「嘘つき……一生俺からは逃げられないと言ったくせに……」
雪がちらちらと舞い落ちるなか呟いた言葉は誰の耳にも届かない。冷たい風が漆黒の長い髪を揺らす。真っ白で艶やかな肌は、しかし寒さに凍えるでもなく雪景色に溶け込むかのようだった。真紅の瞳と漆黒の髪、そして黒い着物の袖だけが揺れる音のない夜。下弦の月の輝きだけがひとりぽつんと佇む影を落としていた――――
*
阿久里と男が出逢ったのは今から数十年も昔のことだった。山奥へと逃げ帰った阿久里の後を追ってあの男はやって来た。
阿久里を封じるために。――――阿久里は人間と鬼の血を引く者だったから。
「お前はなぜ人間を襲う?」
阿久里を追って来た男と対峙したときに問われた台詞。男は九条灯更と名乗った。狩衣袴姿に烏帽子を身に付けた年若い男。鼻筋が通り、切れ長の意思の強そうな瞳。薄い唇から紡がれた言葉は落ち着いた声音。低音でありながらもよく通り耳に心地好い響きだった。
たったひとりでやって来た灯更と名乗ったその男は落ち着いた様子。涼しい顔のまま、しかし阿久里の一挙手一投足を見逃すまいと真っ直ぐに視線を向けた。
灯更が問うた言葉に阿久里は視線を逸らす。漆黒の長い髪が風に煽られ揺れた――――
都では近頃夜な夜な人食い鬼が現れる。それがまことしやかに囁かれ、日が沈んだ頃に出歩くと度々人が襲われた。朝日が昇り、街道には襲われた死体が転がり、その死体には到底人間に襲われたのではないであろうという傷が残されていた。
人々は恐れ、夜に出歩く者は減っていった。しかし、それでも人は襲われる。そして、その襲われるのは大抵刀を携えた武家の者だった。帝はその不審死を調査するべく灯更を派遣した。
灯更は代々続く陰陽師の家系だった。そのなかでも特に優れた能力を持つ灯更は一族のなかでも一目置かれた存在だった。帝から今回の事件調査を命じられた家門一同は灯更を差し出したのだ。
灯更は自身の高い能力のせいなのか、自信から来るものなのか、年相応とは言い難い貫禄があった。年の頃は二十を過ぎたくらいであったが、身体から溢れ出る強い『気』と共に無表情で冷たい目が周りの人間たちを威圧していた。
灯更自身は今回の調査依頼に乗り気ではなかったが、襲われる対象に興味を持った。なぜ襲われるのは武家の人間ばかりなのか。夜に警備のために武士が出歩いていることもある。しかし、町人が全く出歩かない訳ではない。それなのに襲われるのは武家の人間ばかりだった。
襲われた死体の傷からすると『あやかし』に襲われたのではないか、というのが帝の判断だった。だからこそ陰陽師の家門から灯更が選ばれたのだが、しかし、あやかしは人間を区別したりなどはしない。人を襲うとき『等しく襲う』のだ。武家の人間だけを襲うことなどありえない。だからこそ灯更はそのことに興味を持った。
灯更は何日か夜中に街道を注視しながら歩いた。そしてある日悲鳴のする方へと急ぎ向かうと、人間を襲う阿久里と対峙したのだった。黒く長い髪を振り乱しながら、怒りの籠る瞳で逃げ惑う人間を襲う阿久里。襲われていた男は灯更の姿を見付けると、慌ててそちらへと駆け寄った。憎しみなのか怒りなのか、そんな強い瞳を向けた阿久里の視線は灯更の視線と絡み合い、そして灯更が九字を切ろうとしたと同時に、阿久里は逃げ出した。
阿久里は今まで人に姿を晒したことはなかった。姿を見た人間は全て屠って来たからだ。だからこそ今まで人間が襲われるこの事件は奇怪だと思われていた。
阿久里はまさか自分を止めることの出来る人間が現れるとは思っていなかった。しかし、灯更が九字を切ろうとしたことで相手が陰陽師であることに気付き、咄嗟に身を翻し逃げ出した。阿久里は陰陽師を倒せるほどの力は持ち合わせていないからだ。純粋な『鬼』ならば、おそらく陰陽師であろうとそう容易く倒せるものでもない。しかし、阿久里は『半妖』だから。
力ない陰陽師ならば阿久里でも勝つことは出来る。しかし、灯更の力を肌で感じた阿久里は半妖である自分では到底敵うはずがないことを瞬時に理解した。だから逃げ出したのだ。半妖と言えど人間よりは圧倒的に強靭な体躯。闇夜を駆け抜け、大きく跳躍し屋根を越えて行く。人間が追い付けるはずもなかった。それなのに灯更は阿久里の目の前に再び現れた。
山奥へと逃げ帰り、木々をすり抜け自身の妖力で創り上げた結界を抜け、たどり着いた先には古惚けた屋敷。こんな山奥には似つかわしくない寝殿造りの屋敷。しかし、それは今にも崩れ落ちそうなほど。阿久里はその屋敷の前で歩みを止めると振り向いた。
