「あ、二人ともおかえりー」
カフェから帰ると飛斗さんが出迎えてくれた。
「ただいま、飛斗。何か変わった事はなかった?」
「特にないですよ。」
「和馬は?」
「いつも通り、部屋に籠ってます。お昼ご飯は食べてました。」
「ならいっか。って、春香ちゃん?どうしたの?」
「これ、限定のやつですよね!?」
「「え?」」
二人の会話をそっちのけで聞いたのは、飛斗さんの手に握られているペンが私の好きなキャラクターの限定品だったからだ。
「このペン、限定品ですぐ売り切れたやつですよね!?どこで買ったんですか!?」
このビジュアルが発表されてからグッズ発売まで期間があった。だから予約をしようと予約開始日に頑張ったが、サーバーが落ちて買えなかったのだ。なら店頭で買おうと発売日にお店に並んだがすぐ売り切れてしまい、泣く泣く諦めたのだった。
それが今、本物を見れるなんて。今死んでも後悔はない。
「このキャラクター、好きなの?」
「大好きです。」
飛斗さんはペンを私に渡した。やっぱり可愛い。今からでもフリマアプリで買おうかな。
「俺このペン、予備でもう二本買ってるからあげようか?」
「うそ!」
自分でも驚く程の声量だった。飛斗さんは苦笑いしていた。
「ほんとだよ。俺もこのキャラクター好きだから使う用と保管用、観賞用で三本買ってた。」
「え、それなのに私にあげたら無くなっちゃうじゃないですか。」
「欲しかったんでしょ?だったらあげるよ。ついてきて。」
遥さんに軽く頭を下げて、飛斗さんの後ろをついて行った。
「部屋かなり散らかってるんだけど気にしないで。」
「はーい。お邪魔しまーす」
飛斗さんの部屋に入ると、私と同じ部屋の形のはずなのに全然違って見えた。それは多分、勉強机が置いてあるからだろう。
「ちょっと待ってね。えっと...どこにしまったっけな。」
飛斗さんが勉強机の近くにある棚を探している間、部屋をぐるりと見渡した。壁には本棚が設置されており、漫画がぎっちり詰まっている。そして床には漫画を描く時に使われる紙が落ちていた。
「あった!はいこれ。」
「ありがとうございます!」
新品未開封のペンを渡されて、本当にこのキャラクターが好きというのが伝わってきた。私も使わずに保管しておこうかな。
「春香ちゃんってアニメとか漫画とか好きな人?」
飛斗さんは勉強机の近くにあった椅子に座った。私には簡易用の椅子を用意してくれた。
「めちゃくちゃ好きです!最近だとカードゲームのアニメが好きですね。」
「まじ?俺も好きでさ、カフェの一角をそのグッズコーナーにしちゃった。」
「めっちゃいいと思います!あのアニメの良さをもっと世の中に広めましょう。」
両手を胸の前で握って言うと、飛斗さんは声を出して笑った。
「ほんっと、春香ちゃんって面白いよね。他の女の子とは違う。」
「そうですか?それより、飛斗さんって漫画を描くんですか?」
漫画を描く紙が床に落ちていたという事は、そういう事だ。是非とも読ませてもらいたい。
「あぁ、うん...」
歯切れの悪い返事が返ってきた。表情もどこか暗くなった気がする。
「飛斗さん...?」
「そんなに上手じゃないから人には見せられないかな。ごめんね。」
早口でそう言うと、床に落ちていた紙を拾い始めた。
「手伝いますよ。」
「触るな!」
自分の座っている近くの紙に手を伸ばしたら飛斗さんに怒鳴られた。驚いて飛斗さんの方を見ると、はっと目を見開いていた。
「ごめんね、自分で拾うから大丈夫だよ。」
「あ...わかりました。私、自分の部屋戻りますね。ペン、ありがとうございます。大事にします。」
「またいつでもアニメの話しにおいでー」
いつもの飛斗さんに戻っていたが、怒鳴られた事が頭から離れなくてなにも返事が出来なかった。
「はぁ...疲れた...」
自分の部屋に戻った私は服を着替えず、そのままベットにダイブした。今日は本当に楽しかったが、疲れたのも事実だ。
「寝ちゃおっかな...」
夕方に寝るなんて絶対良くないが、どうせ明日からまた忙しい毎日が始まるのだ。残りの時間はダラダラして過ごそう。
そう自分に言い聞かせて眠りについた。
夢を見た。家族三人で、なんて事ない毎日を過ごしているのを現実の私は永遠と見ている事しか出来なかった。
いいなぁ。三人とも楽しそうで。ただ見ている事しか出来ないんだったら、こんな夢見なくていいのに。
「早く目覚めないかなぁ...」
そう呟くと同時に視界が歪んだ。もうすぐ夢から覚める合図だ。
「ん...」
「あ、春香ちゃん起きた。」
「え!飛斗さん!?」
目を開けると目の前に飛斗さんが居た。驚いて飛び起きると、壁に頭をぶつけた。
「痛い...」
「大丈夫?ごめんね、驚かせちゃって。」
「全然大丈夫です。でもなんで飛斗さん、私の部屋に?」
「遥さんが夕飯出来たから春香ちゃん呼んできてって言われて、部屋の外から声掛けても返事ないから心配で入っちゃった。ごめんね。」
「そうだったんですね。もうそんな時間なんだ。」
スマホの時計を見ると、二十時と表記されていた。結構寝てしまったみたいだ。夜、寝れるかわからない。
「大丈夫?結構うなされてたけど。」
「ほんとですか?まぁ、いつもの事なんで大丈夫です!」
あの夢を見ると絶対にうなされる。自分で気付く事もあれば、気づかない時もある。でも特に気にしていないから放っておいてる。
「なんか辛い事あったらすぐ俺とか遥さんに言うんだよ。春香ちゃんが良ければ和馬でもいいけど。」
「和馬さんと話してみたいんですけどねぇ。」
和馬さんは本当に部屋から出てこない。カフェも混んでこないと出てこないから、お客さんからもレアな人扱いされていて、いついるのかよく聞かれる。そんなの私が聞きたいよと思いながらわからないんですと返答している。
「ドアどんどんして話しかけに行けば?」
「借金取りみたいじゃないですか。尚更出て来なくなりますよ。」
二人で顔を見合わせて笑った。遥さんと話す時とはまた違った楽しさがあって、もっと飛斗さんの事を知りたいと思った。
「ちょっと二人とも?ご飯冷めちゃうわよ。って、飛斗、何してんの!」
遥さんが私達を呼びに来た。その時の格好がまずかったみたいだ。私が壁にくっついていて、飛斗さんが壁に手をついている。いわゆる壁ドンというやつだ。
「え、いや、これには深い訳が...!」
「そんな言い訳聞きません!どきなさい!」
「ぐへっ」
「春香ちゃん、大丈夫?なにかされてない?」
遥さんは飛斗さんを退かすと、私の両肩に手を置いて聞いてきた。その目が怖くてつい目を逸らした。
「大丈夫ですよ。何もされてません。」
「ほんとに?口止めされてるとかじゃなくて?」
「遥さん、俺の事どう見てるんですか?」
「あんたは黙ってて。今私は春香ちゃんに聞いてんの。」
「ひゃー、怖い」
「で、どうなの?春香ちゃん。って、なんで笑ってるの!」
二人のやり取りが面白くて、笑いが堪えきれなかった。
「二人のやり取りが面白くて...ちょっ、お腹痛い...」
「えぇ、なら本当に何もされてないのね?」
「遥さん、こんなに笑ってるのにまだ俺を疑うんですか?」
「あんたならやりかねないでしょ!前にお客さんナンパした事あったぐらいだし。」
「あれは!実験ですよ。漫画を描く為の。遥さん、あの時ノリノリで許可したじゃないですか!」
「そうだったかしら。覚えてないわね。」
「遥さーん、俺泣いちゃいますよ。」
「んふふふ」
二人の会話が面白くて笑いが止まらない。この二人が漫才のコンテストに出たら優勝すると思う。
「春香ちゃんの笑いがおさまったらご飯食べおいで。飛斗、春香ちゃんに変な事しちゃダメだからね。」
「しないですって!」
遥さんが部屋から出て行き、再び私と飛斗さんが残された。
「ねぇ、そんなに面白いの?」
遥さんが部屋から出て行ってもなお笑っている私を、飛斗さんは引き気味に聞いてきた。
「面白いですよ。こんなに笑ったの、いつぶりだろう...」
自分が笑いのツボが浅い自覚はある。だから例え箸が転がっただけで面白いのだが、この二人の会話は群を抜いて面白かった。
「まぁ、笑う事はいい事だからね。俺達の会話でそんだけ笑ってくれるならいつでもするよ。」
「ありがとうございます。でも高頻度ではやめてください。笑い死んじゃいます。」
「そんな死因聞いた事ないから大丈夫。でも死んだら悲しいからやめとくね。」
「是非そうしてください。」
「はいはい。さて、夕飯食べに行きますか。」
「はーい」
共有スペースに行くと、餃子のいい匂いがした。
「今日は餃子ですか!?私大好きなんですよね。」
机に料理を運んでいた遥さんに声を掛けた。
