高二の春の終わり、父の転勤で恋は高校を転校した。
「岩崎恋です!よろしくお願いします!」
隣の席は、茶色い紙袋を被った男の子だった。
「よろしくね、淡野くん!」
「…………」
目の辺りに穴が空いた茶色い紙袋、初夏にも関わらず冬服の長袖に、タイトな手袋をしている。なんとも不思議な姿をしているが、周りはそれをなんの違和感とも思っていないようだった。
これは転校生少女と孤独な紙袋少年のひと夏の冒険である。
「淡野くんっていつもあんな感じなの?」
「そぉだねぇ。基本一人でいるけど、普通に話せるよぉ。」
ホームルーム後声をかけてくれた美海と話していた。
「なんで紙袋被ってるの?醜形恐怖症?」
「んー、違うけど、まぁきっとすぐ分かるよ。」
そう言って更衣室に向かった。火曜日は一限目から体育だった。
(淡野くん……体育も長袖長ズボンに紙袋……手袋もしてる……!)
蒸し暑い体育館に、暑苦しい格好の淡野。熱中症が心配だ。
「今日はバレー!男子がステージ側でやるぞぉ!準備しろぉ!」
先程まで座っていたから分からなかったが、淡野は男子の中でも抜けて背が高いようだ。おおよそ一八五センチといったところか。
それぞれ体操し、じゃんけんでチーム分けする。
「あっ、うちのグループの七人になっちゃった……」
「じゃあ私、 はじめ見学してるね!」
「ほんと?ありがたぁ!!」
壁に寄りかかって三角座りする。ちらっと男子の方を見ると、同じく座ってる淡野の姿があった。ストロー付き水筒を使って器用に水を飲んでいた。
(紙袋を取ればいいのに……笑)
呆れつつまた女子に視線を戻した。すぐだった。
「岩崎!!危ない!!」
男子の危険コールが聞こえ振り向くと、高々と上がったボールが恋の方へ落ちてきていた。
(まずい……あたる……!)
目をぎゅっと瞑り、頭を手で守った。
ドゴッ!……カシャカシャ……
何かに当たる鈍い音はしたが、全く痛くない。ゆっくり目を開けると目の前には大きな背中があった。
「淡野く」
「おい、気をつけろ。当たったらどうする。」
「すまんすまん、!岩崎ちゃんもごめんねぇ!」
正直謝罪などどうでもよかった。こんなこと球技あるあるだ。窓から入る風で床に落ちた茶色い紙袋が細かく動く。
「頭……ない……」
何も無いはずのところから赤い液体が垂れる。当たったのが淡野の頭なら、それはきっと鼻血だ。だが、恋の目の前には頭のあの字もない、いや、きっと体のかの字もないのだ。透明人間だ。
「怪我は?」
急に声をかけられた。
「だ、大丈夫!それより鼻血……」
「あぁ……別に。先生、保健室行ってきます。場所教えてやるから、来い。」
紙袋をサッと拾ってスタスタ行ってしまう。
応急処置が終わって、保健室の先生が用で出ていってしまった。
「怖いか?」
ものすごい気まずい空気を破ったのは淡野だった。
「こ、怖いというか……びっくりしただけ……名前聞いていい?」
「聞いて何になる?」
鼻血が止まったようで、立ち上がって保健室を出ようとした。
「だって気になるんだもん!なんで透明なの?生まれつき?なんで一人でいるの?もっと皆と仲良く」
「お前に俺の何が分かる。」
見事に一刀両断され、淡野は体育館へ戻っていった。
昼食になって淡野は弁当を持って何処かに行った。
「待って!淡野くん!私も一緒に!」
「来んな。」
相変わらず冷たい態度。美海曰く入学当初からあんな感じだという。なら尚更諦められない。
次の日の昼
「淡野くん!一緒にお昼」
「来んな。」
その次の昼
「一緒に」
「いい加減諦めろ。」
恋は二週間ほど淡野と攻防し、七月の頭の月曜日の昼。
「淡野くん!一緒にお昼食べよう?」
「……チッ、勝手にしろ……」
舌打ちしたものの、可も不可もない返答だ。
「やったぁ!!ありがとう、淡野くん!」
向かったのは屋上だった。来るなり紙袋を取って座った。
「淡野くんの名前聞いていい?」
「知らなくていいだろう。何がそんなに気になる?透明だから?一人でいるから?」
気になるのはそこじゃない、恋はそう首を横に振った。
「淡野くんが優しいから気になるの。」
「優しい……?」
「だって、ほらバレーの時さ。飛んできたボールから庇ってくれたでしょ?」
その時淡野は恋からそう近くないところに座っていた。わざわざ走って恋を助けてくれたのだ。
「もちろん透明なのはびっくりしたけど、こんなに優しい人が一人ぼっちなんだもん。友達になりたいなぁって!」
淡野の箸が止まった。
「……と……」
「ん?」
「澄透……澄むに……透けるで……澄透……」
ゆっくり、透き通った声が聞こえた。
「澄透くん!すごくいい名前!!私、恋って書いて『ここ』って読むの!」
「知ってる。」
「だから、名前で呼んで欲しいなって。私、『岩崎』って呼ばれるのあんまり好きじゃなくて。パパは大好きなんだけど、祖父母が好きじゃないの。」
恋は幼くして母を亡くし、男手一つで一生懸命育ててくれた父が大好きだ。だから何回転校しようと、父と一緒にいられるならそれで良かった。でも、父の両親は「恋がいるから大変なんだ」「そんな子捨ててしまえ」と恋を罵る。流石に頭にきた父は恋のために祖父母と絶縁してしまった。
「……恋……さん……」
「わぁ……!!ありがとう!澄透くん!明日も一緒に食べよ?」
「……勝手にしろ。」
澄透はそっと顔を逸らしたように視えた。
次の昼、また同じように屋上に上がり弁当を広げると、澄透が口を開いた。
「友達いるんだろ?そいつらと食えばいいのに。」
まるで突き放す言い方だが、屈しないのが恋だった。
「美海ちゃん達とは休み時間も放課後も話してるもん!お昼くらい澄透くんと話したいの!」
「なんだそれ……ふっ……」
乾いた声、いや笑いだ。澄透は確実に今笑った。
「今、笑ったよね?!」
「笑ってない。」
「絶対笑ったでしょ!!」
「笑ってない。」
澄透が口にしたものは、透けて見える。ミニトマトが弾けるのも、お米をゆっくり噛んでいるのも、パスタにかかる刻み海苔が歯に挟まってるのさえ見えてしまう。ただ、噛めば噛むほど見えなくなっていく。
「澄透くんが透明なのって、生まれつき……?」
澄透の箸が止まった。澄透は動揺すると動きが止まる癖がある。
「あ、ごめんね!言いたくなかったら、別に」
「生まれた時は頭だけ。そこから首、胴、腕、五歳になる頃には足の先まで消えた。透明病、世界でも症例が少なく、原因不明、治療方法不明の奇病。いつまで生きられるか、それこそいつ死ぬかも分からない。」
淡々と語る声はどこか寂しそうで悔しそうでもあった。
「母さんは俺を気持ち悪がって二歳か三歳の時出ていった。今は父さんと兄さんと柊雨と四人暮らし。」
全部言い終わってやっと話しすぎたと自覚したようで、弁当を早食いしていた。
「柊雨って?」
「妹、歳は二つ下。兄さんは三つ上。」
「いいなぁ、お兄ちゃんも妹ちゃんも。私、兄妹いないから憧れるんだぁ。話してみたい!」
「そうか……」
食べ終わり次第片付け初め、教室に戻っていった。
放課後、先程までの快晴はどこかへ、土砂降りである。雨雲レーダー曰く一一時近くまで降っているようだ。
「…………」
「恋さん……?どうしたんだ?」
珍しく澄透が話しかけてくれたが、恋は落ち込んでいた。
「電車止まっちゃったの。始発まで動かないみたいで、パパにお迎え頼もうとしたけど、多分まだ仕事で……」
散々父には迷惑かけているのに、こんなことでさらに重荷になりたくなかった。
「近くのネカフェにでも泊まろうかな……って」
「……恋さんが良ければ、家来るか?」
「え、?」
「パパさんの仕事が終わるまででも雨宿りにはなるだろうし、女子高生が一人でネカフェは危ないと思う。」
「澄透くん……」
あんなに消極的だった澄透が、今日は真逆だ。少しずつだけれど、彼の心の扉が開いてきているのを実感していた。
「ホントにいいの?」
「まぁ。今日傘は?」
「持ってきてない……」
つい先日出かけた時のバッグに折り畳み傘を入れたままにしてしまっていた。
「生憎俺も持ち合わせてない……すぐそこだし……走るか。」
「え、走る?!」
まあまあの土砂降りだ。風がないだけマシかもしれないが、それでもずぶ濡れは免れない。
「行くぞ。」
澄透が恋の手を引いた。ぴちゃぴちゃと足音に紛れて靴下に撥ねる雨水。直ぐに髪もシャツもずぶ濡れになって寒くなった。それでも、薄い手袋越しの大きな透明な手はとても温かかくて、どこか楽しいとも思った。
「さっむぅぅ……」
「そうだな。……着てろ。」
そう言って澄透はブレザーを肩にかけてくれた。マンションのエレベーター、その床に雨水が垂れる。
「澄透くんは寒くない?」
「別に。」
そう言いつつも澄透の肩はプルプルと震えていた。
「寒いんじゃん……!……えいっ!」
「っ……///!」
恋は澄透に後ろから抱きついた。透明な澄透にも身体があると分かる。濡れたシャツが肌に張り付き、生々しく体温を感じる。
「あったかぁぁい……」
「あ、え、そ、……」
澄透の体温が高くなって、より温かくなる。どうもその温かさが離れがたく、エレベーターを降りてもしばらくそのままでいた。
「そ、その……恋さ、」
「うぇぇぇぇ!!お父さん!晶にぃ!澄にぃが彼女連れてきた!!」
「うっそっ!!」
どこからともなく女の子の声が聞こえて、後に続く若い男の人の声。
「めっちゃ可愛いぃ!!澄にぃやるぅ!!」
「……柊雨……お前……」
「あ、あの……私、彼女じゃなくて……」
絵に描いたようなキョトン顔を見せる。何か不味かっただろうか、と振り返るも分からない。
「距離感バグ系女子か……がんばれ、澄にぃ。」
