その日は快晴だった。

 雲の量が1割以下の日、快晴。

 頭のどこからその知識が引っ張り出されているかも明瞭なほど、すっきりとした頭で私は電車に乗っていた。

「そういえばさ、『ヒメミロゴス』ってあるじゃん?」

 目的の駅に着く少し前、ユウカは私にそう問いかけた。

「知らない。何それ」

 私がそう答えると、ユウカは「なんか……」と話始めようとして、しかし電車は駅に到着してしまう。

 雑踏のざわめきと発車メロディがうるさくて、私たちは一度会話を中断して降車した。ホームの階段を降りた辺りでもう一度会話を再開する。

「ええと、何だっけ」

「ヒメミ……何?」

「あぁ、『ヒメミロゴス』!知らない?最近流行ってるブランドの……ほら、『フェルモナール』のチェンウィンとかが着てたじゃん。黒いワンピースで、この辺にフリルとか付いてて、でっかいリボンがここにある……」

 ユウカは太ももの辺りを指さしたり、胸の辺りに指で丸を作ったりして、細やかに説明してくれるが、全く分からない。

「フェル……何?最近のアイドル?そんなグループあったっけ?」

「え⁉︎フェルモナール知らない⁉︎マジ⁉︎『メルトニングファイブ』が『トップリ』でめちゃくちゃ流れてくるじゃん!」

「え、え、待って?メルト何とかも、トップ何とかも、私聞いたことないんだけど?ずっと何の話してるの?」

「嘘でしょ⁉︎トップリ知らないの⁉︎『トップアップリールズ』じゃん!短い動画がいっぱい流れてきて、ショッピングとか、チャットとかできるアプリの……」

「いやいや、Tiktokとかインスタなら分かるけど、そのトップ……何とかって何?え、私だけ違う世界生きてる?」

「マジでそうとしか思えない。TikTokもインスタもやってて、トップリ聞いたことないとか無理あるよ」

 私は「えぇ……?」と首を傾げながら、カバンの中に手を突っ込んで定期入れを探す。

 その間にもユウカはよくわからない話をしていた。

「トップリやってないとかなら分かるけど、聞いたことないはありえない。パラレルワールドから来たわけ?たまにYouTubeの広告とかで出てくるじゃん」

「出てこないよ。インスタとかはよく見るけど……」

 ポシェットの奥まったところに定期入れの感触を見つけて、私は引っ張り出す。

 改札はすぐそこだ。

 私はまるで最初から定期入れを持っていたように澄ました顔で、改札にカードをかざす。

 同じようにユウカも隣の改札を通って、私たちは改札の外で再び合流して、駅の外に出る。

 外は相変わらず人で溢れていて、忙しなく人が行ったり来たりしていた。

 次々と人が流れていく歩道の様子に圧倒されていると、制服を着た女子高生2人が大声で何かを話しながら私の隣を足早に通過した。

「ちょ、急ご。『ヒメミロゴス』売り切れるっ」

「ここまで来たのに食べれんとか無理!」

 食べる?

 私は「今の聞いてた?」と言わんばかりに、ユウカの方を見る。

 ユウカは聞いていなかったようで、なおもトップ……何だっけ、について話し続けていた。

「で、『ヒメミロゴス』っていうワンピがあるわけ。そんで、この前『ヒメミロゴス』の展示会に行った時に……」

 私はヒメミ……何とかを連呼されて、訳がわからなくなって、もう相槌だけ打っていることにした。そうなんだ、へぇ、それでそれで?

 私たちの丁度後ろを歩いているカップルが、また大声で何か話している。

「ってかこの話したっけ?『ヒメミロゴス』の友達がさぁ……」

「え、『ヒメミロゴス』って何?」

「前も言ったじゃん、@¥,&3:(!-">」

「ああ、友達のね、理解理解」

 友達?

 というか、さっきから全員ヒメミロ……何とかの話ばっかりしてるけど、そんな流行ってるの?

