キラキラと星が浮かぶ水色の海がある。
 とても幻想的なその海域は、穏やかで安全な航路でありながら———『呪いの海』とも呼ばれていた。



 勝手口から「お桐さーん」と声がかかったのは、お桐がせっせと漢方薬の調合などして立ち働いていた時だった。
 どうやら自分を呼んだのは、二軒隣で傘張りをやっている藤代の声らしい。こういう、彼女が桐ちゃんと呼ばずに、きちんとお桐さんの名前で呼ぶ時は、急患が担ぎ込まれてくることが多い。

「はあい」

 ずり落ちそうになるメガネを手で支え、慌てて下駄をつっかけてお桐は出ていった。
 勝手口を開けた時、お桐はあれっと戸惑った。

 そこに、砂色と水色の涼しげな羽織をまとい、凛とした風情で立つ藤代がいる。これは、いつも通りのこと。しかし彼女の後ろに二人の侍が控えているのは、一体どうしたことだろうか。

 藤代は少し緊張の面持ちを浮かべてこちらを見ている。彼女の様子からして、あまり穏やかな訪問客ではなさそうだった。

 キョトンと首を傾げる小柄なお桐を、見知らぬ侍たちはずいっと見下ろした。
 異様な気配にも全く動じることなく見返すお桐を見て、侍たちは頷きあう。そして、藤代を押し退けてお桐の前に立った。

「女長屋の医者とはお前だな、お桐」
「はい。相違ありません」

 お桐は頷いた。
 ここらは世間から、女長屋と呼ばれている。
 亭主を持たず、普通なら男が携わるような職業に手を染めて生きる女たちが、家を並べて暮らしているからだった。
 お桐は医者である。初めた時こそ立ちはだかる困難も多くあったが、徐々に評判が広がり、落ち着いた営業ができるようになってきた。若すぎるくらいに若く背も小さいがシャンとして、月のように丸い銀縁メガネをかけたお桐は、次第にお桐先生と呼ばれ慕われるようになった。

 ……しかしこれは、久々に面倒ごとだろうか?

 お桐が訝しげに見る視線にもとっくに気づいているのだろう。侍たちは、手短に事情を伝えようとばかりに、一通の書を差し出した。受け取ると、くいっと顎をしゃくられる。

「文字は読めるな?」
「はい」

 即座に頷いたが、実際に目を落として少し驚く。
 渡された書の文面は堅苦しく、文字は達筆。ただの手紙にしてはあまりに仰々しく読みにくかった。
 しかしお桐は仮にも医者である。勉強が必須の職業であるため、小難しい文献や書物には人一倍慣れている。問題はなかった。
 そこに書かれた文字を無言で読み進めていくにつれ、お桐の表情は険しくなった。

 ついに読み終わった時、お桐は動揺を隠して、侍たちへ強い光のこもった目を向けた。
 しかし侍たちもさるもの。彼らは、お桐の鋭い視線を涼しく受け流した。

「では、すぐさま荷物をまとめて表へ出よ。我らが案内する」
「……了解いたしました」

 お桐は素直に頷き、奥へ引っ込んで勝手口を閉じる。
 目を閉じて、ハア、と息をつく。その時、そっと反対側の戸を叩く音が聞こえた。どうやらいつの間にか回り込んでいたらしい藤代が、侍たちがいるのとは反対側の戸を叩いてきたらしい。お桐は戸を引き開け、彼女を家の中へと迎え入れた。

「どうぞ。座ってちょうだい」

 お桐はそう言って、藤代を畳の上へ案内する。
 しかし彼女は腰も下ろさず、ただそのスラリと背の高い体を不安そうに丸めてこちらを見やった。いつも凛とした姿勢を崩さない彼女にしては珍しい。

「桐ちゃん……」

 藤代は、怯えたようにこちらの名を呼んだ。そんな藤代を安心させるように、お桐は笑顔を浮かべてみせた。

「不安な顔するなんて、藤代ちゃんらしくないじゃない。ほら、もっと明るい顔をしなさいな」
「でも……」

 口籠る藤代の手前で、お桐はさっさと荷物をまとめていく。手を止めないお桐の様子に豪を煮やしたのか、藤代は意を決したように口を開いた。

「古い、噂があったじゃない」
「そう?」
「女医が連れていかれてるって。そうして、二度と戻っては来ないって」

 お桐は一瞬手の動きを止めた。しかし、すぐに何事もなかったかのように荷造りを再開する。

「あったかもしれないわね。でも、単なる噂よ。それにその噂が本当だとして、消えてる医者に女医はほとんどいないわ。女はせいぜいが十年に一度って頻度だし、数で見たら男の方がずっと多いって噂よ。……で、それがどうかした?」
「き……消えてる男はみんな、お上に楯突いた危険な人物だって噂もあるじゃない。でも、でも……女はそんなの関係なく、良心的な医者様が引っ張っていかれるって……もしかして桐ちゃん……!」
「しぃっ」

 静かに、と唇に人差し指を立てて、だんだん声の大きくなってきた藤代を黙らせる。
 しかしとりあえず黙らせただけだ。根本的な彼女の疑念が晴れていないことは明らかである。その切れ長の瞳で眼光鋭く睨みつけられると、なかなか迫力があった。
 お桐はため息をついた。

「……大丈夫よ」
「桐ちゃん!」
「私は大丈夫」

 もう一度、はっきりと繰り返す。そして、藤代の顔を見上げる。銀の丸メガネ、その奥にある瞳が満月のようにきらりと光る。お桐はニコリと笑って見せた。

「ねえ。藤代ちゃん。私はいつだって大丈夫だったもの。これからだって同じことよ」

 ハッと藤代が口に両手を当てて息を飲み込んだ。
 ゆらゆらと彼女の視線が揺れ、そして少し泣きそうな目が、お桐を見返す。
 その声は、ほんのわずかに震えていた。

「そう、だよね。桐ちゃんはどんな大変なことがあっても、結局は乗り越えたわ」
「ほら、そうでしょう」
「もうだめだって思っても、桐ちゃんは大丈夫だった。大丈夫に、してきた」
「うんうん」

 お桐は、藤代の手を取ってぎゅっと握る。

「ね。二度と会えなくなっても、戻ってこなかったとしても、どこかで私は生きている。絶対に死なないって約束する」
「桐ちゃん……」
「それと、中途半端に別れるのは嫌だから、この際に今までのお礼とか諸々はっきり言っておくわね。私はこの長屋で生きて来れて幸せだった。本当よ。藤代ちゃんたちみんなに会えて、だからこそ今の私がいる。すごく大変なこともあったけど、全部これでよかったって思ってる。だから言うわ。心の底から、ありがとうって。……あと、本当は私の口から他のみんなにも別れの挨拶したかったけど……できそうにないから、藤代ちゃんから伝えといてくれるかな」
「も……もちろん伝えておくわ。それに、私たちも、桐ちゃんのおかげでどんなに勇気をもらったか。ここらの人たちはみんな言ってる。桐ちゃんはすごい医者だって。他のところで酷い目に遭った患者さんが、お桐先生がいてくれてよかったって涙しながら通ってるって。私にとっても、桐ちゃんはまるで福の神さまみたいな、とびきりの特別な人だから」

 お互いに思いの丈を打ち明けると、心がすっと軽くなる。
 お桐もずっと明るい心地で、手元にまとめた風呂敷包みを持ち上げた。
 二人で、真正面から向き合う。
 いよいよのお別れ。藤代はぐずぐずに涙ぐんでいた。

「じゃあね。ありがとう、藤代ちゃん」
「うん。こっちこそ。桐ちゃん。本当に、ありがとう」

 あんまり懸命に藤代が御礼を言うので、お桐は苦笑いした。

「こんなふうに別れても、案外私は、何事もなく戻って来るかもよ」
「そうなるように願ってるわ」
「ふふ、そうね。……女長屋のみんなによろしく」

 任せてちょうだい、と握り拳を握る藤代。お桐は最後にもう一度お別れを言って、くるりと背を向けた。
 お桐も少し泣きそうだったことは、藤代には知られたくなかった。恥ずかしかったからだ。

 彼女に背中を向けたまま、お桐は思い切り息を吸い込み、戸を開ける。そこには広々とした空が広がっており、どこまでも大きな外の世界が広がっている。

 お桐は挑戦するように、目の前の虚空を睨みつけた。

(さあ、私の人生は、一体どこに連れていかれるんだろう?)

