巫女装束に着替えを終えた結月は、叔母から渡された絶縁状を広げていた。墨が滲んでいるそれを見て、ただ淡々と思う。
──今更こんなもの、いらないのに。
両親を亡くしてからの五年間。
この暮らしの中に家族の温もりなど、とうに存在していなかった。必要以上に蔑まれ、時には空気のように扱われる日々。
だからこそ、絶縁状を手にしたところで驚きも悲しみもない。
ただ、形として残したかったのだろう。『忌み子とはこの先何があっても何の関係もありません。責任取りません。赤の他人です』という、何よりの証拠になるのだから。
そんな現実を叩きつけられても、もう涙さえ出なかった。悲しいとか、苦しいとか、そんな感情はもうすでに枯れていた。
ふと、式神の気配を感じ取る。
思わず顔を上げ、視線を向けと、青白く輝く蝶がひらひらと舞っていた。
──誰の式神? 紫明野家にこんなに綺麗な式神を使う人、いた?
音もなく羽ばたいている蝶に一瞬見入ってしまったが、どこかでじっと見られているような気がして次第に不安が膨らんでいった。
──誰……?
蝶から感じるのは、突き刺さるような視線。
──私を見ないで……!
そんな思いが強く心に浮かんだ瞬間、蝶は泡が弾けるように消えてしまった。
◆◆◆
暁生は目を閉じたまま、式神越しに景色を見つめていた。
辿り着いた先は、辺鄙な場所に建っている小屋の前。
──こんなところに巫女が?
不思議に思いながらも、式神はそのまま小屋の壁を抜ける。
そして目の前に現れた女性に、視線を奪われた。
絹のように絡みのない銀髪。空を映したかのように透き通っている蒼玉色の瞳に、憂いを帯びている横顔。どこか儚げな女性を、素直に美しいと感じた。
ただ、疑問も過ぎる。
──この巫女が婚約者? 黒髪じゃないのか?
更に目を凝らし、彼女が手にしている文を覗き込む。
──絶縁状?
そこまで見えたとき、彼女がこちらに目を合わせてきた。
心臓が一度、跳ね上がった。
式神が見破られたこと以上に、彼女が顔を上げた瞬間になびいた銀色の髪と見上げた瞳の綺麗さに、心を奪われてしまったからだ。
だがその瞬間、式神が消えてしまった。消された、と言った方がいいかもしれない。
瞬時に式神を消すなんて、相当な神力の持ち主だろう。それに、見合いの日に絶縁状とは不可解すぎる。彼女の苦しげで泣きそうな顔には、何か深い理由があるはずだ。
その理由を、知りたくなった。
「藤仁、俺はこの銀髪の巫女と結婚するぞ」
「銀髪? 巫女なのに、ですか?」
すっと目を開けた暁生が意気揚々と言うと、藤仁は怪訝そうな表情で彼をちらりと覗き込こんだ。
「そうだ。綺麗な女性だった。一目惚れした」
「左様ですか。暁生様の一目惚れはこれで何度目ですかね。しかし銀髪の巫女だなんて、聞いたことがありませんよ?」
「俺もない。だから、興味が湧いた」
暁生が言い終わったと同時に、重々しく正門が開かれる。
ちょうど正午を迎えたのだとわかった。
「鵠宮家の方々、お待ち申し上げておりました。本日は遠路はるばるお越しいただき、心より深く感謝申し上げます」
そう言って腰を折ったのは、五十代くらいの男性。白髪交じりの髪を後ろでしっかりとまとめ上げ、黒い着物を身に纏った出で立ちは、威厳と風格を感じさせる。
おそらく、紫明野家の当主だろう。
彼の襟元には金の糸で緻密に刺繍された家紋が輝いていた。三つ巴紋の上に、菊の花。その家紋が紫明野家の象徴だ。
「とんでもないです。こちらこそ、本日はこのような機会を設けていただき、誠にありがとうございます。素晴らしいご縁に、心より感謝を申し上げます」
男性よりもさらに深く腰を折ってそう言ったのは藤仁だった。その挨拶の言葉に無駄なものは一切なく、相手を敬う気持ちがひしひしと伝わってきた。
「これはこれは。わたしは紫明野家の当主、宗一郎と申します。して、そちらにお見えされておりますのが暁生様でいらっしゃいますか?」
「はい、わたくしが鵠宮暁生でございます。この日を待ち望んでおりました。不束者ではございますが、どうぞ本日は何卒よろしくお願い申し上げます」
暁生は胸に手を当て軽く会釈をした。
所作は乱れなく、気品ある美しさが感じられる。彼の顔の横に垂れた髪がさらりと揺れた。
その洗練された立ち振る舞いに、出迎えにいた数人の侍女たちは息を呑み、ため息をもらす。
「さすがは鵠宮家のご嫡男。滅妖師としてのご活躍、予々耳にしております。立ち話もなんですな。どうぞ、お中へお入りください」
暁生は護衛の一人に「馬を見ていてくれ」と指示し、見合いの場へは男五人で向かうことにした。
案内役の侍女たちが先を歩き出し、暁生たちはその後ろについて屋敷の中へと足を踏み入れる。
「さすがは暁生様。外面の良さは完璧ですね」
歩いている最中、藤仁がくすっと笑うのが横目に入った。
