霖雨蒼生(りんうそうせい)の姫君にはなれない。



――雨が降っている時は、神様が代わりに泣いてくれているのよ。


幼い頃、母が口にしていた言葉。
泣いている私の頭を撫でながら、母は優しい声で、いつもそう言っていた。

だからもう泣かないで、と。

私の涙に濡れた頬を、優しく拭ってくれた。


***

横断歩道橋で、一人ポツンと立ち竦んでいた少女は、手にしていたビニール傘を手放した。地面に落下した傘は、強く降りしきる雨粒を弾きながら、地面をコロコロと転がっていく。

そして、次の瞬間。

少女の身体は、ふわりと宙に浮いた。
そのまま重力に従って、下へ下へと落ちていく。


(……それじゃあ、神様の代わりに、誰が泣いてくれるんだろう)


少女は、ふと思った。
今も泣いているのであろう神様を思って、純粋な疑問を抱いた。

けれど、その問いに答えてくれる者は……もう、誰もいない。

泣き方など、とうの昔に忘れてしまった少女は、そこで意識を手放した。



(かしら)、ご報告があります」
「どうした?」

(こうべ)を垂れる黒装束の男に、同じく似たような黒装束に身を包んだ男が、平坦とした声で続きを促した。一欠けらの感情も感じられない、業務的でいて無機質な声だ。

「備蓄庫の裏手の森にて、面妖な衣類を身に纏った女が倒れていたそうです」
「女が?」
「はい。年は十代半ばほどで、与人(よりと)様とそう変わりないかと」
「そう。で、その女は今何処に?」
「捕えて、地下牢に。未だ意識は戻っておりません」
「分かった。それじゃあ目が覚めたら報告して」
「御意」
「あ、それから八雲。頼んでおいた報告書って…「此処に」

男が言い終えるよりも早く、八雲と呼ばれた男は、懐から綺麗に折り畳まれた紙の束を取り出した。

「さっすが、仕事が早いね」
「いえ。それでは私は、地下牢で女を見張っていますので」

八雲は紙の束を手渡すと、この場から一瞬で姿を消してしまった。
残された男は、先の戦での報告書に目を通しながら、小さな声で呟く。

「面倒なことにならなきゃいいけどねぇ……」

男は、鮮血のように真っ赤な色をした瞳を細めて、薄暗い窓の外を見た。

彼の者の名は、千蔭(ちかげ)
此処、風之国の地にある忍び隊で、(おさ)を務めている男だ。

ひと月ほど前まで、風之国は他国と領地を賭けた戦をしていたのだが、利害の一致から協定を結び、此度の戦は終結を迎えていた。

何故協定を結ぶことになったのかと言えば、互いの国で、数か月前から続いている深刻な問題があり、戦をしている場合ではなくなってしまったからだ。

その問題は、いくら歴戦の猛者でも、才略に長けた名将でも、どうすることも出来ない深刻な問題だった。

「……嘘だろ」

頭の中を占めるその問題について思考を巡らせていた千蔭は、窓の外の変化に気づいて、思わず声を漏らした。風のような速さで外に出れば、自身の頬を濡らすのは、冷たい雫で。

――この地では、否、風之国に限った話ではない。

諸国では、暫くの間、雨が降っていなかった。日照りで作物は育たず、薬草となる植物も枯れて、川が減水している場所もあった。そのため、食料源である魚を獲ることさえも難しくなっていたのだ。

「あぁ、有難や、有難や……!」
「恵みの雨じゃ。神様、有難うごぜぇます……!」

民家に住んでいる町人たちは、各々家から出て、天に向かって感謝の言葉を送る。
――この風之地で、三か月振りとなる、恵みの雨が降ったのだ。

そして、同時刻。
地下牢にて、気を失っていた少女が、目を覚ました。



地下牢の冷たい床に転がされていた少女は、目を覚ました。
億劫そうに身体を起こして、自身の手足に目を落とす。そして、掌をゆっくりと開いて、閉じてを繰り返してから、瞬きを一つ。

「……生きてる」

ポツリ、呟いた。
その声は、薄暗く鬱々とした牢の中で、静かに反響する。

「おい、女」

その直後。少女の耳朶を擽ったのは、低い男の声だった。

「おい、女。起きたのなら返事をしろ」
「……私、ですか?」
「あぁ」

声を掛けられたのが自分だと気づくまで、数秒の時間を要した。少女は怠慢な動きで、牢の外に顔を向ける。

鉄格子を隔てた向こう側に立っていたのは、真っ黒な服に身を包んだ、がっしりした体躯の男だった。
――忍び隊に所属している八雲だ。

頭巾で口許まで覆われているため、その相貌をはっきり見ることは難しいが、目許はキリリと涼しげで、左目下には泣き黒子がある。鈍色の額当ての下からは、目許まで長さのある黒い前髪が覗いている。

