正門を抜けた先に、二台の馬車が停まっているのが見えた。そばにいる護衛がこちらの姿に気づき、慌てた様子で駆け寄ってくる。
「やはりご無事でしたか! 屋敷の方であやかしの気配を感じたものの、濃い瘴気の膜に阻まれ中に入れず……。申し訳ございません」
 その護衛は力になれなかったことを悔やんでいたが、そんなことはないと暁生はふっと笑ってみせた。
「お前がここにいてくれなかったら、馬たちが瘴気に当てられて帰れなくなってたかもしれん。最初の命を全うしてくれたんだ、感謝する」
「もったいないお言葉、ありがとうございます」 
 護衛は敬礼をし、深く頭を下げた。
 暁生の言葉を噛み締めるように唇をきゅっと結んでいる。悔しさが消え、暁生に対する忠誠心のようなものが強く現れていた。
 ──これが滅妖師(めつようし)当主、暁生様の姿……。
 彼の立ち振る舞いは、はたから見ていた結月も見惚れてしまうほど雄々しく、堂々としたものだった。
「馬車にはいつでもご案内できますので」
 護衛は馬車の扉を丁寧に開ける。 
「……結月、もう出発して大丈夫か?」
 暁生の言葉には「もう帰ってくることはないぞ」という確認と、覚悟が感じられた。 
 ──ここに未練はない。
 思い出は胸の中だけでいい。何より唯一残されていた物は、今髪に挿している母の(かんざし)のみだ。
 結月は小さく頷いて答えた。
 すると、護衛が控えめながらも不思議そうな表情で問いかけた。
「暁生様、この巫女様は……? 」
 巫女装束に似合わない銀色の髪に視線を向けているのがわかる。
 気まずそうにしている中、暁生は晴れ晴れとした青空のように爽やかに笑った。 
「俺の婚約者だ。綺麗だろう」
 暁生はさりげなく結月の手を握る。
「結月がいたからあやかしを滅することができた。俺が認めた巫女であり、共に未来を歩きたいと思った女性だ」 
 誇らしげに告げた暁生の言葉が涙腺を刺激する。大きな手のひらはとても暖かかく、その姿が胸を高鳴らせた。
 ──誰かが守ってくれる。なんて嬉しいことなんだろう。
 嬉しさでつい暁生の手を強く握ってしまったが、それに応えるように彼はぎゅっと握り返してくれた。
「左様でございましたか! ご婚約おめでとうございます! 屋敷でお待ちの当主様も、さぞお喜びになるでしょう!」
 護衛は胸に手を当て、敬礼をしながら二人に祝福の言葉を送る。
「次期当主である暁生様のご婚約、今日は鵠宮家も大忙しになりますね!」 
 気合いを入れた護衛は、嬉々としながらそう続けた。
 屋敷内での一悶着を知らない護衛の呑気(のんき)な姿に、暁生は耐えきれず大笑いし、藤仁(ふじひと)は眉間に手を当て小さく頭を抱えた。
 結月と護衛は、少し不思議そうな視線を二人に向ける。
「しかしまあ、よくも息を吐くようにあんなデタラメが言えたもんだ。さすがは藤仁だな」
 くっくっと笑いながら言う暁生に、藤仁は眼鏡を直しながらため息を漏らす。
「最初にデタラメを言い出したのは貴方ですよ。まったく、合わせるほうの身にもなっていただきたいものです」
 何がどうデタラメなのか、結月にはいまひとつピンときていなかった。
「……暁生様、藤仁様。それはいったい、どういう意味ですか?」
 おずおずと尋ねると、暁生は一息ついて笑いを収め、いたずらそうに微笑だ。
「藤仁が屋敷で『婚約を結んだ時点で現当主に引き継がれる』って言ってただろう? あれは嘘なんだ」
「……え?」
 きょとんとすると、すぐさま藤仁が冷静に付け足した。
「鵠宮家に、そんなしきたりはございません。しかるべき手続きや儀式を終えて、初めて現当主へと引き継がれます」
 ──どうして、そんな嘘を……? 
 理解が追いつかずにいるところに、暁生が顔を傾けて目線を合わせてきた。 
「ああ言えばもう引き留めないだろうと、咄嗟(とっさ)にな。それに、どんなに非道でも結月にとっては家族だったんだ。あれ以上、家族の醜い姿を結月に見せたくはなかった」
 暁生が言ったデタラメは、自分を思ってのものだった。
「私のために、そこまでしてくれたのですか……?」
「当たり前だろう。結月を守るのは俺の役目だ」
 無邪気に微笑んだ暁生の姿に、胸が締め付けられるような感覚がした。
 込み上げてくる喜びと感動が抑えきれそうになくて、じっと彼を見つめることしかできない。初めての感情は、どう表現したら暁生に伝わるのだろうか。
「当主じゃなくてがっかりしたか?」
 沈黙する結月に、暁生は少し不安そうに尋ねた。
「そんな……滅相もないです! 私は、暁生様のお人柄に惹かれましたから」
 慌てて否定し、深呼吸をする。
 自分の正直な気持ちや感情を、たどたどしくも丁寧に言葉に紡いでいく。
「鵠宮家とか、当主とか、そういうものは関係ありません。暁生様だったから。こんな私を巫女と認めてくれて、必要としてくれて、愛してくれて……。ありがとうございます。私は今、とても幸せです」
 頬がふわりと熱を帯びるのを感じる。
 目の端に涙がにじみ、肌を撫でる風がそっと銀色の髪を揺らした。
「……結月」 
 そう呟いた暁生は、流れるような所作で握りしめていた彼女の手を持ち上げる。
 そして、小さな手の甲に唇を落とした。
「これからもっと幸せにする、約束しよう。だから、今みたいに俺の隣で笑っていてくれ」
「……はい」
 暁生と過ごす未来への希望で心が満たされていていく。怖いものなんて、もう何もないと思えた。
「さて、お二人様。続きは鵠宮家に帰ってから正式に()り行いましょうか」
 パンパンと手を叩いた音が響いた。
 小さな笑みを浮かべている藤仁が割って入ってきたのだ。
 結月は改めて、今までのやりとりが見られていたと気がついた。
 恥ずかしさが一気に押し寄せてきて、急激に顔も熱くなっていく。誰とも目を合わせることができずに、地面の方に視線を向けた。
 暁生は「いいところだったのに」と無言の圧を飛ばしていたが、藤仁は口元をわずかに緩めているだけだった。
 しかし、それが藤仁なりの今できる祝福の形だということは暁生には伝わっていた。
「本当に、真面目な部下を持つと苦労する」
「ええ。これも暁生様のおかげですよ」
 いつもの掛け合いだったが、いつも以上に和やかな空気が流れていた。
「では、結月。そろそろ行こうか」
 暁生は改めて結月の手を握ると、丁重に馬車へと誘導した。
 
 十六年過ごした御屋敷が背後に見える。
 でも、もう過去を振り返ったりしない。絶望の淵で泣いていた自分は、もうどこにもいないから。 
 これからは、この人と、前を見て歩いて行ける。
「暁生様。不束者ですが、よろしくお願いいたします」
 二人を乗せた馬車が未来へと走り出した。