「……まぁ…………」
「んぅ??」
「まぁ二人とも早く入って!」
家はいわゆるマンションの七階にあって……
「え!マンションの七階!?」
「今更か……」
「えへへ……///雨に気を取られてて……」
「父さんが医者でな。」
どおりで男手一つで三人兄妹を育ててるわけだ。
「お風呂出来てるから入って!」
「恋さんから入って。」
「でも澄透くん、」
「女の子は冷やさない方がいい、」
澄透はどこまでも優しいな、と心底思っていた。
「って柊雨が。」
(その一言要らなかったなぁ……)
澄透は柊雨に肩を叩かれ、痛そうにしていた。恋は流されるまま脱衣所に連れていかれた。
「お風呂ありがとうございました。」
「風邪引いちゃ大変だもん!あ、自己紹介遅れました!柊雨です、中三です。こっちが長男の晶翔、医学部の二年生。」
「晶翔です。澄透と仲良くしてくれてありがとう。」
「そんなそんな。私が勝手に付きまとってるみたいなところあるので……」
「大丈夫!あ、ねぇ?恋ちゃんって呼んでもいい?」
「もちろんいいよ、柊雨ちゃん。」
後ろから濡れた髪に触れる手が一つ。
「そんなことより髪を乾かした方がいいよ。」
澄透より低くて、でも布団のように柔らかく温かい声がした。
「父の清都です。君のことは澄透から聞いているよ。」
「ふぇぇっ!!」
「『恋という隣の女子がやたら絡んでくる』とね、ふふっ!」
「あぁ……」
嫌がっている澄透からしたらそうだろうな。でも、なんで家に呼んでくれたのか、分からずにいた。
「でも澄透は恋さんと出会ってから前より笑うようになったよ。高校も楽しそうでね。それでいて」
「父さん。」
お風呂から上がった澄透からそこにいるようだ。
「おっと、これ以上言ったら怒られちゃうからまた今度ね。」
「二度と口にするな。」
後ろにいるのは分かるが、向いてもズボンしかない。ん?ズボンしか……
「じょ、上裸……///!」
「ウワァ、クラスノジョシノマエデ、エッチダァ。」
「棒読みやめろ。見えないのに……感受性豊かだな。」
脱衣所にドライヤー出しといたから、そう言って澄透はキッチンに向かった。
時刻は八時半になろうとしてる。柊雨から服を借りて、夕飯を共にした。そんな時、電話が鳴る。
「もしもし?」
『もしもし、恋ちゃん?』
「パパ、どうしたの?」
『実はパパの電車も止まっちゃって、恋ちゃんのこと迎えに行けなくて。今どこにいるの?ネカフェに泊まるって、言ってたけど。』
「今私は、すみ」
目の前で柊雨が「しー」っと口に人差し指を当て、私の名前を言えとの如く自身を指す。
「柊雨ちゃんの家にお世話になってるよ。」
『お友達の家かな?もし良ければ泊めてもらうのが安全だと思うだけど、どうかな?』
柊雨に聞くと、即決オーケーサインをした。
「大丈夫だって。」
『そっか、よかった。じゃあ、おやすみ。』
「おやすみなさい、パパ。」
『あ、男の子には気をつけるんだよ!分かった?!』
苦笑いして『はーい』と返し、通話を切る。
「わーい!澄にぃ、今日恋ちゃんお泊まりだって!!」
「はぁぁ?!」
「パパの電車も止まっちゃって、お迎え来れなくなっちゃって、」
「まさか澄にぃ、恋ちゃんのこと追い出してネカフェにでも泊まらせる気?」
「うっ……!…………好きにしろ。」
澄透の肩に晶翔と清都の手が乗る。
「「頑張れよ。」」
「はぁ…………」
「んぅ??」
この家族はどこまでも不思議だ、と思った。
恋は柊雨と一緒に寝ることになり、ベッドに座ってお喋りしていた。
「恋ちゃんは澄にぃのこと怖くなかったの?」
「怖いというか……興味?好奇心みたいな。」
「ふぅん……良かった。」
柊雨は呟くように言った。
「澄にぃ、小学校も中学校も見た目で虐められて、澄にぃのこと誰も知らない高校に行ったの。そこでも名前も聞かないし、無口は変わらなかった。でも最近澄にぃ変わったよ。この前なんてね、」
『父さん、』
『おぉ、どうした、澄透。』
『……どうやったら女子と上手く話せる……?』
(澄にぃ、好きな子か彼女でも出来たのかな……)
「って!」
「ふふっ!なんか澄透くんらしいね。」
「そうだよね!澄にぃ、案外話すの好きだから、不器用で無口だけどさ、これからも仲良くしてね。」
「柊雨ちゃん……うん、約束するよ。」
ニコッと笑う柊雨は突然立ち上がって、勢いよくドアを開けた。
「……ドアの前で盗み聞きしない。」
「だって女子の恋バナ以上に面白いものはないでしょ?!!」
「恋バナしてないから!澄にぃもノリノリでやるな!」
「…………」
澄透の尻に横蹴りを見事にお見舞いした。恋は痛がって床にしゃがむ澄透の前で同じようにしゃがんだ。
「お喋り好きなんだぁ……?ふふんっ?」
頬であろう位置を人差し指で突いてみた。
「言ってろ。」
案外近くから声がしてビクッと肩を揺らす。
「あと一歩前に出てみろ。」
「一歩?」
ゆっくり一歩前に出ると、鼻先に何か当たった。いや、澄透の鼻先だ。澄透が瞬きしたのが分かり、乾かしたての髪が恋の額に当たる。
「ひゃっ……///!」
「見えない分、警戒した方が身のためだぞ。」
澄透の手が恋の頭を撫でて、去っていった。
「……///!!」
「澄にぃ、確信犯だ……」
「だな。」
その夜、恋は一睡もできなかった。
お泊り訪問から二週間が経とうとしていた。もうすぐで夏休み。ある日の昼、澄透がこう言った。
「この前病院に行った。俺の病気は進んでで、もう一年持たないらしい。」
透明化が進んで、あと一年後には完全に消えてしまう、と澄透は言う。
「もう俺と関わるな。辛い思いをするのは、恋さんの方だ。」
そんな突き飛ばすような言い方はないではないか。少しずつ心を開いてくれるのが嬉しくて、いつか澄透の笑顔を間近で見たくて、毎日が楽しいのだ。
「…………だ……」
「ん……?」
「……いやだよぉ……!」
弁当にボロボロと涙が溢れ落ちる。
「恋さ」
「いやだ、いやだぁ……澄透くんが死んじゃうのも……関われないのも……いやだよぉ……!私は……澄透くんの……笑った顔が……見たいだけなの……ママみたいに……」
「恋さんのママさんって……?」
「私が五歳の時に癌で亡くなったの……」
ママはいつだって辛そうな顔はせず、亡くなる寸前でさえ笑顔を絶やさなかった。
「ママと約束したの……」
『恋ちゃん、いい?もしニコニコしていない人がいたら、恋ちゃんがニコニコにするのよ?もちろん恋ちゃんもニコニコでいてね?』
『ここがニコニコにするのぉ?』
『そうよ?ママとの約束よ?恋ちゃんも友達もニコニコ。恋ちゃんはママの宝物よ。』
その二週間後、恋の母は静かに息を引き取った。
「なんだか……澄透くんを見てると、ママに似てて……死を、受け入れてるみたい……」
「っ……!それは……」
「だってそうでしょ?死ぬのが分かってるから、私を突き放すし、人とも距離を置く。違うの?」
澄透は何も言えない様子で顔を背けた。
「あのね、私、お節介かもしれないけど、病気のこと調べてたの。そしたら、これ。」
恋は保存していたサイトを澄透に見せた。
「薄氷大学……透明病治療の最先端……?!?」
「やっぱりまだまだマイナーみたいだけど、でも賭けてみる価値はあると思うの!だから……諦めないで……」
澄透の大きな手を握った。指先は氷のように冷たく、骨ばっていた。
「諦めないで……お願い……」
「…………分かった……」
「ほんと!嬉しい!」
握った手をブンブンと上下に振った。
「大学九州だから、んー……皆で旅行行こうよ!パパと澄透くんの家族と皆で!」
「また無茶な……そもそもなんで恋さんが来るんだ?」
「調べたの私だよ?単純に興味もあるし、それに、澄透くんと思い出作りたいの。」
澄透は息を全て吐くくらいの大きなため息をついた。
「ほんと……そういうのやめたほうが良い。」
「なんで?」
「なんでも。痛い目見るぞ。」
「えぇ……?」
澄透はその後も何も言わずに、教室に戻っていった。
その日の夜、澄透からメッセージが来た。
『昼の件、父さんに話したらすごく賛成された』『柊雨も兄貴も乗り気だ』
『そうなんだ!』『パパも良いねって言ってくれたよ』『楽しみになってきた!』
『そうか』
嬉しいのに変わりない。けれど、澄透の病状がもうどうにもできなかったら、そう考えるとやはり怖くなる。
恋が澄透に付いてまわるのは母の言葉だけではない。残された家族はどうなるか、恋は知っている。
母が亡くなって少しして、父は鬱病を発症した。通勤なんぞままならず、祖父母の手を借りて生活していた。しばらくして立ち直り始めるとまた仕事に行けるようになって、結論的に祖父母と絶縁した。親不孝に聞こえるかもしれないが、全ては恋のためだった。どんなに別れが分かっていようと、失うのは悲しく辛い。そんな思いできれば誰にもさせたくないのだ。
二日か三日して夏休みに入った。始まった次の日、恋は父と空港にいた。
「あっ!澄透くん!」
「恋さん、朝早いのに元気だな。」
「朝得意なんだぁ!」
後ろには柊雨と晶翔と清都の姿もあった。
「柊雨ちゃん!」
「恋ちゃん!わぁい!恋ちゃんと旅行楽しみ!!」
父ズは遠目から恋たちの様子をにこやかに見ている。
直行便で二時間程度、博多空港に着いた。大学病院には事前に連絡済みで、明日伺う予定だ。今日は一日博多で遊ぶのだ。
「博多と言ったら豚骨ラーメンでしょ!」
「明太子じゃないのか?」
「あぁ〜!そっちも良いね!」
「柊雨、もつ鍋食べたぁい!」
旅行の醍醐味といえば、そう名産品を食い尽くすこと。博多は美味しいものが多い。帰る頃には一〜二キロ増えていることだろう。