結界をすり抜けられたことで灯更が付いて来ていることには気付いていた。到底人間では追い付くことなど出来る訳がないことは阿久里自身が知っている。それなのに目の前に立つ灯更は息を切らすことなく涼しい顔で歩み寄る。阿久里は覚悟を決めた。ただじっと立ち尽くし、歩み寄って来る灯更を真っ直ぐに見据える。狩衣袴姿に烏帽子を身に付けた年若い男。鼻筋が通り、切れ長の意思の強そうな瞳。その瞳は阿久里を捕えたまま離さない。
「私の名は九条灯更。帝からの命で毎夜人が襲われる事件を追っている。その現場でお前と出逢ったという訳だが……お前は人間ではないな?」
人間ではない。それは灯更が能力高い陰陽師だから気付いた、という訳ではない。阿久里の見た目は人間と左程変わらない。しかし明らかに違うところがある。それは漆黒の髪の合間から覗く、鋭く尖った頭部の左側にだけ生える角――――
阿久里は人間と鬼の半妖。鬼ほどの強大な妖力もなく、人間ほどのか弱さもない。見た目は人間と左程変わらずとも、人間とは明らかに違う真紅の瞳と片角。どちらにもなれない半端者。阿久里は鬼からも人間からも半端者として疎まれる存在だった。
「お前、名は?」
灯更の薄い唇から紡がれた言葉は落ち着いた声音。低音でありながらもよく通り耳に心地よい響き。よもや名を聞かれるなど思っていなかった阿久里は驚き一瞬目を見開いた。しかし、そんな感情を悟られないよう、表情はすぐさま元へと戻る。そのことに灯更は目を細め口角が上がる。
「阿久里……」
小さな声で名乗った阿久里に、灯更はフッと笑った。しかし、灯更も己の感情を読み取らせまいとするように、すぐさま冷静な顔となった。
「では、阿久里……お前はなぜ人間を襲う?」
再び落ち着いた声で問い掛ける灯更は涼しい顔のまま、しかし阿久里の一挙手一投足を見逃すまいと真っ直ぐに視線を向けた。
灯更が問うた言葉に阿久里は視線を逸らす。はらりと長い黒髪が肩から滑り落ちた。阿久里はそのまま背後に振り向き、灯更に背を向けた。それは警戒しているのかしていないのか。背を見せる阿久里の無防備な姿に灯更は怪訝な顔をした。
じゃりっと土を踏み締める音だけが響き、阿久里は朽ち果てた屋敷へとゆっくりと歩を進めた。灯更は警戒しつつ、その後ろ姿を見詰める。長い黒髪は結われている訳でもなく、腰の辺りまで伸び、綺麗に切り揃えられ艶やかだ。歩くたびに揺れる黒髪は月明りが反射し美しく煌めいているようにも見える。
阿久里は屋敷を見上げながら呟いた。
「ここには私の家族がいた」
朽ちた柱は今にも崩れ落ちそうになっている。柱に触れそっと撫でながら、朽ちる前の姿を思い出すかのように阿久里は懐かしむ。しかし、そんな懐かしい感情はすぐさま消え去り、柱を撫でていた手はがりっと爪を喰い込ませるほどに突き立てる。
「お前たちが奪ったのだ」
憎しみが籠るような低く冷たい声音。阿久里からは怒りの気配が漂い出す。身体からは妖力が染み出るかのように揺らめき、灯更は警戒し手に力を籠める。しかし、阿久里が怒りのままに暴れ出すような素振りはない。灯更は警戒しながらもじっと阿久里の背を見詰める。
「奪ったというのはどういうことだ?」
灯更は落ち着いた声で問い掛けた。『奪った』という言葉を理解出来ない訳ではない。だがしかし、灯更は阿久里の存在を知らなかった。今現在いるこの場所にも来たことはない。だから言葉の意味を理解出来たからといって、その内容を理解出来るはずもなかった。
阿久里は灯更に振り向き、侮蔑を籠めたような瞳を向け笑った。
「私たち家族はこの場所で静かに暮らしていただけなのに、お前たちは人間と鬼が共に暮らしているからという理由だけで、問答無用に殺した。母は鬼ではあったが人間を襲ったことなどなかった。人間である父と出逢い恋をしただけだ。それなのに……お前たちは母だけでなく人間である父までも殺した‼」
ぎりっと歯を食いしばり怒りに耐えようとするが、それでも悔しさからか眉間に皺を寄せ、食いしばる口からは鬼のものよりは遥かに小さい牙がちらりと覗き見える。
阿久里の両親、母親は純粋なる鬼の一族だった。あやかしのなかでもかなりの力を持つ鬼の一族。そのなかでも母親はかなりの妖力を持っていたが変わり者でもあった。他のあやかしたちと比べ人間に興味がなく、襲うこともなかった。ひとり屋敷を構え暮らしていた。そんなある日、母親の結界に迷い込んで来たのが阿久里の父親だった。山に迷い怪我をし、彷徨っていた父親はたまたま鬼である母親の屋敷の元へと迷い込んでしまったのだ。