「だろう? 完璧主義者だからな」
藤仁の皮肉に乗るように口角を上げ、軽く息をついた。
「まあ、巫女に会うまでの我慢だ。名はなんというのだろう。あの綺麗な髪、一度触れてみたいものだ」
「珍しいですね。ただの一目惚れで暁生様がそこまで入れ込んでしまうなんて」
「こんなに胸が騒ぐなんて初めてかもしれん」
「ああ、それはもう五十回くらい耳にしていますから、珍しくともなんともなかったですね」
藤仁が眼鏡を押し上げながら、ふうとため息をつく。
確かに、これまでにも何度か言ったような気はする。
だが今回は、本当に初めてだと思った。
銀髪の巫女。たった一瞬で自分の式神を消し去る力。そして、どこか孤独をまとったような佇まい。
気にならない方が、おかしいだろう。
石畳の道を歩きながら、左右に広がる庭園へと何気なく視線を流す。
手入れの行き届いた広大な庭園、池の中では鯉が自由に泳ぎ回り、その景色は優雅な美しさを放っていた。
庭園を越え、屋敷の中へと足を踏み入れる。
塵一つ見当たらない長い廊下を歩き、いくつもの部屋を通り過ぎた先。そこが見合いの場となる和室だった。
「お待たせいたしました。こちらの中でお待ちになられております」
案内役の侍女が襖を静かに開ける。
庭が一望できるその和室は二十畳ほどの広さを誇り、無駄に広い空間が特別感を漂わせていた。座卓は色とりどりの料理で埋め尽くされている。小鉢がいくつも並んでいて、箸をつつくのも一苦労しそうだ。
「本日は、お越しいただきありがとうございます」
襖の前で正座し深々と頭を下げたのは、黒髪をきちんと結い上げた若い女性だった。上品な菊の模様が一面に刺繍された赤い着物を着ている。
その後ろでは黒留袖を着た四十代くらいの女性が同じように頭を下げていた。見たところ、母親に違いないだろう。
頭を上げた母親らしき女性は手のひらを綺麗に揃えて上座を示し、「どうぞ、こちらへ」と促した。
暁生は見合い相手の女性と向かい合うように、座卓の中央で正座した。横には藤仁、その対面に母親が座る。護衛たち三人は後ろに座らせた。
「お父様も、まもなくお見えになられます。お待たせしてしまい申し訳ございません」
見合い相手の女性が軽く頭を下げる。先ほど正門で出迎えてくれた当主、宗一郎がまだ見合いの場にいなかった。
「とんでもない。こちらはなにせ父は不在なもので、不躾で申し訳ない」
「いえ、暁生様のお父様も滅妖師を仕切る当主、さぞご多忙のことでしょう。暁生様におかれましても、こうしてお越しいただき誠にありがとうございます」
そう言って、にこりと笑う見合い相手。赤褐色の瞳が落ち着いた輝きを放ち、十五歳にしては大人びた印象を与える。
それなりに整った顔立ちは決して悪くはない、が。
──あの銀髪の巫女はどこだ?
周囲を見回してみたが、彼女の気配さえも感じられない。
──彼女が見合い相手、婚約者ではなかったのか?
再び彼女の元へ式神を飛ばそうと考えた。だが、それを察した藤仁が「今はお戯れをするときではない」とでも言うが如く、凄まじい形相で睨んできたため仕方なく肩を落とした。
そうこうしているうちに、父親が姿を見せる。
「暁生様、遅れてしまい申し訳ない。歳のせいか最近腰の調子が悪くて。薬を飲んできましたので、もう大丈夫かと」
「お父様! 待ちくたびれましたわ! 早くこちらへ座って!」
圧さえ感じる娘の言い方に、父親は少し戸惑いながらおずおずと空いている座布団に正座をした。
正門での堂々とした姿からは想像もつかないその変化。
ほんの一瞬のやり取りで、見合い相手が家の中でどれほどの優位を占めているのかが、はっきりと伝わった。
──紫明野家は女性が中心の家系なのか。
まあそれも、巫女の一族であれば仕方ないことなのだろう。
これでようやく場が整ったという空気が流れる。
暁生は屈託のない笑顔を貼り付けて、口を開いた。
「銀髪の巫女は今、どこにいらっしゃいますか?」
その言葉に、三人の顔が一瞬だけ硬直する。
彼女たちの微妙な変化を暁生は見逃さなかった。
──今更こんなもの、いらないのに。
両親を亡くしてからの五年間。
この暮らしの中に家族の温もりなど、とうに存在していなかった。必要以上に蔑まれ、時には空気のように扱われる日々。
だからこそ、絶縁状を手にしたところで驚きも悲しみもない。
ただ、形として残したかったのだろう。『忌み子とはこの先何があっても何の関係もありません。責任取りません。赤の他人です』という、何よりの証拠になるのだから。
そんな現実を叩きつけられても、もう涙さえ出なかった。悲しいとか、苦しいとか、そんな感情はもうすでに枯れていた。
ふと、式神の気配を感じ取る。
思わず顔を上げ、視線を向けと、青白く輝く蝶がひらひらと舞っていた。
──誰の式神? 紫明野家にこんなに綺麗な式神を使う人、いた?
