地下牢の冷たい床に転がされていた少女は、目を覚ました。
億劫そうに身体を起こして、自身の手足に目を落とす。そして、掌をゆっくりと開いて、閉じてを繰り返してから、瞬きを一つ。

「……生きてる」

ポツリ、呟いた。
その声は、薄暗く鬱々とした牢の中で、静かに反響する。

「おい、女」

その直後。少女の耳朶を擽ったのは、低い男の声だった。

「おい、女。起きたのなら返事をしろ」
「……私、ですか?」
「あぁ」

声を掛けられたのが自分だと気づくまで、数秒の時間を要した。少女は怠慢な動きで、牢の外に顔を向ける。

鉄格子を隔てた向こう側に立っていたのは、真っ黒な服に身を包んだ、がっしりした体躯の男だった。
――忍び隊に所属している八雲だ。

頭巾で口許まで覆われているため、その相貌をはっきり見ることは難しいが、目許はキリリと涼しげで、左目下には泣き黒子がある。鈍色の額当ての下からは、目許まで長さのある黒い前髪が覗いている。

「頭、この女です」
「へぇ、君が……。確かに面妖な格好をしてるけど、見た目は普通の女の子に見えるね。綺麗な顔立ちをしているみたいだし、どこかの国のお姫さんだとしても、おかしくはないかな」

八雲が声を発したと同時に、また別の男が、音もなく現れた。八雲の上司に当たる存在の、千蔭だ。少女が目を覚ましたと同時に、八雲は忍術を駆使して、千蔭に信号を送ったのだ。

少女は千蔭の登場に驚きながらも、それを一切表情に出すことはなく、身動ぎ一つすることもなく、黙り込んでいる。

「まぁ、良いところのお姫様が、あんな森の中で倒れてるわけないか」

話を一人で完結させた千蔭は、地下牢の鍵を開けて、座りこんだままの少女のもとへと歩み寄る。

「で、君はどうして森の中で倒れていたのかな?」

少女の目線の高さに合わせて腰を折った千蔭は、ニコリと人好きのする笑みを浮かべて、問いかける。

「……」
「あれ、もしかして、口がきけない感じ?」
「いえ。先ほど独り言を漏らしていましたし、こちらの問いかけに対しても返答していました」
「ふーん、そっか」

八雲の言葉に頷いた千蔭は、立ち上がって、牢の外に出て行く。

そして、牢の外に置いてあった水差しを手にして再び中に戻ったかと思えば、それを少女の頭上でひっくり返した。
ポタリ、ポタリと、少女の漆黒の髪から雫が滴り落ちる。

「あのさ、俺も暇じゃないんだよね」
「……」
「これでも話す気にならないの? そうなると、もっと酷いことをしなくちゃならないんだけど……」

困ったような微笑を顔に貼り付けてはいるが、その実、千蔭は一切困ってなどいなかった。
これから目の前の少女に行おうとしている非道な行為に対して、一寸の躊躇の気持ちもなければ、一欠けらの罪悪感も持ち合わせてはいなかった。

ただ、少女から素性を聞きだして、自分たちにとっての危険分子となる存在――間者ならば、この手で始末するのみ。それだけだ。

千蔭は、少女の心の内を探るように、その目をジッと見据える。そして、少女が開口するのを待った。
これでも口を割らないようなら、多少手荒い真似をすることになったとしても、それも致し方ないだろう、と。そう考えながら。

「……私、は」

少女が口を開く。弱々しくか細い声だ。
けれど耳の良い千蔭は、その声をはっきりと聞き取ることができた。

「死のうと、して……でも、死ねなかった」

少女は、暗く澱んだ目をしたまま、下を向いている。

「……へぇ。そうなんだ」
「だから、私……わから、ない」

――あの後自分が、どうなったのか。此処はどこなのか。

少女は今自分が置かれている状況を、何一つ把握できていなかった。

俯いていた少女は顔を上げて、目の前で屈みこんでいる千蔭の顔を、おずおずと見る。

表情こそ無ではあったが、少女の戸惑いと不安に揺れた瞳と対峙して、千蔭はニコリと笑った。
――かと思えば、千蔭を纏う雰囲気が、ガラリと変わる。

「死にたきゃ勝手に死ねばいいんじゃない?」
「っ、……」

冷え冷えとするまなざしが、声が。
鋭利な刃となって、少女に突き刺さる。

「というか、そんなに死にたいなら、俺が殺してあげようか?」

笑みを消し去った千蔭は、懐から小刀を取り出した。カチャリと音を立てて、鉛色に光る刃先が顔を出す。

「俺さぁ……アンタ、嫌いだわ」

明確な殺気に当てられた少女が身体を震わせていれば、蝋燭が一つ灯っているだけの薄暗い地下牢に、別の灯火が近づいてきた。

「千蔭、止めろ」

まだ大人にはなりきれていないような、少しだけ高めの、少年のような声。
上等そうな着物に身を包んでいる、綺麗な顔立ちをした男は、少女と目線を合わせると、眉を下げて困ったような顔で笑った。

「部下が御無礼を働き申し訳ありません。オレは、風神与人(かぜかみよりと)と申します。貴女の名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」

真っ直ぐな目に、温かさを感じる声に、少女はそっと唇を震わせる。

「私の、名前は……水樹雫音(みずきしずね)、です」
「雫音殿、ですね。綺麗な名だ。……雫音殿?」

与人の優しい言葉に、柔らかい笑みに、すっかり安心してしまった雫音は、そこで再び意識を手放した。