「あら、そうなの?知らなかったわ。冷蔵庫でニラが死にそうで、丁度餃子の皮もあったから作ったのよ。」
「めっちゃ嬉しいです!遥さんが作る料理ってなんでも美味しいから最近太ってきちゃってるんですよね。」
この家に住んでからまだ一ヶ月しか経っていないのに二キロも体重が増えてしまった。ここに来るまでに五キロ痩せていたからまだマイナスだが、太って喜ぶ人は居ない。
「でも春香ちゃん、元が細いからもっと太った方がいいわよ。折れちゃいそうで怖いもの。」
「そんな簡単に折れませんよ。あー、痩せなきゃなー」
「じゃあ餃子食べない?」
「そんな事は言ってません!食べます!いただきます!」
「うふふ」
取り分けられた分の餃子を口に詰め込んだ。
「あつっ」
出来たてだったみたいで、口の中で肉汁が溢れた。痛い。絶対火傷した。
「大丈夫?」
「大丈夫です。」
水を少し飲み、今度は小さく切ってから口に入れた。
「ん、美味しい!」
ニラの味と胡椒が丁度よく効いていて、どこか母親が作る餃子の味に似ていた。
「それは良かった。飛斗はどう?美味しい?」
「ふぇちゃくちゃおいひいでふ。」
「私から聞いといてなんだけど、飲み込んでから返答してくれない?なんて言ってるのかわかんない。」
遥さんにツッコまれて、飛斗さんは口に入ってる物を飲み込んでから話した。
「めちゃくちゃ美味しいです!どうしたらこんなに美味しい料理が作れるんですか?」
「料理が好きだからよ。でも飛斗は作るのやめときなさい。絶対向いてないから。」
「わかってますよーだから俺は食べる専門です!」
「あはは!」
三人でわちゃわちゃしながら夕飯を食べ進めていると。
「あれ、みんないつもより夕飯遅くない?」
和馬さんがやって来た。和馬さんを見るのはあの日、遥さんに怒られた時以来だ。
「昼間食べすぎちゃってね、夕飯を遅らせたのよ。和馬も一緒に食べる?」
「...食べる」
和馬さんはほんの一瞬私の方を見て返答した気がしたが、ほんの一瞬だったからよくわからない。
「なら用意するわね。ちょっと待ってて。」
「焦んなくて大丈夫だよ。別の事しとくから。」
和馬さんはそう言うと私の隣に座った。私も飛斗さんも、遥さんでさえ驚いていた。
「なに?みんなしてこっち見て。」
その視線に気がついたのか、私達を見渡した。
「いや、和馬が春香ちゃんの隣に座るとは思わなかったから。」
飛斗さんが代表して答えてくれた。和馬さんは怪訝そうな顔をした。
「だってここしか席空いてなかったし。誰の横で食べても料理の味は変わらない。」
「まあ、そうだけど...」
飛斗さんはそれ以上何も言えなくなってしまい、シーンとした空気が流れた。さっきまで楽しく会話していたのに。
「和馬さん、せっかく隣座ってるんですから話しましょうよ。」
シーンとしている環境が嫌で、スマホを見ている和馬さんに声を掛けると、あからさまに嫌な顔をされた。
「やだ。めんどくさい。ご飯食べに来ただけだから。」
また視線をスマホに戻そうとしたから。
「音楽好きなんですか?」
すかさず聞いてやった。いつもヘッドホンをつけているから気になっていたのだ。
「ねぇ、人の話聞いてる?」
「聞いてません。私は自分の知りたい事を聞きます。で、音楽好きなんですか?」
「...はあ。好きだよ。」
でかい溜息をつかれたが答えてくれた。答えてくれないと思っていたから嬉しかった。
「どういう曲が好きなんですか?」
つい調子に乗って追加の質問もしてしまった。今度こそ答えてくれないだろう。
「...そういう春香はどういう曲が好きなの?人に聞くんだったらまずは自分から教えないと。」
でも和馬さんは答えてくれた。それに...
「今、名前...」
「遥さんと同じ名前なんだから覚えてるに決まってるじゃん。俺の事なんだと思ってんの?」
「私に興味が無い男の人...?」
「それは一理あるけど。名前を覚えるぐらいはしてるよ。呼ぶ機会がないから呼ばなかっただけ。で?春香はなんの曲が好きなの?」
「色んなアニメを観るので、アニメの主題歌が好きです!最近だとカードゲームのアニメの主題歌にハマってます。」
カードゲームのアニメはアイドルの話だ。中学生や高校生の主人公達がアイドル業界を盛り上げる為に奮闘するストーリーで、衣装が可愛いのはもちろん、ストーリーもかなり凝っててキラキラした所だけではなく、人の嫉妬や業界の裏側まで描かれているから毎週観るのが楽しみだ。
「俺も俺も!そのアニメの主題歌好きだよ。アニメのストーリーと合ってるよね。」
飛斗さんが興奮気味に話に入ってきた。
「わかります!この主題歌がなかったらアニメは成功してないと言っても過言じゃないと思います。」
「...それは言い過ぎたよ。」
ぼそっと、夕飯を食べ始めた和馬さんが呟いた。それにムッとした。
「言い過ぎじゃないです!アイドル物のアニメは歌も大事なんですよ!?歌に力が入ってなかったらアイドル物のアニメをやる意味がなくなってしまいます。」
「じゃあ、そのアニメがなかったらこの歌は好きになってなかった?」
和馬さんに問いかけられていっしゅん考えた。だけどすぐ答えは出てきた。
「好きになってたと思います。だってめちゃくちゃ私好みの曲なんですから!」
私は前向きになれる曲が大好きだ。だからアニメの主題歌は私にぴったりなのだ。後ろ向きな歌という事がそんなにないから。
「ふーん。」
和馬さんは自分から聞いたくせに興味無さそうに返事した。
「私は質問に答えましたよ。だから和馬さんも好きな曲教えてください。」
「俺は...ぶっちゃけなんでも好きなんだよね。一つ一つ良さがあるから選べない。」
「なるほど...」
確かに、後ろ向きな曲でも良さがある。それがわかるなんて大人だ。
「さ、もうこれぐらいでいいでしょ。俺部屋に戻るから。遥さん、ご馳走様でした。」
和馬さんはいつの間にか夕飯を食べ終えていた。私達より遅く食べ始めたのに。
「お話できて嬉しかったです!またお話しましょうね!」
嫌われていると思っていた和馬さんに名前を覚えてもらえていて、しかも会話まで出来た。それが嬉しくて笑顔でそう言うと。
「...まあ、気が向いたらね。」
そっぽを向きながらも答えてくれた。それが嬉しくて和馬さんが部屋に戻った後も笑顔が止まらなかった。
「春香ちゃん良かったね。和馬と話できて。」
飛斗さんが子供を褒めるみたいな口調で言ってきた。
「はい!ずっと話してみたいと思ってたので本当に嬉しいです。今日は良い事だらけの一日でした!」
そんな私を二人は嬉しそうに見ていた。
「はぁ、明日からも頑張ろっと。」
夕飯を食べ終え、お風呂も終わった私は自分の部屋に戻る為、廊下を歩いていた。
「ん?これなんだろ。」
歩いていると四つ折りに折られた紙が落ちていた。それを拾って、悪いとは思いながら中を見た。
「これ...歌だ。」
紙にはびっしりと歌詞が書かれていた。赤ペンで修正している所もあるから作り途中なのだろう。落とした人は相当困ってるはずだ。
「誰のなんだろう。」
この家には私を含め四人しか住んでいない。でも私と遥さんを外すと候補は二人に絞られる。
「あ、春香ちゃん〜、明日の事なんだけど、今大丈夫かしら。」
飛斗さんと和馬さんに聞きに行こうとしたら遥さんに声を掛けられてしまった。
「はーい、大丈夫です。」
一旦紙をポケットに入れて、遥さんの話を聞きに行った。
この紙がきっかけであの人ともっと仲良くなるとは、この時は一ミリも思っていなかった。
「春香ちゃん、今日は付き添ってくれてありがとう。足大丈夫?」
「いえいえ、全然!休みだと私もやる事ないんでむしろ誘ってもらえて嬉しいです。足はもうすっかり良くなりました!」
「そう言ってもらえると助かる。」
私と飛斗さんはお店の定休日に文房具屋さんに来ていた。
なぜそうなったかと言うと、話は三日前に遡る。
「え、飛斗さんって漫画家を目指してるんですか?」
「うん。」
恥ずかしながら、でも誇らしそうに飛斗さんは頷いた。
カフェが開店する前のちょっとした時間。いつもは準備で終わる時間だが、今日は昨日の内に準備をある程度終わらせていたからお喋りの時間に出来た。
「漫画家って大変って言いますよね。週刊連載になると休む間がないって聞きます。」
「確かにそうなんだけど、そういう悪い噂ばかり広まるから漫画家が少なくなってるんだよ。良い事も沢山あるのに。」
「確かに。」
今、有名な漫画達は一昔前から描いてる人達ばかりだ。新人さん達の漫画も面白い事は面白いのだが、やはり既存の作品と比べると質は下がっている。それは週刊連載に慣れていない、根本的な体力がないからだと私は思っている。それでも私には出来ない事だから尊敬はしているが。