恋はふと思う。明後日帰る時、澄透はいるだろうか。また一緒に学校に通えるのだろうか。
「恋さん……?」
「わっ!ご、ごめんごめん!考え事してて……」
「体調が悪くなったら、すぐに言うんだからな?」
「澄透くんもね。」
恋が笑うと、澄透の帽子が少し傾いてマスクが歪んだ。
父ズは子供たちの三歩ほど離れて二人で話していた。
「あんなに澄透が楽しそうなのは初めて見ました。」
「それは俺もです。恋ちゃんがあんなに笑ってるのは久しぶりです。」
恋の父・爽介は一点に恋を見つめる。
「妻が若く亡くなって、俺が鬱病になってしまって、幼いながらに恋ちゃんに我慢させてしまったんです。転勤にも付き合わせてしまって、ろくに思い出も作らせてやらずにここまで来てしまいました……きっと華織に怒られますね!」
華織とは恋の母親だ。清都の方を向いて、頭をかきながら笑った。
「どんな形であれ、恋のしたいことをさせてやりたいんです。親ばかですかね。」
「まさか。それは父親なら誰しもあることですよ。子供の成長が嬉しいのも、好きな事をさせたいのもね。」
丁度、恋が澄透に抱き付くのを目撃する父ズ。
「…………付き合ってたりします?」
「澄透からそんな話は聞いてませんけど……あれは付き合ってますよね。」
「恋ちゃんが遂にパパ離れ……!」
爽介は少々涙ぐみ、袖で拭っていた。
「パパ達なんの話してるんだろう……?」
「そ、それより、は、はなれな、いか?」
「んぅ?暑い?」
「暑いというか……まぁ、あ、つい……」
残念に思いながら澄透から離れる。
その日は散々食って遊んで丸一日楽しんだ。
夜、恋はホテルのベランダで風に当たっていた。
「恋さん、」
「澄透くん……澄透くんも風に当たりに来たの?」
「そんなところだ。……明日だな。」
「うん。いざ思うと緊張して寝れなくて。」
紙袋が斜めに傾く。どうも不思議そうだ。
「絶対いい結果がいい。そう願ってるけど、やっぱり怖いの。」
星を見る目がいつの間にか床に落ちている。
「大丈夫だ。俺は死なない。」
恋の頭に手が乗る。毛流れに沿ってゆっくりと撫でる手が温かい。
「澄透くんから…そんな言葉が聞けるなんて……ちょっとびっくり。」
「まぁな……」
「でも……ちょっと安心。」
ふんわり笑ってみせると、澄透は顔を背けた。
「湯冷めするから。」
「うん。もう寝れそう。」
「そうか。おやすみ、恋さん。」
「おやすみ、澄透くん。」
次の日、朝早くから移動し昼前に薄氷大学に着いた。澄透は透明病の研究をしている先生と一緒に検査室に入っていった
「澄にぃ大丈夫かな……」
「きっと大丈夫だよ、柊雨ちゃん。」
「恋ちゃん……」
一時間程待って、澄透が帰ってきた。
「もう結果出たって。俺と父さんで」
「わ、私も聞きたい……!」
「恋さん……」
「ご、ごめんね……でも、言い出しっぺ私だし、気になるの。澄透くんの力になれてるのか、ただの……めいわ」
言い終わる前に澄透が恋の口を塞いだ。
「それ以上言うな。いいよな、父さん。」
「もちろん。」
「澄透くん……」
恋の手を引いて食い気味に診察室に入る。恋たちは医者の第一声に驚く。
「このままならもってあと三ヶ月でしたね。」
「っ?!つい最近一年って……」
「危ない危ない。」
一瞬取り乱したかと思えばまた冷静になった……ように見えただけで、恋の目には視えている。彼の震える手を。
「でも、まだ助かりますよ。よく来てくださいましたね。」
「俺は……どうしたら……?」
「まだまだ確立したばかりの治療法です。完治する保証は出来ませんが、よろしいですか。」
少し動揺したように見えたが、澄透は深く頷いた。
それから、先生からこれからの方針を話された。一刻を争うので、澄透は緊急入院することになった。つまり、恋達と一緒に帰れない。
「…………、」
「……恋さん、」
「仕方ないよ!でも、良かったぁ。澄透くん治るかもなんだぁ!ほら言ったでしょ?諦めちゃダメだって!」
「あ、あぁ……そうだな。」
澄透の目にはとても儚く映った。その日はそのままホテルに戻った。
また恋はホテルのベランダにいる。悠々と沈む夕日を眺めていた。
「恋さん。」
「澄透くん、?良かったね。治る可能性があるって、」
「でも恋さんはどこか悲しそうだ。」
恋は何も言えなくなってしまった。だんだんと瞳が潤み始め、一つ二つと涙を流した。
「嬉しいんだよ……?病気が治るって……言われて……すごく嬉しかったの……でも……次……学校に行っても……澄透くんが……いないのが……すごく……寂しく……て……会えなく……なっちゃう……のが……嫌……なの……」
恋はごめんねごめんねと言いながら涙を拭うが、止まる気配がない。ふと、澄透が恋の涙を拭った。
「そんなに擦ったら目が赤くなる。」
「でも、でもぉ……!」
「一生会えなくなる訳じゃない。いつでも連絡は取れるし、時間さえあれば電話したっていい。」
「澄透くん……?」
「なんだっていい。面白かったことでも嫌だったことでもいい。弁当の写真でも送ればいい。見たらちゃんと返してやる。」
普段の澄透ならそんなこと言わないはずだ。
「もしかして……澄透くんも寂しい?」
「っ……?!そ、そんなこと一言も!」
「だって、そう見えたんだもん。違うの……?」
紙袋が少しだけ下がる。
「……悪いか。」
「ふふふっ!なんにも悪くないよ!」
恋は澄透に抱きついて、胸に耳を当てる。
「な、///!」
「どんなに透明でもハグすると、澄透くんがいるって感じるね。」
ドッドッドッと跳ねる心臓の音、呼吸の度に動く胸、恋よりずっと広い背中に、ほのかに高い体温。
「澄透くんっていつも温かいよね。」
恋が離れていつも通り笑うと、今度は澄透が恋を抱きしめた。
「え、?ゆ、澄透くん……?」
「…………」
「どうしたの……?」
我に返ったのか、少しビクッとして急いで離れた。
「すまない。」
「ううん、全然!むしろちょっと嬉しかったよ。」
恋はさっきとは違う、小悪魔のようないやらしい笑みを浮かべた。
「澄透くんのこと手懐けた感じ!」
「手懐けた、って……ふふっ……」
「だって前は『来んな』とか『勝手にしろ』とか、警戒心剥き出しだったんだもん!」
「そ、そんなこともあったな……」
そんなに時間は経っていないがここまで変わるとは澄透自身思っていなかった。
「私が澄透くんの友達一号だね!」
「っ……!ふっ、あぁ、そうだな。」
澄透はそっと恋の頭を撫でた。
その日は明日に備えて早めに眠りについた。
次の日、病院で澄透は荷物を整理していた。
「澄透、私たちはそろそろお暇するよ。」
「飛行機の時間か。あぁ、分かった。」
「澄にぃ……絶対、ぜぇったい!死んじゃダメだよ!分かってる?!」
「分かった、」
「帰ってきたら一緒にキャッチボールしようなぁぁ……!」
「分かったから泣くな、兄さん。柊雨も。」
皆が澄透の病室を去る中、恋は一人立ち止まっていた。
「また……また絶対会おうね!約束だよ?!」
紙袋がポツポツと濃い茶色に変わる。
「あぁ……」
澄透が泣いているのだ。いてもたってもいられなくなり、恋はそっと紙袋を外し澄透の顔に触れた。指で優しく涙を拭った。
「肌すべすべだぁ……綺麗な顔だね、澄透くん。」
「そ……な……」
「澄透くんの顔、私が一番初めに見たいなぁ。だめ……?」
「恋さ……あぁ、構わない。」
触れてる間は澄透が見えた気がした。口角が上がり、優しく微笑む彼がいた。
「じゃあね!バイバイ!」
「また会おう……!」
恋は澄透の病室を去っていった。
瞬く間に夏休みが終わりまた学校が始まると、恋の席の隣はなくなっていた。その日のうちに席替えをして、恋の隣はまた別の子になった。
屋上に行っても一人、黙々と弁当を食べるだけ。太陽に雲がかかって、薄暗くなっていた。大好きな父の弁当もどこか味気なかった。
ふと、恋のスマホに通知が来る。
『病院食は相変わらず不味い』
写真とともにそういうメッセージが送られてきた。相手はもちろん澄透である。
『私、もう食べちゃった』『今日は何が出たの?』
すぐに既読マークが付き、返信がくる。
『豆腐ハンバーグ』『味が薄い』
嫌そうなのが文面で伝わってくる。案外寂しいのは澄透のようで、大半が彼からのメッセージだ。
『我慢だよ!』
あっちはあっちで勉強しているようで、退院した暁には高卒認定試験を受けるようだ。大学にも通いたい、と言ってるだけ恋は尊敬していた。
(私も進路考えないと……)
高二の秋、そよそよと風が吹く快晴の日だった。
長い長い月日が流れて、いつしか高校を卒業した恋は薄氷大学の看護学部二年生になった。薄氷大学、そう澄透が入院している大学だ。しかし、キャンパスが遠く、予定が合わないのもあってまだ行けずにいた。
澄透はというと、余命三ヶ月と言われてから三年が経とうとしている。恋とは未だにメッセージを取り合っていて、快方に向かっているようだった。
そんな最中、急にメッセージが来た。相手は柊雨。
『恋ちゃん!お願い!病院来て!澄にぃが!』
文面からして急いでいる様子だった。恋は貯金を崩して新幹線の席を予約し、講義が終わるとすぐ病院に向かった。
新幹線で一時間弱、駅からバスに乗り換えて病院に着いた。廊下を小走りで通り、やっとの思いで澄透の病室に入る。
バンッ、と勢いよくドアを開ける。思っていたより力が入ってしまったが、そんなこと思う余裕もなく澄透のベッドに向かった。
「澄透く…………え、…………?」
ただそこには綺麗に整ったシーツがあるだけで、澄透の姿はどこにもなかった。触れようにも「普通」に枕とベッドがあるだけで、誰もいない。ついさっきまで寝ていたようにシーツは生暖かかった。