最初こそ警戒し、喰われるのではないかと、なんとか逃げようとしていたが、母親は人間である父親には見向きもしなかった。怪我をしていた父親は警戒しながらもその屋敷にひっそりと隠れ住んだ。母親はそのことに気付いていたが、気にも留めない。それどころか次第に父親に興味を持ち始め世話をするようになっていった。
そうしていつしかふたりは共に暮らし始め、いつの間にやら夫婦となったのだ。そして阿久里が生まれた――――
穏やかな暮らしだった。鬼と人間。しかし、父親も母親も穏やかな性格で、争うことなどなかった。母親が人間を襲うことも一度もなかった。しかし、そんな暮らしは長くは続かなかった。
いつの頃からか『鬼が隠れ住んでいる』と人間たちの間で噂となり、そして、討伐のために武士が派遣されて来た。父親は人間たちに訴えた。『彼女は人間を襲ったことなどない』、『鬼だからと全てが悪な訳ではない』、と。
しかし、人間たちは聞く耳を持たなかった。庇う父親にも罪がある、と斬り捨てた。それを見た母親は怒り狂い、初めて人間を襲った。一度人間の血を浴びた母親は我を忘れ、人間たちを屠っていった。しかし、多勢に無勢。阿久里を庇いながら戦った母親は何十といる相手に自身の身が持たないことを悟り、阿久里を必死に逃がした。その一瞬の気の緩み。母親は殺された――――
阿久里はまだ幼く鬼としての妖力もほとんどなかった。角もなく、牙もない。鬼の血を引く証は唯一、真紅の瞳だけだった。人間の子とほとんど見分けが付かないほどの子供。森のなかにひっそりと息を潜め隠れてしまえば見付かることはなかった。そうして、阿久里はひとり残され生き残ったのだ。
「だから武家の者たちだけを狙って殺したのか?」
夜な夜な襲われるのは武家の人間たちばかり。それは阿久里の両親が武士たちに襲われたから。灯更を睨むその真紅の瞳がなによりも物語っていたが、阿久里はゆっくりと口を開いた。
「奪われたから奪ったのだ。お前たちと同じことをしているだけだ」
真っ直ぐ睨み付けたまま、なにが悪い、と冷たく言い放つ。
「なるほど」
灯更は阿久里を見据えていた瞳を閉じ、ハァァと深い溜め息を吐いた。そのことに阿久里は怪訝な顔となり灯更を見詰める。
灯更との力の差は歴然。阿久里は灯更に追い付かれた時点で、すでにもう生きることを諦めていた。今まで復讐の想いで人間たちを殺して来た。しかし、いくら人間を殺し続けようとも自身の心が癒える訳ではない。心が晴れる訳ではない。そんないつまでも終わりのない憎しみの心に、阿久里自身が疲弊していた。だからこそ、こうして自身の力が敵わないだろう相手が現れたことに、心の底では喜んでいたのかもしれない。
すぐさま殺されるかと思っていた阿久里は、行動を起こそうとしない灯更に戸惑いたじろぐ。灯更は烏帽子の留め紐の結び目を解すと、頭にあった烏帽子を脱いだ。そしてガシガシと髪を掻き乱し、乱雑になった前髪がはらりと顔に垂れる。この時代には滅多に見ることのない短く切り揃えられた髪。艶やかな黒髪は綺麗に整えられていたが、掻き乱れ落ちた前髪のせいで、なにやら幼い雰囲気となる。先程までの冷静沈着そうな雰囲気とは打って変わり、年相応の若者となった灯更は無造作に垂れた前髪の合間から瞳を覗かせた。その瞳は先程までの冷たい視線ではなく、人間味を帯びた温かい瞳。そのことに気付いた阿久里はさらに一層怪訝な目を向ける。
「なんだその目は⁉ 私に同情でもしているのか⁉ それならば余計なお世話だ‼ そんなものはいらない‼ 殺せば良い‼」
阿久里は後退り叫ぶ。同情などされたくはない。今まで人間たちを殺して来たことに後悔はない。だから殺せ、と、そう叫ぶ。
「うーん。まあお前を殺すことなど簡単だ。お前は俺には敵わない。それはお前自身が分かっているのだろう? だからこうして「殺せ」と言う。そのような相手をただ殺すのはつまらん」
顎に手をやり考え込んだ仕草をした灯更はニヤリと笑った。月明りに照らされたその姿はまるで灯更のほうがあやかしのよう。強力な力を身体に纏い、端正な顔で妖艶に微笑む灯更に、阿久里は息を飲み身動きひとつ出来なくなった――――
鳥のさえずりと共に、眩い太陽の光が差し込む部屋。重い瞼をゆっくりと開けようとするが、どうにも布団の心地好さから逃れられない。まどろみながら陽射しを遮るように寝返りを打つ。