 よくよく耳をすませば、周りの人たちがみんなその話をしている気がした。

「ヒメミロゴスのライブで〜」

「ありえんほどヒメミロゴスの広がった……」

「そしたら後ろにヒメミロゴスみたいな、いや、嘘じゃない、マジ!」

 何の話?何それ。聞いたこともない単語が当たり前のように街中を飛び交っている。

 私は急に怖くなって、ユウカに「あの、ごめん」と声をかけた。

 ユウカは「急に何?」と怪訝そうな顔をする。

「さっきからさ、周りの人がみんな同じ話をしてる気がするんだけど……」

「え、そんなに周りの人の話聞こえてくる?……さては、私の話聞いてなかったな?」

「うん、それは本当にごめん」

「まあいいけど。え、どっから聞いてなかった?」

「どっからって言うか……あの、この話もう怖いからやめない?」

「怖い?何が?」

 何が、と聞かれれば何とは答えられない。

「その、周りの人が同じ話をしてるみたいなのが怖いの?」

「違う、そうじゃなくて」

「えー、何?」

 私は言葉に詰まる。

 私だけ違う世界から来てしまったんじゃないか。そんなわけがないと思うけど。

 何も説明できず私は「うーん、何か、何というか」と繰り返す。

「いやまあ、むずかったらいいけど」

 ユウカの一言に混じって、その他大勢のうわ言が聞こえてくる。

「フェルモナールにいた、トップリのメルトニングファイブと……」

「いやそれ、ヒメミロゴスのフェルモナールかよ!」

 何か、聞いてはいけない言葉な気がしている、全て。

 ヒメミ何とか、トップ何とか、メルトニング……あぁ、ここから先は思い出してはダメだ。

 私があまりにも俯いているので、ユウカは心配そうに私を覗き込む。

「大丈夫?どっか悪いの?」

「ごめん……ちょっと……」

「フェル¥$%*+買ってこようか?」

 ダメだ。聞いてはいけない。覚えてはいけない。聞くな。何も聞くな。

「ごめん、本当にごめん」

「ヒメ£]+#=$の?"-;)//が>#!?'&¥で→¥=°なの?」

 離れないと。一刻も早く、ここを離れろ!

「ごめん!もう帰る!」

「ちょっ、€<^€!,⁉︎」

 私は走り出した。すれ違う人の口元は絶対に見ないように。何も聞かないように。情報を何一つ頭に入れてはいけない。

 すると、すぐ後ろから何か大きなものがぶつかる音と、金属音、悲鳴が聞こえた。

「$*%,^+£!やばい!」

「何⁉︎>**||<=+」

 聞いてはダメな言葉を話している人が何か叫んでいる。大勢が何か叫んでいる。

 振り返ってはいけない。

 私は息を切らせながら走り続けた。

 その何かは、私が少しでも耳を傾けると完全に理解できてしまう気がした。しかし理解してはいけない。

 眩しい太陽の下、私は野次馬をかき分けて走った。

 もう訳もわからず走った。

 いいや、全てわかっていた。私の恐怖の正体も。

 私が怖いと思っていたもの、それは「死ぬ前の言葉」だった。

 もし人類が皆、死ぬ前に話す言葉が同じだったらどうしよう。

 特定のコマンドを入力したら電源が切れるみたいに、ある特定の言葉を言うと死んでしまったらどうしよう。

 そして、彼ら彼女らが話していたその単語が『それ』だったらどうしよう。

 これはあくまで私の妄想の話。

 でも、その日、私たちが歩いていた、あの駅前の歩道で事故があったのは事実だし、ユウカももういない。多くの人がいなくなった。

 私はもう、その言葉を思い出そうとするだけで、いつでも電源をオフにできる。頭のそこにあるのは分かっている。

 だって、その日はスッキリ頭の働く、快晴だったから。理解できないはずもなかったのだ。