忌み子と呼ばれた巫女が永遠の花嫁となる日


 式神の蝶に導かれたどり着いた場所の光景に、結月は思わず息を呑んだ。
 紗和と叔母様がうずくまり泣いていた。叔父様も呆然としながら天を仰いでいる。そのそばで軍服を着た男の人が五人。滅妖師(めつようし)だろう。刀に手を添えて、緊迫した空気がこちらまで伝わってくるような気迫だ。
 そして彼らの視線の先、屋根の上に妖がいた。
 
 ──やっぱり! あの土蜘蛛!
 
 胴体にある深い傷口は滅妖師の父がつけたものに間違いなかった。三本しかない手足が怨念のように(うご)めいていて、それがまた恐怖を(あお)るようだった。
 
 ──お父さん、お母さん……!
 
 土蜘蛛は復活し、またこの御屋敷へと襲来した。けれど、両親はもう帰ってはこない。悔しさと居た堪れなさで、結月はまた巫女服の上から(かんざし)を握りしめた。
 
 それと同時に、暁生(あきお)は戻ってきた式神の気配に気がつく。そして、屋敷の物陰からこちらを見ている一人の巫女装束の女が視界に入った。
 
 ──銀髪の巫女!
 
 頭に黒い布を(まと)っていたが、あの繊細な蒼玉色(せいぎょくいろ)の瞳と儚げな顔立ちは彼女に間違いなかった。
 恐々とした表情を浮かべていながらも、土蜘蛛を見据える瞳は激昂(げきこう)し青い炎が揺らめいているかのようにも思える。

 暁生が結月の存在に気がついたのと同じくして、土蜘蛛もまた彼女の存在を感知した。
 四つ目をぐるりと結月のいる物陰に移し、雄叫びを上げる。
 
「女……! あの女の気配がするわ!」

 ぐぐっと力を込め折り込んだ三本の手足をバネのように勢いよく伸ばし、屋根の上から飛び跳ね結月へと向かっていく。一本の手足をなんの躊躇(ためら)いもなく、数年の恨みがこもった憎悪に満ちている一突きを結月へ振り下ろした。

 結月はどうすることも出来ずに立ちすむ。身体が硬直してしまっていた。
 土蜘蛛の四つ目と目が合い、どす黒く光っているその目に殺気を感じものの、突如として襲いかかってくる鋭利な手足に瞬時に反応できなかったのだ。
 
 ──死……。
 
 両親と同じ結末を想像し、何も考えられなくなった刹那。

「伏せろ!」

 男性の叫び声と、金属と硬い表皮がぶつかり合った鈍い音で結月は正気を取り戻した。
 滅妖師の一人の男性が土蜘蛛の手足を弾き返し、こちらを守るかのように立ちはだかっている。受け止めた激しい衝撃でマントがひるがり、一房にまとめている青みがかった黒髪がなびいていた。
 結月は簪を握りしめたままその男性の背中を見つめる。気迫がありながらも頼もしい後ろ姿に、震えていた足が止まり安堵感すら覚えた。

「怪我は!?」
 
 暁生は土蜘蛛を見据えたまま振り向かず、声だけをかけた。

「……ありません。助けてくださり、ありがとうございます」
「ならよかった」
 
 背後から聞こえた彼女の声はとても清らかだった。
 そして、恐怖心こそ多少あるものの落ち着きのある物言いだったことから暁生は眉を開いた。

「暁生様! ご無事ですか!?」

 すぐに藤仁(ふじひと)と護衛三人が駆けつけ、彼らの守備をするよう前に立つ。
 四人は抜いた刀に指先を滑らせる。撫でるように触れたところから呪文が浮かび上がり、刀身が(あか)く染まる。刀は燃え上がった炎のように光っていた。

「おのれ滅妖師! 此度も我の邪魔をするか!」

 土蜘蛛はさらに咆哮(ほうこう)する。
 これ以上、土蜘蛛を暴れさせるわけにはいかなかった。不完全体とはいえ、ここで食い止め消滅させなければ被害は拡大し街にまで及んでしまう。
 