「飛斗さんはどういう系統のものを描くんですか?」
「俺は王道のバトルものかな。でもやっぱり敵が多くて俺だと全然叶わないんだよ。」
そう言って笑う飛斗さんは疲れた目をしていた。
「飛斗さんなら絶対漫画家になれますよ。」
そんな飛斗さんを励ましたくてついそう言うと、飛斗さんは一転、怒った。
「簡単にそう言うけど、その保証ってどこにあるの?」
「それは...」
「ないよね?だったら簡単に言わないで。春香ちゃんが思ってる程、漫画家って簡単な世界じゃないから。」
そこでちょうどお店を開店する時間になり、会話が終了してしまった。
どうしよう、飛斗さんを怒らせてしまった。私が何も考えないで発言したせいだ。早く謝りたいのに、こういう時に限って朝からお客さんが多い。お店にとっては良い事だが、今の私には良くない。せっかく仲良くなりかけてたのに、私の発言のせいで仲違いするのは嫌だった。
「いらっしゃいませー空いてるお好きな席どうぞー」
飛斗さんの声で、お客さんが入ってきた事に気がついた。いつもは席の片付けをしながらでもお客さんが入ってきたら気づくのに。考え事をしていて全然気づけなかった。
「あれ、元林?」
男性のお客さんは飛斗さんの事を知っているみたいだった。
「先輩...お久しぶりです。」
いつもはどんなお客さんに対しても元気な飛斗さんが、そのお客さんには固い表情だった。
「なんだよ、ここで働いてたのかよ。教えてくれたって良かったじゃんかよ。」
お客さんが飛斗さんの近くに行き、肩を組んだ。飛斗さんは引きつった笑顔だった。
「辞めた人がどこに働いてるかなんて先輩、興味あります?」
「ないけどさ、元林に関しては興味あるよ。だって漫画家になりたいからって給料が安定してる公務員を辞めたんだから。」
初耳だった。そして飛斗さんが引きつった笑顔なのも何となくわかった。
「で?漫画家になれたの?」
「いえ、まだなれてないです。」
「えぇ?もう公務員辞めて三年経つんだよ?それなのにまだなれてないの?」
「はい...」
「一緒に働いてた時から思ってたけど、元林って何やってもダメだよな。だからずっとこんな小さくて小汚いカフェで働く事になるんだよ。」
カフェの悪口を言われて、突っかかっていこうとしたら、先に飛斗さんがお客さんの手を払い除けた。
「先輩、俺の事はどう悪く言ったっていいですけど、このカフェの事を悪く言うのはやめてください。こんな俺を救ってくれた、大事なカフェなんです。」
「それはそれは失礼。だけど事実を言ってるからなぁ。」
店内をぐるりと見渡し、お客さんは馬鹿にするように笑った。ちなみに遥さんは休憩に行っていて居ない。
「だったらなんでこのカフェに来たんですか?小汚いと思うんだったら来なかったら良かったじゃないですか。」
飛斗さんが負けじと言い返した。
「次の用事まで時間があって、その時間潰しに入っただけ。それがまさか元林がいるカフェだったなんて。同期達に話したらなんて言うかな。三年前に漫画家になりたいからって辞めてった元林が、まだ漫画家になれてなくて、しかも小汚いカフェで働いてたって。」
「やめてください。」
飛斗さんは怒ってはいるが、私には泣きそうな顔に見えた。それもそうだ。自分の夢を馬鹿にされて、しまいには自分を救ってくれたカフェまで馬鹿にされているのだ。言い返したくても事実な部分があるから飛斗さんも強くいけないのだろう。だったら。
「あのお客様?うちの従業員にちょっかい出すのやめてくれます?」
私が間に入ればいいのだ。そうしたらこのお客さんもそんなに馬鹿に出来ないはずだ。
「なに?関係ない人は入ってこないでくれる?」
「関係なくはないですね。うちの従業員にちょっかい出されてるのですから。」
「これはちょっかいじゃなくて、元先輩として後輩を心配してあげてるの。そんな違いがわからないやつが間に入ってくんなよ。」
「これのどこが心配してるんですか?ただ馬鹿にしてるだけじゃないんですか?」
「んだと、この子娘が!」
お客さんが私の事を押してきた。まさか手を出されるとは思っていなかったから簡単に倒れてしまった。
「痛っ」
「春香ちゃん!」
倒れる際に足を捻ってしまった。それに気づいた飛斗さんがすぐ近付いてきた。
「大丈夫?すぐ足冷やそう。」
「これぐらい大丈夫です。今はこのお客さんをどうにかする事から始めましょう。」
「そんなのいいよ!それより春香ちゃんの足のが心配だよ。」
「それだと私の気が済まないんです!」
お店に響き渡るぐらいの声量が出た。飛斗さんはもちろん、他に食事をしていたお客さんもこちらを見た。
「飛斗さんは頑張って漫画家になろうとしてるのに、こいつはそれを馬鹿にしてるんですよ?夢を追う事は立派な事なのに。」
「夢を追うのが立派?馬鹿な事言わないでくれるかな。人生は結局、お金だから。お金がなかったら生活出来ないんだよ?君はまだ若いからそういうのわからないんだね。可哀想に。」
その表情や言葉に、保っていた理性の糸が切れた。捻った足の事なんて忘れて勢いよく立ち上がり、そいつの頬を叩いた。
「なっ、何すんだ!」
「確かに、お金が無いと生きていけない。でも飛斗さんはここで働きながら漫画家を目指してる。それのどこがいけないんだよ。何も知らない奴が口出してくるんじゃねーよ!」
凄い剣幕で怒鳴ると、そいつは怯んだ。
「だ、だからって殴るのは良くないだろ。訴えてやるからな!」
「訴えてもいいけど、先に手を出したのはそっちでしょ。防犯カメラもあるから訴えても負けるのはそっちだよ。それでもいいなら訴えれば?」
「くそっ、覚えてろよ!」
そいつはそう吐き捨てるとお店を出て行った。そこでやっと足の痛みを思い出した。
かなり痛い。私の足、どうなってるんだろう。
「春香ちゃん、飛斗!何があったの?」
騒ぎを聞きつけた遥さんが休憩から戻って来た。飛斗さんがあった事全て説明してくれて、私は病院に行く事、それに飛斗さんが付き添う形となり、お店を営業出来ないという結果になり早めに閉める事になった。
「ごめんね、春香ちゃん。俺のせいで怪我させちゃって。」
病院に向かってる車内で、運転しながら飛斗さんが申し訳なさそうに謝った。
「え!なんで飛斗さんが謝るんですか?普通にあいつが悪くないですか?」
「確かに、手を出してきたのは先輩だけど、俺が早くあの場を収めてたら春香ちゃんが言い返す必要もなかったし、怪我する事もなかったからさ。」
「それは私が勝手にやった事なんで飛斗さんが謝る必要ないですよ。むしろお店に迷惑かけた私がやばい気がする...」
私が怪我をしたからお店を閉めざるをえなくなった。まだお昼なのにお店を閉めてしまったから、いつもの売上の半分もいっていない。最近やっとお店が繁盛してきた所なのに。
「大丈夫だよ。遥さんはそんな事で怒る人じゃない。むしろ喜ぶタイプだよ。」
「お店が早く閉めれてって事ですか?」
「ううん、人を守る為に行動する所。もしそれでお店を畳む事になったとしても遥さんは怒らないと思うよ。遥さんが怒るのは人を守る事をしない人だから。」
「そうですかね...」
確かに遥さんの性格上そう考えていそうだが、前も遥さんの悪口を言ってきた人に水をかけた。そして今回は叩いてしまった。全部相手からふっかけてきたとは言っても、店員として我慢しないといけない所もあった。
「大丈夫だよ!春香ちゃんは何も悪くない。もし先輩がなにか言ってきたら俺が責任取るよ。元は俺がいけないんだし。」
最後の一言には、漫画家になれない自分を責めているようにも感じた。
「飛斗さんは絶対漫画家になれます。だからそんなに自分を責めないでください。」
飛斗さんは私を見て目を大きく見開いた。ちょうど信号が赤で車が止まった所だった。
「保証なんてないでしょ?なんで言い切れるの?」
飛斗さんは朝同様、怒っていた。でももう怯まない。私は自分の直感を信じる。
「保証なんてないです。でも私の直感が飛斗さんは漫画家になれるって言ってるんです。だから諦めないでください。」
私がきっぱり言うと、飛斗さんは何も言わなかった。そしてそのまま信号が青になり、車を走らせ始めた。
病院に着き、順番を待っている間も私達は一言も口を聞かなかった。でもそれは喧嘩をした後特有の気まずさではなく、お互い冷静になる為に必要な時間だった。
「ねぇ、春香ちゃん。今度のお店の定休日、文房具屋行かない?」
病院の帰り道。飛斗さんがやっと口を開いた。ちなみに足は軽い捻挫だった。全治一週間と診断された。
「いいですよ。何買うんですか?」