「起きたか?」
耳元に響く、聞き覚えのある低音の落ち着いた声にビクリと身体が強張り、阿久里はガバッと飛び起きた。温かく心地好かった布団は阿久里の身体から滑り落ち、起こした身体のすぐ横にいたのは同じ布団のなかで横たわる灯更だった。灯更も身体を起こし大きく伸びをすると、固まっている阿久里の横に胡坐をかいた。その姿は昨夜見た狩衣姿ではなく、白い小袖姿。寝崩れたためか少し乱れた小袖姿にドキリとし、そして自身の姿もいつの間にやら小袖姿となっていることに気付いた阿久里は、慌てて布団から飛び出す。
「な、な、なぜお前が‼ この格好は⁉ い、いや、それよりもここはどこだ⁉」
混乱した阿久里は訳が分からず叫んだ。昨夜、この目の前にいる男、灯更と対峙した。殺される覚悟をしたはず。それなのに今こうして殺されずにいた上に、なぜか灯更と同じ布団のなかにいたという事実。
あまりの混乱具合の阿久里に、灯更はブッと噴き出した。
「ブフッ、ククッ……人から恐れられて来たあやかしでもそのような顔をするのだな」
口に手を当て、笑いを堪えようとしているが、それでも堪え切れない灯更は俯き肩を揺らした。阿久里は笑われたことにカァッと顔が熱くなり、眉間に皺を寄せる。今まで誰かとこのような会話をしたことがない阿久里にはどんな反応をするのが正解かが分からない。今まで阿久里は人からもあやかしからも疎まれて来た存在だから。たったひとりで生きてきたから。
「う、うるさい‼ お前はなんなのだ⁉ 私をどうするつもりだ⁉ なぜ殺さない⁉」
ひとしきり笑った灯更は顔を上げ、改めて阿久里を真っ直ぐに見詰める。そしてフッと笑った。
「だから今すぐ殺すつもりはないと言っただろう。お前はしばらく俺の傍にいると良い」
「⁉」
灯更の言葉の真意が分からず、ぞわりと背中に悪寒の走った阿久里は勢い良く立ち上がり、部屋から飛び出そうとする。しかし、それは叶わなかった。一歩足を踏み出したと思った瞬間、身体が強張り動けなくなる。
「な、なんだ⁉」
「あー、逃げようとしても無駄だぞ? この屋敷には様々な結界が張ってある。それに……お前は今、人間と同じだ」
「人間と同じ……?」
動かない身体のまま立ち尽くし、己の手のひらを見詰める。妖力を籠めようとも一切力を感じない。
呆然と立ち尽くす阿久里の背後に灯更が近寄る。阿久里はその気配にビクリと身体を強張らせ振り向くと、触れるか触れないかの距離に灯更が立ち、阿久里よりも頭ひとつ分ほど背の高い灯更は阿久里を見下ろした。
腰に手を回した灯更は阿久里を引き寄せ、胸元に人差し指をトンッと突き立てた。少し乱れた胸元の合わせから直接肌に触れられ、阿久里の心臓が大きく跳ねる。
「な、なにをする‼」
慌てて逃れようとするが、灯更の腕にがっしりと抱き止められているため逃れられない。
「ここ」
「な、なんだ⁉」
指を突き立てられたままそう言われ、灯更の指の先を見る。そこには朱色の印があった。阿久里は自身の胸にあるその印に驚き、逃れようと暴れていた動きが止まる。まじまじとそれを見詰め固まってしまった。
「これはお前の力を封じる印だ。この印が失われない限り、お前は今後妖力を使うことは叶わない。お前の角と真紅の瞳も呪いを掛けてある。だから俺以外の人間には本来の姿も見ることは出来ない。今、お前はただの人間だ」
「人間……」
『人間』にも『あやかし』にもなり切れなかった阿久里。どちらからも疎まれ、だからこそたったひとりで生きてきた。それが今は人間? 阿久里はそれを喜んで良いのか怒れば良いのかが分からなかった。ただただ呆然とした。自分は一体何者なのか。それすら分からなくなってしまった。
呆然とした阿久里の顎を掴み、くいっと顔を上げさせる。灯更の意思の強そうな綺麗な黒い瞳が真っ直ぐに阿久里を見詰める。阿久里は目が泳いだ。灯更の端正な顔に緊張し、告げられた言葉に戸惑い、灯更の真意が分からず、どうしても灯更の視線から逃げ惑う。
「阿久里」
名を呼ばれビクリと身体が震える。恐る恐る視線を向けると、そこにあるのは優し気な目を向ける灯更。半妖だと蔑む訳でもない。なぜそんな目を向けるのか理解出来ない阿久里だが、しかし、その真っ直ぐに自分を見詰める視線から目を逸らすことが出来なかった。
フッと笑った灯更は頬が触れそうなほど顔を近付け、そして耳元で囁く。
「お前は俺の傍にいろ」