「すみ、と、くん……うそ、…………」
恋の瞳からボロボロと涙が零れる。少し遅かった。本当に……本当に少しだけ。
「恋さん、」
後ろから聞き覚えのある、冷たくも柔らかい低い声が聞こえた。
「え、……」
「来てたんだな。今日退院して、さっきまでここで荷造りしてたんだが、」
「す、みと、くん……すみとくん……!澄透くん!」
恋は病室構わず澄透に駆け寄り思い切り抱きついた。
「恋さ」
「ぅわぁぁぁぁぁんっ!!!よかったぁぁ!!良かったよぉぉ!」
澄透の胸に顔を埋めてシャツを濡らした。澄透は細かく跳ねる小さな肩を守るように優しく抱いた。
「ごめ、ね……私、かんち、がい、して……」
「それは柊雨の入れ方が悪い……水、飲むか?」
「ありがとう……」
廊下で話すのもなんなので、病院の中庭のベンチで話していた。泣きやみ落ち着てくると、澄透がまだ紙袋を被ってることに気がついた。
「かみ、ぶくろ……ダメだったの…………?」
不思議そうに顔を傾ける澄透。
「いや。……ほら、見てくれ。」
手袋を外すとそこには骨ばった恋よりもずっと大きな手があった。
「あぁ……じゃあ……!」
「忘れたのか?『私が一番に顔を見る』って言ってただろ?」
誰もいないことを確認するとゆっくり紙袋を取った。
「っ……わぁぁ…………!」
喉仏と綺麗な筋の入った首が見えて、その上には彫刻のような美しい顔が乗っていた。薄いブルーグレーの髪に透明感のある陶器のような白い肌、ゆっくり開く瞼の中には切れ長のコバルトブルーの瞳があった。少し冷たく感じるが、笑うと優しい目元でもある。
「…………」
「そ、そんなにじっと見られると…………///」
「ご、ごめんね!でも……すごく綺麗な顔だなぁって、見とれちゃって…………///」
一度目を逸らしたがまた澄透に視線を戻すと、バチッと目が合ってしまった
「「っ……、!」」
お互い勢いよく目を逸らし、何となく気まずい空気になってしまった。
「あ……えっと、その///こ、これからどうするの?」
「あ、あぁ……とりあえず高卒資格取ってからは、まぁ……大学に通おうと思う。」
「何になりたいの……?」
「……医者。」
恋は驚いて澄透にまた視線を戻した。
「ほんと?!」
「医学部に受かる保証なんて何も無いが、この三年勉強してなかった訳じゃない。薄氷大の医学部、決して簡単じゃないのは分かってる。でも、諦めるのはやめようと思って。」
諦めるのをやめる、それはいつしか恋が言った言葉によく似ていた。
「そっか……!私応援してるよ!」
「ありがとう、恋さん。」
ふと恋の手に澄透が手を重ね、優しく握った。夕日が照らし、寂しい気持ちにさせる。
「明日は?」
「午後からだからこっちで一泊して明日の朝帰るの。」
「そうか。」
握る力が少し強くなる。
「澄透く」
「帰したくない。もっと恋さんといたい。」
澄透がわがままを言うなんて珍しい。
「どうしたの?」
「…………恋さんがそんなつもりで俺と関わってくれたんじゃないのは分かってる。でも、」
澄透は恋の瞳を見つめる。
「俺は恋さんが好きだ。入院してから気づいたんだ。遅いのは自覚して……っ!!」
恋の愛らしい瞳からすぅっと涙が流れる。
「な、泣くほど嫌か……?」
「ちが、違うよ……澄透くん。私、すごく……嬉しいの……!ずっと……澄透くんに嫌われてると思ってて……!」
「そんなはずない……!俺はその……どうせ早死するなら、一人で良いと思ってたんだ。すまない、こんな気持ち……自分勝手だ……」
「ううん、そんなことないよ……」
澄透の手を握り返す。
「だって、私も……澄透くんのこと、好きだよ///私も自覚したの、最近だから……///」
大きな身体で恋を優しく抱きしめた。
「絶対……幸せにする。約束する……///俺の命の恩人だから……///」
「命の恩人?!なんか堅くない?せめて彼女とか、」
「カ、カノ、ジョ……///」
反応的にだいぶ片想いを拗らせているようだった。シャツから体温が交わり、鼓動が伝わる。
「澄透くん心臓速くない?」
「そ、んなこと……ある……///」
「ふふふっ!」
「え、ちょっと澄にぃイケメン過ぎない?晶にぃと全然似てないんだけだど。」
「しれっとディスるのやめてよ……!」
ちなみに、本当に顔を見せるのは恋が一番だったようで、柊雨含め初めて見る彼の顔に驚きを隠せていなかった。
恋は次の日には自宅に帰ってしまった。澄透は大層不満そうな顔をしていた。
ポカポカと眠くなる日差しに、少々肌寒い風がそよそよと吹く良き日。奇跡的な再会から一〇年が経とうとしていた。
「恋ちゃぁぁん!!」
「柊雨ちゃん!来てくれてありがとう……!」
「全然!っていうかめっちゃ綺麗!!澄にぃにはもったいないんじゃないの?!」
「うふふ!ありがとう……!」
この一〇年で澄透は医学部を卒業し、研修医期間を過ごした。今は医者として大学病院に務めており、いつかは父の病院を継ぎたいと言っていた。恋は看護師になり同じ大学病院でバリバリと出世街道を走っている。
「なんかしみじみ思うね。一三年前恋ちゃんが転校してきて、澄にぃと出会って……運命って本当にあるみたい!」
「そうだね。……そっかぁ、もう一三年になるのかぁ……」
話の途中で開式のアナウンスがあり、控え室は恋と爽介の二人になった。
「恋ちゃんがお嫁に行く日が来るなんて……ママになんて言おう……」
「パパってば、!心配しすぎだよぉ!」
「そうかな……いや、そうだね。澄透くんなら大丈夫だね。」
爽介がここまで心配するのは、ついこの前海外転勤が決まり暫く会えないことが分かっているからである。
「花嫁様、お時間でございます。」
「あ、はい!パパ、行こう?」
「うん。」
会場に繋がる扉の外。この扉を開ければ、愛する人が待っている。
「懐かしいね、この感じ。」
「ママは……どんな思いでここを歩いたんだろう?」
「どうだろうね。パパが見てたら限り、『私を見ろ』ってばかりに堂々としてたけどね」
「ママっぽい!」
二人が顔を見合わせて笑い合う。
「今日、ママ来てるかなぁ?」
「何言ってるのさ。娘好きのママだよ?」
「ふふふっ!そっか……そうだよね!」
そうして話していると、ふと緊張も解れていく。
「新婦、入場。」
扉の向こうからそう聞こえると、すぅーっと扉が開き、吸い込まれるように歩みを進める。その時、背中をトンっと押された気がした。
扉の向こうへと、進みながら過去を振り返っていた。高二になってすぐ転校して、彼に出会い、その夏に彼と離れ離れになる。でも、これからはずっと二人で進んでいく。
「恋さん、」
小さくポツっと雪が降るような優しい声が聞こえる。スっと顔を上げると、愛しい彼の顔が見えた。
「澄透くん、」
向かい合うと二人は幸せそうに笑い合った。
「誓いの言葉、新郎淡野澄透は病める時も健やかなる時も新婦岩崎恋を愛すること誓いますか?」
「誓います。」
「新婦岩崎恋は病める時も健やかなる時も新郎淡野澄透を愛することを誓いますか?」
「誓います。」
冬は春を嫌い、春はその暖かさで雪を融かしていく。冬が春に恋したのはいつだっただろうか。
「誓いのキスを。」
二人は向かい合うと、恋のベールをあげる。春が見上げた先には冬がいて、心底幸せそうに微笑む。冬の右手は春の腰に、春の右手は冬の胸に。神秘的で見とれてしまうような、そんな口付けだった。
「ママぁ!見て見て!!」
無邪気な幼女の声が淡野家の庭から聞こえる。
「わぁ!四葉のクローバーだね。」
「これママにあげる!」
「ほんと?嬉しい。ありがとう、澄麗。」
恋は娘の頭を優しく撫でた。恋と澄透の間には澄麗という娘がおり、恋は絶賛第二子を妊娠中だ。
「ただいま。」
「あ!パパぁ!おかえりなさい!」
「ただいま、澄麗。お利口さんにしてたか?」
「うん!あのねあのね!お庭で四つ葉のクローバー見つけたの!だから、ママにあげたの!」
澄透は澄麗を抱き上げ、恋の方へ歩みを進める。
「なんでママにあげたんだ?」
「んぅ?ママと弟?妹?分からないけど……二人とも元気がいいから!」
幼いながら無邪気に健康を願う娘の姿に感動する。
「ありがとう、澄麗。ママ頑張るね。」
「うん!澄麗もたくさんお手伝いする!」
その夜、澄麗が寝た後、二人はソファーでゆっくりしていた。
「澄麗も大きくなったね。」
「もう五歳か。早いな。」
「もう結婚して七年だもん。っ……!今お腹蹴った……!」
「っ!本当か……?!」
少し張ったお腹に澄透も手が触れる。温かい体温に中から蹴る振動を感じた。
「澄麗も恋さんになのに……この子も母親似か?」
「でもしっかり者なところは澄透くんに似てるよ。」
こんな穏やかな時間をあの時誰が想像しただろうか。
これは転校生少女と「元」透明青年の、淡い恋の物語である。
「岩崎恋です!よろしくお願いします!」
隣の席は、茶色い紙袋を被った男の子だった。
「よろしくね、淡野くん!」
「…………」
目の辺りに穴が空いた茶色い紙袋、初夏にも関わらず冬服の長袖に、タイトな手袋をしている。なんとも不思議な姿をしているが、周りはそれをなんの違和感とも思っていないようだった。
これは転校生少女と孤独な紙袋少年のひと夏の冒険である。
「淡野くんっていつもあんな感じなの?」
「そぉだねぇ。基本一人でいるけど、普通に話せるよぉ。」
ホームルーム後声をかけてくれた美海と話していた。
「なんで紙袋被ってるの?醜形恐怖症?」
「んー、違うけど、まぁきっとすぐ分かるよ。」
そう言って更衣室に向かった。火曜日は一限目から体育だった。
(淡野くん……体育も長袖長ズボンに紙袋……手袋もしてる……!)