 お桐は濃い藍色の気配が漂う早朝の表へ、ふわふわと浮いたような一歩を踏み出した。



 錆丸は、『幽霊船調査』の達しが来た時、とうとうこの時が来たかと身構えた。

 彼は表では木端役人の門番、しかし裏では隠密としての顔を持っていた。その裏の顔がうっかりバレてしまったのが先日のこと。即刻手配書が出回り、彼の顔を使った潜入は今後不可能となった。そして下手を打った挙句二度と働けぬ身となってしまった隠密は、用済みだ。殺されるかと思ったがその期日を保留され、不審に思っていた矢先だった。

 なるほど。
 使い捨ての任務に駆り出されるというわけだ。

 死刑のやり方を変えただけなのだと理解したが、反発感情は全く湧かなかった。

 むしろ、最後に一働きさせてもらえることがありがたかった。まだ自分は使える人間だと、そう認められたことが嬉しかった。

 幻想的で優しく美しいと有名な海域———『呪いの海」。そこを通って外国と取引をしていた小さな貿易船が、どこからか流されて、とある岩壁のそばへ座礁した。そこは同じような船の残骸が山と沈んだ墓場のような場所であり、その船もおそらくは前の船の残骸に引っかかって止まったのだろう。海の浅瀬に乗り上げて動かないその船からはおかしなことに、助けを求めて人間が出てくることも、声やその他のラッパや太鼓の音、そして旗が上がることすらもなかった。

 すなわち、船だけが戻ってきた。そのまま、しんと静まり返っている。
 それを調査せよ、というのが錆丸への指示だった。

 なぜこれが彼の死刑となるのか?
 それは、これまで船を調査しに行った者たちが、ただの一人も戻らなかったことを考えればわかるだろう。

 そしてそれは、呪いの影響などではなく。上からの指示に従った結果なのだった。

 第一、船が空だったならそのまま戻ってくるべし。
 第二、病が蔓延していたならば旗をあげて合図し、船員の治療のためその場に残るべし。
 第三、魔物がいたならば船ごと燃やして二度と帰るな。

 これを、錆丸と、もう一人。つまり、極秘の一覧表に名前が載っていて更にくじに当たってしまった不運な医者。その二人が実行する。
 もちろん、上が考えている可能性は一番でも二番でもない。三番。魔物がいると考えたからこそ、錆丸たちが呼ばれた。そしておそらく、上の予想は当たっている。これまでもずっと当たってきた。

 では、十中八九ただの病人などいないにも関わらず、医者が付き添うのはなぜか? もちろん、万が一病人がいた場合に対処するためである。しかし実のところ、本当に医者が求められているのかと言えばそうでもなかった。派遣する人数は二人くらいが丁度良いだろうと判断した誰かが、医者がいれば便利であろうと適当に決めた前例があり、それをずっと踏襲し続けているだけなのだ。

 だからつまり、本当に求められているのは、錆丸のような人間だった。腕が立ち、忠誠心もある。命をかけて化け物を斬り、燃える船と心中する勇気のある若者。しかも本職ではすでに用済みになっているとくれば、これほど便利な駒もない。

 錆丸はこれから船に赴き、相方の医者が逃げないように監督しながら、任務をやり遂げる。そこで死ぬか死なないかは運次第。おそらくは死ぬが、万が一にも何事もなく帰れたならば、それはそれでよい。きっとまた、別の使い捨て任務を待つ身に戻るだけだ。

 錆丸は死を恐れない。
 そう。命をかけるのは得意だった。
 危機の最中に放り込まれると精神が冴える。むしろ平時よりも落ち着きや安らぎを覚えることすらある。

 錆丸はひたすらに、いざとなったらどのように船を燃やして沈没させるかの算段をつける。

 もしかすると、自爆作戦など頭が悪い、もっと良い方法を考えだせ、と思う者もいるかもしれない。
 だが、人は怖いのだ。今までずっと、無闇に火矢を射かけたり爆薬を投げ込んだりすることは、呪いの報復や祟りを恐れ、避けてきた。
 昔ながらのやり方で問題が発生していないのに、どうして伝統を変える必要がある? それで失敗したら、責任は誰が取る? いけにえ二人が死ぬ程度で解決する問題なら、それでいいではないか?

 そういうわけで、昔ながらの伝統は変わらない。

 役目を任じられる医者たちにとっては良い迷惑だろうが、あまり調査の頻度が多くはないことや、命じられる者の立場が毎回非常に弱いことが理由となって、声高な反対の声は上がっていない。せいぜいが市井の不気味な噂になる程度だった。

 さて、と錆丸は今回の任務へ思考を戻す。
 そういえば、こたびは町の女医がくじに当たったと聞いている。
 自分と同じでまだ若いらしい。
 女だてらに、という言葉があるくらいだ。
 男であっても医者の道には困難が付きまとうのに、女となれば尚更だろう。あらゆる障害をのけてきた結果であるならば、きっと彼女は勝気で生意気、御すのに手間取るジャジャ馬に違いない……などと、そんなことを考えていた錆丸は、実際にお桐に会った時、自分の考えがいかに誤っていたのかをあっさり認めた。

 月の銀光が白々と海を照らしていた。
 夕暮れの涼しげな風が潮の香りを運んでくる。
 しょっぱい空気にすんと鼻を鳴らし、錆丸は手を袖の中にしまっていた。
 案内役に導かれ、お桐がやってきたのはその時だった。

「お桐と申します。よろしくお願い致します」
「ああ、うん」

 お桐は錆丸の前まで来ると、楚々と礼儀正しく口上を述べ、指を揃えてお辞儀をした。
 小柄な背に、淡い藍色の着物。銀縁のメガネをきちんとかけたその娘は、芯の強さを感じるものの、一見して本好きな古書店の少女のようにしか見えない。

(なんだ。こんなちっぽけな子が死地に追いやられるのか?)

 錆丸はなんだかもったいないような気分に襲われて、イヤイヤと心の中で勢いよく首を振った。
 自分は任務を全うするだけ。二人が生きて帰れるかどうかは、今心配することではなく、単に後からついてくる結果でしかない。
 錆丸は気を取り直して、お桐へ向き合う。

「俺は錆丸だ。なに、あまり身構えずとも、いざとなれば俺が守ってやる。だからしっかりついてこい」

 温かい信頼関係を築くことを提案しながらも、自分の指示には従うようにと釘を刺しておく。
 錆丸が言葉に込めた意図を知ってか知らずか、お桐は素直に頷いた。

「はい。錆丸様についてゆけば良いのですね」
「そうだな。あと、錆丸“さん”でいいぞ」
「承知致しました」
「おいおい、そう堅く身構えなくとも、とって食いやしないさ。むしろそういう奴らからあんたを守ってやる係だな、俺は」
「……人を食う奴ら、ですか?」
「もちろん比喩だがな。それくらいの危険はあるかもなって話だよ。肝に銘じておけ?」

 お桐は、一瞬、何事かを考え込むような顔をした。しかし、彼女が再び顔を上げた時、その表情に憂いはなかった。

「なるほど。わかりました」

 あまつさえ、そんなことをあっさりと言う。
 錆丸は目を瞬かせた。

「お桐さん。あんた、やけに肝が座ってるな」
「そうですね。あまりにも動じないので、“貴女の顔色が蝋色になったら天地がひっくり返る”などと冗談混じりに言われたことも一度や二度ではありません」
「へえー」

