「そうよ! 霧生院(きりゅういん)家当主……暁生(あきお)様のお父様は私が見合い相手だと知っているはず! 当主様のご判断もなしに私以外と婚約だなんて、そんな勝手、当主様だって納得しないはずだわ!」

 紗和(さわ)の主張ももっともだ。見合い相手のおおよその情報は事前に知れ渡っているはず。それがいきなり別人、しかも銀色の髪の巫女を連れて帰ってきただなんて、暁生だって霧生院家から非難されてしまうかもしれない。
 不安に駆られた結月は思わず暁生から視線を逸らし、表情をわずかに曇らせる。

「その当主が、結月と婚約すると言っているんだ」

 耳を疑った結月は驚き、勢いよく彼の顔を見上げた。とても凛々しくて綺麗な横顔。紗和を見据える黒い瞳は力強く輝いている。
 そして、暁生の言葉が飲み込めていないのは紗和たちも同じようだった。何かの冗談か、聞き間違いかと困惑した様子で顔を見合わせていた。

 ざわつく庭園を静めたのは藤仁(ふじひと)だった。さりげなく眼鏡を直し、その場を制するように暁生たちの前で姿勢よく立つと、紗和に向かい重々しく口を開く。

「本日をもって、暁生様が霧生院家の正式な当主となられました。霧生院家のしきたりにより、婚約を結んだ時点で次期当主は現当主へと引き継がれます。もちろん、暁生様のお父様もそのおつもりで本日を迎えております。つまり暁生様の発言は、霧生院家当主の発言と同義なのです」

 ゆっくりと淡々に告げると、そのまま暁生の方へと身体を返し、左手を胸に添え敬礼をした。
 
「……そんな、ことって……」

 紗和の全身から力が抜けていく。もはやこの二人の婚約を阻止する術は見当たらない、抑えきれない絶望を滲み出しながら紗和は天を仰ぐ。

 紗和の無様とも言える姿を見ても、結月の心は何も満たされはしなかった。虐げられた過去が消えるわけでもないし、この状況をいい気味だとも思わない。
 昔の自分を見ているような気がして、ただ同情をするだけだった。

 浮かない顔をしている結月の肩をそっと抱き寄せた暁生は、静かに(うなず)いて正門へと足を運んでいく。
 暁生と共に歩き出した結月だったが、途中足を止め、紗和たちの方へと振り返る。

「お世話になりました」

 腰を折り、ただ一言、呟くように言った台詞が紗和たちに聞こえたのかは定かではない。
 結月の脳裏に浮かんだ言葉はこれだけだった。紫明野(しめの)家との別れの言葉に「ありがとうございました」は、あまりにも偽善的すぎる。
 かと言って、黙って出ていくのも気が引けた。両親が亡くなってからも、すぐには追い出さずここまで面倒を見てくれたことへの感謝。
 そして、両親と過ごした御屋敷とも今日で最後という思い。
 自分の中の思い出や誇りを尊厳しつつ、過去と決別し、けじめをつけるために最小限の礼儀を尽くした言葉だった。
 
 立ち去っていく結月たちを、もう誰も引き止めはしなかった。

 ──✩₊⁺⋆☾⋆⁺₊✧──

 正門を抜けた先で待機させていた二台の馬車。
 それをずっと一人で見張っていた護衛が暁生たちの姿に気づき、少々慌てた様子で駆け寄った。

「やはりご無事でしたか! 屋敷の方で妖の気配を感じたものの濃い瘴気の膜に阻まれ中に入れず……。申し訳ございません」

 その護衛は力になれなかったことを悔やんでいたが、そんなことはないと暁生はふっと笑ってみせる。

「お前がここにいてくれなかったら、馬たちが瘴気に当てられて帰れなくなってたかもしれん。最初の命を全うしてくれたんだ、感謝する」
「もったいないお言葉、ありがとうございます」
 
 護衛は敬礼をし、深く頭を下げた。暁生の言葉を噛み締めるように唇をきゅっと結んでいる。悔しさが消え、暁生に対する忠誠心のようなものが強く現れていた。
 暁生の立ち振る舞いは、はたから見ていた結月も見惚れてしまうほど雄々しくて堂々としたものだった。