ぞわりと肌が泡立つ。耳元に吐息のかかる距離で囁かれ、阿久里は頭が真っ白となった。もうなにも考えられない。身体からは力が抜け崩れ落ちそうになる。まるでその言葉自体が『呪い』のようだ。灯更のその言葉は阿久里のなかに抜けない棘のように深く突き刺さった。
灯更の真意が分からないまま、阿久里は灯更の屋敷で共に過ごすようになった。屋敷にいる人間たちは阿久里のことを丁重に扱った。阿久里が半妖であることに気付く者はいない。それだけ灯更の呪いが強いということなのか。阿久里は人間たちに囲まれる暮らしに戸惑った。
灯更は毎夜阿久里と共に寝るようになった。なぜ共に寝るのだ、と拒絶しようとも、灯更は笑いながら平然と阿久里の布団へと潜り込む。しかし、だからといって阿久里に手を出す素振りは見せない。ただ、共に寝るだけなのだ。それが阿久里には意味が分からず、ただひたすら困惑した。しかし、次第に絆されていく自分にも気付いていた。灯更と過ごす時間が心地好く感じる自分に気付いていた。
灯更が屋敷にいる間は常に傍にいた。他愛もない話をしてくる灯更に最初は戸惑いもしたが、次第に少しずつ己の話をするようにもなって来た。そんな穏やかな時間を過ごすことに阿久里自身も心地好さを感じるようになっていたのだ。
しかし、ある日そんな穏やかな毎日に変化が訪れた。灯更が帝から呼び出されたのだ。夜な夜な奇怪な殺人が起こる事件の報告へ来るように、と。阿久里は灯更の身を案じた。事件の犯人は阿久里なのだ。それを匿う灯更には罰が与えられるのではないかと不安になった。
「灯更……私を殺して帝へと報告すると良い」
帝に謁見するための準備を行っていた灯更の背後から阿久里は呟いた。阿久里にとってここで過ごした日々は大切なものへとなっていた。それは灯更のおかげであることは十二分に理解していた。今までたったひとりで生きて来た阿久里にとってここ数ヶ月の生活こそ夢であって、現実ではない。幻と同様だ。だから未練はない。そう思おうとした。
灯更はその言葉を聞いた瞬間、ガバッと振り返り、足音を立てながら阿久里の目の前まで近付いた。ビクリと身体を震わせ見上げた阿久里の手首を掴み、力の限り握り締める。ズキリと痛みの走る手首に阿久里は眉間に皺を寄せた。
「阿久里、お前は俺の傍にいろ、と言った。お前はもう二度と……一生俺からは逃げられない……逃げることは許さない」
ギリッと手首を握り締め引き寄せた灯更は、もう片方の手で阿久里の顎を掴み引き寄せた。そして強引に唇を合わせる。
「⁉」
阿久里は驚き目を見開く。間近に見える灯更の黒い瞳。その視線は怒りを感じる鋭い視線。なにがなんだか分からなくなった阿久里は自由に動く右手で灯更の胸をドンッと叩いた。
「んん‼」
ドンドンと何度も繰り返し叩き、灯更は唇を離した。見下ろす瞳は今まで見たことがないような、射るような瞳。阿久里は初めて灯更に恐怖を感じる。
「ひ、灯更……」
「お前はここから出ることは許さない。俺が戻るまで部屋から出るな」
冷たい目で見下ろす灯更はフイッと顔を逸らすと、掴んでいた手を離し部屋から出て行った。
阿久里は一気に身体の力が抜け、その場にへたり込む。先程の灯更は一体どうしたのだ。なぜあんなに怒っていたのか。阿久里には灯更の気持ちが分からなかった。
部屋には結界が張られ、外に出ることは出来なくなっていた。食事を運んでくる女中だけは出入り出来るが、どのような結界なのか、阿久里だけはどうしてもその結界を抜けることは叶わない。
深夜、日を跨ぐ頃になってようやく戻って来た灯更は、阿久里のいる部屋へとやって来た。部屋へと入って来た途端、深い溜め息を吐いた灯更は烏帽子を取ると無造作に投げ捨て、狩衣を脱いで行く。灯更の気配はなにやらピリピリと張り詰めた緊張感を漂わせ、阿久里はそんな灯更の気配に身体を強張らせる。帝とどんな話をしたのか、問い詰められたりはしていないのか。気になる阿久里はそわそわとするが、しかし、聞いて良いことなのかが判断出来ない阿久里は、部屋の隅でひっそりと息を殺した。
「阿久里」
しかし、そんな葛藤を他所に灯更は何事もなかったかのように、いつものごとく阿久里を布団へと招いた。小袖へと着替えた灯更は布団の傍らへと立つと、阿久里に手を伸ばす。その仕草はなんらいつもと変わらないが、しかし、出かけたときのように、鋭い視線のまま阿久里に向ける。じっと見詰めるその姿は、やはり『逃さない』という強い思念を感じる。阿久里はそんな灯更の姿に一瞬ぎしりと身体が強張るが、しかし、もうすでにその目から逃れられないことを知っていた――――