「藤仁、少し時間を稼いでくれ」
「承知しました」

 暁生の命に従って四人は臨戦体勢を取り、いつまた襲撃がきてもいいようにと土蜘蛛と睨み合い、間合いを取った。
 その間にと暁生は巫女の方へと振り返り「手短に話す」と伝え、問う。

「名はなんという?」
「……結月と申します」
「結月、土蜘蛛に結界を張ってくれるか? いや、張ってほしい。結月にしかできない」

 結月は驚いた。
 振り返ったその男性が美しいほど端正な顔立ちだったからとか、いきなり名を尋ねられたからとかではない。自分の名が敬意を払われながら呼ばれたのが初めてだったからだ。
 しかし、自分が結界を張ってもすぐ破られてしまうだろう。ましてや相手が土蜘蛛ならば尚更だということは結月が一番よくわかっていた。
 
「私……、巫女としての力は全くなくて。お力になりたい気持ちはもちろんありますが、私では駄目なんです」

 結月は目の前にいる男性から目を逸らし、うつむいてしまう。

「そんなことはない。結月にならきっとできる。俺の式神を見破り、打ち消したほどの巫女だ」
「式神……。もしかして、あの蝶は貴方様のものだったのですか?」
「そう、神力の強い巫女へと飛ばした式神だ。それに反応した巫女が結月だった」

 男性はにこりと微笑みながら説く。優しくて、信頼してくれている瞳。こんな暖かな瞳で自分を見つめてくれた人は両親以外にいなかった。
 
「……貴方様のお名前は?」

 結月は自然とそう尋ねていた。
 初対面だったのに、巫女として認めてくれたこの男性のことを信じてみたいと思った。
 
「暁生」

 ゆっくりと、穏やかな表情をしながらも真剣な眼差しで名乗った暁生に結月は釘付けになった。その名が結月の胸に深く響く。どんな暗闇の中だろうと誰よりも輝いて、自分まで照らしてくれそうな、そんな名前だ。

「暁生様!! まだですか!?」

 切羽詰まった藤仁の声が向けられる。襲いかかってきた土蜘蛛に皆が応戦していた。
 暁生は視線をその声の方へ向け、静かに刀を握り直す。緋く染まっている刀は、彼の闘志を反映させているかのように(きら)めいている。

「結月、準備ができたら結界を張ってくれ。……頼んだ」

 そう言ってふっと微笑んだ暁生はすぐに顔つきを鋭いものへと変え、地を強く蹴り出し土蜘蛛へと駆け出す。赤い刀が閃光のような光を残していった。
 滅妖師五人は土蜘蛛を包囲するような陣形を取り、被害を最小限にするよう食い止めている。土蜘蛛は巫女を殺り損ねた(いきどお)りから大きな唸り声を出し、怒り狂うように手足を振り下ろしていた。

 その光景を見ている結月は立ち尽くしていながらも、胸の中で今までにない感情が目覚めようとしているのがわかった。
 このまま土蜘蛛の好き勝手にさせてしまっていいのか。両親の仇を打ちたくはないのか。自分を巫女として認めてくれ、信頼を託してくれた人の気持ちを裏切っていいのか。
 
 ──私だって……巫女よ!
 