 女だてらに、という言葉が錆丸の口からぽろりと漏れた。不思議そうに自分を見上げるお桐を、錆丸は誤魔化すように咳払いする。

「さて。俺たちはこれから、小舟に乗って海へ出る。とはいえ、ごく浅瀬だ。むしろ乗り上げないように十分に注意していかなきゃなんねえ。そんで、そっから先は書面で伝えられた通りだ。現場に着いたら、俺の指示に従ってもらう」
「わかりました」

 お桐は素直に頷いた。
 華奢な町娘と共に、危険な呪いの船の調査へ赴く。
 あまりにも現実味がないし、錆丸はなんだか調子が狂ったような気分である。
 だが、とにもかくにも、お役目は始まったばかりであった。

 月が煌々と輝く砂浜。黒く浮かび上がる小舟の影。曖昧に溶けた水平線。幽霊の声のような風の音と、規則正しい波の音。地にめり込
んで刻まれた足跡。きっと今晩のことを、錆丸は死の瞬間まで忘れないに違いない。
 小さな荷と医者を従えて、一歩一歩を歩く。
 錆丸は死地に向かう自分をどこか遠くから見下ろしているようだった。

 ———美しい夜だ。

 ふっと笑みを浮かべたのは、柄にもない。とても静かな、また、不思議に穏やかな空気が、錆丸を春巻きの皮のごとくに包みこんでいるのであった。





「———御貴族さま御用達の高級な玩具!」

 お桐は思わず大きな声を上げてしまい、慌てて口に手を当てた。
 ちゃぽん、と水の跳ねる音が響いて、舟がかしぐ。
 お桐は今、錆丸と名乗った正体不明の侍と共に、海の上にいた。その侍が、お桐にジロリと咎めるような目を向ける。

「さっき静かにしろと言ったじゃねえか。もう忘れたのか?」
「すみません」
「まあ、誰も聞き耳を立てる者などいないだろうがな。一応は秘密のお役目だ。あまり騒ぎ立てると、俺たちの沽券に関わる」

 錆丸はぐいっぐいっと艪を漕ぎながら、息一つ乱さない。そもそも彼は港を出てからずっと漕ぎ通しだが、全く疲労する様子がないのだった。きっと日頃から体力を鍛えている証拠なのだろう。さすがは武士階級、とお桐は心の奥で感心する。このように上手に舟を漕げるのは漁師や舟商人のみと思っていたが、あまり武士を侮らない方が良さそうだ。それとも、この錆丸という男が特別なのだろうか。

 どのくらい時間が経ったのか。いまだ夜は明けない。

 お桐たちが向かうのは崖に面した海であるため、かなり遠回りをして舟を進めなければならなかった。
 ヤモリか蜘蛛の手がついていれば、あっという間に崖を下りて辿り着けるのになあ、と錆丸が残念そうに悔しがっていた。舟の揺れがあまり好きではないお桐にとっても、長時間の移動はあまり歓迎できるものではなかった。しかしそれも錆丸によれば、酔わないだけまだマシらしい。あんたは舟に強いぞ、と感心したように断言された。まんざらでもない。

 それより、先ほど錆丸が語った話の続きだ。
 もう口を挟まないから最後まで聞きたいと目で訴えると、錆丸はため息をついて語りを再開した。

「あー、これから乗り込む舟の積荷の話だったな?」
「はい」
「さっきも言ったように、あれは貴族に売る専用の玩具を積んだ船だ。大人の知的な娯楽の道具、つまり碁や楽器などだな。それを、外国から手に入れてくるわけだ」
「……外国」
「そう、外国だ。この国の中だけで商売するってんなら、そっちの方がいくらか安全かもしれねえが、高貴な玩具は外から仕入れた方が質がいい。で、外への航海はもちろん簡単じゃあねえ。危険な旅だ。命懸けの商売で莫大な利益を上げるっていう、彼らなりの戦略だからな。ある程度の危なっかしさは、天秤にかけて利が上回ると判断された瞬間、ぱぱっと無視されちまう」

 で、だ。と、錆丸は声を低める。

「概してそういう船が、好んで通る海域があるって言ったら……どう思う?」
「どう思うも何も、そこが比較的安全な海路なのではないですか」
「まあそうだ。そこは高波やシケで遭難する船が異様に少ない、穏やかで安定した海だよ」

 では、あなたは一体何を当たり前の話をしているのか? という表情をお桐が浮かべる。そんな彼女に、錆丸は不思議な笑みを浮かべた。

「“呪いの海”」
「はい?」
「それが、その海の異名だ。ああ、ふざけているわけじゃない。厳重に秘されているが、本当のことだ。……そう、その海域を抜けて帰ってきた者たちに呪いが降りかかるんだ。もちろん、ごくたまにだがな。彼らは確かに呪いを受け、魔物と化す。それを俺たちのような者たちが焼き払って食い止める。そういうことが、何世紀も繰り返されてきたんだな」
「………」

 お桐は、黙り込んでじっと夜空を見た。
 星が銀の砂を撒いたように広がり、瞬いている。今にもサアサア雨のように降ってきそうなのに、いつまでも同じ場所で煌めいている。何世紀も昔から、あの景色は変わらないのだろうと思うと、不思議な感慨を覚えた。
 だからだろうか。
 その言葉は、お桐の中からスッと出てきた。

「お上は、私たちに死ねと命令したのですね」
「そうだ……と言ったら、どうする?」
「からかわなくとも結構です。調査は建前で、呪いを持ち込まないための焼却処分が本来の目的。となれば、その船に一歩足を踏み入れたが最後、私たちも穢れに触れた身として死なねばならないのでしょう?」
「って、おいおい、調査が建前ってのは言いすぎだぞ? 単なる遭難か、もしくは船中で病が流行った可能性もあるしな。そういった場合は、問題なく生きて帰れるに決まってるだろ」
「おや。そうなのですか?」
「でなけりゃ、どうしてわざわざ医者を連れていくんだ」
「いえ。てっきり、私を邪魔だと思った方によるただの嫌がらせかと……」
「ひどい人間不信だな。どれほど敵が多い人生を送ってきたんだ?」
「……敵? いえ、仲が悪い人が多いというだけで、そのような過激な間柄の方はおりませんが……」

 きょとんと不思議そうな表情をしたお桐を見て、錆丸は拍子抜けた。

「おう、そうか」

 それだけ言って、あとは黙々と舟を漕ぐ作業に没頭する。
 ずいぶん楽な仕事だな、と錆丸は思った。
 命をかけろと言われたに等しい状況にも関わらず、傍の医者はつゆほども動揺した様子を見せない。暴れたり逃げたりしようものなら、取り押さえて気絶させてでも同行させねばならないかと危惧していた。だからこそ目的の船に乗り込んで忙しくなる前にこのような話をしたのだが、杞憂だったか。あけっぴろげに、俺たちは絶対死ぬぞと脅かしても大丈夫だったかもしれない。どちらにせよ、同行者が素直でおとなしいのはいいことだ。

 それからしばらく漕ぎ続けると、黒い海の向こうに、ふいに、のっそりと崖の影が浮かび上がる。
 それと同時に、錨を下ろして停泊しているかのように止まって動かない船の影も。

 お桐と錆丸は、顔を見合わせて頷いた。

 あれだ。
 あれが、呪いの海から帰ってきて、しかし帰りきれずにここまで流されてきた。
 錆丸は巧みに舵を操って、うまく船の脇にピッタリと小舟をつけた。

「ここから上るぞ。いけるな」
「はい」

 荷物を背負って、船に上がり込む。ひんやりした空気が流れてくる。木造の甲板に降り立つと、青く冷めた影が忍び寄ってくるかのようだ。奇妙な身ぶるいを感じたのか、お桐が今までに浮かべたことのない表情で、暗い船内をじっと見つめていた。
 見事な幽霊船だった。
 人の気配がない。
 そこら中に樽や木箱が置いてある。蓋にはどれも人が触れた形跡はなく、埃が積もっている。
 すん、と鼻を動かす。腐りかけた磯の香が、この船がいかに長く海を漂っていたのかを伝えてきた。