蒸し暑い体育館に、暑苦しい格好の淡野。熱中症が心配だ。
「今日はバレー!男子がステージ側でやるぞぉ!準備しろぉ!」
先程まで座っていたから分からなかったが、淡野は男子の中でも抜けて背が高いようだ。おおよそ一八五センチといったところか。
それぞれ体操し、じゃんけんでチーム分けする。
「あっ、うちのグループの七人になっちゃった……」
「じゃあ私、 はじめ見学してるね!」
「ほんと?ありがたぁ!!」
壁に寄りかかって三角座りする。ちらっと男子の方を見ると、同じく座ってる淡野の姿があった。ストロー付き水筒を使って器用に水を飲んでいた。
(紙袋を取ればいいのに……笑)
呆れつつまた女子に視線を戻した。すぐだった。
「岩崎!!危ない!!」
男子の危険コールが聞こえ振り向くと、高々と上がったボールが恋の方へ落ちてきていた。
(まずい……あたる……!)
目をぎゅっと瞑り、頭を手で守った。
ドゴッ!……カシャカシャ……
何かに当たる鈍い音はしたが、全く痛くない。ゆっくり目を開けると目の前には大きな背中があった。
「淡野く」
「おい、気をつけろ。当たったらどうする。」
「すまんすまん、!岩崎ちゃんもごめんねぇ!」
正直謝罪などどうでもよかった。こんなこと球技あるあるだ。窓から入る風で床に落ちた茶色い紙袋が細かく動く。
「頭……ない……」
何も無いはずのところから赤い液体が垂れる。当たったのが淡野の頭なら、それはきっと鼻血だ。だが、恋の目の前には頭のあの字もない、いや、きっと体のかの字もないのだ。透明人間だ。
「怪我は?」
急に声をかけられた。
「だ、大丈夫!それより鼻血……」
「あぁ……別に。先生、保健室行ってきます。場所教えてやるから、来い。」
紙袋をサッと拾ってスタスタ行ってしまう。
応急処置が終わって、保健室の先生が用で出ていってしまった。
「怖いか?」
ものすごい気まずい空気を破ったのは淡野だった。
「こ、怖いというか……びっくりしただけ……名前聞いていい?」
「聞いて何になる?」
鼻血が止まったようで、立ち上がって保健室を出ようとした。
「だって気になるんだもん!なんで透明なの?生まれつき?なんで一人でいるの?もっと皆と仲良く」
「お前に俺の何が分かる。」
見事に一刀両断され、淡野は体育館へ戻っていった。
昼食になって淡野は弁当を持って何処かに行った。
「待って!淡野くん!私も一緒に!」
「来んな。」
相変わらず冷たい態度。美海曰く入学当初からあんな感じだという。なら尚更諦められない。
次の日の昼
「淡野くん!一緒にお昼」
「来んな。」
その次の昼
「一緒に」
「いい加減諦めろ。」
恋は二週間ほど淡野と攻防し、七月の頭の月曜日の昼。
「淡野くん!一緒にお昼食べよう?」
「……チッ、勝手にしろ……」
舌打ちしたものの、可も不可もない返答だ。
「やったぁ!!ありがとう、淡野くん!」
向かったのは屋上だった。来るなり紙袋を取って座った。
「淡野くんの名前聞いていい?」
「知らなくていいだろう。何がそんなに気になる?透明だから?一人でいるから?」
気になるのはそこじゃない、恋はそう首を横に振った。
「淡野くんが優しいから気になるの。」
「優しい……?」
「だって、ほらバレーの時さ。飛んできたボールから庇ってくれたでしょ?」
その時淡野は恋からそう近くないところに座っていた。わざわざ走って恋を助けてくれたのだ。
「もちろん透明なのはびっくりしたけど、こんなに優しい人が一人ぼっちなんだもん。友達になりたいなぁって!」
淡野の箸が止まった。
「……と……」
「ん?」
「澄透……澄むに……透けるで……澄透……」
ゆっくり、透き通った声が聞こえた。
「澄透くん!すごくいい名前!!私、恋って書いて『ここ』って読むの!」
「知ってる。」
「だから、名前で呼んで欲しいなって。私、『岩崎』って呼ばれるのあんまり好きじゃなくて。パパは大好きなんだけど、祖父母が好きじゃないの。」
恋は幼くして母を亡くし、男手一つで一生懸命育ててくれた父が大好きだ。だから何回転校しようと、父と一緒にいられるならそれで良かった。でも、父の両親は「恋がいるから大変なんだ」「そんな子捨ててしまえ」と恋を罵る。流石に頭にきた父は恋のために祖父母と絶縁してしまった。
「……恋……さん……」
「わぁ……!!ありがとう!澄透くん!明日も一緒に食べよ?」
「……勝手にしろ。」
澄透はそっと顔を逸らしたように視えた。
次の昼、また同じように屋上に上がり弁当を広げると、澄透が口を開いた。
「友達いるんだろ?そいつらと食えばいいのに。」
まるで突き放す言い方だが、屈しないのが恋だった。
「美海ちゃん達とは休み時間も放課後も話してるもん!お昼くらい澄透くんと話したいの!」
「なんだそれ……ふっ……」
乾いた声、いや笑いだ。澄透は確実に今笑った。
「今、笑ったよね?!」
「笑ってない。」
「絶対笑ったでしょ!!」
「笑ってない。」
澄透が口にしたものは、透けて見える。ミニトマトが弾けるのも、お米をゆっくり噛んでいるのも、パスタにかかる刻み海苔が歯に挟まってるのさえ見えてしまう。ただ、噛めば噛むほど見えなくなっていく。
「澄透くんが透明なのって、生まれつき……?」
澄透の箸が止まった。澄透は動揺すると動きが止まる癖がある。
「あ、ごめんね!言いたくなかったら、別に」
「生まれた時は頭だけ。そこから首、胴、腕、五歳になる頃には足の先まで消えた。透明病、世界でも症例が少なく、原因不明、治療方法不明の奇病。いつまで生きられるか、それこそいつ死ぬかも分からない。」
淡々と語る声はどこか寂しそうで悔しそうでもあった。
「母さんは俺を気持ち悪がって二歳か三歳の時出ていった。今は父さんと兄さんと柊雨と四人暮らし。」
全部言い終わってやっと話しすぎたと自覚したようで、弁当を早食いしていた。
「柊雨って?」
「妹、歳は二つ下。兄さんは三つ上。」
「いいなぁ、お兄ちゃんも妹ちゃんも。私、兄妹いないから憧れるんだぁ。話してみたい!」
「そうか……」
食べ終わり次第片付け初め、教室に戻っていった。
放課後、先程までの快晴はどこかへ、土砂降りである。雨雲レーダー曰く一一時近くまで降っているようだ。
「…………」
「恋さん……?どうしたんだ?」
珍しく澄透が話しかけてくれたが、恋は落ち込んでいた。
「電車止まっちゃったの。始発まで動かないみたいで、パパにお迎え頼もうとしたけど、多分まだ仕事で……」
散々父には迷惑かけているのに、こんなことでさらに重荷になりたくなかった。
「近くのネカフェにでも泊まろうかな……って」
「……恋さんが良ければ、家来るか?」
「え、?」
「パパさんの仕事が終わるまででも雨宿りにはなるだろうし、女子高生が一人でネカフェは危ないと思う。」
「澄透くん……」
あんなに消極的だった澄透が、今日は真逆だ。少しずつだけれど、彼の心の扉が開いてきているのを実感していた。
「ホントにいいの?」
「まぁ。今日傘は?」
「持ってきてない……」
つい先日出かけた時のバッグに折り畳み傘を入れたままにしてしまっていた。
「生憎俺も持ち合わせてない……すぐそこだし……走るか。」
「え、走る?!」
まあまあの土砂降りだ。風がないだけマシかもしれないが、それでもずぶ濡れは免れない。
「行くぞ。」
澄透が恋の手を引いた。ぴちゃぴちゃと足音に紛れて靴下に撥ねる雨水。直ぐに髪もシャツもずぶ濡れになって寒くなった。それでも、薄い手袋越しの大きな透明な手はとても温かかくて、どこか楽しいとも思った。
「さっむぅぅ……」
「そうだな。……着てろ。」
そう言って澄透はブレザーを肩にかけてくれた。マンションのエレベーター、その床に雨水が垂れる。
「澄透くんは寒くない?」
「別に。」
そう言いつつも澄透の肩はプルプルと震えていた。
「寒いんじゃん……!……えいっ!」
「っ……///!」
恋は澄透に後ろから抱きついた。透明な澄透にも身体があると分かる。濡れたシャツが肌に張り付き、生々しく体温を感じる。
「あったかぁぁい……」
「あ、え、そ、……」
澄透の体温が高くなって、より温かくなる。どうもその温かさが離れがたく、エレベーターを降りてもしばらくそのままでいた。
「そ、その……恋さ、」
「うぇぇぇぇ!!お父さん!晶にぃ!澄にぃが彼女連れてきた!!」
「うっそっ!!」
どこからともなく女の子の声が聞こえて、後に続く若い男の人の声。
「めっちゃ可愛いぃ!!澄にぃやるぅ!!」
「……柊雨……お前……」
「あ、あの……私、彼女じゃなくて……」
絵に描いたようなキョトン顔を見せる。何か不味かっただろうか、と振り返るも分からない。
「距離感バグ系女子か……がんばれ、澄にぃ。」
「……まぁ…………」
「んぅ??」
「まぁ二人とも早く入って!」
家はいわゆるマンションの七階にあって……
「え!マンションの七階!?」
「今更か……」
「えへへ……///雨に気を取られてて……」
「父さんが医者でな。」
どおりで男手一つで三人兄妹を育ててるわけだ。
「お風呂出来てるから入って!」
「恋さんから入って。」
「でも澄透くん、」
「女の子は冷やさない方がいい、」