阿久里はゆっくりと歩み寄ると灯更の手を取った。灯更は布団へと促し、お互い横たわると、灯更は阿久里を抱き締めた。それは同じ布団に寝るようになって初めてのことだった。きつく抱き締められ、灯更の体温を感じ、匂いが鼻孔を擽り、阿久里の心臓は早鐘を打つ。
「ひ、灯更⁉」
「大丈夫だ……大丈夫。お前はなにも心配するな。だから俺の傍にいろ――――」
灯更はそれだけ言葉にすると、そのまま眠ってしまった。阿久里は灯更がなにを思っているのか、それが分からず、ただひたすら困惑した。なぜ自分を殺さないのか。なぜこれほど慈しむのか。なぜこんなに胸が苦しくなるのか――――
「灯更様は阿久里様がお傍におられるようになってからはとても楽しそうでございます」
翌日、阿久里はぼんやりと庭を見詰めていた。昨晩の灯更の姿を思い出すと胸がざわつく。灯更のことが分からない、と思い悩んでいるとき女中から声を掛けられたのだ。
その女中は初老と呼べる歳の頃だろうか。長年この屋敷を守って来た者のうちのひとりだった。阿久里の横へと膝を付き、同じように庭を眺めながら嬉しそうに微笑み言った。
「そう、なのか?」
出逢う前の灯更がどのような人間だったかなど知る由もない。阿久里は女中に視線を向け少し戸惑いながら聞く。女中は庭から視線を戻し、阿久里を真っ直ぐに見詰めると、にこりと微笑む。
「はい。以前の灯更様はいつもどこか冷めた目をされておられました。それはおそらくご両親のことが関係しておられるのでしょうが……」
「?」
首を傾げる阿久里に、女中は眉を下げながら、少し寂しそうな微笑みとなった。そして、躊躇いながらも「阿久里様なら灯更様を癒してくださるでしょうから」とゆっくりと話し出した。
灯更の両親も陰陽師として力のあるふたりだった。母親は女性でありながらも資質があり、陰陽師として育てられてきた。そんな力あるふたりは家同士の繋がりとして婚姻し、そして灯更が生まれた。力ある一族同士の繋がり、それは両家が絶大な力を持つことに繋がった。
しかし家門のなかにはそれを妬む者もいて、両親は一族の者に嵌められ命を落とした。それ以降両家は力を失っていく。それほどの大きな事件となった灯更の両親の死。しかしその犯人を断定することまでには至らなかった。それは憶測の域を出ず、確証を得られなかったからだ。従って画策した者たちが罪に問われることもなかった。
それ以来灯更は一族に引き取られたが、常に見張られ、大人たちの冷たい視線に晒され続けた。灯更は心を閉ざし、誰にも頼らず力をつけていった。非情とも呼べるほどの躊躇もない討伐を繰り返し、あやかしの間ですら恐れられていたほどだった。
一族の者たちは圧倒的な力を持つ灯更に誰も口を出さなくなった。
女中が悲しそうに笑い、そして「灯更様をよろしくお願いいたします」という言葉を残し、その場から去った。阿久里はその言葉をどう受け止めたら良いのか分からなかった。
あやかしの間ですら恐れられていたという灯更。阿久里は知らなかった。それは阿久里もずっとひとりぼっちだったからだ。あやかしからも疎まれていた阿久里はあの山奥の廃れた屋敷でひとり生きて来たのだ。だから灯更の噂など知る由もない。
「灯更もひとりきり……私と同じ……だから同情したのだろうか」
ぽつりと呟いた言葉に自身の心が軋む。『同情』その言葉が阿久里を再び苦しくさせた。
その後、灯更は帝に呼び出されることはなくなった。家門から指示された仕事だけをこなし、集まりなどには参加しない。どうやら力ある灯更に誰も口出し出来ないようだ。年若い頃はやはり年功序列の周りの風潮に流されて来たが、何年も過ぎ、灯更の年齢が上がるにつれそういったこともなくなってくる。年老いた陰陽師は力を失くしていき、灯更は誰にも従う必要がないほどの立場となっていた。
そうやって何年も過ぎ去り、灯更は年を取った。阿久里はいつの頃からか女中たちの間では奥方様と呼ばれるようになっていた。お互いあの出逢った頃と変わらない関係。灯更は阿久里を殺すことなどなかった。それどころかただひたすら慈しんだ。阿久里自身もそれを受け入れていた。なぜ灯更が半妖である自分をこれほど受け入れるのか。同情なのか、それとも違う感情なのか。それを確かめることが怖くもあった。
しかし、そんなことよりも共に過ごすことを望んだのだ。誰かに受け入れてもらえる。必要とされる。それは今まで阿久里にはなかったもの。いつしかそれを手放したくなくなってしまった。そしてあるとき、それを見透かすように灯更は布団で横になる阿久里を抱き締めながら言った。