「漫画を描く為の道具を新調しようと思って。」
「おぉ!いいですね!」
「その後さ、俺奢るから一緒にご飯食べ行こ。」
「奢らなくても行きますよ!楽しみにしてます。」
「ありがとう。」
「同じ漫画を描くペンでも、色んなメーカーから出てるんですね。全部書き心地違うのかな。」
「俺はいつも同じメーカーのしか使わないからわかんないけど、多分違うんじゃないかな。」
「ほぇー工夫がしてあるんですね。」
そして今に至る。どうして私を文房具屋に誘ったのかはわからないが、休みは基本暇しているから誘ってもらえるのは嬉しい。
「よし、これで全部かな。」
そう言う飛斗さんの持っているカゴには、ペンやら紙やらとにかく漫画を描く為の物が沢山入っていた。
「春香ちゃんはなにか買わないの?」
「この歳になると文房具ってあんまり使わないですからね。」
「あー、そうだよね。学生の時のが残るよね。」
「そうなんですよ。地味に困ってます。」
レジを待っている間にそんな小話をした。お会計が飛斗さんの番になって見る所もないから金額表示を見ていると、万額を超えててびっくりした。
「ありがとうございました〜」
定員さんの挨拶を後ろにお店を出た。飛斗さんは満足気な顔をしていた。
「欲しかったの全部買えましたか?」
「買えたよ。予定の物より多く買っちゃったからかなりの金額いっちゃった。」
「文房具って今高いんですね。私が小学生の時もっと安かった気がします。」
「専門用具だからっていうのもあるけど、全体的に高くなってるよね。でもこれでいい漫画が描けそうだよ。」
「それは良かったです!」
車に乗り、予定していた通りご飯に行く事になった。今回はファミリーレストランに入った。
「うわ、懐かしい...」
ファミレスに入ると自分が働いていた時の事を思い出した。カフェは落ち着いた雰囲気のお店だから、こんなに騒がしくて忙しいのは久々だ。
「そっか、前はファミレスで働いてたんだっけ。」
飛斗さんが席に座りながら聞いてきた。
「そうですよ。私、こんなに忙しい所で働いてたんだ...」
こことは別のファミレスで働いていたが、どこも騒がしくて忙しいのは変わらないだろう。
「だから今、カフェで素早く動けるんだよ。遥さんと二人で凄いねって毎日言ってる。」
「買い被りすぎですよ。私の接客なんて褒められたものじゃありません。イラついたら相手がお客さんでも水をかけたり叩いたりするんですよ?」
「それは理由があるからでしょ。てかそんなに気にしなくて大丈夫だよ。俺も入ったばかりの時はかなりやらかしてるから。」
「そうなんですか?」
飛斗さんは見た目はチャラいが、仕事はかなり丁寧にやる。人は見た目で判断出来ないのだと毎日思い知らされる。
「そうだよ。ねぇ、春香ちゃん。俺の過去の話聞いてくれる?」
「いいですよ。」
飛斗さんからご飯を誘われた時、いや、文房具屋に行こうと誘われた時から薄々気付いていた。飛斗さんは過去の自分を人に話したいのだと。そしてそこで区切りをつけたいのだと。過去の弱い自分と向き合って、今度こそ胸を張って漫画家になりたいと言う為に。
「先輩の話を聞いてたからもう知ってるだろうけど、俺、元々公務員だったんだ。」
飛斗さんはお冷を一口飲むと語り出した。
「本当は公務員なんてなりたくなかった。でも両親を安心させる為には収入が安定した公務員になるしかなかった。両親も公務員だったからね。」
「確かに収入は安定してたけど、心の疲労が積み重なった。せっかくの一度きりの人生なのに、やりたい事をやらないで本当にいいのかって。」
「そんな時、遥さんが経営するあのカフェに出会ったんだ。今はもう貼ってないけど当時は働いてくれる人を探してたみたいで、ドアに求人が貼ってあったんだ。条件は将来の夢がある事って堂々と書いて。俺、それを見た瞬間すぐ雇ってくださいって遥さんに言いに行ったよ。」
「そしたら遥さん、驚きつつもすぐ採用してくれた。そして俺の今までの事情を聞いてくれて、こう言ってくれたんだ。」
【そんな辛い思いをしたあなたなら、それを糧に漫画を描けるわ。だからここで一緒に頑張りましょう。】
「俺の夢を否定せず肯定してくれたのは遥さんが初めてだった。それで俺の夢が叶うまでは遥さんについて行こうって決めたんだ。」
飛斗さんはそこで一旦区切ると、残りのお冷を全部飲み干した。
「なのに俺は。漫画を描いても描いても結果が出ない事に焦ってしまった。そのせいで漫画が描けなくなってしまったんだ。あんなに大好きだった漫画を描く道具を見る事さえ嫌になってしまって、クローゼットにしまった。」
「だからあの日、春香ちゃんに限定のペンを渡した時に漫画を描くんですかって言われてはっきり頷けなかった。だって今は描いてなかったから。そしてしまってたはずの漫画を描く紙が床に落ちててイラついてしまって、ついあんな口調で春香ちゃんに当たりつけてしまった。今更だけど本当にごめんね。怖かったよね。」
「全然気にしてないので大丈夫ですよ。」
飛斗さんは目を細めながら頷き、続きを話し始めた。
「何をどうしても漫画を描けなくて、漫画家になる夢を今度こそ諦めようとした時、春香ちゃんに漫画家になれるって言われて、正直イラッとした。なれないから今困ってるのに、何も知らない奴が口出すなよって。だから春香ちゃんの足を怪我させた日にあんな言い方をしてしまった。それも本当にごめんね。」
「全然いいですし、足の怪我は飛斗さんのせいではないです。」
「ううん、その怪我は俺のせいだ。いつまでもどっちつかずの、中途半端な生き方をしていた俺への罰だ。でも俺、決めたんだ。今度こそ漫画と向き合うって。」
そう言う飛斗さんの顔は重荷が取れたかの様にすっきりとしていた。
「だから昔から使ってた道具を捨てて、新しくやり直そうと思ったんだ。それで今日、文房具屋に行ったし、この思いを春香ちゃんに話したかったんだ。春香ちゃんが居なかったら考えを改める事はしなかっただろうから。」
「春香ちゃん、このカフェに来てくれてありがとう。俺にまた夢を追いかけさせてくれてありがとう。」
「そんな...」
私は何もしていない。飛斗さんは漫画家になれるって思ったから言っただけだし、それで考えを改めたのは紛れもなく飛斗さん自身だ。こんなにお礼を言われる筋合いはない。
「だから今日は俺に奢らせて。なんでも好きなの食べな。」
「それ言ったら私も飛斗さんの夢を応援したいので奢らせてください。」
「ダメ。それにこれは怪我をさせた春香ちゃんへのお詫びでもあるんだから。」
「だから、気にしてないですって。」
私達は顔を見合せて笑った。そして押し問答の結果、お互いの食事の代金を払う事で話はまとまった。
「はー、美味かった!」
「美味しかったですね。」
食事を楽しんだ車内。真っ直ぐは帰らず、少しドライブをする事になった。
「足大丈夫?痛くない?」
「大丈夫ですよ。まだ少し違和感はありますが、痛くはないです。」
「無理しないでよ。重たい物を取る時とか絶対声掛けてね。もし無理してやったら表に出さないからね。」
「今の言い方、遥さんにそっくりでした。」
「長年一緒に居たら似てくるんだよ。それに春香ちゃんは無防備すぎる所があるから皆心配なんだよ。」
「えぇ?そうですか?」
そんな訳ないと思ったが、確かにお客さんに言い返したり、水をかけたり叩いたりするのは無防備すぎるなと思い直した。あの水をかけた中学生二人の親、よく訴えて来なかったよな。訴えなかったとしても、お店に文句を言いに来るぐらいはあっても良かったのに。いや別にないならないで平和でいいのだけれど。
「思い直したら無防備な所ありました...」
「でしょ。それが春香ちゃんの良い所でもあるんだけどね。」
「今度からはもっと気をつけます...」
飛斗さんは反省している私を見て笑っていた。楽しんでくれてるなら何よりだ。
「ねぇ、春香ちゃん。真面目な話、最近調子どう?」
ひとしきり笑った後、真剣な口調で飛斗さんが聞いてきた。
「見ての通り元気ですよ。」
「遥さんが言ってたんだけど、春香ちゃんは見た目は元気そうでも心で抱える部分があるから気にかけてねって。」
遥さんはあの時の私を知っている。だから心配しているのだろう。
「二人とも、大袈裟ですよ。もう吹っ切れましたし元気です。」
「それならいいけど。無理したらダメだからね。」
「わかってますよ。」
車内から外を見る。夏も終わりに近付いてて、秋らしい風が吹くようになった。心地よく過ごせるから秋は好きだ。
でも段々とあの日に近付いている。吹っ切れたとは言えど、嫌でも思い出してしまう。あの日なんて来なければいいのに。
そんな子供じみた事を考えてしまった。