「怖いか」
「いいえ」

 錆丸が問い掛ければ、ほとんど反射のようにお桐の答えが返ってくる。しかし果たして、お桐が本当に「いいえ」と思っていたのかもわからなかった。ただの強がりだったかもしれない。錆丸がお桐ほど度胸のある女を横目で見てそう思うほどに、呪いというものは恐ろしく、得体のしれないものだった。

 今にも幽霊が飛び出してくるかもしれない。それか、一番マシな場合でも、死人の一人くらいは転がっていてもおかしくない。
 そんな恐ろしさに、錆丸の背筋までぞっとする。

 月明かりに照らされた錆丸の顔色は青白い。しかし少なくとも、彼の表情は集中していて穏やかなものだった。
 お桐は、同行者である侍が彼であることに、少なからずホッとしているようだった。そして、それはきっと、錆丸も同じなのだった。

「端から回るぞ。病人がいたら見たてを頼む」
「承知しました」

 お桐はギシギシ鳴る木の床を踏みつつ、錆丸の後を追う。
 ハシゴを降り、そっと、最初の扉を開けた。

「……っ!」

 腐臭がした。
 狭い部屋の中。
 闇に溶け込んだ影に、何かが蠢いている。微かなうめき声が耳に届いた時、お桐の目が眼鏡の硝子越しに何かをとらえた。
 むっくりと起き上がる。

 それは、人型をした———

「屍人!」
「ゾンビ!」

 お桐と錆丸が、囁くように発した声が重なった。

 ざり、と二人は後退りをする。お桐は錆丸に、ゾンビとは一体全体何なのかを問いただしたそうな顔をしていた。しかしこの状況では、落ち着いて会話をすることもできない。
 とにかくそこにいる『何か』を刺激しないように、そっとこの部屋を出なければならない。
 それだけが確かで、二人は、そろりそろりと忍足で後ろへ下がる。

 その時だった。

 ギョロリ。

 溶けた青鈍色の眼光が、くるんと返ってこちらを向いた。濁り切って全く機能をなしていないはずのそれは、確かにこちらを認識してじっと見つめている。

 襲われる!

 本能的な恐怖に、お桐と錆丸は非常な俊敏性を見せた。
 部屋を飛び出し、戸をバタンと閉め切る。その身の体重をつっかえ棒として寄りかかり、二度とその戸が開かないように押さえつける。

 一瞬のことだったが、二人は冷たい汗をかいていた。

 ドン、ドン、と向こう側から戸にぶつかってくる鈍い音が響く。
 直に木板の振動が伝わってくる。お桐と錆丸は戸を押さえながら、血の気の失せた顔を見合わせた。

「……これは、一体なんですか」

 これ、と、すぐ戸一枚を挟んでドンドンと音を立て続けるものを示して、お桐は言った。

「ゾンビだな」

 錆丸は、間髪入れずに答えた。

「……ゾンビとは?」
「動く死体のことだ。あまり文献は残ってねえが、つまりはこいつが、呪いの海で呪われた人間の末路。すなわち、魔物の正体ってわけだ」
「死体? それでは、あれはもう生きてはいないということですか?」
「獣のように理性を無くしていただろう。つまりはそういうことだ」
「しかしその理屈が正しいならば、斬っても燃やしても動き続けるのでは?」
「ある程度以上に斬って燃やせば問題ない。消し炭になっちゃあ、動くも何もないだろう?」
「……なるほど」

 患者を看取ることも多い医者として、死体が動くなどという異常事態を受け入れたくはないのだろう。お桐は少し眉間に皺を寄せる。
 唇を噛んで何事かを考え始めたお桐に、錆丸は声をかけた。

「じゃ、そろそろもう一度戸を開けるか」
「ちょっと待ってください」
「なんだ」
「今、向こうにはゾンビとやらがいます。開けてどうするつもりなんです?」
「斬り捨てる。いつまでもここで戸を押さえてぐずぐずしているわけにはいかねえだろう」
「しかし」
「俺たちには、この呪われた船を燃やして沈める責務がある———いや、たった今、その責務が生まれたというべきか? 一説によりゃあ、ゾンビが一体でも生まれれば、それに噛まれた船員が同じようにゾンビと化して徘徊し始めるらしいからな。これ以上呪いを広げないためにも、俺たちは一刻も早く仕事を完遂しなけりゃなんねえ」
「ですが」
「現場に着いたら俺の指示に従えと言ったのを、忘れたのか?」

 錆丸が、じろりとお桐を睨みつける。
 従わなければ守ってやらない。そんな意図を込めた目つきで睨む。
 さて、それでも反抗するか、それともここはおとなしく謝って引き下がるか。どちらだと錆丸が思っていると、意外な表情をお桐は浮かべた。

「錆丸さんは、気にならないんですか?」
「へ?」

 一瞬自分の脳に湧いた困惑を、錆丸は感じていた。
 そしてお桐のお喋りは、彼の理解を待ってはくれない。彼女はすらすらと話し続けた。

「ゾンビとやらを殺してしまう前に、もう少し泳がせてみましょうよ。あれらについて、私たちが知っていることはあまりにも少なすぎます。調べて記録に残しておけば、私たちが満足するのみにとどまらず、いつか誰かの役に立ちますよ」

 ニコリ、とお桐は笑う。
 その瞬間だった。
 錆丸はゾッとした。背筋に水を通したような寒気が走った。

 お桐。
 その小柄な医者の夢みるような瞳は、銀縁眼鏡の奥で夜空のようにキラキラ光っている。
 ついさっきまで得体のしれない魔物に臆していたとは思えないほどの、純粋な興味の表情。錆丸は、この娘がいかに特別であったのかを改めて思い知った。

 魔物を初めて前にした驚きと恐怖から立ち直るのは、自分の方が圧倒的に早かったと思っていた。
 しかし逆だ。
 この娘は、とっくに恐怖を克服していただけでなく、その先へまでも進んでいたのだ。

 力関係はすでに逆転していた。
 錆丸が指示を出してお桐が従うのではない。お桐がしたいと言ったことを、錆丸が手伝うのだ。

「まずは、本当に理性を失っているのかを調べましょう。対話を試みて実験します」

 お桐の宣言と同時に、二人は戸の前からどいて入り口を開け放つ。
 ゾンビがよろめき、月明かりの元へ出てくる。
 と、そのゾンビは眩しそうに顔を覆うと、暗い闇の降りた部屋の中へとまろびながら転がり込んでいった。
 ゾンビはそのまま、お桐と錆丸と追いかけてくることはない。
 錆丸は驚いた。

「こりゃあ、どういう……月明かりを眩しがってるのか?」
「ええ。なんにせよ、外には出てこられないようですね」

 あまり心配しなくとも、外にいれば安心ということらしかった。ゾンビの明確な苦手を発見してホッと安堵するのも束の間、お桐は次の宣言をする。

「では、こちらから中へ踏み込みましょう。会話が成り立つかを確認しなければならないので」
「ええ……」

 嘘だろう、と言わんばかりの錆丸の面倒くさそうな声を、お桐がジロリと睨め付ける。錆丸はすぐに口をつぐんだ。
 二人は、そっと部屋の中へ滑り込んだ。
 お桐のそばに、細い短刀を抜いた錆丸が立っている。襲われても、彼ならば危なげなくゾンビを圧倒できる。

 そして、お桐の実験が始まる。

「こ、ん、ば、ん、は」

 お桐はゾンビに向かって、一言一言を区切りながら、ゆっくりと語りかけた。
 溶けた青鈍色の目が二つ、暗闇でぼうっと光りながらこちらを見ている。彼は、確かにこちらを見つめているのだった。

「わ、た、し、の、こ、と、ば、が、わ、か、り、ま、す、か?」

 しばしの沈黙。
 そして、明らかに頷きとしか思えない縦向きの動きを、ゾンビの首が行った。
 錆丸が息を呑む。理性なく人を襲い暴れる獣だと文献には記載されていた。まさかこんなことがあるなんて。こちらに害を与える様子を見せず、言語を理解しようと努めるゾンビがいるなんて。
 お桐は、特別喜びや驚きといった感情を見せなかった。
 淡々と、続きの言葉を発していく。