 必ず結界を張ってみせる。
 そう決意した青い瞳は(にご)りのない澄み切ったものだった。

 結月は大きく深呼吸をし、迷いや不安を拭い去る。巫女としての使命を果たす時。
 目を閉じて、幼少の頃見ていた母の姿を思い出した。

「守りたいという思いを力に変えるの。恐れては駄目。巫女にしか出来ないことなんだから」

 いつもそう言っていた母の言葉を今一度胸に刻む。
 ぐっと拳を握り目を開いた時、彼女は懐かしい声を耳にした。
 
「……結月」

 はっとした。自分の名を呼んだのは、遠い昔に聞いていた優しくて暖かな声の人。
 
 ──お母さん……。
 
 声は聞こえたのに姿は全く見えない。でも確かに、母の温もりがここにある。涙が(あふ)れそうになった。

「自分を信じて。見失わないで。大丈夫、お父さんとお母さんの子だもの。大好きよ、結月」

 すっと空気に溶け込むようその声が消えていく中で、結月は静かに指先で涙を拭っていた。
 
 ──お父さん、お母さん、ありがとう。私、もう恐れたりしない。
 
 結月は胸元に入れていた母の(かんざし)を取り出す。簪がいつもより綺麗に見えた。まるで母の声と共鳴していたかのように、黄金の光輝(こうき)を放っている。

 恐怖を払拭し信念を確固たるものへと変えていくように、ゆっくりと頭の覆い布を解いた。
 流れるように落ちた髪の一筋一筋が銀の絹糸のように輝き、凛とした空気が結月を(まと)う。

 この銀髪を人前に晒すのは何年ぶりだろうか。
 結月は今一度母の簪を見つめ深く息を吐くと、髪をまとめ上げてそこに簪を挿した。
 自分の髪に挿すことはないと思っていた簪は、何も抵抗もなく髪の中へと入っていく。まるでこの瞬間を待ち望んでいたかのような滑らかさだった。
 
 ──二人とも、見ていてください……!
 
 暁生たちのいる方に真っ直ぐ焦点を合わせ、結月は力いっぱい駆け出した。

 ──✩₊⁺⋆☾⋆⁺₊✧──

 暁生たちは土蜘蛛の猛攻を必死に凌ぎながら、結月が結界を張りに来ることを信じて待っていた。
 
 ──結月は必ず来る!
 
 暁生は刀を構え直し、土蜘蛛の動きを冷静に見極める。完全体ではないということも功を奏し、この調子でいけば土蜘蛛は滅せられそうだ。しかし、巫女の結界と浄化がなければ完全な勝利とは言えない。とどめを刺せそうで刺せないもどかしさが(つの)る。
 瀕死の土蜘蛛もやられまいと必死である。振り下ろされる手足は鉛のように重く、刀で攻撃を受け止める度に腕に負荷がかかっていく。
 その時、遠くから結月の声が響いた。

「暁生様……!」

 暁生は視線を巡らせ、結月がこちらに向かって力いっぱい駆けてくる姿を捉えた。
 やはり来てくれたと安堵すると共に、はっと息を呑む。美しい銀髪が(あら)わになり、一つに束ねられていたのだ。戦いの最中にも関わらず、一瞬だがその綺麗な姿に意識が向いてしまった。

「結月! 俺の後ろへ! 援護する!」

 すぐに戦いへと意識を戻した暁生は結月の方へと向かい彼女の前に立つ。

「ありがとう。来てくれると信じていた」

 そう言ってくれた暁生の背中が頼もしく見えた。そして、『信じてくれる人がいる』ということがまた結月の力となる。

「暁生様、私、結界を張ってみます」

 蒼い瞳は巫女としての使命感が宿っていて、そこにはもう迷いは微塵もなかった。
 結月は祈るよう胸の前で静かに手を合わせ、目を閉じる。手のひらに意識を集中させると光が集まりだし、それは輝きに変わっていく。
 ゆっくりと手を開くと手のひらの上に三枚の結界札が出現し、宙へと浮いた。

「あの時と同じ手は食わぬ! おのれ、巫女め!」

 当然土蜘蛛も黙って見ていられるはずがなく、凄まじい勢いで結月たちの方へ手足を振り下ろす。
 暁生が刀で攻撃を防ぐも、二人もろとも切り裂くような鋭く重い一撃は足元の地面を(えぐ)るほどの衝撃だった。

「……結月! 今だ!」
「はい!」

 結月が土蜘蛛の方へ手を伸ばすと結界札が三角形を描くように土蜘蛛の周囲に配置され、光の壁が完全に敵を包み込んだ。

「貴様……!」

 土蜘蛛は結界を破ろうと最後の力を振り絞り闇雲に暴れ散らす。
 結月の結界が効いたことに皆が安堵するも、すぐに結界に(ひび)が入り出し、一刻を争う状況には変わりない。