カフェから帰ると飛斗さんが出迎えてくれた。
「ただいま、飛斗。何か変わった事はなかった?」
「特にないですよ。」
「和馬は?」
「いつも通り、部屋に籠ってます。お昼ご飯は食べてました。」
「ならいっか。って、春香ちゃん?どうしたの?」
「これ、限定のやつですよね!?」
「「え?」」
二人の会話をそっちのけで聞いたのは、飛斗さんの手に握られているペンが私の好きなキャラクターの限定品だったからだ。
「このペン、限定品ですぐ売り切れたやつですよね!?どこで買ったんですか!?」
このビジュアルが発表されてからグッズ発売まで期間があった。だから予約をしようと予約開始日に頑張ったが、サーバーが落ちて買えなかったのだ。なら店頭で買おうと発売日にお店に並んだがすぐ売り切れてしまい、泣く泣く諦めたのだった。
それが今、本物を見れるなんて。今死んでも後悔はない。
「このキャラクター、好きなの?」
「大好きです。」
飛斗さんはペンを私に渡した。やっぱり可愛い。今からでもフリマアプリで買おうかな。
「俺このペン、予備でもう二本買ってるからあげようか?」
「うそ!」
自分でも驚く程の声量だった。飛斗さんは苦笑いしていた。
「ほんとだよ。俺もこのキャラクター好きだから使う用と保管用、観賞用で三本買ってた。」
「え、それなのに私にあげたら無くなっちゃうじゃないですか。」
「欲しかったんでしょ?だったらあげるよ。ついてきて。」
遥さんに軽く頭を下げて、飛斗さんの後ろをついて行った。
「部屋かなり散らかってるんだけど気にしないで。」
「はーい。お邪魔しまーす」
飛斗さんの部屋に入ると、私と同じ部屋の形のはずなのに全然違って見えた。それは多分、勉強机が置いてあるからだろう。
「ちょっと待ってね。えっと...どこにしまったっけな。」
飛斗さんが勉強机の近くにある棚を探している間、部屋をぐるりと見渡した。壁には本棚が設置されており、漫画がぎっちり詰まっている。そして床には漫画を描く時に使われる紙が落ちていた。
「あった!はいこれ。」
「ありがとうございます!」
新品未開封のペンを渡されて、本当にこのキャラクターが好きというのが伝わってきた。私も使わずに保管しておこうかな。
「春香ちゃんってアニメとか漫画とか好きな人?」
飛斗さんは勉強机の近くにあった椅子に座った。私には簡易用の椅子を用意してくれた。
「めちゃくちゃ好きです!最近だとカードゲームのアニメが好きですね。」
「まじ?俺も好きでさ、カフェの一角をそのグッズコーナーにしちゃった。」
「めっちゃいいと思います!あのアニメの良さをもっと世の中に広めましょう。」
両手を胸の前で握って言うと、飛斗さんは声を出して笑った。
「ほんっと、春香ちゃんって面白いよね。他の女の子とは違う。」
「そうですか?それより、飛斗さんって漫画を描くんですか?」
漫画を描く紙が床に落ちていたという事は、そういう事だ。是非とも読ませてもらいたい。
「あぁ、うん...」
歯切れの悪い返事が返ってきた。表情もどこか暗くなった気がする。
「飛斗さん...?」
「そんなに上手じゃないから人には見せられないかな。ごめんね。」
早口でそう言うと、床に落ちていた紙を拾い始めた。
「手伝いますよ。」
「触るな!」
自分の座っている近くの紙に手を伸ばしたら飛斗さんに怒鳴られた。驚いて飛斗さんの方を見ると、はっと目を見開いていた。
「ごめんね、自分で拾うから大丈夫だよ。」
「あ...わかりました。私、自分の部屋戻りますね。ペン、ありがとうございます。大事にします。」
「またいつでもアニメの話しにおいでー」
いつもの飛斗さんに戻っていたが、怒鳴られた事が頭から離れなくてなにも返事が出来なかった。
「はぁ...疲れた...」
自分の部屋に戻った私は服を着替えず、そのままベットにダイブした。今日は本当に楽しかったが、疲れたのも事実だ。
「寝ちゃおっかな...」
夕方に寝るなんて絶対良くないが、どうせ明日からまた忙しい毎日が始まるのだ。残りの時間はダラダラして過ごそう。
そう自分に言い聞かせて眠りについた。
夢を見た。家族三人で、なんて事ない毎日を過ごしているのを現実の私は永遠と見ている事しか出来なかった。
いいなぁ。三人とも楽しそうで。ただ見ている事しか出来ないんだったら、こんな夢見なくていいのに。
「早く目覚めないかなぁ...」
そう呟くと同時に視界が歪んだ。もうすぐ夢から覚める合図だ。
「ん...」
「あ、春香ちゃん起きた。」
「え!飛斗さん!?」
目を開けると目の前に飛斗さんが居た。驚いて飛び起きると、壁に頭をぶつけた。
「痛い...」
「大丈夫?ごめんね、驚かせちゃって。」
「全然大丈夫です。でもなんで飛斗さん、私の部屋に?」
「遥さんが夕飯出来たから春香ちゃん呼んできてって言われて、部屋の外から声掛けても返事ないから心配で入っちゃった。ごめんね。」
「そうだったんですね。もうそんな時間なんだ。」
スマホの時計を見ると、二十時と表記されていた。結構寝てしまったみたいだ。夜、寝れるかわからない。
「大丈夫?結構うなされてたけど。」
「ほんとですか?まぁ、いつもの事なんで大丈夫です!」
あの夢を見ると絶対にうなされる。自分で気付く事もあれば、気づかない時もある。でも特に気にしていないから放っておいてる。
「なんか辛い事あったらすぐ俺とか遥さんに言うんだよ。春香ちゃんが良ければ和馬でもいいけど。」
「和馬さんと話してみたいんですけどねぇ。」
和馬さんは本当に部屋から出てこない。カフェも混んでこないと出てこないから、お客さんからもレアな人扱いされていて、いついるのかよく聞かれる。そんなの私が聞きたいよと思いながらわからないんですと返答している。
「ドアどんどんして話しかけに行けば?」
「借金取りみたいじゃないですか。尚更出て来なくなりますよ。」
二人で顔を見合わせて笑った。遥さんと話す時とはまた違った楽しさがあって、もっと飛斗さんの事を知りたいと思った。
「ちょっと二人とも?ご飯冷めちゃうわよ。って、飛斗、何してんの!」
遥さんが私達を呼びに来た。その時の格好がまずかったみたいだ。私が壁にくっついていて、飛斗さんが壁に手をついている。いわゆる壁ドンというやつだ。
「え、いや、これには深い訳が...!」
「そんな言い訳聞きません!どきなさい!」
「ぐへっ」
「春香ちゃん、大丈夫?なにかされてない?」
遥さんは飛斗さんを退かすと、私の両肩に手を置いて聞いてきた。その目が怖くてつい目を逸らした。
「大丈夫ですよ。何もされてません。」
「ほんとに?口止めされてるとかじゃなくて?」
「遥さん、俺の事どう見てるんですか?」
「あんたは黙ってて。今私は春香ちゃんに聞いてんの。」
「ひゃー、怖い」
「で、どうなの?春香ちゃん。って、なんで笑ってるの!」
二人のやり取りが面白くて、笑いが堪えきれなかった。
「二人のやり取りが面白くて...ちょっ、お腹痛い...」
「えぇ、なら本当に何もされてないのね?」
「遥さん、こんなに笑ってるのにまだ俺を疑うんですか?」
「あんたならやりかねないでしょ!前にお客さんナンパした事あったぐらいだし。」
「あれは!実験ですよ。漫画を描く為の。遥さん、あの時ノリノリで許可したじゃないですか!」
「そうだったかしら。覚えてないわね。」
「遥さーん、俺泣いちゃいますよ。」
「んふふふ」
二人の会話が面白くて笑いが止まらない。この二人が漫才のコンテストに出たら優勝すると思う。
「春香ちゃんの笑いがおさまったらご飯食べおいで。飛斗、春香ちゃんに変な事しちゃダメだからね。」
「しないですって!」
遥さんが部屋から出て行き、再び私と飛斗さんが残された。
「ねぇ、そんなに面白いの?」
遥さんが部屋から出て行ってもなお笑っている私を、飛斗さんは引き気味に聞いてきた。
「面白いですよ。こんなに笑ったの、いつぶりだろう...」
自分が笑いのツボが浅い自覚はある。だから例え箸が転がっただけで面白いのだが、この二人の会話は群を抜いて面白かった。
「まぁ、笑う事はいい事だからね。俺達の会話でそんだけ笑ってくれるならいつでもするよ。」
「ありがとうございます。でも高頻度ではやめてください。笑い死んじゃいます。」
「そんな死因聞いた事ないから大丈夫。でも死んだら悲しいからやめとくね。」
「是非そうしてください。」
「はいはい。さて、夕飯食べに行きますか。」
「はーい」
共有スペースに行くと、餃子のいい匂いがした。
「今日は餃子ですか!?私大好きなんですよね。」
机に料理を運んでいた遥さんに声を掛けた。