澄透はどこまでも優しいな、と心底思っていた。
「って柊雨が。」
(その一言要らなかったなぁ……)
澄透は柊雨に肩を叩かれ、痛そうにしていた。恋は流されるまま脱衣所に連れていかれた。
「お風呂ありがとうございました。」
「風邪引いちゃ大変だもん!あ、自己紹介遅れました!柊雨です、中三です。こっちが長男の晶翔、医学部の二年生。」
「晶翔です。澄透と仲良くしてくれてありがとう。」
「そんなそんな。私が勝手に付きまとってるみたいなところあるので……」
「大丈夫!あ、ねぇ?恋ちゃんって呼んでもいい?」
「もちろんいいよ、柊雨ちゃん。」
後ろから濡れた髪に触れる手が一つ。
「そんなことより髪を乾かした方がいいよ。」
澄透より低くて、でも布団のように柔らかく温かい声がした。
「父の清都です。君のことは澄透から聞いているよ。」
「ふぇぇっ!!」
「『恋という隣の女子がやたら絡んでくる』とね、ふふっ!」
「あぁ……」
嫌がっている澄透からしたらそうだろうな。でも、なんで家に呼んでくれたのか、分からずにいた。
「でも澄透は恋さんと出会ってから前より笑うようになったよ。高校も楽しそうでね。それでいて」
「父さん。」
お風呂から上がった澄透からそこにいるようだ。
「おっと、これ以上言ったら怒られちゃうからまた今度ね。」
「二度と口にするな。」
後ろにいるのは分かるが、向いてもズボンしかない。ん?ズボンしか……
「じょ、上裸……///!」
「ウワァ、クラスノジョシノマエデ、エッチダァ。」
「棒読みやめろ。見えないのに……感受性豊かだな。」
脱衣所にドライヤー出しといたから、そう言って澄透はキッチンに向かった。
時刻は八時半になろうとしてる。柊雨から服を借りて、夕飯を共にした。そんな時、電話が鳴る。
「もしもし?」
『もしもし、恋ちゃん?』
「パパ、どうしたの?」
『実はパパの電車も止まっちゃって、恋ちゃんのこと迎えに行けなくて。今どこにいるの?ネカフェに泊まるって、言ってたけど。』
「今私は、すみ」
目の前で柊雨が「しー」っと口に人差し指を当て、私の名前を言えとの如く自身を指す。
「柊雨ちゃんの家にお世話になってるよ。」
『お友達の家かな?もし良ければ泊めてもらうのが安全だと思うだけど、どうかな?』
柊雨に聞くと、即決オーケーサインをした。
「大丈夫だって。」
『そっか、よかった。じゃあ、おやすみ。』
「おやすみなさい、パパ。」
『あ、男の子には気をつけるんだよ!分かった?!』
苦笑いして『はーい』と返し、通話を切る。
「わーい!澄にぃ、今日恋ちゃんお泊まりだって!!」
「はぁぁ?!」
「パパの電車も止まっちゃって、お迎え来れなくなっちゃって、」
「まさか澄にぃ、恋ちゃんのこと追い出してネカフェにでも泊まらせる気?」
「うっ……!…………好きにしろ。」
澄透の肩に晶翔と清都の手が乗る。
「「頑張れよ。」」
「はぁ…………」
「んぅ??」
この家族はどこまでも不思議だ、と思った。
恋は柊雨と一緒に寝ることになり、ベッドに座ってお喋りしていた。
「恋ちゃんは澄にぃのこと怖くなかったの?」
「怖いというか……興味?好奇心みたいな。」
「ふぅん……良かった。」
柊雨は呟くように言った。
「澄にぃ、小学校も中学校も見た目で虐められて、澄にぃのこと誰も知らない高校に行ったの。そこでも名前も聞かないし、無口は変わらなかった。でも最近澄にぃ変わったよ。この前なんてね、」
『父さん、』
『おぉ、どうした、澄透。』
『……どうやったら女子と上手く話せる……?』
(澄にぃ、好きな子か彼女でも出来たのかな……)
「って!」
「ふふっ!なんか澄透くんらしいね。」
「そうだよね!澄にぃ、案外話すの好きだから、不器用で無口だけどさ、これからも仲良くしてね。」
「柊雨ちゃん……うん、約束するよ。」
ニコッと笑う柊雨は突然立ち上がって、勢いよくドアを開けた。
「……ドアの前で盗み聞きしない。」
「だって女子の恋バナ以上に面白いものはないでしょ?!!」
「恋バナしてないから!澄にぃもノリノリでやるな!」
「…………」
澄透の尻に横蹴りを見事にお見舞いした。恋は痛がって床にしゃがむ澄透の前で同じようにしゃがんだ。
「お喋り好きなんだぁ……?ふふんっ?」
頬であろう位置を人差し指で突いてみた。
「言ってろ。」
案外近くから声がしてビクッと肩を揺らす。
「あと一歩前に出てみろ。」
「一歩?」
ゆっくり一歩前に出ると、鼻先に何か当たった。いや、澄透の鼻先だ。澄透が瞬きしたのが分かり、乾かしたての髪が恋の額に当たる。
「ひゃっ……///!」
「見えない分、警戒した方が身のためだぞ。」
澄透の手が恋の頭を撫でて、去っていった。
「……///!!」
「澄にぃ、確信犯だ……」
「だな。」
その夜、恋は一睡もできなかった。
お泊り訪問から二週間が経とうとしていた。もうすぐで夏休み。ある日の昼、澄透がこう言った。
「この前病院に行った。俺の病気は進んでで、もう一年持たないらしい。」
透明化が進んで、あと一年後には完全に消えてしまう、と澄透は言う。
「もう俺と関わるな。辛い思いをするのは、恋さんの方だ。」
そんな突き飛ばすような言い方はないではないか。少しずつ心を開いてくれるのが嬉しくて、いつか澄透の笑顔を間近で見たくて、毎日が楽しいのだ。
「…………だ……」
「ん……?」
「……いやだよぉ……!」
弁当にボロボロと涙が溢れ落ちる。
「恋さ」
「いやだ、いやだぁ……澄透くんが死んじゃうのも……関われないのも……いやだよぉ……!私は……澄透くんの……笑った顔が……見たいだけなの……ママみたいに……」
「恋さんのママさんって……?」
「私が五歳の時に癌で亡くなったの……」
ママはいつだって辛そうな顔はせず、亡くなる寸前でさえ笑顔を絶やさなかった。
「ママと約束したの……」
『恋ちゃん、いい?もしニコニコしていない人がいたら、恋ちゃんがニコニコにするのよ?もちろん恋ちゃんもニコニコでいてね?』
『ここがニコニコにするのぉ?』
『そうよ?ママとの約束よ?恋ちゃんも友達もニコニコ。恋ちゃんはママの宝物よ。』
その二週間後、恋の母は静かに息を引き取った。
「なんだか……澄透くんを見てると、ママに似てて……死を、受け入れてるみたい……」
「っ……!それは……」
「だってそうでしょ?死ぬのが分かってるから、私を突き放すし、人とも距離を置く。違うの?」
澄透は何も言えない様子で顔を背けた。
「あのね、私、お節介かもしれないけど、病気のこと調べてたの。そしたら、これ。」
恋は保存していたサイトを澄透に見せた。
「薄氷大学……透明病治療の最先端……?!?」
「やっぱりまだまだマイナーみたいだけど、でも賭けてみる価値はあると思うの!だから……諦めないで……」
澄透の大きな手を握った。指先は氷のように冷たく、骨ばっていた。
「諦めないで……お願い……」
「…………分かった……」
「ほんと!嬉しい!」
握った手をブンブンと上下に振った。
「大学九州だから、んー……皆で旅行行こうよ!パパと澄透くんの家族と皆で!」
「また無茶な……そもそもなんで恋さんが来るんだ?」
「調べたの私だよ?単純に興味もあるし、それに、澄透くんと思い出作りたいの。」
澄透は息を全て吐くくらいの大きなため息をついた。
「ほんと……そういうのやめたほうが良い。」
「なんで?」
「なんでも。痛い目見るぞ。」
「えぇ……?」
澄透はその後も何も言わずに、教室に戻っていった。
その日の夜、澄透からメッセージが来た。
『昼の件、父さんに話したらすごく賛成された』『柊雨も兄貴も乗り気だ』
『そうなんだ!』『パパも良いねって言ってくれたよ』『楽しみになってきた!』
『そうか』
嬉しいのに変わりない。けれど、澄透の病状がもうどうにもできなかったら、そう考えるとやはり怖くなる。
恋が澄透に付いてまわるのは母の言葉だけではない。残された家族はどうなるか、恋は知っている。
母が亡くなって少しして、父は鬱病を発症した。通勤なんぞままならず、祖父母の手を借りて生活していた。しばらくして立ち直り始めるとまた仕事に行けるようになって、結論的に祖父母と絶縁した。親不孝に聞こえるかもしれないが、全ては恋のためだった。どんなに別れが分かっていようと、失うのは悲しく辛い。そんな思いできれば誰にもさせたくないのだ。
二日か三日して夏休みに入った。始まった次の日、恋は父と空港にいた。
「あっ!澄透くん!」
「恋さん、朝早いのに元気だな。」
「朝得意なんだぁ!」
後ろには柊雨と晶翔と清都の姿もあった。
「柊雨ちゃん!」
「恋ちゃん!わぁい!恋ちゃんと旅行楽しみ!!」
父ズは遠目から恋たちの様子をにこやかに見ている。
直行便で二時間程度、博多空港に着いた。大学病院には事前に連絡済みで、明日伺う予定だ。今日は一日博多で遊ぶのだ。
「博多と言ったら豚骨ラーメンでしょ!」
「明太子じゃないのか?」
「あぁ〜!そっちも良いね!」
「柊雨、もつ鍋食べたぁい!」
旅行の醍醐味といえば、そう名産品を食い尽くすこと。博多は美味しいものが多い。帰る頃には一〜二キロ増えていることだろう。
恋はふと思う。明後日帰る時、澄透はいるだろうか。また一緒に学校に通えるのだろうか。