「もう少しだ、結界を保っていてくれ」
 
 暁生は刀を握り直し息を整えると、力強く地面を蹴り出し土蜘蛛の懐へと飛び込む。人間離れをした素早い動きと渾身の力を込めた(あか)い一閃が土蜘蛛を貫いた。
 (うめ)き声を上げながら巨体が徐々に崩れ落ちていく。四つ目の光が薄らいでいき、ついに土蜘蛛は滅っせられた。
 しかし、それで終わりではない。穢れを浄化しなければまた同じことの繰り返しになってしまう。

 結月はその役割まで担っていることを理解していた。すぐに土蜘蛛のそばに近寄り、膝をついて浄化を始める。

「光の御加護よ、穢れし魂を導き、安寧(あんねい)の時へ……!」

 結月が発した詠唱に結界が反応し清らかな光へと変わり、暖かみのある光は土蜘蛛が(まと)っていた闇を浄化していく。
 巨体は徐々に淡い光の粒子となり、そして静かに散っていった。
 暗かった空も晴れ渡り、清々しい空気に戻る。

「結月!」

 全てが終わり暁生は疲労の色を見せながらも、明るい表情で結月の方へと歩み寄った。

「ありがとう、結月」
「とんでもないです、暁生様たちがいてくださったから。こちらこそ、ありがとうございます」
「いや、俺たち滅妖師(めつようし)だけでは駄目だった。結月がいてくれたから……」

 ふと暁生の言葉が途切れた。結月の身体が前のめりに揺れたのだ。
 咄嗟(とっさ)に差し伸べた暁生の腕が倒れそうになる結月を抱きとめた。

「……申し訳ございません、少し、めまいが……。こんなに神力を使ったことがなくて……」
 
 結月の顔は蒼白(そうはく)としており、どれほどの神力を使ったのかがうかがえた。

「少し休んでいるといい」

 暁生は優しく結月を抱きかかえ微笑む。
 結月は彼の行動に驚いたものの、その腕から伝わってくる温もりと安心感から身体の力を抜くと、すっと目を閉じ浅い眠りについた。

「……藤仁(ふじひと)たちもよく耐えてくれた。ありがとう」
「いえ、暁生様の援護が我々の使命ですから」

 左手を胸にかざしながら藤仁と護衛三人は敬礼をする。緊張から解放された四人にも疲労感がどことなく漂っていた。

「藤仁。最初に言った通りだ、俺はこの銀髪の巫女と結婚する」

 誇らしげに言った暁生に、藤仁はただ(うなず)き再度敬礼をする。
 藤仁からしても結月の力は申し分ないほどであったので、それを歓迎するかのように静かに微笑みを浮かべた。
 
「暁生様! お待ちください!」

 穏やかな庭園の静寂を破ったのは、紗和の母が出した金切り声だった。
 這いつくばるように頭を下げた彼女の姿が暁生たちの目に飛び込んだ。

「さすが暁生(あきお)様、結月の秘めていた才能をお見抜きになられたのですね!」

 顔を上げた母の顔は欲と野心を合わせた歪んだ笑みをしていて、なんとも(みにく)いものだった。
 
「結月も紫明野(しめの)家を代表する素晴らしい巫女の一人です! 髪色は異端ですが、ご覧いただいた通り巫女としての力は紗和以上! 暁生様のお眼鏡にかなうなんて、結月も喜んでいるでしょう!」
「……お母様!? あの忌み子を差し出すつもり!? 私はどうなるの!?」
 
 血眼になって力説する母を止めるように紗和が口を挟む。次期当主の暁生と婚約し、富、名声、寵愛(ちょうあい)、全てを手に入れられる(すんで)のところでそれが崩れ去ろうとしているのだ。
 紗和は冷静ではいられなかった。