「あら、そうなの?知らなかったわ。冷蔵庫でニラが死にそうで、丁度餃子の皮もあったから作ったのよ。」
「めっちゃ嬉しいです!遥さんが作る料理ってなんでも美味しいから最近太ってきちゃってるんですよね。」
この家に住んでからまだ一ヶ月しか経っていないのに二キロも体重が増えてしまった。ここに来るまでに五キロ痩せていたからまだマイナスだが、太って喜ぶ人は居ない。
「でも春香ちゃん、元が細いからもっと太った方がいいわよ。折れちゃいそうで怖いもの。」
「そんな簡単に折れませんよ。あー、痩せなきゃなー」
「じゃあ餃子食べない?」
「そんな事は言ってません!食べます!いただきます!」
「うふふ」
取り分けられた分の餃子を口に詰め込んだ。
「あつっ」
出来たてだったみたいで、口の中で肉汁が溢れた。痛い。絶対火傷した。
「大丈夫?」
「大丈夫です。」
水を少し飲み、今度は小さく切ってから口に入れた。
「ん、美味しい!」
ニラの味と胡椒が丁度よく効いていて、どこか母親が作る餃子の味に似ていた。
「それは良かった。飛斗はどう?美味しい?」
「ふぇちゃくちゃおいひいでふ。」
「私から聞いといてなんだけど、飲み込んでから返答してくれない?なんて言ってるのかわかんない。」
遥さんにツッコまれて、飛斗さんは口に入ってる物を飲み込んでから話した。
「めちゃくちゃ美味しいです!どうしたらこんなに美味しい料理が作れるんですか?」
「料理が好きだからよ。でも飛斗は作るのやめときなさい。絶対向いてないから。」
「わかってますよーだから俺は食べる専門です!」
「あはは!」
三人でわちゃわちゃしながら夕飯を食べ進めていると。
「あれ、みんないつもより夕飯遅くない?」
和馬さんがやって来た。和馬さんを見るのはあの日、遥さんに怒られた時以来だ。
「昼間食べすぎちゃってね、夕飯を遅らせたのよ。和馬も一緒に食べる?」
「...食べる」
和馬さんはほんの一瞬私の方を見て返答した気がしたが、ほんの一瞬だったからよくわからない。
「なら用意するわね。ちょっと待ってて。」
「焦んなくて大丈夫だよ。別の事しとくから。」
和馬さんはそう言うと私の隣に座った。私も飛斗さんも、遥さんでさえ驚いていた。
「なに?みんなしてこっち見て。」
その視線に気がついたのか、私達を見渡した。
「いや、和馬が春香ちゃんの隣に座るとは思わなかったから。」
飛斗さんが代表して答えてくれた。和馬さんは怪訝そうな顔をした。
「だってここしか席空いてなかったし。誰の横で食べても料理の味は変わらない。」
「まあ、そうだけど...」
飛斗さんはそれ以上何も言えなくなってしまい、シーンとした空気が流れた。さっきまで楽しく会話していたのに。
「和馬さん、せっかく隣座ってるんですから話しましょうよ。」
シーンとしている環境が嫌で、スマホを見ている和馬さんに声を掛けると、あからさまに嫌な顔をされた。
「やだ。めんどくさい。ご飯食べに来ただけだから。」
また視線をスマホに戻そうとしたから。
「音楽好きなんですか?」
すかさず聞いてやった。いつもヘッドホンをつけているから気になっていたのだ。
「ねぇ、人の話聞いてる?」
「聞いてません。私は自分の知りたい事を聞きます。で、音楽好きなんですか?」
「...はあ。好きだよ。」
でかい溜息をつかれたが答えてくれた。答えてくれないと思っていたから嬉しかった。
「どういう曲が好きなんですか?」
つい調子に乗って追加の質問もしてしまった。今度こそ答えてくれないだろう。
「...そういう春香はどういう曲が好きなの?人に聞くんだったらまずは自分から教えないと。」
でも和馬さんは答えてくれた。それに...
「今、名前...」
「遥さんと同じ名前なんだから覚えてるに決まってるじゃん。俺の事なんだと思ってんの?」
「私に興味が無い男の人...?」
「それは一理あるけど。名前を覚えるぐらいはしてるよ。呼ぶ機会がないから呼ばなかっただけ。で?春香はなんの曲が好きなの?」
「色んなアニメを観るので、アニメの主題歌が好きです!最近だとカードゲームのアニメの主題歌にハマってます。」
カードゲームのアニメはアイドルの話だ。中学生や高校生の主人公達がアイドル業界を盛り上げる為に奮闘するストーリーで、衣装が可愛いのはもちろん、ストーリーもかなり凝っててキラキラした所だけではなく、人の嫉妬や業界の裏側まで描かれているから毎週観るのが楽しみだ。
「俺も俺も!そのアニメの主題歌好きだよ。アニメのストーリーと合ってるよね。」
飛斗さんが興奮気味に話に入ってきた。
「わかります!この主題歌がなかったらアニメは成功してないと言っても過言じゃないと思います。」
「...それは言い過ぎたよ。」
ぼそっと、夕飯を食べ始めた和馬さんが呟いた。それにムッとした。
「言い過ぎじゃないです!アイドル物のアニメは歌も大事なんですよ!?歌に力が入ってなかったらアイドル物のアニメをやる意味がなくなってしまいます。」
「じゃあ、そのアニメがなかったらこの歌は好きになってなかった?」
和馬さんに問いかけられていっしゅん考えた。だけどすぐ答えは出てきた。
「好きになってたと思います。だってめちゃくちゃ私好みの曲なんですから!」
私は前向きになれる曲が大好きだ。だからアニメの主題歌は私にぴったりなのだ。後ろ向きな歌という事がそんなにないから。
「ふーん。」
和馬さんは自分から聞いたくせに興味無さそうに返事した。
「私は質問に答えましたよ。だから和馬さんも好きな曲教えてください。」
「俺は...ぶっちゃけなんでも好きなんだよね。一つ一つ良さがあるから選べない。」
「なるほど...」
確かに、後ろ向きな曲でも良さがある。それがわかるなんて大人だ。
「さ、もうこれぐらいでいいでしょ。俺部屋に戻るから。遥さん、ご馳走様でした。」
和馬さんはいつの間にか夕飯を食べ終えていた。私達より遅く食べ始めたのに。
「お話できて嬉しかったです!またお話しましょうね!」
嫌われていると思っていた和馬さんに名前を覚えてもらえていて、しかも会話まで出来た。それが嬉しくて笑顔でそう言うと。
「...まあ、気が向いたらね。」
そっぽを向きながらも答えてくれた。それが嬉しくて和馬さんが部屋に戻った後も笑顔が止まらなかった。
「春香ちゃん良かったね。和馬と話できて。」
飛斗さんが子供を褒めるみたいな口調で言ってきた。
「はい!ずっと話してみたいと思ってたので本当に嬉しいです。今日は良い事だらけの一日でした!」
そんな私を二人は嬉しそうに見ていた。
「はぁ、明日からも頑張ろっと。」
夕飯を食べ終え、お風呂も終わった私は自分の部屋に戻る為、廊下を歩いていた。
「ん?これなんだろ。」
歩いていると四つ折りに折られた紙が落ちていた。それを拾って、悪いとは思いながら中を見た。
「これ...歌だ。」
紙にはびっしりと歌詞が書かれていた。赤ペンで修正している所もあるから作り途中なのだろう。落とした人は相当困ってるはずだ。
「誰のなんだろう。」
この家には私を含め四人しか住んでいない。でも私と遥さんを外すと候補は二人に絞られる。
「あ、春香ちゃん〜、明日の事なんだけど、今大丈夫かしら。」
飛斗さんと和馬さんに聞きに行こうとしたら遥さんに声を掛けられてしまった。
「はーい、大丈夫です。」
一旦紙をポケットに入れて、遥さんの話を聞きに行った。
この紙がきっかけであの人ともっと仲良くなるとは、この時は一ミリも思っていなかった。
「春香ちゃん、今日は付き添ってくれてありがとう。足大丈夫?」
「いえいえ、全然!休みだと私もやる事ないんでむしろ誘ってもらえて嬉しいです。足はもうすっかり良くなりました!」
「そう言ってもらえると助かる。」
私と飛斗さんはお店の定休日に文房具屋さんに来ていた。
なぜそうなったかと言うと、話は三日前に遡る。
「え、飛斗さんって漫画家を目指してるんですか?」
「うん。」
恥ずかしながら、でも誇らしそうに飛斗さんは頷いた。
カフェが開店する前のちょっとした時間。いつもは準備で終わる時間だが、今日は昨日の内に準備をある程度終わらせていたからお喋りの時間に出来た。
「漫画家って大変って言いますよね。週刊連載になると休む間がないって聞きます。」
「確かにそうなんだけど、そういう悪い噂ばかり広まるから漫画家が少なくなってるんだよ。良い事も沢山あるのに。」
「確かに。」
今、有名な漫画達は一昔前から描いてる人達ばかりだ。新人さん達の漫画も面白い事は面白いのだが、やはり既存の作品と比べると質は下がっている。それは週刊連載に慣れていない、根本的な体力がないからだと私は思っている。それでも私には出来ない事だから尊敬はしているが。