「恋さん……?」
「わっ!ご、ごめんごめん!考え事してて……」
「体調が悪くなったら、すぐに言うんだからな?」
「澄透くんもね。」
恋が笑うと、澄透の帽子が少し傾いてマスクが歪んだ。
父ズは子供たちの三歩ほど離れて二人で話していた。
「あんなに澄透が楽しそうなのは初めて見ました。」
「それは俺もです。恋ちゃんがあんなに笑ってるのは久しぶりです。」
恋の父・爽介は一点に恋を見つめる。
「妻が若く亡くなって、俺が鬱病になってしまって、幼いながらに恋ちゃんに我慢させてしまったんです。転勤にも付き合わせてしまって、ろくに思い出も作らせてやらずにここまで来てしまいました……きっと華織に怒られますね!」
華織とは恋の母親だ。清都の方を向いて、頭をかきながら笑った。
「どんな形であれ、恋のしたいことをさせてやりたいんです。親ばかですかね。」
「まさか。それは父親なら誰しもあることですよ。子供の成長が嬉しいのも、好きな事をさせたいのもね。」
丁度、恋が澄透に抱き付くのを目撃する父ズ。
「…………付き合ってたりします?」
「澄透からそんな話は聞いてませんけど……あれは付き合ってますよね。」
「恋ちゃんが遂にパパ離れ……!」
爽介は少々涙ぐみ、袖で拭っていた。
「パパ達なんの話してるんだろう……?」
「そ、それより、は、はなれな、いか?」
「んぅ?暑い?」
「暑いというか……まぁ、あ、つい……」
残念に思いながら澄透から離れる。
その日は散々食って遊んで丸一日楽しんだ。
夜、恋はホテルのベランダで風に当たっていた。
「恋さん、」
「澄透くん……澄透くんも風に当たりに来たの?」
「そんなところだ。……明日だな。」
「うん。いざ思うと緊張して寝れなくて。」
紙袋が斜めに傾く。どうも不思議そうだ。
「絶対いい結果がいい。そう願ってるけど、やっぱり怖いの。」
星を見る目がいつの間にか床に落ちている。
「大丈夫だ。俺は死なない。」
恋の頭に手が乗る。毛流れに沿ってゆっくりと撫でる手が温かい。
「澄透くんから…そんな言葉が聞けるなんて……ちょっとびっくり。」
「まぁな……」
「でも……ちょっと安心。」
ふんわり笑ってみせると、澄透は顔を背けた。
「湯冷めするから。」
「うん。もう寝れそう。」
「そうか。おやすみ、恋さん。」
「おやすみ、澄透くん。」
次の日、朝早くから移動し昼前に薄氷大学に着いた。澄透は透明病の研究をしている先生と一緒に検査室に入っていった
「澄にぃ大丈夫かな……」
「きっと大丈夫だよ、柊雨ちゃん。」
「恋ちゃん……」
一時間程待って、澄透が帰ってきた。
「もう結果出たって。俺と父さんで」
「わ、私も聞きたい……!」
「恋さん……」
「ご、ごめんね……でも、言い出しっぺ私だし、気になるの。澄透くんの力になれてるのか、ただの……めいわ」
言い終わる前に澄透が恋の口を塞いだ。
「それ以上言うな。いいよな、父さん。」
「もちろん。」
「澄透くん……」
恋の手を引いて食い気味に診察室に入る。恋たちは医者の第一声に驚く。
「このままならもってあと三ヶ月でしたね。」
「っ?!つい最近一年って……」
「危ない危ない。」
一瞬取り乱したかと思えばまた冷静になった……ように見えただけで、恋の目には視えている。彼の震える手を。
「でも、まだ助かりますよ。よく来てくださいましたね。」
「俺は……どうしたら……?」
「まだまだ確立したばかりの治療法です。完治する保証は出来ませんが、よろしいですか。」
少し動揺したように見えたが、澄透は深く頷いた。
それから、先生からこれからの方針を話された。一刻を争うので、澄透は緊急入院することになった。つまり、恋達と一緒に帰れない。
「…………、」
「……恋さん、」
「仕方ないよ!でも、良かったぁ。澄透くん治るかもなんだぁ!ほら言ったでしょ?諦めちゃダメだって!」
「あ、あぁ……そうだな。」
澄透の目にはとても儚く映った。その日はそのままホテルに戻った。
また恋はホテルのベランダにいる。悠々と沈む夕日を眺めていた。
「恋さん。」
「澄透くん、?良かったね。治る可能性があるって、」
「でも恋さんはどこか悲しそうだ。」
恋は何も言えなくなってしまった。だんだんと瞳が潤み始め、一つ二つと涙を流した。
「嬉しいんだよ……?病気が治るって……言われて……すごく嬉しかったの……でも……次……学校に行っても……澄透くんが……いないのが……すごく……寂しく……て……会えなく……なっちゃう……のが……嫌……なの……」
恋はごめんねごめんねと言いながら涙を拭うが、止まる気配がない。ふと、澄透が恋の涙を拭った。
「そんなに擦ったら目が赤くなる。」
「でも、でもぉ……!」
「一生会えなくなる訳じゃない。いつでも連絡は取れるし、時間さえあれば電話したっていい。」
「澄透くん……?」
「なんだっていい。面白かったことでも嫌だったことでもいい。弁当の写真でも送ればいい。見たらちゃんと返してやる。」
普段の澄透ならそんなこと言わないはずだ。
「もしかして……澄透くんも寂しい?」
「っ……?!そ、そんなこと一言も!」
「だって、そう見えたんだもん。違うの……?」
紙袋が少しだけ下がる。
「……悪いか。」
「ふふふっ!なんにも悪くないよ!」
恋は澄透に抱きついて、胸に耳を当てる。
「な、///!」
「どんなに透明でもハグすると、澄透くんがいるって感じるね。」
ドッドッドッと跳ねる心臓の音、呼吸の度に動く胸、恋よりずっと広い背中に、ほのかに高い体温。
「澄透くんっていつも温かいよね。」
恋が離れていつも通り笑うと、今度は澄透が恋を抱きしめた。
「え、?ゆ、澄透くん……?」
「…………」
「どうしたの……?」
我に返ったのか、少しビクッとして急いで離れた。
「すまない。」
「ううん、全然!むしろちょっと嬉しかったよ。」
恋はさっきとは違う、小悪魔のようないやらしい笑みを浮かべた。
「澄透くんのこと手懐けた感じ!」
「手懐けた、って……ふふっ……」
「だって前は『来んな』とか『勝手にしろ』とか、警戒心剥き出しだったんだもん!」
「そ、そんなこともあったな……」
そんなに時間は経っていないがここまで変わるとは澄透自身思っていなかった。
「私が澄透くんの友達一号だね!」
「っ……!ふっ、あぁ、そうだな。」
澄透はそっと恋の頭を撫でた。
その日は明日に備えて早めに眠りについた。
次の日、病院で澄透は荷物を整理していた。
「澄透、私たちはそろそろお暇するよ。」
「飛行機の時間か。あぁ、分かった。」
「澄にぃ……絶対、ぜぇったい!死んじゃダメだよ!分かってる?!」
「分かった、」
「帰ってきたら一緒にキャッチボールしようなぁぁ……!」
「分かったから泣くな、兄さん。柊雨も。」
皆が澄透の病室を去る中、恋は一人立ち止まっていた。
「また……また絶対会おうね!約束だよ?!」
紙袋がポツポツと濃い茶色に変わる。
「あぁ……」
澄透が泣いているのだ。いてもたってもいられなくなり、恋はそっと紙袋を外し澄透の顔に触れた。指で優しく涙を拭った。
「肌すべすべだぁ……綺麗な顔だね、澄透くん。」
「そ……な……」
「澄透くんの顔、私が一番初めに見たいなぁ。だめ……?」
「恋さ……あぁ、構わない。」
触れてる間は澄透が見えた気がした。口角が上がり、優しく微笑む彼がいた。
「じゃあね!バイバイ!」
「また会おう……!」
恋は澄透の病室を去っていった。
瞬く間に夏休みが終わりまた学校が始まると、恋の席の隣はなくなっていた。その日のうちに席替えをして、恋の隣はまた別の子になった。
屋上に行っても一人、黙々と弁当を食べるだけ。太陽に雲がかかって、薄暗くなっていた。大好きな父の弁当もどこか味気なかった。
ふと、恋のスマホに通知が来る。
『病院食は相変わらず不味い』
写真とともにそういうメッセージが送られてきた。相手はもちろん澄透である。
『私、もう食べちゃった』『今日は何が出たの?』
すぐに既読マークが付き、返信がくる。
『豆腐ハンバーグ』『味が薄い』
嫌そうなのが文面で伝わってくる。案外寂しいのは澄透のようで、大半が彼からのメッセージだ。
『我慢だよ!』
あっちはあっちで勉強しているようで、退院した暁には高卒認定試験を受けるようだ。大学にも通いたい、と言ってるだけ恋は尊敬していた。
(私も進路考えないと……)
高二の秋、そよそよと風が吹く快晴の日だった。
長い長い月日が流れて、いつしか高校を卒業した恋は薄氷大学の看護学部二年生になった。薄氷大学、そう澄透が入院している大学だ。しかし、キャンパスが遠く、予定が合わないのもあってまだ行けずにいた。
澄透はというと、余命三ヶ月と言われてから三年が経とうとしている。恋とは未だにメッセージを取り合っていて、快方に向かっているようだった。
そんな最中、急にメッセージが来た。相手は柊雨。
『恋ちゃん!お願い!病院来て!澄にぃが!』
文面からして急いでいる様子だった。恋は貯金を崩して新幹線の席を予約し、講義が終わるとすぐ病院に向かった。
新幹線で一時間弱、駅からバスに乗り換えて病院に着いた。廊下を小走りで通り、やっとの思いで澄透の病室に入る。