 二人のやりとりは妖よりも醜悪で、見るに耐えない人間の欲で渦巻いている。
 初めて式神を飛ばした時、なぜ結月が辺鄙(へんぴ)な物置小屋にいたのか、なぜ頭を布で隠していたのか。見合いの時、なぜ『銀髪の巫女はいない』と答えたのか。
 暁生は二人の様子からそれを察した。

「お前たち、もう止めろ。それ以上の醜態を晒すな。それとも、紫明野家の名を地に落としたいのか?」

 暁生が二人に向けた視線は失望したかのように冷たいもので、その威圧感に紗和と母は次第に口を(つぐ)んだ。
 それでも母はせめてもと、恐々としながら暁生に頭を下げる。
 
「申し訳ございません。結月は土蜘蛛に両親を殺されて以降、心を病んで閉ざしてしまい、人前に出れる状態ではございませんでした。しかし霧生院(きりゅういん)家に嫁いだ際にはそれも回復なさるでしょう」

 声と肩をわずかに震わせて懇願(こんがん)する母の姿は結月を思う気持ちではなく、嘘と打算であると暁生は見抜いていた。暁生の眉間にしわが寄り出す。
 
「私からも醜態を晒してしまいお詫び申し上げます! 結月義姉様も霧生院家に嫁ぐことで更に巫女としての才能を開花させるはずです! なのでどうか、紫明野家に寛大なご配慮を……!」

 紗和も手のひらを返すように頭を下げたが、母同様、決して反省しているからではなかった。暁生が無理ならば、他の霧生院家の誰かと縁を結べばいい。次期当主の嫁には及ばずとも、名家である霧生院家と婚約できれば紫明野家にとっては御の字である。
 それを見越したかのように、暁生は低い声で静かに告げる。

「結月はもうこの家の娘ではない。絶縁状を出したのはお前たちだろう? 俺からしてもお前たちは赤の他人ということだ。これ以降、紫明野家は霧生院家との接近を一切禁じる」

 どうして絶縁状のことを知っているのかということよりも、接近を禁止されてしまったことに二人は青ざめ呆然としていた。そばで聞いていた父は状況の整理をするのがやっとそうで狼狽(うろた)えている。
 暁生は結月に視線を落とした。

 ──さぞ辛かっただろう。

 今までどんな思いで過ごしていたのか。両親を亡くしたか弱い少女、一人で抱えていたその辛さは計り知れない。
 腕の中で安らかな顔をしている結月を見つめ、暁生はまた決心する。

「……暁生、様……?」

 降り注がれた視線に気がついたように、結月は浅い眠りから目を覚ます。まだ夢現(ゆめうつつ)の結月の声に、暁生は微笑んで応えた。

「結月、お前に伝えたいことがある。聞いてくれるか?」

 結月はまどろみながらも目線を合わせて、こくりと(うなず)く。

「結月は俺が選んだ唯一の女性だ。滅妖師(めつようし)としての力だけではなく、純粋に人を愛する心、そして共に歩む未来。俺は結月と一緒にその物語を(つむ)でいきたい」

 優しくも真っ直ぐで、(ささや)くように言った暁生の言葉は、結月の胸を少しずつ幸福感で満たしていく。

「暁生様……それって……」

 結月の目が大きく見開き、蒼い瞳が潤んだように輝く。確認するまでもないが、その言葉が何を意味しているかは結月にもわかっている。

「俺と、結婚してくれ」

 息が一瞬止まって、一緒に時間さえも止まってしまったかのように思えた。暁生の言葉は今までの苦しみや悲しみ、孤独感を包み込んで愛情に変えてくれる。暁生の名を聞いた時に感じた通り、自分の存在までも照らしてくれる人。
 胸の奥から溢れ出した幸福感は結月の心の中にあった冷たい感情を溶かし、それは涙となって結月の頬を伝うように流れる。