「飛斗さんはどういう系統のものを描くんですか?」
「俺は王道のバトルものかな。でもやっぱり敵が多くて俺だと全然叶わないんだよ。」
そう言って笑う飛斗さんは疲れた目をしていた。
「飛斗さんなら絶対漫画家になれますよ。」
そんな飛斗さんを励ましたくてついそう言うと、飛斗さんは一転、怒った。
「簡単にそう言うけど、その保証ってどこにあるの?」
「それは...」
「ないよね?だったら簡単に言わないで。春香ちゃんが思ってる程、漫画家って簡単な世界じゃないから。」
そこでちょうどお店を開店する時間になり、会話が終了してしまった。
どうしよう、飛斗さんを怒らせてしまった。私が何も考えないで発言したせいだ。早く謝りたいのに、こういう時に限って朝からお客さんが多い。お店にとっては良い事だが、今の私には良くない。せっかく仲良くなりかけてたのに、私の発言のせいで仲違いするのは嫌だった。
「いらっしゃいませー空いてるお好きな席どうぞー」
飛斗さんの声で、お客さんが入ってきた事に気がついた。いつもは席の片付けをしながらでもお客さんが入ってきたら気づくのに。考え事をしていて全然気づけなかった。
「あれ、元林?」
男性のお客さんは飛斗さんの事を知っているみたいだった。
「先輩...お久しぶりです。」
いつもはどんなお客さんに対しても元気な飛斗さんが、そのお客さんには固い表情だった。
「なんだよ、ここで働いてたのかよ。教えてくれたって良かったじゃんかよ。」
お客さんが飛斗さんの近くに行き、肩を組んだ。飛斗さんは引きつった笑顔だった。
「辞めた人がどこに働いてるかなんて先輩、興味あります?」
「ないけどさ、元林に関しては興味あるよ。だって漫画家になりたいからって給料が安定してる公務員を辞めたんだから。」
初耳だった。そして飛斗さんが引きつった笑顔なのも何となくわかった。
「で?漫画家になれたの?」
「いえ、まだなれてないです。」
「えぇ?もう公務員辞めて三年経つんだよ?それなのにまだなれてないの?」
「はい...」
「一緒に働いてた時から思ってたけど、元林って何やってもダメだよな。だからずっとこんな小さくて小汚いカフェで働く事になるんだよ。」
カフェの悪口を言われて、突っかかっていこうとしたら、先に飛斗さんがお客さんの手を払い除けた。
「先輩、俺の事はどう悪く言ったっていいですけど、このカフェの事を悪く言うのはやめてください。こんな俺を救ってくれた、大事なカフェなんです。」
「それはそれは失礼。だけど事実を言ってるからなぁ。」
店内をぐるりと見渡し、お客さんは馬鹿にするように笑った。ちなみに遥さんは休憩に行っていて居ない。
「だったらなんでこのカフェに来たんですか?小汚いと思うんだったら来なかったら良かったじゃないですか。」
飛斗さんが負けじと言い返した。
「次の用事まで時間があって、その時間潰しに入っただけ。それがまさか元林がいるカフェだったなんて。同期達に話したらなんて言うかな。三年前に漫画家になりたいからって辞めてった元林が、まだ漫画家になれてなくて、しかも小汚いカフェで働いてたって。」
「やめてください。」
飛斗さんは怒ってはいるが、私には泣きそうな顔に見えた。それもそうだ。自分の夢を馬鹿にされて、しまいには自分を救ってくれたカフェまで馬鹿にされているのだ。言い返したくても事実な部分があるから飛斗さんも強くいけないのだろう。だったら。
「あのお客様?うちの従業員にちょっかい出すのやめてくれます?」
私が間に入ればいいのだ。そうしたらこのお客さんもそんなに馬鹿に出来ないはずだ。
「なに?関係ない人は入ってこないでくれる?」
「関係なくはないですね。うちの従業員にちょっかい出されてるのですから。」
「これはちょっかいじゃなくて、元先輩として後輩を心配してあげてるの。そんな違いがわからないやつが間に入ってくんなよ。」
「これのどこが心配してるんですか?ただ馬鹿にしてるだけじゃないんですか?」
「んだと、この子娘が!」
お客さんが私の事を押してきた。まさか手を出されるとは思っていなかったから簡単に倒れてしまった。
「痛っ」
「春香ちゃん!」
倒れる際に足を捻ってしまった。それに気づいた飛斗さんがすぐ近付いてきた。
「大丈夫?すぐ足冷やそう。」
「これぐらい大丈夫です。今はこのお客さんをどうにかする事から始めましょう。」
「そんなのいいよ!それより春香ちゃんの足のが心配だよ。」
「それだと私の気が済まないんです!」
お店に響き渡るぐらいの声量が出た。飛斗さんはもちろん、他に食事をしていたお客さんもこちらを見た。
「飛斗さんは頑張って漫画家になろうとしてるのに、こいつはそれを馬鹿にしてるんですよ?夢を追う事は立派な事なのに。」
「夢を追うのが立派?馬鹿な事言わないでくれるかな。人生は結局、お金だから。お金がなかったら生活出来ないんだよ?君はまだ若いからそういうのわからないんだね。可哀想に。」
その表情や言葉に、保っていた理性の糸が切れた。捻った足の事なんて忘れて勢いよく立ち上がり、そいつの頬を叩いた。
「なっ、何すんだ!」
「確かに、お金が無いと生きていけない。でも飛斗さんはここで働きながら漫画家を目指してる。それのどこがいけないんだよ。何も知らない奴が口出してくるんじゃねーよ!」
凄い剣幕で怒鳴ると、そいつは怯んだ。
「だ、だからって殴るのは良くないだろ。訴えてやるからな!」
「訴えてもいいけど、先に手を出したのはそっちでしょ。防犯カメラもあるから訴えても負けるのはそっちだよ。それでもいいなら訴えれば?」
「くそっ、覚えてろよ!」
そいつはそう吐き捨てるとお店を出て行った。そこでやっと足の痛みを思い出した。
かなり痛い。私の足、どうなってるんだろう。
「春香ちゃん、飛斗!何があったの?」
騒ぎを聞きつけた遥さんが休憩から戻って来た。飛斗さんがあった事全て説明してくれて、私は病院に行く事、それに飛斗さんが付き添う形となり、お店を営業出来ないという結果になり早めに閉める事になった。
「ごめんね、春香ちゃん。俺のせいで怪我させちゃって。」
病院に向かってる車内で、運転しながら飛斗さんが申し訳なさそうに謝った。
「え!なんで飛斗さんが謝るんですか?普通にあいつが悪くないですか?」
「確かに、手を出してきたのは先輩だけど、俺が早くあの場を収めてたら春香ちゃんが言い返す必要もなかったし、怪我する事もなかったからさ。」
「それは私が勝手にやった事なんで飛斗さんが謝る必要ないですよ。むしろお店に迷惑かけた私がやばい気がする...」
私が怪我をしたからお店を閉めざるをえなくなった。まだお昼なのにお店を閉めてしまったから、いつもの売上の半分もいっていない。最近やっとお店が繁盛してきた所なのに。
「大丈夫だよ。遥さんはそんな事で怒る人じゃない。むしろ喜ぶタイプだよ。」
「お店が早く閉めれてって事ですか?」
「ううん、人を守る為に行動する所。もしそれでお店を畳む事になったとしても遥さんは怒らないと思うよ。遥さんが怒るのは人を守る事をしない人だから。」
「そうですかね...」
確かに遥さんの性格上そう考えていそうだが、前も遥さんの悪口を言ってきた人に水をかけた。そして今回は叩いてしまった。全部相手からふっかけてきたとは言っても、店員として我慢しないといけない所もあった。
「大丈夫だよ!春香ちゃんは何も悪くない。もし先輩がなにか言ってきたら俺が責任取るよ。元は俺がいけないんだし。」
最後の一言には、漫画家になれない自分を責めているようにも感じた。
「飛斗さんは絶対漫画家になれます。だからそんなに自分を責めないでください。」
飛斗さんは私を見て目を大きく見開いた。ちょうど信号が赤で車が止まった所だった。
「保証なんてないでしょ?なんで言い切れるの?」
飛斗さんは朝同様、怒っていた。でももう怯まない。私は自分の直感を信じる。
「保証なんてないです。でも私の直感が飛斗さんは漫画家になれるって言ってるんです。だから諦めないでください。」
私がきっぱり言うと、飛斗さんは何も言わなかった。そしてそのまま信号が青になり、車を走らせ始めた。
病院に着き、順番を待っている間も私達は一言も口を聞かなかった。でもそれは喧嘩をした後特有の気まずさではなく、お互い冷静になる為に必要な時間だった。
「ねぇ、春香ちゃん。今度のお店の定休日、文房具屋行かない?」
病院の帰り道。飛斗さんがやっと口を開いた。ちなみに足は軽い捻挫だった。全治一週間と診断された。
「いいですよ。何買うんですか?」
「漫画を描く為の道具を新調しようと思って。」