「あ、な、た、は、しゃ、べ、れ、ま、す、か?」

 否定。

「ふ、つ、う、の、は、や、さ、を、き、き、と、れ、ま、す、か?」

 肯定。

「なるほど。では、このくらいの早さで喋ってもよいですか?」

 肯定。

「あなたは元々、この船に乗っていた船員だったのですね?」

 肯定。

「人間がどうしてそのような姿になるのか、心当たりはありますか?」

 しばしのためらい。そしてゆっくりと否定。

「他の船員も同じような姿になったのですか?」

 ためらい。そして肯定。

「あなたが、この船の上で生まれた最初のゾンビですか?」

 否定。

「では、ゾンビに噛みつかれて、ゾンビになったのですか?」

 即座に否定。

「なんの兆候もなく、突然あなたはゾンビになってしまったのですか?」

 含むところはありそうだが、肯定。

「あなたからは理性を感じます。他のゾンビにも、理性はありますか?」

 沈黙。そして、しっかりとこちらの目を見据えて———肯定。

 信じがたいものを見るような表情で、錆丸はこの奇妙な対話を眺めていた。腐った体を持つ魔物が、ただ見た目がおかしく声が出せないことを除けば、ごく普通に意思疎通の可能な生物であるかのようだ。

 お桐は、じっとゾンビの目を見据えていた。
 そして、ふいに彼女は、静かに首を傾げた。

「あなたは、何か言いたいことがあるのですか?」

 ゾンビは頷いた。
 その目は、何かを哀願しているかのようだった。
 しかしゾンビの喉は溶け、どんなに頑張っても意味のある言葉が出ることはない。
 お桐は、憐れむような目を向けた。

「錆丸さん。行きましょう」
「え、どこに?」
「ゾンビが私たちに行かせたがっているところですよ」
「はあ?」
「目を見ればわかるでしょう。彼はどうやらこの船の奥に気がかりなことがあるそうですよ」
「いや、わからんが」

 まだ行くとも行かぬとも一言も言わぬうちに、お桐は錆丸の手を引いてさらに部屋の奥へと進む。そこには下の階へと続くハシゴがあった。
 どうやらゾンビは以前、そこを降りようとしたらしい。失敗した跡があった。腐り落ちた手が滑ったのか、奇妙な泥や肉の塊のようなものがハシゴに付着していたのだ。
 錆丸はそこに触れることを想像したのか、さすがに嫌な顔をした。が、お桐がさっさと先へ行ってしまう。小さな医者を一人で放っておくわけには行かないので、彼も渋々ハシゴを降りて行った。
 二人は暗い通路に降り立った。

「ここはどこに繋がっているんでしょう」
「食糧庫じゃねえか? そんな感じの雰囲気だ」
「なるほど」

 真っ暗闇では不便だ。ゾンビの部屋から頂戴した燭台を灯し、二人は周囲を照らしながら船内を進んだ。
 本当にこっちであっているのかと錆丸が問い、お桐が同意する。そのようにして、奥へ奥へと歩いていた時だった。

「……ちょっと待て」

 唐突に、錆丸が立ち止まった。燭台を持つお桐も、彼の前で立ち止まる。

「どうかしましたか?」
「この辺りに、生きてるやつの気配がある。こっちの存在に気付いて、ピリピリって鋭い注意を向けてきてやがる」
「……なんですって?」

 さすがのお桐も聞き返した。生きている人間の気配? ピリピリとした鋭い注意? この人は一体何を言っているのか?
 しかし錆丸の表情は、決してふざけているようではない。
 大真面目だ。
 試しに、その生きている人間とやらはどこにいるのかと問えば、真っ直ぐに一つの扉を指した。
 それは金属の扉だった。どうやらかんぬきがついている。ネズミ一匹入り込めないようにという強い意志を感じる部屋。つまりそこは、食糧庫だった。

「……ここに、生きている人間がいると?」
「ああ」
「わかりました。突入しましょう」
「え? あ、あぁ……って、おい!」

 ガチャン。
 鍵はかかっていなかった。簡単に扉は開く。かんぬきは外についていたのだから、中からは閉められない造りだったのだろう。

 お桐がキキィー、と扉を引き開けるのと、中から何かが飛び出してくるのが同時だった。

 ぐいっとお桐の襟首が掴まれ、強制的に後ろへ引き下げられる。お桐を下げたのは錆丸だった。彼女と入れ替わりに自分が前に出た錆丸が、銀の短刀を閃かせた。

 その短刀が、部屋の中から投げ出されてきた鉄の鍋を思いっきり弾く。

 くわーん!
 とびきり響きの良い寺の鐘をついたような、気持ちのいい音が鳴り響いた。

「やめろ! 俺たちは助けに来たんだ! 腐った魔物なんかじゃねえ、鍋なんか頭に当たったら死んじまう普通の人間だぞ!」

 錆丸が叫ぶ。
 すると、部屋の中で動いていた気配がぴたりと静かになった。
 その間に、お桐と錆丸はひそひそと言葉を交わし合う。

「あ、危なかった……」
「いきなり突入する馬鹿があるか。一言くらいは声をかけてから入れ。最低限の礼儀だろうが」
「でも、結果的に無事でよかったです」
「まあな。俺が守ってやったからな」
「ええ、助かりました。眼鏡が割れずにすんで本当によかった……」
「頭かち割られずに済んでよかったな、じゃねえのかよ」

 そんなことを言い合っていると、そっと扉の奥から二つの目がのぞいた。溶けていない。生きている人間の目だった。お桐と錆丸は、即座にひそひそ声をやめた。

 呪いを受けていない生存者が、目の前にいる。とても奇妙な心地だった。
 意外なことがあったとすれば、その生存者は、とても背が低かったことだろう。

「……お、おにいさんたちは、おばけじゃない……?」

 幼い少女が、涙でいっぱいになった目で、こちらを見上げていた。

 ……生き残ったのは、女の子?

 少女はボロボロの水色の着物をまとい、乱れた髪には同じ色の布のリボンがついていた。肌は黒く汚れ、骨ばった顔に目ばかり大きく光っている。
 寂しさと暗闇に怯えながら生きてきたのがよくわかる、見るも無惨な姿だった。

 あまりのことに、錆丸は完全に固まった。
 今回、すぐに動くことができたのは、お桐の方だった。
 しゃがんで少女の顔と目線を合わせる。じっと目と目を合わせて、ゆっくり頷いた。

「そうよ。大丈夫。私たちは、お化けじゃないわ」

 少女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
 泣き崩れた少女を、お桐の手が支える。

「よく頑張ったね。もう一踏ん張りだよ」
「うん……ぐすっ!」
「あなたのお名前は?」
「み、みやび……」
「それじゃあ雅ちゃん。ちょっと休憩して、それが終わったら、大事な話をするからね」
「う、うん……ヒクッ」

 へたり込んで泣く雅は、泣きながら、お桐の着物の袖を握った。何かを伝えようとするかのような行動に、お桐は首を傾げる。雅は口を開こうとするものの、どうやら気が動転していて、まとまった言葉が出てこない様子だった。
 その時、錆丸が、雅のそばに屈み込んだ。

「もう一人、いるんだな?」
「え?」

 お桐は、錆丸の言葉に驚いたような声を出す。錆丸は、お桐へ黙るようにという視線を向けた。そして、もう一度雅に問いかける。

「この部屋に、もう一人、生きてる人間がいるんだろ?」
「う、うん……」

 雅が頷いた。

「え……どうしてわかったんですか?」

 お桐は目を丸くして錆丸へ向けて呟いた。錆丸は面倒臭そうに答えた。

「気配だよ、気配。生きてる人間の気配を探るくらい、どうってことねえだろう?」
「……意味がよくわかりませんが」
「わからなくてもいい。とにかくそういうわけだから、三人で食糧庫に入ろうぜ」
「なるほど。その意見には賛成です」