バンッ、と勢いよくドアを開ける。思っていたより力が入ってしまったが、そんなこと思う余裕もなく澄透のベッドに向かった。
「澄透く…………え、…………?」
ただそこには綺麗に整ったシーツがあるだけで、澄透の姿はどこにもなかった。触れようにも「普通」に枕とベッドがあるだけで、誰もいない。ついさっきまで寝ていたようにシーツは生暖かかった。
「すみ、と、くん……うそ、…………」
恋の瞳からボロボロと涙が零れる。少し遅かった。本当に……本当に少しだけ。
「恋さん、」
後ろから聞き覚えのある、冷たくも柔らかい低い声が聞こえた。
「え、……」
「来てたんだな。今日退院して、さっきまでここで荷造りしてたんだが、」
「す、みと、くん……すみとくん……!澄透くん!」
恋は病室構わず澄透に駆け寄り思い切り抱きついた。
「恋さ」
「ぅわぁぁぁぁぁんっ!!!よかったぁぁ!!良かったよぉぉ!」
澄透の胸に顔を埋めてシャツを濡らした。澄透は細かく跳ねる小さな肩を守るように優しく抱いた。
「ごめ、ね……私、かんち、がい、して……」
「それは柊雨の入れ方が悪い……水、飲むか?」
「ありがとう……」
廊下で話すのもなんなので、病院の中庭のベンチで話していた。泣きやみ落ち着てくると、澄透がまだ紙袋を被ってることに気がついた。
「かみ、ぶくろ……ダメだったの…………?」
不思議そうに顔を傾ける澄透。
「いや。……ほら、見てくれ。」
手袋を外すとそこには骨ばった恋よりもずっと大きな手があった。
「あぁ……じゃあ……!」
「忘れたのか?『私が一番に顔を見る』って言ってただろ?」
誰もいないことを確認するとゆっくり紙袋を取った。
「っ……わぁぁ…………!」
喉仏と綺麗な筋の入った首が見えて、その上には彫刻のような美しい顔が乗っていた。薄いブルーグレーの髪に透明感のある陶器のような白い肌、ゆっくり開く瞼の中には切れ長のコバルトブルーの瞳があった。少し冷たく感じるが、笑うと優しい目元でもある。
「…………」
「そ、そんなにじっと見られると…………///」
「ご、ごめんね!でも……すごく綺麗な顔だなぁって、見とれちゃって…………///」
一度目を逸らしたがまた澄透に視線を戻すと、バチッと目が合ってしまった
「「っ……、!」」
お互い勢いよく目を逸らし、何となく気まずい空気になってしまった。
「あ……えっと、その///こ、これからどうするの?」
「あ、あぁ……とりあえず高卒資格取ってからは、まぁ……大学に通おうと思う。」
「何になりたいの……?」
「……医者。」
恋は驚いて澄透にまた視線を戻した。
「ほんと?!」
「医学部に受かる保証なんて何も無いが、この三年勉強してなかった訳じゃない。薄氷大の医学部、決して簡単じゃないのは分かってる。でも、諦めるのはやめようと思って。」
諦めるのをやめる、それはいつしか恋が言った言葉によく似ていた。
「そっか……!私応援してるよ!」
「ありがとう、恋さん。」
ふと恋の手に澄透が手を重ね、優しく握った。夕日が照らし、寂しい気持ちにさせる。
「明日は?」
「午後からだからこっちで一泊して明日の朝帰るの。」
「そうか。」
握る力が少し強くなる。
「澄透く」
「帰したくない。もっと恋さんといたい。」
澄透がわがままを言うなんて珍しい。
「どうしたの?」
「…………恋さんがそんなつもりで俺と関わってくれたんじゃないのは分かってる。でも、」
澄透は恋の瞳を見つめる。
「俺は恋さんが好きだ。入院してから気づいたんだ。遅いのは自覚して……っ!!」
恋の愛らしい瞳からすぅっと涙が流れる。
「な、泣くほど嫌か……?」
「ちが、違うよ……澄透くん。私、すごく……嬉しいの……!ずっと……澄透くんに嫌われてると思ってて……!」
「そんなはずない……!俺はその……どうせ早死するなら、一人で良いと思ってたんだ。すまない、こんな気持ち……自分勝手だ……」
「ううん、そんなことないよ……」
澄透の手を握り返す。
「だって、私も……澄透くんのこと、好きだよ///私も自覚したの、最近だから……///」
大きな身体で恋を優しく抱きしめた。
「絶対……幸せにする。約束する……///俺の命の恩人だから……///」
「命の恩人?!なんか堅くない?せめて彼女とか、」
「カ、カノ、ジョ……///」
反応的にだいぶ片想いを拗らせているようだった。シャツから体温が交わり、鼓動が伝わる。
「澄透くん心臓速くない?」
「そ、んなこと……ある……///」
「ふふふっ!」
「え、ちょっと澄にぃイケメン過ぎない?晶にぃと全然似てないんだけだど。」
「しれっとディスるのやめてよ……!」
ちなみに、本当に顔を見せるのは恋が一番だったようで、柊雨含め初めて見る彼の顔に驚きを隠せていなかった。
恋は次の日には自宅に帰ってしまった。澄透は大層不満そうな顔をしていた。
ポカポカと眠くなる日差しに、少々肌寒い風がそよそよと吹く良き日。奇跡的な再会から一〇年が経とうとしていた。
「恋ちゃぁぁん!!」
「柊雨ちゃん!来てくれてありがとう……!」
「全然!っていうかめっちゃ綺麗!!澄にぃにはもったいないんじゃないの?!」
「うふふ!ありがとう……!」
この一〇年で澄透は医学部を卒業し、研修医期間を過ごした。今は医者として大学病院に務めており、いつかは父の病院を継ぎたいと言っていた。恋は看護師になり同じ大学病院でバリバリと出世街道を走っている。
「なんかしみじみ思うね。一三年前恋ちゃんが転校してきて、澄にぃと出会って……運命って本当にあるみたい!」
「そうだね。……そっかぁ、もう一三年になるのかぁ……」
話の途中で開式のアナウンスがあり、控え室は恋と爽介の二人になった。
「恋ちゃんがお嫁に行く日が来るなんて……ママになんて言おう……」
「パパってば、!心配しすぎだよぉ!」
「そうかな……いや、そうだね。澄透くんなら大丈夫だね。」
爽介がここまで心配するのは、ついこの前海外転勤が決まり暫く会えないことが分かっているからである。
「花嫁様、お時間でございます。」
「あ、はい!パパ、行こう?」
「うん。」
会場に繋がる扉の外。この扉を開ければ、愛する人が待っている。
「懐かしいね、この感じ。」
「ママは……どんな思いでここを歩いたんだろう?」
「どうだろうね。パパが見てたら限り、『私を見ろ』ってばかりに堂々としてたけどね」
「ママっぽい!」
二人が顔を見合わせて笑い合う。
「今日、ママ来てるかなぁ?」
「何言ってるのさ。娘好きのママだよ?」
「ふふふっ!そっか……そうだよね!」
そうして話していると、ふと緊張も解れていく。
「新婦、入場。」
扉の向こうからそう聞こえると、すぅーっと扉が開き、吸い込まれるように歩みを進める。その時、背中をトンっと押された気がした。
扉の向こうへと、進みながら過去を振り返っていた。高二になってすぐ転校して、彼に出会い、その夏に彼と離れ離れになる。でも、これからはずっと二人で進んでいく。
「恋さん、」
小さくポツっと雪が降るような優しい声が聞こえる。スっと顔を上げると、愛しい彼の顔が見えた。
「澄透くん、」
向かい合うと二人は幸せそうに笑い合った。
「誓いの言葉、新郎淡野澄透は病める時も健やかなる時も新婦岩崎恋を愛すること誓いますか?」
「誓います。」
「新婦岩崎恋は病める時も健やかなる時も新郎淡野澄透を愛することを誓いますか?」
「誓います。」
冬は春を嫌い、春はその暖かさで雪を融かしていく。冬が春に恋したのはいつだっただろうか。
「誓いのキスを。」
二人は向かい合うと、恋のベールをあげる。春が見上げた先には冬がいて、心底幸せそうに微笑む。冬の右手は春の腰に、春の右手は冬の胸に。神秘的で見とれてしまうような、そんな口付けだった。
「ママぁ!見て見て!!」
無邪気な幼女の声が淡野家の庭から聞こえる。
「わぁ!四葉のクローバーだね。」
「これママにあげる!」
「ほんと?嬉しい。ありがとう、澄麗。」
恋は娘の頭を優しく撫でた。恋と澄透の間には澄麗という娘がおり、恋は絶賛第二子を妊娠中だ。
「ただいま。」
「あ!パパぁ!おかえりなさい!」
「ただいま、澄麗。お利口さんにしてたか?」
「うん!あのねあのね!お庭で四つ葉のクローバー見つけたの!だから、ママにあげたの!」
澄透は澄麗を抱き上げ、恋の方へ歩みを進める。
「なんでママにあげたんだ?」
「んぅ?ママと弟?妹?分からないけど……二人とも元気がいいから!」
幼いながら無邪気に健康を願う娘の姿に感動する。
「ありがとう、澄麗。ママ頑張るね。」
「うん!澄麗もたくさんお手伝いする!」
その夜、澄麗が寝た後、二人はソファーでゆっくりしていた。
「澄麗も大きくなったね。」
「もう五歳か。早いな。」
「もう結婚して七年だもん。っ……!今お腹蹴った……!」
「っ!本当か……?!」
少し張ったお腹に澄透も手が触れる。温かい体温に中から蹴る振動を感じた。
「澄麗も恋さんになのに……この子も母親似か?」
「でもしっかり者なところは澄透くんに似てるよ。」
こんな穏やかな時間をあの時誰が想像しただろうか。
これは転校生少女と「元」透明青年の、淡い恋の物語である。