「……はい」

 穏やかに、幸せという感情を噛み締めながら答えた。
 暁生を(した)う気持ちと暁生から感じる温もりは、両親のそれとは少し違うように思えた。

 ──これが人を愛する気持ち……。

 誰を思うことはこんなにも幸福な気持ちになるのかと、結月はまた涙を流していた。
 暁生はそっと結月を地面に降ろし、頬に手を当て結月の涙を拭う。

「今までよく耐えてきたな。これからは俺が結月を守り、そして幸せにする」

 そう言った暁生の真剣な瞳と言葉は、閉ざしていた未来への扉を開けてくれるものだった。

 ──私に、こんな幸せな未来があったなんて……。
 
 両親が亡くなり忌み子(さげす)まれ、いつかは生まれ育った家を追い出されてしまう。自分に訪れるのはそんな夢も希望もない未来だと思っていた。だから、とうの昔に『幸せ』なんて諦めていた。
 それが今、一筋の光に照らされ幻であったかのようにうっすらと消えていく。こんなにも幸せな未来が訪れるなんて、考えもしていなかった。
 
 結月の目から真珠のような大粒の涙がいくつも(こぼ)れた。
 骨ばっている大きな手が頬を包んでくれている。(たく)ましくも、繊細な指先から伝わってくる愛情。自ずと、その手に自分の手を重ねていた。
 涙に濡れた瞳は微笑んでいる暁生を映し出し、結月もまた同じように微笑みを返した。
 だが。

「……私は認めない!!」
 
 縮まっていく二人の距離を引き裂いたのは、絶叫にも似た紗和の声。怒りと嫉妬を隠そうともしない涙と歪んだ表情は、ある種の自暴自棄のようにも見える。
 これにはさすがの母も紗和をなだめに入ったが、それでも納得がいかない様子で声を荒げている。(せき)を切った感情はそう簡単に止められるものではなかった。

「そうよ! 霧生院(きりゅういん)家当主……暁生(あきお)様のお父様は私が見合い相手だと知っているはず! 当主様のご判断もなしに私以外と婚約だなんて、そんな勝手、当主様だって納得しないはずだわ!」

 紗和(さわ)の主張ももっともだ。見合い相手のおおよその情報は事前に知れ渡っているはず。それがいきなり別人、しかも銀色の髪の巫女を連れて帰ってきただなんて、暁生だって霧生院家から非難されてしまうかもしれない。
 不安に駆られた結月は思わず暁生から視線を逸らし、表情をわずかに曇らせる。

「その当主が、結月と婚約すると言っているんだ」

 耳を疑った結月は驚き、勢いよく彼の顔を見上げた。とても凛々しくて綺麗な横顔。紗和を見据える黒い瞳は力強く輝いている。
 そして、暁生の言葉が飲み込めていないのは紗和たちも同じようだった。何かの冗談か、聞き間違いかと困惑した様子で顔を見合わせていた。

 ざわつく庭園を静めたのは藤仁(ふじひと)だった。さりげなく眼鏡を直し、その場を制するように暁生たちの前で姿勢よく立つと、紗和に向かい重々しく口を開く。

「本日をもって、暁生様が霧生院家の正式な当主となられました。霧生院家のしきたりにより、婚約を結んだ時点で次期当主は現当主へと引き継がれます。もちろん、暁生様のお父様もそのおつもりで本日を迎えております。つまり暁生様の発言は、霧生院家当主の発言と同義なのです」

 ゆっくりと淡々に告げると、そのまま暁生の方へと身体を返し、左手を胸に添え敬礼をした。
 
「……そんな、ことって……」

 紗和の全身から力が抜けていく。もはやこの二人の婚約を阻止する術は見当たらない、抑えきれない絶望を滲み出しながら紗和は天を仰ぐ。

 紗和の無様とも言える姿を見ても、結月の心は何も満たされはしなかった。虐げられた過去が消えるわけでもないし、この状況をいい気味だとも思わない。
 昔の自分を見ているような気がして、ただ同情をするだけだった。

 浮かない顔をしている結月の肩をそっと抱き寄せた暁生は、静かに(うなず)いて正門へと足を運んでいく。
 暁生と共に歩き出した結月だったが、途中足を止め、紗和たちの方へと振り返る。