 二人は、雅の手を引いて食糧庫へと足を踏み入れた。
 そこは散らかっていた。
 食べ物ばかりではなく、食器類や鍋の類、その他の細々とした道具類が雑多に置いてあった。そして何やら、大量の布。

「これは……?」

 お桐が布の山にそっと近づく。そして、ハッと息を呑んだ。

「……赤ちゃん」

 お桐は呟く。
 うん、と雅が頷いた。
 痩せほそって、今にも死んでしまいそうな赤ちゃんが眠っていた。ほとんど気絶していたと言ってもいいかもしれない。きっと泣く元気もないのだろう。やけに静かだったのはそういうことだ。

 雅が不安そうにお桐を見上げた。

「……死んじゃいそうなの。助けてくれる?」
「ええ、任せてください」

 錆丸が何かを言う前に、お桐は即答した。錆丸は思わず咎めるような視線を送る。しかしお桐には聞こえていないようだった。
 布と水と火と食糧を使い、赤ん坊に適切な処置を施していく。
 最後に、お桐はそっと赤ん坊を抱き上げた。

「おい、何してるんだ?」
「弱った子供には、これが一番の薬です」
「いや、だが……」

 愛のこもった優しい抱っこ。それを見て、錆丸は何もいえなくなってしまったようだった。
 そしてお桐は、雅にも目を向ける。

「ほら、おいで」
「……え」

 雅は、もうすでに八つは越している。体が小さい方であることに加え、精神的にも、突然重い恐怖と孤独から解放された結果、少し幼児帰りしたようだが、それでもかなり年齢は大きい方だ。雅はためらったが、結局はお桐の膝に乗った。

「……それじゃあ、このまま大事な話をしよっか」
「うん」

 お桐はそっと雅を撫でながら、静かに対話を始めた。
 ゾンビという生き物が発生した経緯。その生き物の特徴。退治の仕方はあるのか。その他もろもろ。回答者である雅の様子を見ながら、質問事項を重ねてゆく。
 そして。ここから見えてきたのは意外な事実だった。

「原因は食べ物?」
「うん。セイくんと私の共通点は、きっとそれしかないと思うの」

 落ち着いた雅は、なかなか冷静で洞察力のある娘だった。
 決して特別ではないが、ごく普通の論理的な思考を、さらりとやってのける力がある。

 雅は語った。

 呪いの海を通るとき、とある船員がその海の美しく幻想的な色彩を眺めながら、釣り糸を垂らしていた。彼は不思議な海から不思議な道具か何かが釣れることを期待していたのかもしれないが、釣れたものはどうやら普通の魚だった。妙にビクビクと活きがいいのが気になったが、新鮮で元気な魚が釣れた証拠だと思ったらしい。

 美味しそうな普通の魚は、その日の晩ごはんとなった。

 それに口をつけなかったのは、たまたま体調不良で寝込んでいた雅。そして赤ん坊の清一郎。

 それ以外の者たちは、バタバタと倒れ、ゾンビとなっていった。

「すごく怖かった。私もあんなふうになるのかなって。でも、ならなかった」

 雅は、囁くように語り続けた。

 この船は家族ぐるみで乗る者も多かった。雅の親、兄弟。そして仲の良かった幼馴染。みな話が通じなくなり、悪夢に浮かされたように唸りながら暴れた。彼らの体は腐り、死臭を放つようになる。

 雅は立った一人で赤ん坊の清一郎を守り、船内を逃げ惑い、ついに食糧庫に辿り着いて基地を作った。

 それからは地獄だった。
 いつまで怯えながら逃げ隠れする生活が続くのかわからなかった。
 船から逃げ出そうかとも思ったが、やり方がわからない。助けを求める方法もわからない。それに第一、ゾンビがいる外に出ることはとても怖い。少しでも安全な場所から離れたくない。

 そしてある日、唯一の救いだった赤子の清一郎が痩せ細り泣かなくなった。死にかけているのは雅の目にも明らかだった。どうか死なないでと願う。願うばかりで、清一郎はどんどん弱っていく。赤ん坊の育て方などわからない。第一何を食べさせればいいのかがわからない。

 そして。

 絶望しかけた時に、錆丸とお桐がやってきたのだ。

「絶望……ね」

 全てを聞き終えた後、お桐は、どこかしんみりしたようにそう呟いた。

「雅ちゃん。もしかすると、この船にも、まだ希望はあるかもよ?」

 涙に濡れた黒い目が、ゆっくりとお桐を見上げる。お桐は、優しく微笑んだ。

「ここのゾンビは、どうやらまだ人の心を持っているようだったの。穏やかで、話もしっかり通じたわ。もしかすると、怖い見た目やみんなの混乱が、ゾンビを必要以上に恐れさせていただけなのかもしれないわね」
「話が、通じた……?」

 雅が息を呑む。
 お桐は、ゾンビと語り合った時のことを思い出しながら話をする。

「あー、もちろん向こう側は喋れなかったわ。でも、頷いたり首を振ったり、じぃーっと見つめてきたり。そういうことを繰り返して、雅ちゃんがいることを教えてくれた」
「え……私を?」
「ええ。とても心配そうだった」

 雅は困惑したように、不安げな顔をしていた。
 お桐の袖をギュッと握り、その心を落ち着かせようとしている。
 そして、しばらく時間が経ってから。ついに雅が口を開いた時、彼女の口からこぼれ落ちたのは、こんな言葉だった。

「それって、だれだったんだろう……」

 それを言った本人が、一番驚いているようだった。
 ほんの短期間のうちに、雅はもう、ただゾンビを怖がっているだけの少女ではなくなっていたのだ。
 頃合いを見計らい、お桐はそっと、雅に問いかけた。

「そのゾンビと、話してみたい?」
「え、でも、おしゃべりはできないって……」
「それが本当かどうか、会えばわかるわ」
「あ……」

 おいおい、と錆丸は何度か口を挟みたい衝動に駆られていた。このような極限状況に置かれていた少女に対して言うことが、そのような乱暴な提案でいいのかと。もっと休ませることを優先するべきではないのかと。そもそもの話をすれば、お桐がどうして少女の力になろうとしているのかもわからない。呪いを封じ込めるため、この船は乗っている人間諸共燃やす予定であるのだ。もちろん雅という少女も例外ではなく、全員仲良くお陀仏だ。……と、そこまで考えて、錆丸は、はたと疑問に思った。

 ……呪いって、なんだ?
 封じ込めるべき呪いは、どこにある?

 愕然とした。

 錆丸はふいに気がついてしまったのだ。少女の言葉を信じるとするなら、呪いなどというものは元から存在しないということに。

 奇妙な魚を食べた者が、ゾンビになった。
 食べていない者は、ゾンビにならなかった。

 これだけ聞けば、牡蠣の食当たりやフグ毒の中毒と何ら変わりのない現象だ。

 少々もたらされる結果が派手なだけで、これは呪いでもなんでもないただの自然現象なのかもしれない。

 もしそうだとしたら? ……もしもそれが本当だったなら? そうなれば、今まで死んでいった調査員たちの、彼らの決死の行動はどうなる?

