力が込められたのがハッキリわかった。

「ああ、そうかい。それならまとめてあの世に行きな!」

 男が短刀を振りかぶって一気に駆け寄ってくる。武器など持っていないはずのヒカリは一歩も動かずに私の前に立ち塞がっている。男はまずヒカリに狙いを定めたようだ。
 男がヒカリの首筋目掛けて短刀を振り下ろす。その刃がヒカリを切り裂く瞬間を想像して、思わず目を閉じた。
 だけど、聞こえてきたのは金属で石を叩いたような異音だった。
 恐る恐る目を開くと、ヒカリがコンクリートの棒で男の短刀を受け止めている。

「ナギサさん、逃げて!」

 振り返ったヒカリは必死の形相だった。だけど、あまりのことに私の足は動かない。このままここにいてもヒカリの迷惑にしかならないのに。ヒカリは一瞬何かを言いかけてから、男に向き直るとコンクリートの棒で短刀をグイっと押し返す。

「うおおおおっ!」

 気勢とともにヒカリは男に詰め寄ると、そのままもみ合うようにしながら男ごと海へと飛び込んだ。
 波の荒れた海の中、二人の姿はすぐに見えなくなる。激しい潮の流れは人間を簡単に海の底へと引きずり込んでいく。
『実は僕、泳ぐのが大の苦手で』
 ああ、そうだ。ヒカリは泳げない。早く助けなきゃ。
 そう思うのに、足が動かない。
 私の正体を知られてしまった。ヒカリを助けても、もう私たちの関係は今までとは違ってしまうかもしれない。
 もし、助けたとてヒカリから拒絶されてしまったら――それが、どうした。

 動かない足を全力でひっぱたく。
 ヒカリは自分が泳げないのに私を助けるために男ごと海へと飛び込んだ。
 だから、この先に何が待っていようと関係ない。
 仮にヒカリが私を拒絶したとして、ヒカリと出会う前に戻るだけだ。
 行け。動け。

「ヒカリっ!」

 海へと飛び込む。荒い海原も、人魚にとっては庭のような場所だ。
 海の底へと向かって進む。命の気配を感じさせない暗い海の底。こんなところにヒカリを置いていってはいけない。
 一体どこに。深く深く潜る。暗い海の底は冥府への入口になっているという。
 だけどまだ、ヒカリをそちらに連れては行かせない。

「ヒカリっ!」

 ゆっくりと海の底へと沈んでいくヒカリを見つけた。
 急いでその身を抱え、海面に上がる。そのままその身を海岸まで引っ張るが、ヒカリが目を覚ます様子はない。
 口元に耳を寄せてみるが、呼吸をしていない。
 ダメ。ダメだ。ヒカリをそっちに連れていかないで。

「帰ってきて……!」

 大きく息を吸い込んで、口を重ねる。
 何を差し出したっていい。だから、この人だけは。
 息を吹き込む。
 お願いだから。私の傍に居てほしいなんて、そんな叶わない願いはもう抱かないから。
 だから、彼を返して。

「ゲホッ! カハッ!」

 大きくむせ返ったヒカリが、ずっと閉じていた瞼を開く。
 虚ろな視線が空を彷徨った後、私と目が合うとガバリとその身を起こした。
 両手がすっと伸びて来て、私の両肩に添えられる。

「ナギサさん! 無事ですか!」
「私より、自分の心配しなさいよっ!」
「あ。そうだ。僕はあの男と海に……」

 ヒカリは自分のずぶ濡れの身体を見下ろして、同じように濡れネズミになっている私を見て、何が起きたか察したようだった。

「ありがとうございます、ナギサさん」

 ヒカリの言葉に頷くことはできなかった。
 ヒカリが無事でよかった。だけど、それですべてなかったことにするわけにはいかない。
 その顔をまっすぐ見ることができない。その顔に失望が浮かぶのが怖かった。

「ごめんなさい」
「えっと、どうしてナギサさんが謝るのですか?」
「私はずっと貴方に隠し事をしていたし、それに貴方を巻き込んでしまった。こんな私が貴方の傍に居るなんて――」
「ナギサさん」
 
 ヒカリの声が私の言葉を遮る。
 顔を上げると、いつもの穏やかな笑顔が私を見つめていた。

「よければ、貴方のことを教えてくれませんか?」