「お世話になりました」

 腰を折り、ただ一言、呟くように言った台詞が紗和たちに聞こえたのかは定かではない。
 結月の脳裏に浮かんだ言葉はこれだけだった。紫明野(しめの)家との別れの言葉に「ありがとうございました」は、あまりにも偽善的すぎる。
 かと言って、黙って出ていくのも気が引けた。両親が亡くなってからも、すぐには追い出さずここまで面倒を見てくれたことへの感謝。
 そして、両親と過ごした御屋敷とも今日で最後という思い。
 自分の中の思い出や誇りを尊厳しつつ、過去と決別し、けじめをつけるために最小限の礼儀を尽くした言葉だった。
 
 立ち去っていく結月たちを、もう誰も引き止めはしなかった。

 ──✩₊⁺⋆☾⋆⁺₊✧──

 正門を抜けた先で待機させていた二台の馬車。
 それをずっと一人で見張っていた護衛が暁生たちの姿に気づき、少々慌てた様子で駆け寄った。

「やはりご無事でしたか! 屋敷の方で妖の気配を感じたものの濃い瘴気の膜に阻まれ中に入れず……。申し訳ございません」

 その護衛は力になれなかったことを悔やんでいたが、そんなことはないと暁生はふっと笑ってみせる。

「お前がここにいてくれなかったら、馬たちが瘴気に当てられて帰れなくなってたかもしれん。最初の命を全うしてくれたんだ、感謝する」
「もったいないお言葉、ありがとうございます」
 
 護衛は敬礼をし、深く頭を下げた。暁生の言葉を噛み締めるように唇をきゅっと結んでいる。悔しさが消え、暁生に対する忠誠心のようなものが強く現れていた。
 暁生の立ち振る舞いは、はたから見ていた結月も見惚れてしまうほど雄々しくて堂々としたものだった。

「馬車にはいつでもご案内できますので」

 護衛は馬車の扉を丁寧に開ける。
 
「……結月、もう出発して大丈夫か?」
 
 暁生が確認するように声をかける。「もう帰ってくることはないぞ」とも言っているような気がした。

 ──ここに未練はない。

 思い出は胸の中だけでいい。何より唯一残されていた物は、今髪に挿している母の(かんざし)のみだ。
 結月は小さく頷いて答えた。

 すると、護衛が控えめながらも不思議そうな表情で問いかけた。
 
「暁生様、この巫女様は……? 」

 巫女装束に似合わない銀色の髪に視線を向けているのがわかる。
 結月が気まずそうにしている中、暁生は晴れ晴れとした青空のように爽やかに笑った。
 
「俺の婚約者だ。綺麗だろう」

 暁生はさりげなく結月の手を握る。

「結月がいたから妖を滅することができた。俺が認めた巫女であり、共に未来を歩きたいと思った女性だ」
 
 誇らしげに告げた暁生の顔がまた涙腺を刺激する。大きな手のひらはとても暖かかく、その優しさは胸を高鳴らせた。
 
 ──誰かが守ってくれる。なんて嬉しいことなんだろう。

 喜びでつい暁生の手を強く握ってしまったが、それに応えるように彼はぎゅっと握り返し微笑んでくれた。

「左様でございましたか! ご婚約おめでとうございます、屋敷でお待ちの当主様もさぞお喜びになるでしょう!」

 護衛は胸に手を当て敬礼をしながら二人に祝福の言葉を送り、

「次期当主である暁生様のご婚約、今日は霧生院家も大忙しになりますね!」
 
と嬉々としながら続けた。

 屋敷内での一悶着を知らない護衛の呑気そうな言葉に、暁生は耐えきれず大笑いし、藤仁(ふじひと)は眉間に手を当て小さく頭を抱えた。
 結月と護衛は少し不思議そうな顔で暁生たちを見ている。