 無駄死。

 その言葉が、容赦なく脳裏に浮かび上がる。
 錆丸は手のひらに冷たい汗をかいていた。

 錆丸のそんな思いも知らずに、お桐は清一郎を片腕で抱き上げ、もう片方の手を雅の手と繋いで立ち上がっていた。
 彼女は、凛とした佇まいで錆丸を見上げる。

「さきほどのゾンビの部屋まで戻りましょう」
「あ、ああ」

 錆丸は頷き、行きとは逆に彼が燭台を持ち上げた。
 オレンジ色の灯火がゆらゆらと揺れながら、船内に影を投げかける。美しいが不気味でもある、影の舞いを錆丸はぼんやりと見つめていた。

 考えなければならないことが、山ほどあるような気がしていた。

 とうとう最初の部屋の真下まで辿り着く。
 ハシゴで上まで行けば、そこにゾンビが待っている。

 と、さすがにここで、雅の足が止まった。
 彼女もそこにいるゾンビのことが気になるのだろう。誰がそこにいて、どのように自分の心配をしていたのかを、知りたいとは願っているのだろう。しかし恐怖は隠しきれない。

 根が生えたように立ち尽くす雅。そんな彼女へ、お桐は唐突に、自分が抱いていた清一郎を渡した。

「ほら。赤ちゃんを抱っこしてみて」
「……う、うん」
「あったかいでしょう」
「うん、あったかい……」
「今の気分はどう?」
「えっと……」

 突然赤ん坊を手渡されて、慌ててそれを抱きしめる雅。彼女は最初こそ困惑していたが、次第に驚いたような、先ほどよりも落ち着いたような表情を見せた。

「なんか、大丈夫な気がしてきた……」
「良かった」

 お桐はニコリと微笑んだ。
 そして、お桐は次に錆丸の方を向き、「清一郎くんごと雅ちゃんを抱いてハシゴを上がっていただけますか?」と頼み込む。
 錆丸は頷いた。

「まあ、それぐらいなら……」
「では、そういうことで。……それでは雅ちゃん、錆丸さんを信じて、安心して後からついておいでね」

 言うが否や、お桐はスルスルとハシゴを上っていってしまった。しばらくして上から、「大丈夫ですよー、上がってくださいー」とお桐の声が降ってくる。
 錆丸と雅は、互いの顔を見合わせた。妙に気まずい沈黙があった。

「あー、じゃあ、行くか」

 錆丸の問いかけに、雅はこくりと頷いた。
 錆丸は、清一郎を抱いた雅をさっと抱えあげ、軽々とハシゴに足を乗せた。

 自分たちを抱えてなお猿のような身軽さを持つ彼に、雅が驚いたような表情を見せる。錆丸にとっては重いものを持って駆けたり登ったりすることは朝飯前であり、たいした労力には感じない。しかし、赤ん坊も子供も、どこかへぶつけたり落としたりしてはならない命である。手が滑らないか絶えず緊張しながら、彼は登りきった。

 上に到着する。
 子供たちを下ろすと、錆丸は、ふうっと息をついた。

 そこは例の小部屋だった。つい先刻見たばかりだというのに、すでに懐かしさすら感じる。

 腐臭。
 そしてその根源。ドロドロに溶けた皮膚を持つゾンビ。化け物にしか見えないそれが椅子に腰掛けていた。

 そのゾンビの斜め前に立っているもう一つの人影は、もちろんのこと、お桐だ。
 お桐は雅を無理にゾンビに近づけさせることなく、まずは自分から口火を切ることに決めたようだった。
 お桐は柔かな声で、雅を紹介する。

「雅ちゃんを連れてきましたよ。彼女のことがわかりますか?」

 ゾンビは、じっとこちらを見つめている。見つめて。見つめて。そして。

 “肯定“。

 雅の目が、いっぱいに見開かれた。
 ……頷いた。確かにゾンビが頷いた。雅のことがわかるかと問われ……そして、頷いた。
 雅は目に涙を浮かべる。雅の瞳には、夏の花が咲くような眩しく純真なキラキラがあった。周囲の大人二人も、これには涙を禁じ得なかった。

 それからの出来事は、まるで夢のようだった。
 声が出ないゾンビのために、お桐と錆丸は、いろは歌の表を床に描いた。ゾンビは元々、読み書きをろくにできない少年なのだった。しかし、ひらがなの順序を教えるいろは歌を歌うことはできた。だから、書かれた順番から文字の音を推測し、指差して、一つずつ言いたい言葉を伝えることができた。時間のかかる方法だ。しかし、有用だった。

『みやびちゃんに、わたしたいものがあった』
『かんざし』
『ぼくがつくった』
『つきとほしが、ほってある』
『あげる』

 雅の目から、またもボロボロと涙がこぼれおちた。
 ゾンビになる時、人は悪夢を見るらしい。だから唸りながら暴れるような真似をした。しかしその時期を過ぎると、穏やかな心が戻ってくる。そして変貌の時期に自分のとった行動を後悔する。

 ゾンビの少年は元々、雅と一番仲のいい幼馴染だった。
 雅を怖がらせたことを謝り、贈り物を届けに行きたかった。
 が、すでに体はゾンビで、声も出ない。近づくだけで雅は狂乱したように逃げていく。
 どうしたらいいかずっとわからなかった。
 しかも追い打ちをかけるようにして、ゾンビ化の代償が降りかかる。

『どんどん、ぼくはしんでいく』
『からだが、だめになっていく』
『みんなしんだ』
『ぼくがさいご』
『でも、ぼくも、もうすぐしぬとおもう』

 そう言って、ゾンビの少年の表情も泣き出しそうに歪んだ。
 ゾンビになれば体が溶ける。死への道を早回しで突き進んでいくようなものか。逆に、しばらくはこの状態で生きていられることの方が驚きだという考え方もできる。そしてその奇跡は、やはりと言うべきか、長続きするものではないのだ。

「……どうして、もっと早くかんざし渡してくれなかったの?」
『ごめん』
「声が出るうちに、言って欲しかったのに」
『ごめん』
「なんで死んじゃうなんて言うのよ!」
『ごめん』
「ばかっ!」

 涙声で、雅はゾンビの少年をののしった。
 その時だった。
 突然、ゾンビの少年が、床に描かれたいろは歌の表を六文字、指差したのは。雅の目も自然にその手の動きを追う。

『きみがだいすき』

 ひゅっと、雅の喉が鳴った。
 凍りついたように、彼女の目が床の文字を見つめる。

 ……どういう意味で言っているの?

 友達として。遊び仲間として。同じ船に乗る子供として。それとも。

「………」

 ゆっくりと顔を上げると、雅とゾンビの目があった。青鈍色に濁り切った瞳。本当に見えているのかも怪しく思えてくるその瞳が、じっと雅を見つめている。
 雅は、自分が何をしているのかも考えず、床のいろは文字を指差した。

『わたしも』





 さて。
 色々あって疲れているでしょうが、そろそろ帰りませんか。

 え? あ、うーん。確かに、生きて帰れるわけないかもしれませんね。どんなに口酸っぱくして、ゾンビは食べ物が原因ですなどと言っても、それでも船に乗ってた私たちがゾンビ化しない保証はないだとかなんとか言われて処刑されそうですしね。……では、そうなる前に逃げてしまいましょう。きっとそれが一番ですよ。

 で、どこに逃げるつもりなのかって?
 ……えー、コホン。
 では、みなさん。

 一つ提案なのですが……私の故郷に行きませんか?




 

 透き通るような陽射しの中、青々と茂る田んぼの稲が風にそよいでいる。
 手拭いを首に巻いた男が、紺の野良着を着てせっせと立ち働いていた。
 そこに声をかける女がいた。

「お疲れ様。梅干しおにぎり、いりますか?」
「ああ、頼む。そこ置いてってくれ」

 男に声をかけたのは、濃い紫の着物をまとった小柄な女だった。かっちりと結った髪や丁寧な化粧から、彼女の気質が察される。そしてそこに細い銀縁の眼鏡が加われば、彼女がどのような種類の職業についているのかも、なんとなくわかると言うものだった。

 汗みずくで働く旦那におにぎりを差し入れた彼女も、まったくもって暇ではなく、すぐに家へと戻らねばならない。
 彼女は医者であり、いつ何時患者が担ぎ込まれても対応できるように備えておかなければならないのだ。
 では、と言って戻ろうとする女を、男は呼び止めた。

「なあ、お桐。そういえば」
「はい?」
「雅と清一郎は、無事におやつの団子を作れたのか?」

 そう尋ねかけられて、お桐はおかしそうに笑った。錆丸も、なんだかんだで笑っている。

「あら。そんなことを気にしながら稲の世話をしていたんですか?」
「そうかもな」
「ふふ。彼らは確かにおいしいお団子を作りましたよ。きなこをかけて、あっという間に二人のお腹の中へ」
「俺の分は?」
「ありますよ。こっそりより分けて隠しておきました」
「なんだ、気が回るじゃねえか」