「人間になりたいとは思わないか?」
「え?」
驚き灯更の顔を見ると、灯更は真面目な顔で真っ直ぐに阿久里を見詰めていた。
「に、人間にって……」
「お前の妖力を完全に封じる術がある。角を失い、赤い瞳を失い、牙を失う。今のように誤魔化しではない。人間となんら変わらなくなるのだ」
今は灯更の呪いによって妖力や見た目を封じているだけだ。それは他人の目を欺いているだけ。呪いが解ければ元へと戻る。しかし、今灯更が提案しているのはまやかしではなく本当に封じるということ。それは『鬼』としての自分を捨てるということ。阿久里は戸惑った。まさかそんな話をされるとは思ってもみなかったからだ。
「私は私だ……鬼と人間の血を持つのが私なんだ。どちらか一方を捨てるつもりはない。人間でないとお前と共にはいられないのなら……私自身を封印するか殺せ……」
阿久里は躊躇いながらも言葉にした。そう伝えて、灯更が自分を切り捨てるのではないか、と不安にもなった。しかし、『鬼』である自分を捨てるということは、それはもう『自分』ではないと思ったのだ。『鬼』でなければ良かったのに、などとは一度も思ったことがないからだ。
そんな阿久里の言葉に灯更はフッと笑った。
「ハハ、そう言うと思ったがな。すまん、余計なことを言った。忘れてくれ」
阿久里の不安を振り払うかのように、灯更は楽しそうに笑った。そして阿久里の額に唇を落とすと、再び抱き締め、そして眠った。
灯更の言葉に安心し、阿久里は自身が『半妖』であるままでいることを望んだが、しかし、容赦なく月日は流れて行くものだ。
数年のときが経てば、人間は年老いていく。それは道理だ。しかし、鬼の血を引く阿久里は見た目が変わらない。灯更は人間だ。いくら見た目が若い者であっても、年老いていくことを止められるはずもない。それが阿久里には不安になった。いつしかまたひとり取り残されるのではないか、と。周りの人間たちも年老いていく。居心地の良いこの場所を失いたくない。そう不安になった。
「怖いか? ひとりになるのが」
灯更は聞いた。布団に横たわり、いつものように阿久里を抱き締めながら問う。阿久里はピクリと身体を震わせたが、しかし、なにも言葉にしない。『怖い』と口に出してしまえば、本当に灯更がいなくなったとき、耐えられないのではないかと思ったからだ。孤独を癒され、怨みを抱かなくなるほど慈しまれ、これ以上ないほどの幸せな時間を過ごして来た。
それを今ここで『怖い』と口に出してしまえば、きっとこれからの人生、一生阿久里は恐怖を抱えて生きていくだろう。一度幸せを感じたあとの孤独。想像するだけでも苦しくなる。阿久里はぐっと胸を抑え付けた。灯更はそれ以上なにも聞かなかった。ただ一言「大丈夫だ」とそう呟いた。一体なにを根拠に「大丈夫」などと口に出来るのだ、と阿久里は少しの苛立ちを感じるが、しかし、今はそんな灯更の言葉が阿久里を癒しているのも事実だった。
しかし、それが灯更との最後の会話となるとはこのときの阿久里には気付くことなど出来るはずもなかった。
灯更は死んだ――――
あやかしの討伐へと向かった灯更は同僚を庇い死んだ。いつもの灯更ならば絶対に油断などしない。それなのにこの日灯更はいつもよりも意識が散漫としていた。そのせいで一瞬の油断が同僚を危険に晒し、己の命を落とすはめになったのだ。
灯更の葬儀は一族が行い、阿久里は存在を知られていなかったため、その場にすら行くことは叶わなかった。
ひとのいなくなった灯更の屋敷。両親もおらず、兄弟もいない灯更。屋敷の主がいなくなった時点で、その屋敷は家門が引き取り、そこに働いていた者たちは他の屋敷へと雇われていった。灯更の過去を話してくれた女中は去る間際、阿久里にひとつの簪を渡した。
「これは……」
「灯更様のお部屋にあったものです。恐らく阿久里様にお渡しするつもりだったのでは、と……」
女中は目に涙を溜め、その簪を阿久里の手に乗せた。その手をぐっと握り締め、そして、何か言いたげな目ではあったが、女中は結局何も言わず悲しそうに微笑み去って行った。
阿久里は手のひらに乗る簪に目をやる。漆黒の軸に真紅の細かな細工が入り、金色のような銀色のような不思議な玉。そこには灯更の力を感じた。なぜだか温かく感じる玉。
「髪など結い上げたことなどないのに、なぜ簪なんだ」
阿久里は苦笑した。今まで灯更からなにかをもらったことなどない。なぜ今なのだ、と唇を噛む。