音もなく羽ばたいている蝶に一瞬見入ってしまったが、どこかでじっと見られているような気がして次第に不安が膨らんでいった。
──誰……?
蝶から感じるのは、突き刺さるような視線。
──私を見ないで……!
そんな思いが強く心に浮かんだ瞬間、蝶は泡が弾けるように消えてしまった。
◆◆◆
暁生は目を閉じたまま、式神越しに景色を見つめていた。
辿り着いた先は、辺鄙な場所に建っている小屋の前。
──こんなところに巫女が?
不思議に思いながらも、式神はそのまま小屋の壁を抜ける。
そして目の前に現れた女性に、視線を奪われた。
絹のように絡みのない銀髪。空を映したかのように透き通っている蒼玉色の瞳に、憂いを帯びている横顔。どこか儚げな女性を、素直に美しいと感じた。
ただ、疑問も過ぎる。
──この巫女が婚約者? 黒髪じゃないのか?
更に目を凝らし、彼女が手にしている文を覗き込む。
──絶縁状?
そこまで見えたとき、彼女がこちらに目を合わせてきた。
心臓が一度、跳ね上がった。
式神が見破られたこと以上に、彼女が顔を上げた瞬間になびいた銀色の髪と見上げた瞳の綺麗さに、心を奪われてしまったからだ。
だがその瞬間、式神が消えてしまった。消された、と言った方がいいかもしれない。
瞬時に式神を消すなんて、相当な神力の持ち主だろう。それに、見合いの日に絶縁状とは不可解すぎる。彼女の苦しげで泣きそうな顔には、何か深い理由があるはずだ。
その理由を、知りたくなった。
「藤仁、俺はこの銀髪の巫女と結婚するぞ」
「銀髪? 巫女なのに、ですか?」
すっと目を開けた暁生が意気揚々と言うと、藤仁は怪訝そうな表情で彼をちらりと覗き込こんだ。
「そうだ。綺麗な女性だった。一目惚れした」
「左様ですか。暁生様の一目惚れはこれで何度目ですかね。しかし銀髪の巫女だなんて、聞いたことがありませんよ?」
「俺もない。だから、興味が湧いた」
暁生が言い終わったと同時に、重々しく正門が開かれる。
ちょうど正午を迎えたのだとわかった。
「鵠宮家の方々、お待ち申し上げておりました。本日は遠路はるばるお越しいただき、心より深く感謝申し上げます」
そう言って腰を折ったのは、五十代くらいの男性。白髪交じりの髪を後ろでしっかりとまとめ上げ、黒い着物を身に纏った出で立ちは、威厳と風格を感じさせる。
おそらく、紫明野家の当主だろう。
彼の襟元には金の糸で緻密に刺繍された家紋が輝いていた。三つ巴紋の上に、菊の花。その家紋が紫明野家の象徴だ。
「とんでもないです。こちらこそ、本日はこのような機会を設けていただき、誠にありがとうございます。素晴らしいご縁に、心より感謝を申し上げます」
男性よりもさらに深く腰を折ってそう言ったのは藤仁だった。その挨拶の言葉に無駄なものは一切なく、相手を敬う気持ちがひしひしと伝わってきた。
「これはこれは。わたしは紫明野家の当主、宗一郎と申します。して、そちらにお見えされておりますのが暁生様でいらっしゃいますか?」
「はい、わたくしが鵠宮暁生でございます。この日を待ち望んでおりました。不束者ではございますが、どうぞ本日は何卒よろしくお願い申し上げます」
暁生は胸に手を当て軽く会釈をした。
所作は乱れなく、気品ある美しさが感じられる。彼の顔の横に垂れた髪がさらりと揺れた。
その洗練された立ち振る舞いに、出迎えにいた数人の侍女たちは息を呑み、ため息をもらす。
「さすがは鵠宮家のご嫡男。滅妖師としてのご活躍、予々耳にしております。立ち話もなんですな。どうぞ、お中へお入りください」
暁生は護衛の一人に「馬を見ていてくれ」と指示し、見合いの場へは男五人で向かうことにした。
案内役の侍女たちが先を歩き出し、暁生たちはその後ろについて屋敷の中へと足を踏み入れる。
「さすがは暁生様。外面の良さは完璧ですね」
歩いている最中、藤仁がくすっと笑うのが横目に入った。
「だろう? 完璧主義者だからな」
藤仁の皮肉に乗るように口角を上げ、軽く息をついた。