 平和に笑い合う。
 数年前、二人はとんでもなく奇妙な経緯で出会った。
 ゾンビが乗っている幽霊船の調査に赴き、そして生き残りの子供と共に脱出。証拠隠滅のために船はきっちり燃やして沈めたため、彼らが上の指示に逆らい、生きて逃げ出したことを知るものはいない。

 ゾンビについての情報は、細かく紙に記し、錆丸の手持ちにあった蝋塗りの防水紙で厳重に包んで岸へ打ち上げておいた。きっと上の立場の誰かが見つけて活かしてくれるだろう。

 ちなみに、あの夜拾った雅と清一郎は、二人の子供としてすくすく育っている。

 時が経つのは早いもので、すでに雅は花嫁修行を始めている。天真爛漫で玩具の扱いや子供の心を解する彼女は、近所の子供の遊び相手としても非常に人気者だ。いつも髪に刺しているかんざしについて尋ねられた時、彼女は少しだけ寂しそうな目をする。

 清一郎は食いしん坊で、そして頭がいい。食べれば食べるだけ頭の回転が早くなり、お桐の所有する書籍を食い入るように読んでいるところを発見されたこともあった。血のつながった親子でないのが信じられないくらいに、お桐に似ていると評判である。

 二人とも、お桐たちの自慢の子供たちだった。

「……本当に、時間が経つのは早いですね」
「ああ。早いな」
「覚えていますか? 私の最悪にわかりづらい口説き文句」
「ああ、ひどかったな。とても口説かれているとは思えなかった」
「ふふふ。それで乗ってきたあなたもあなたですよ」
「違いない」

 そう。夫婦になろうと誘ったのは、お桐の方だった。

 元々彼女は、故郷から出奔してきた過去を持つ。その理由は、地元ですべての縁談を断ったことだった。

 お桐が少女から娘となり、同じ子供として育った近所の少年が青年に成長し始める頃、親から婚姻を勧められた。しかしお桐は拒絶した。近所の家の子たちはいい人ばかりだったが、彼らはただの友人である。彼らのどこにも嫁になど行きたくないと、お桐はしつこく駄々をこね続けた。

 ではどうする。
 問われ、お桐は答えた。
 私はたった一人でいい。自力で働いて稼いで生きていく。

 頑固な娘に怒った親は、お桐を勘当した。親からすれば、ちょっと懲らしめてやれというだけの縁切りのつもりだったが、お桐は本気で出ていった。
 遥か遠くの町へと下り、そこで一心不乱に勉学に励み、医者としての人生を確立した。

 親からは度々、『婚姻を結ぶなら許してやるから戻って来い』と便りが届いた。しかしそのことごとくを、お桐は七輪の灰にした。
 お桐は二度と故郷には戻らないと決めていたのである。

 ……そして。このような話を、お桐は錆丸に、一から十まで打ち明けたのだ。

 こんな複雑な話を踏まえた後で、『私の故郷にみんなで逃げませんか?』などとあっさり提案されれば、困惑もするだろう。実際に錆丸は困惑した。そして疑問を素直に口へ出した。

『いや、勘当されているなら、戻っても弾き出されるだけじゃねえのか?』
『今なら大丈夫ですよ』
『え』
『子供まで出来ちゃったんじゃ、いくらなんでも無碍には出来ませんよ。ねえ、錆丸さんもそう思いませんか?』
 にこり、と清々しい笑みを浮かべるお桐。
『は……?』
 と、言いかけて。錆丸はようやくお桐の真意を悟った。

 私たちが結婚して、あの子たちを養子にしましょう。そうすれば全部解決ですよと、彼女は言ったのだ。
 それからいくらかの悶着はあったが、結局は彼女が提案した通りになった。

 それゆえに、今、彼らはここにいる。

 青い稲畑の真ん中で、錆丸が呆れたようにため息をつく。

「あの時のお前の言葉選び、回りくどいにも程があっただろ……」
「そうだったかもしれませんね」

 くすくす笑いながら、お桐は言った。

「でも、そういうの全部ひっくるめて、会話の面白さじゃないですか?」

 いたずらっぽく、しかし見事にお桐に切り返されて、錆丸はうっと言葉に詰まった。
 そんな錆丸を見ながら、お桐はゆっくりと、稲畑の青い地平へと目を移した。

 水が流れる。虫が泳ぐ。鳥が飛ぶ。ざわざわと騒いだかと思えば、しいんと静かな波紋が美しく生まれている。こうして続く素朴な田んぼのずっとずっと向こうへ、ただひたすらに歩いていけば。そうすれば、あの時二人が出会った日の海まで辿り着く。
 そんな気がしてならなかった。

「……あの時。私はゾンビに出会って、考えたことがあるんです」

 ふっと、お桐は呟いた。
 そして彼女は少し寂しそうな笑みを浮かべた。

「心の中にあることは、きちんと言わなければ相手に伝わらない。言わなきゃわからないし、言えるうちに言わなきゃ行けない。そういうものだから、喉が腐って喋れなくなってから、ああ声の出るうちに言っておけばよかったって後悔する。後悔するけれど、そうなってからどんなに後悔しても、もう遅い」

 でも、と、お桐は囁くように言う。

「声を失っても……人は通じ合える」

 そうは思いませんか? と。お桐は、錆丸に問いかける。
 今、彼女が思い出しているのが、ゾンビの少年と雅の対話であることは明らかだった。

「ああ。そうかもな」

 錆丸は、頷いた。

「人ってのは、心を伝えるのがどこまでも上手な生き物だ。……まあ、たまに、ものすごく下手くそになることもあるがな」
「ええ。……むしろ、そっちの方がいいですよ。満月のように欠けたところのないものなんて、つまらないです。たまに下手っぴになるくらいで、ちょうどいい」
「うまいこと言うじゃねえか」
「ありがとうございます」

 しかしの沈黙。
 ふいに、「あ、そこに」とお桐が錆丸の顔を指さして言う。
 ん? と錆丸が首を傾げて、指されたところを探る。するとそこには、草の破片がくっついていた。田んぼでの作業中に、いつの間にかついていたらしい。

 取れた草を、錆丸が、ぶらんと宙にぶら下げる。
 今度は、お桐が首を傾げる番だった。

「……何のつもりです?」
「わからねえか?」
「えっと……」

 首を捻って考える。そして賢いお桐は、すぐに答えにたどり着いた。

「……相合傘のつもりですか」

 心底呆れたような声だった。全くもう、恋人じゃないんですから、とぼやく声はしかし、まんざらでもなさそうである。

「な、口に出さずとも伝わるんだ。本当、人間って、すげえよな」

 そう錆丸が言う。
 くしゃりとお桐は顔を歪め、泣き出しそうな笑い顔を浮かべた。

「本当に、人間は、すごいですとも……」

 これからの自分たちの人生がどう転げていくのか、お桐たちにはまだわからない。しかし結局、なんとかなっていくのだろう。危機や逆境にぶつかるたびに、そこを乗り越えていくのだろう。


 ふいに、どこか遠くから、「おっかさーん」とお桐を呼ぶ声が聞こえてきた。お桐はその時になってようやく、ずいぶん長く診療所をほったらかしにして話こんでいたことに気付いた。ハッとして後ろを振り返ると、黄の花模様の衣で着飾った雅が、大きく手を振っていた。

「はーい、今いきますー」

 慌ててお桐はばたばたと駆け出す。

 そして。
 そんなお桐の後ろ姿を、今は彼女の旦那が優しく目を細めて見守っているのだった。

 田んぼの稲が一本、ふわふわと揺らいで彼に寄り添う。
 彼はそっと手を伸ばして、その稲を撫でる。

 とても麗らかな初夏の季節だった。

(完)