「しかしよくもまあ、息を吐くようにあんな出鱈目が言えたもんだ。さすがは藤仁だな」

 くくっと笑いながら言う暁生に、藤仁は眼鏡を直しながらため息を漏らす。

「最初に出鱈目を言い出したのは貴方ですよ。まったく、合わせる方の身にもなっていただきたいものです」

 何がどう出鱈目なのか結月は今ひとつぴんときていなかった。

「……暁生様、藤仁様、出鱈目とはどういった意味ですか?」

 おずおずと尋ねると暁生は一息ついて笑いを収め、いたずらそうに微笑だ。

「藤仁が屋敷で『婚約を結んだ時点で現当主に引き継がれる』って言ってただろう? あれは嘘なんだ」
「……え?」
「霧生院家にそんなしきたりはございません。しかるべき手続きや儀式を終えて、初めて現当主へと引き継がれます」

 きょとんとすると、すぐさま藤仁が冷静に付け足した。
 
 ──どうしてそんな嘘を……?
 
 理解が追いつかず眉根を寄せると、暁生が顔を傾けて目線を合わせてきた。
 黒い瞳が柔らかく輝き、結月だけを映し出す。
 
「ああ言えばもう引き留めないだろうと、咄嗟(とっさ)にな。それに、どんなに非道でも結月にとっては家族だったんだ。あれ以上、家族の醜い姿を結月に見せたくはなかった」

 暁生が言った出鱈目は結月を思ってのものだった。

「私のために、そこまでしてくれたのですか……?」
「当たり前だろう。結月を守るのは俺の役目だ」

 無邪気に微笑んだ暁生の姿に、胸が締め付けられるような感覚になった。
 込み上げてくる喜びと感動が抑えきれそうになくて、そのままじっと暁生を見つめることしかできない。初めての感情、どう表現したら暁生に伝わるのだろうか。

「当主じゃなくてがっかりしたか?」

 沈黙をする結月に、暁生は少し不安そうに尋ねた。

「滅相もないです。私は、暁生様のお人柄に惹かれました」

 慌てて否定して深呼吸をし、自分の正直な気持ちや感情をたどたどしくも丁寧に言葉に紡いでいく。

「霧生院家とか、当主とか、そういうものは関係ありません。暁生様だったから。こんな私を巫女と認めてくれて、必要としてくれて、愛してくれて……。ありがとうございます。私は今、とても幸せです」

 満面の笑みの中でうっすらと涙を溜めている蒼い瞳と、風にそよぐ銀色の髪。その全てが宝石のように(きら)めいている。
 暁生は流れるような所作で握りしめていた結月の手を持ち上げると、小さな手の甲に唇を当てた。
 
「これからもっと幸せにする、約束しよう。だから、今みたいに俺の隣で笑っていてくれ」
「……はい」

 暁生と過ごす未来への希望で心が満たされていていく。怖いものなんて、もう何もないと思えた。

「さて、お二人様。続きは霧生院家に帰ってから正式に()り行いましょうか」

 パンパンと手を叩いた音が響く。小さな笑みを浮かべている藤仁が割って入ってきたのだ。
 結月は改めて、今までのやりとりが見られていたと気がついた。恥ずかしさが一気に押し寄せてきて、急激に顔も熱くなっていく。
 誰とも目を合わせることができずに地面の方に視線を落とした。

 暁生は「いいところだったのに」と無言の圧を飛ばしていたが、藤仁は口元をわずかに緩めているだけだった。
 しかし、それが藤仁なりの今できる祝福の形だということは暁生には伝わっていた。

「本当に、真面目な部下を持つと苦労する」
「ええ。これも暁生様のおかげですよ」

 いつもの掛け合いだったが、いつも以上に微笑ましく和やかな空気が流れていた。

「……では、結月。そろそろ行こうか」

 暁生は改めて結月の手を握ると、丁重に馬車へと誘導した。
 
 十六年過ごした御屋敷が背後に見える。でも、もう過去を振り返ったりしない。
 絶望の淵で泣いていた自分は、もうどこにもいない。
 これからは、この人と、前を見て歩いて行ける。

「暁生様。不束者ですが、よろしくお願いいたします」
 
 二人を乗せた馬車が未来へと走り出した。

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