「おぉ!いいですね!」
「その後さ、俺奢るから一緒にご飯食べ行こ。」
「奢らなくても行きますよ!楽しみにしてます。」
「ありがとう。」
「同じ漫画を描くペンでも、色んなメーカーから出てるんですね。全部書き心地違うのかな。」
「俺はいつも同じメーカーのしか使わないからわかんないけど、多分違うんじゃないかな。」
「ほぇー工夫がしてあるんですね。」
そして今に至る。どうして私を文房具屋に誘ったのかはわからないが、休みは基本暇しているから誘ってもらえるのは嬉しい。
「よし、これで全部かな。」
そう言う飛斗さんの持っているカゴには、ペンやら紙やらとにかく漫画を描く為の物が沢山入っていた。
「春香ちゃんはなにか買わないの?」
「この歳になると文房具ってあんまり使わないですからね。」
「あー、そうだよね。学生の時のが残るよね。」
「そうなんですよ。地味に困ってます。」
レジを待っている間にそんな小話をした。お会計が飛斗さんの番になって見る所もないから金額表示を見ていると、万額を超えててびっくりした。
「ありがとうございました〜」
定員さんの挨拶を後ろにお店を出た。飛斗さんは満足気な顔をしていた。
「欲しかったの全部買えましたか?」
「買えたよ。予定の物より多く買っちゃったからかなりの金額いっちゃった。」
「文房具って今高いんですね。私が小学生の時もっと安かった気がします。」
「専門用具だからっていうのもあるけど、全体的に高くなってるよね。でもこれでいい漫画が描けそうだよ。」
「それは良かったです!」
車に乗り、予定していた通りご飯に行く事になった。今回はファミリーレストランに入った。
「うわ、懐かしい...」
ファミレスに入ると自分が働いていた時の事を思い出した。カフェは落ち着いた雰囲気のお店だから、こんなに騒がしくて忙しいのは久々だ。
「そっか、前はファミレスで働いてたんだっけ。」
飛斗さんが席に座りながら聞いてきた。
「そうですよ。私、こんなに忙しい所で働いてたんだ...」
こことは別のファミレスで働いていたが、どこも騒がしくて忙しいのは変わらないだろう。
「だから今、カフェで素早く動けるんだよ。遥さんと二人で凄いねって毎日言ってる。」
「買い被りすぎですよ。私の接客なんて褒められたものじゃありません。イラついたら相手がお客さんでも水をかけたり叩いたりするんですよ?」
「それは理由があるからでしょ。てかそんなに気にしなくて大丈夫だよ。俺も入ったばかりの時はかなりやらかしてるから。」
「そうなんですか?」
飛斗さんは見た目はチャラいが、仕事はかなり丁寧にやる。人は見た目で判断出来ないのだと毎日思い知らされる。
「そうだよ。ねぇ、春香ちゃん。俺の過去の話聞いてくれる?」
「いいですよ。」
飛斗さんからご飯を誘われた時、いや、文房具屋に行こうと誘われた時から薄々気付いていた。飛斗さんは過去の自分を人に話したいのだと。そしてそこで区切りをつけたいのだと。過去の弱い自分と向き合って、今度こそ胸を張って漫画家になりたいと言う為に。
「先輩の話を聞いてたからもう知ってるだろうけど、俺、元々公務員だったんだ。」
飛斗さんはお冷を一口飲むと語り出した。
「本当は公務員なんてなりたくなかった。でも両親を安心させる為には収入が安定した公務員になるしかなかった。両親も公務員だったからね。」
「確かに収入は安定してたけど、心の疲労が積み重なった。せっかくの一度きりの人生なのに、やりたい事をやらないで本当にいいのかって。」
「そんな時、遥さんが経営するあのカフェに出会ったんだ。今はもう貼ってないけど当時は働いてくれる人を探してたみたいで、ドアに求人が貼ってあったんだ。条件は将来の夢がある事って堂々と書いて。俺、それを見た瞬間すぐ雇ってくださいって遥さんに言いに行ったよ。」
「そしたら遥さん、驚きつつもすぐ採用してくれた。そして俺の今までの事情を聞いてくれて、こう言ってくれたんだ。」
【そんな辛い思いをしたあなたなら、それを糧に漫画を描けるわ。だからここで一緒に頑張りましょう。】
「俺の夢を否定せず肯定してくれたのは遥さんが初めてだった。それで俺の夢が叶うまでは遥さんについて行こうって決めたんだ。」
飛斗さんはそこで一旦区切ると、残りのお冷を全部飲み干した。
「なのに俺は。漫画を描いても描いても結果が出ない事に焦ってしまった。そのせいで漫画が描けなくなってしまったんだ。あんなに大好きだった漫画を描く道具を見る事さえ嫌になってしまって、クローゼットにしまった。」
「だからあの日、春香ちゃんに限定のペンを渡した時に漫画を描くんですかって言われてはっきり頷けなかった。だって今は描いてなかったから。そしてしまってたはずの漫画を描く紙が床に落ちててイラついてしまって、ついあんな口調で春香ちゃんに当たりつけてしまった。今更だけど本当にごめんね。怖かったよね。」
「全然気にしてないので大丈夫ですよ。」
飛斗さんは目を細めながら頷き、続きを話し始めた。
「何をどうしても漫画を描けなくて、漫画家になる夢を今度こそ諦めようとした時、春香ちゃんに漫画家になれるって言われて、正直イラッとした。なれないから今困ってるのに、何も知らない奴が口出すなよって。だから春香ちゃんの足を怪我させた日にあんな言い方をしてしまった。それも本当にごめんね。」
「全然いいですし、足の怪我は飛斗さんのせいではないです。」
「ううん、その怪我は俺のせいだ。いつまでもどっちつかずの、中途半端な生き方をしていた俺への罰だ。でも俺、決めたんだ。今度こそ漫画と向き合うって。」
そう言う飛斗さんの顔は重荷が取れたかの様にすっきりとしていた。
「だから昔から使ってた道具を捨てて、新しくやり直そうと思ったんだ。それで今日、文房具屋に行ったし、この思いを春香ちゃんに話したかったんだ。春香ちゃんが居なかったら考えを改める事はしなかっただろうから。」
「春香ちゃん、このカフェに来てくれてありがとう。俺にまた夢を追いかけさせてくれてありがとう。」
「そんな...」
私は何もしていない。飛斗さんは漫画家になれるって思ったから言っただけだし、それで考えを改めたのは紛れもなく飛斗さん自身だ。こんなにお礼を言われる筋合いはない。
「だから今日は俺に奢らせて。なんでも好きなの食べな。」
「それ言ったら私も飛斗さんの夢を応援したいので奢らせてください。」
「ダメ。それにこれは怪我をさせた春香ちゃんへのお詫びでもあるんだから。」
「だから、気にしてないですって。」
私達は顔を見合せて笑った。そして押し問答の結果、お互いの食事の代金を払う事で話はまとまった。
「はー、美味かった!」
「美味しかったですね。」
食事を楽しんだ車内。真っ直ぐは帰らず、少しドライブをする事になった。
「足大丈夫?痛くない?」
「大丈夫ですよ。まだ少し違和感はありますが、痛くはないです。」
「無理しないでよ。重たい物を取る時とか絶対声掛けてね。もし無理してやったら表に出さないからね。」
「今の言い方、遥さんにそっくりでした。」
「長年一緒に居たら似てくるんだよ。それに春香ちゃんは無防備すぎる所があるから皆心配なんだよ。」
「えぇ?そうですか?」
そんな訳ないと思ったが、確かにお客さんに言い返したり、水をかけたり叩いたりするのは無防備すぎるなと思い直した。あの水をかけた中学生二人の親、よく訴えて来なかったよな。訴えなかったとしても、お店に文句を言いに来るぐらいはあっても良かったのに。いや別にないならないで平和でいいのだけれど。
「思い直したら無防備な所ありました...」
「でしょ。それが春香ちゃんの良い所でもあるんだけどね。」
「今度からはもっと気をつけます...」
飛斗さんは反省している私を見て笑っていた。楽しんでくれてるなら何よりだ。
「ねぇ、春香ちゃん。真面目な話、最近調子どう?」
ひとしきり笑った後、真剣な口調で飛斗さんが聞いてきた。
「見ての通り元気ですよ。」
「遥さんが言ってたんだけど、春香ちゃんは見た目は元気そうでも心で抱える部分があるから気にかけてねって。」
遥さんはあの時の私を知っている。だから心配しているのだろう。
「二人とも、大袈裟ですよ。もう吹っ切れましたし元気です。」
「それならいいけど。無理したらダメだからね。」
「わかってますよ。」
車内から外を見る。夏も終わりに近付いてて、秋らしい風が吹くようになった。心地よく過ごせるから秋は好きだ。
でも段々とあの日に近付いている。吹っ切れたとは言えど、嫌でも思い出してしまう。あの日なんて来なければいいのに。
そんな子供じみた事を考えてしまった。