「まあ、巫女に会うまでの我慢だ。名はなんというのだろう。あの綺麗な髪、一度触れてみたいものだ」
「珍しいですね。ただの一目惚れで暁生様がそこまで入れ込んでしまうなんて」
「こんなに胸が騒ぐなんて初めてかもしれん」
「ああ、それはもう五十回くらい耳にしていますから、珍しくともなんともなかったですね」
藤仁が眼鏡を押し上げながら、ふうとため息をつく。
確かに、これまでにも何度か言ったような気はする。
だが今回は、本当に初めてだと思った。
銀髪の巫女。たった一瞬で自分の式神を消し去る力。そして、どこか孤独をまとったような佇まい。
気にならない方が、おかしいだろう。
石畳の道を歩きながら、左右に広がる庭園へと何気なく視線を流す。
手入れの行き届いた広大な庭園、池の中では鯉が自由に泳ぎ回り、その景色は優雅な美しさを放っていた。
庭園を越え、屋敷の中へと足を踏み入れる。
塵一つ見当たらない長い廊下を歩き、いくつもの部屋を通り過ぎた先。そこが見合いの場となる和室だった。
「お待たせいたしました。こちらの中でお待ちになられております」
案内役の侍女が襖を静かに開ける。
庭が一望できるその和室は二十畳ほどの広さを誇り、無駄に広い空間が特別感を漂わせていた。座卓は色とりどりの料理で埋め尽くされている。小鉢がいくつも並んでいて、箸をつつくのも一苦労しそうだ。
「本日は、お越しいただきありがとうございます」
襖の前で正座し深々と頭を下げたのは、黒髪をきちんと結い上げた若い女性だった。上品な菊の模様が一面に刺繍された赤い着物を着ている。
その後ろでは黒留袖を着た四十代くらいの女性が同じように頭を下げていた。見たところ、母親に違いないだろう。
頭を上げた母親らしき女性は手のひらを綺麗に揃えて上座を示し、「どうぞ、こちらへ」と促した。
暁生は見合い相手の女性と向かい合うように、座卓の中央で正座した。横には藤仁、その対面に母親が座る。護衛たち三人は後ろに座らせた。
「お父様も、まもなくお見えになられます。お待たせしてしまい申し訳ございません」
見合い相手の女性が軽く頭を下げる。先ほど正門で出迎えてくれた当主、宗一郎がまだ見合いの場にいなかった。
「とんでもない。こちらはなにせ父は不在なもので、不躾で申し訳ない」
「いえ、暁生様のお父様も滅妖師を仕切る当主、さぞご多忙のことでしょう。暁生様におかれましても、こうしてお越しいただき誠にありがとうございます」
そう言って、にこりと笑う見合い相手。赤褐色の瞳が落ち着いた輝きを放ち、十五歳にしては大人びた印象を与える。
それなりに整った顔立ちは決して悪くはない、が。
──あの銀髪の巫女はどこだ?
周囲を見回してみたが、彼女の気配さえも感じられない。
──彼女が見合い相手、婚約者ではなかったのか?
再び彼女の元へ式神を飛ばそうと考えた。だが、それを察した藤仁が「今はお戯れをするときではない」とでも言うが如く、凄まじい形相で睨んできたため仕方なく肩を落とした。
そうこうしているうちに、父親が姿を見せる。
「暁生様、遅れてしまい申し訳ない。歳のせいか最近腰の調子が悪くて。薬を飲んできましたので、もう大丈夫かと」
「お父様! 待ちくたびれましたわ! 早くこちらへ座って!」
圧さえ感じる娘の言い方に、父親は少し戸惑いながらおずおずと空いている座布団に正座をした。
正門での堂々とした姿からは想像もつかないその変化。
ほんの一瞬のやり取りで、見合い相手が家の中でどれほどの優位を占めているのかが、はっきりと伝わった。
──紫明野家は女性が中心の家系なのか。
まあそれも、巫女の一族であれば仕方ないことなのだろう。
これでようやく場が整ったという空気が流れる。
暁生は屈託のない笑顔を貼り付けて、口を開いた。
「銀髪の巫女は今、どこにいらっしゃいますか?」
その言葉に、三人の顔が一瞬だけ硬直する。
彼女たちの微妙な変化を暁生は見逃さなかった。