「馬車にはいつでもご案内できますので」

 護衛は馬車の扉を丁寧に開ける。
 
「……結月、もう出発して大丈夫か?」
 
 暁生が確認するように声をかける。「もう帰ってくることはないぞ」とも言っているような気がした。

 ──ここに未練はない。

 思い出は胸の中だけでいい。何より唯一残されていた物は、今髪に挿している母の(かんざし)のみだ。
 結月は小さく頷いて答えた。

 すると、護衛が控えめながらも不思議そうな表情で問いかけた。
 
「暁生様、この巫女様は……? 」

 巫女装束に似合わない銀色の髪に視線を向けているのがわかる。
 結月が気まずそうにしている中、暁生は晴れ晴れとした青空のように爽やかに笑った。
 
「俺の婚約者だ。綺麗だろう」

 暁生はさりげなく結月の手を握る。

「結月がいたから妖を滅することができた。俺が認めた巫女であり、共に未来を歩きたいと思った女性だ」
 
 誇らしげに告げた暁生の顔がまた涙腺を刺激する。大きな手のひらはとても暖かかく、その優しさは胸を高鳴らせた。
 
 ──誰かが守ってくれる。なんて嬉しいことなんだろう。

 喜びでつい暁生の手を強く握ってしまったが、それに応えるように彼はぎゅっと握り返し微笑んでくれた。

「左様でございましたか! ご婚約おめでとうございます、屋敷でお待ちの当主様もさぞお喜びになるでしょう!」

 護衛は胸に手を当て敬礼をしながら二人に祝福の言葉を送り、

「次期当主である暁生様のご婚約、今日は霧生院家も大忙しになりますね!」
 
と嬉々としながら続けた。

 屋敷内での一悶着を知らない護衛の呑気そうな言葉に、暁生は耐えきれず大笑いし、藤仁(ふじひと)は眉間に手を当て小さく頭を抱えた。
 結月と護衛は少し不思議そうな顔で暁生たちを見ている。

「しかしよくもまあ、息を吐くようにあんな出鱈目が言えたもんだ。さすがは藤仁だな」

 くくっと笑いながら言う暁生に、藤仁は眼鏡を直しながらため息を漏らす。

「最初に出鱈目を言い出したのは貴方ですよ。まったく、合わせる方の身にもなっていただきたいものです」

 何がどう出鱈目なのか結月は今ひとつぴんときていなかった。

「……暁生様、藤仁様、出鱈目とはどういった意味ですか?」

 おずおずと尋ねると暁生は一息ついて笑いを収め、いたずらそうに微笑だ。

「藤仁が屋敷で『婚約を結んだ時点で現当主に引き継がれる』って言ってただろう? あれは嘘なんだ」
「……え?」
「霧生院家にそんなしきたりはございません。しかるべき手続きや儀式を終えて、初めて現当主へと引き継がれます」

 きょとんとすると、すぐさま藤仁が冷静に付け足した。
 
 ──どうしてそんな嘘を……?
 
 理解が追いつかず眉根を寄せると、暁生が顔を傾けて目線を合わせてきた。
 黒い瞳が柔らかく輝き、結月だけを映し出す。
 
「ああ言えばもう引き留めないだろうと、咄嗟(とっさ)にな。それに、どんなに非道でも結月にとっては家族だったんだ。あれ以上、家族の醜い姿を結月に見せたくはなかった」

 暁生が言った出鱈目は結月を思ってのものだった。

「私のために、そこまでしてくれたのですか……?」
「当たり前だろう。結月を守るのは俺の役目だ」

 無邪気に微笑んだ暁生の姿に、胸が締め付けられるような感覚になった。
 込み上げてくる喜びと感動が抑えきれそうになくて、そのままじっと暁生を見つめることしかできない。初めての感情、どう表現したら暁生に伝わるのだろうか。

「当主じゃなくてがっかりしたか?」

 沈黙をする結月に、暁生は少し不安そうに尋ねた。

「滅相もないです。私は、暁生様のお人柄に惹かれました」

 慌てて否定して深呼吸をし、自分の正直な気持ちや感情をたどたどしくも丁寧に言葉に紡いでいく。

「霧生院家とか、当主とか、そういうものは関係ありません。暁生様だったから。こんな私を巫女と認めてくれて、必要としてくれて、愛してくれて……。ありがとうございます。私は今、とても幸せです」

 満面の笑みの中でうっすらと涙を溜めている蒼い瞳と、風にそよぐ銀色の髪。その全てが宝石のように(きら)めいている。
 暁生は流れるような所作で握りしめていた結月の手を持ち上げると、小さな手の甲に唇を当てた。
 
「これからもっと幸せにする、約束しよう。だから、今みたいに俺の隣で笑っていてくれ」
「……はい」

 暁生と過ごす未来への希望で心が満たされていていく。怖いものなんて、もう何もないと思えた。

「さて、お二人様。続きは霧生院家に帰ってから正式に()り行いましょうか」

 パンパンと手を叩いた音が響く。小さな笑みを浮かべている藤仁が割って入ってきたのだ。
 結月は改めて、今までのやりとりが見られていたと気がついた。恥ずかしさが一気に押し寄せてきて、急激に顔も熱くなっていく。
 誰とも目を合わせることができずに地面の方に視線を落とした。

 暁生は「いいところだったのに」と無言の圧を飛ばしていたが、藤仁は口元をわずかに緩めているだけだった。
 しかし、それが藤仁なりの今できる祝福の形だということは暁生には伝わっていた。

「本当に、真面目な部下を持つと苦労する」
「ええ。これも暁生様のおかげですよ」

 いつもの掛け合いだったが、いつも以上に微笑ましく和やかな空気が流れていた。

「……では、結月。そろそろ行こうか」

 暁生は改めて結月の手を握ると、丁重に馬車へと誘導した。
 
 十六年過ごした御屋敷が背後に見える。でも、もう過去を振り返ったりしない。
 絶望の淵で泣いていた自分は、もうどこにもいない。
 これからは、この人と、前を見て歩いて行ける。

「暁生様。不束者ですが、よろしくお願いいたします」
 
 二人を乗せた馬車が未来へと走り出した。