胸にあった朱色の印。それは灯更の死と共に次第に薄くなり、今や完全に消え去った。阿久里に掛けられていた封印は解け鬼の姿に――――
屋敷の封印も解け、阿久里は灯更の屋敷を出た。今まで灯更がいなければ外に出ることすら叶わなかった屋敷の封印。今はもうすっかりとその力も消え失せた。阿久里を縛るものはなにもなくなった。しかし、阿久里はそのことに酷く苦しくなる。自由だというのに、囚われの身ではなくなったというのに、縛るもののないことがこんなにも不安で寂しくなるものか、と阿久里は顔を歪めた。もらったものなどなにもない。それなのにこの喪失感はなんなのだ、と手にある簪を血が滲みそうなほど握り締める。
「嘘つき……一生俺からは逃げられないと言ったくせに……」
雪がちらちらと舞い落ちるなか呟いた言葉は誰の耳にも届かない。冷たい風が漆黒の長い髪を揺らす。真っ白で艶やかな肌は、しかし寒さに凍えるでもなく雪景色に溶け込むかのようだった。真紅の瞳と漆黒の髪、そして黒い着物の袖だけが揺れる音のない夜。下弦の月の輝きだけがひとりぽつんと佇む影を落としていた――――
灯更と過ごした屋敷を見上げ、一粒の涙が雪と共に風に舞う。
そうしてまたひとり残された阿久里はひっそりと何処かへと消えた。
*
一体どれほどの年月が流れただろうか。阿久里は数百年経とうとも未だひとり山奥にひっそりと生きていた。灯更と共に過ごした日々と全く変わらぬ姿のまま。
半妖でありながらも阿久里の寿命は鬼のそれと同等だった。あまりにも長い年月を過ごし、阿久里は少しずつ狂っていった。
孤独に心を蝕まれ、何度となく自ら命を絶とうともした。しかし、その度に灯更を思い出す。あのときの灯更の「大丈夫」という言葉。それが阿久里をこの世に引き止めた。
しかし、やはり孤独は阿久里の心を蝕んでいく。一体なにが大丈夫なのだ、と手当たり次第に物に当たり散らした。阿久里の住む家は年月が経つにつれ荒んでいく。
次第に我を忘れ人里に現れ人を襲うようになっていった。灯更の記憶を失いつつある自分にも苛立ち、幸せそうな人間を見ると怒りが沸いた。そしてそんな自分にも嫌悪し、阿久里は壊れていった。
月が明るく夜を照らす。時代が過ぎ、次第に街の様相も変わり、月明かりだけを頼りに夜道を歩かねばならぬほどの暗闇はなくなった。
灯更と過ごした頃の街並みとはすっかり変わってしまった風景をぼんやりと見詰める。阿久里は鋭い爪で人間を切り裂いた手をだらりと下げ、月夜の下ゆらりゆらりと歩を進めた。
「人間を襲っているのはお前か?」
背後から声を掛けられピタリと足を止める。ゆっくりと振り向くと、そこには黒い軍服に身を固めた若い男が立っていた。腰には帯剣し、左手で鞘を抑えている。今すぐにでも抜刀出来そうな隙のない気配。
精悍な顔付きのその男。ぼんやりとした虚ろな目をしていた阿久里は、その男の姿を目にした途端に、目に光が戻るかのように見開いた。
「ひ、灯更……?」
「?」
男は阿久里の言葉に怪訝な顔をし、さらに警戒を強めた。そして阿久里の頭部にある片角に気付いたのか、抜刀しようとしていた右手は胸の前にと掲げられ九字を切る。
それに気付いた阿久里は男に向かって駆け出した。それは一瞬の出来事。
人間よりも強靭な身体、身体能力。阿久里は瞬時に男の懐へと潜り込むと、そのまま抱き付いた。
「⁉」
男は驚愕の顔をし、引き剥がそうと阿久里の肩を掴む。阿久里は顔を上げ叫んだ。
「灯更! 灯更! 私だ! 阿久里だ! 思い出せ!」
目に涙を溜めながら懇願するように縋り付いて叫ぶ。男は訳が分からず固まる。その瞬間阿久里は男の首に縋り付き、背の高い男をぐいっと引き寄せると、唇を合わせた。
男は目を見開き、そして阿久里の髪にある簪に目がいった。月夜に輝く不思議な色の玉。その玉を目にした瞬間、男は電撃が走ったかのようにビクンと身体を震わせた。そして強引に唇を合わせた阿久里の肩を掴み引き剥がす。
阿久里は泣きそうな顔で男の顔を見詰めた。酷く痩せ細り、生気のない顔。しかし、男に縋りつく力は強く、懇願するような瞳。男は阿久里の両頬を自身の手で包んだ。
「阿久里」
「‼ 灯更……灯更……」
阿久里の両の瞳からは大粒の涙が次々と溢れ出る。
「あぁ。長い間待たせた……もう逃がさないと言っただろう?」
フッと微笑みながら呟いた灯更はゆっくりと阿久里の唇に唇を合わせる。月の輝きが重なるふたりの影を落としていた――――