「頭、この女です」
「へぇ、君が……。確かに面妖な格好をしてるけど、見た目は普通の女の子に見えるね。綺麗な顔立ちをしているみたいだし、どこかの国のお姫さんだとしても、おかしくはないかな」

八雲が声を発したと同時に、また別の男が、音もなく現れた。八雲の上司に当たる存在の、千蔭だ。少女が目を覚ましたと同時に、八雲は忍術を駆使して、千蔭に信号を送ったのだ。

少女は千蔭の登場に驚きながらも、それを一切表情に出すことはなく、身動ぎ一つすることもなく、黙り込んでいる。

「まぁ、良いところのお姫様が、あんな森の中で倒れてるわけないか」

話を一人で完結させた千蔭は、地下牢の鍵を開けて、座りこんだままの少女のもとへと歩み寄る。

「で、君はどうして森の中で倒れていたのかな?」

少女の目線の高さに合わせて腰を折った千蔭は、ニコリと人好きのする笑みを浮かべて、問いかける。

「……」
「あれ、もしかして、口がきけない感じ?」
「いえ。先ほど独り言を漏らしていましたし、こちらの問いかけに対しても返答していました」
「ふーん、そっか」

八雲の言葉に頷いた千蔭は、立ち上がって、牢の外に出て行く。

そして、牢の外に置いてあった水差しを手にして再び中に戻ったかと思えば、それを少女の頭上でひっくり返した。
ポタリ、ポタリと、少女の漆黒の髪から雫が滴り落ちる。

「あのさ、俺も暇じゃないんだよね」
「……」
「これでも話す気にならないの? そうなると、もっと酷いことをしなくちゃならないんだけど……」

困ったような微笑を顔に貼り付けてはいるが、その実、千蔭は一切困ってなどいなかった。
これから目の前の少女に行おうとしている非道な行為に対して、一寸の躊躇の気持ちもなければ、一欠けらの罪悪感も持ち合わせてはいなかった。

ただ、少女から素性を聞きだして、自分たちにとっての危険分子となる存在――間者ならば、この手で始末するのみ。それだけだ。

千蔭は、少女の心の内を探るように、その目をジッと見据える。そして、少女が開口するのを待った。
これでも口を割らないようなら、多少手荒い真似をすることになったとしても、それも致し方ないだろう、と。そう考えながら。

「……私、は」

少女が口を開く。弱々しくか細い声だ。
けれど耳の良い千蔭は、その声をはっきりと聞き取ることができた。

「死のうと、して……でも、死ねなかった」

少女は、暗く澱んだ目をしたまま、下を向いている。

「……へぇ。そうなんだ」
「だから、私……わから、ない」

――あの後自分が、どうなったのか。此処はどこなのか。

少女は今自分が置かれている状況を、何一つ把握できていなかった。

俯いていた少女は顔を上げて、目の前で屈みこんでいる千蔭の顔を、おずおずと見る。

表情こそ無ではあったが、少女の戸惑いと不安に揺れた瞳と対峙して、千蔭はニコリと笑った。
――かと思えば、千蔭を纏う雰囲気が、ガラリと変わる。

「死にたきゃ勝手に死ねばいいんじゃない?」
「っ、……」

冷え冷えとするまなざしが、声が。
鋭利な刃となって、少女に突き刺さる。

「というか、そんなに死にたいなら、俺が殺してあげようか?」

笑みを消し去った千蔭は、懐から小刀を取り出した。カチャリと音を立てて、鉛色に光る刃先が顔を出す。

「俺さぁ……アンタ、嫌いだわ」

明確な殺気に当てられた少女が身体を震わせていれば、蝋燭が一つ灯っているだけの薄暗い地下牢に、別の灯火が近づいてきた。

「千蔭、止めろ」

まだ大人にはなりきれていないような、少しだけ高めの、少年のような声。
上等そうな着物に身を包んでいる、綺麗な顔立ちをした男は、少女と目線を合わせると、眉を下げて困ったような顔で笑った。

「部下が御無礼を働き申し訳ありません。オレは、風神与人(かぜかみよりと)と申します。貴女の名前をお伺いしても宜しいでしょうか?」

真っ直ぐな目に、温かさを感じる声に、少女はそっと唇を震わせる。

「私の、名前は……水樹雫音(みずきしずね)、です」
「雫音殿、ですね。綺麗な名だ。……雫音殿?」

与人の優しい言葉に、柔らかい笑みに、すっかり安心してしまった雫音は、そこで再び意識を手放した。



「えー、本当に知らないの? “霖雨蒼生(りんうそうせい)の姫君”!」

ガヤガヤと賑やかな教室内。
クラスメイトの女子が、楽しそうにお喋りしている声が聞こえてくる。

「あー、名前だけなら聞いたことあるかも? 確か有名な乙女ゲームでしょ?」
「そう! そうなの! そのゲームに出てくるキャラがもう皆格好良くてさ……! シナリオもめちゃくちゃ良いの!」

ショートヘアの少女は、掌をグッと握りしめながら、頬杖をついて半ば呆れ顔をしている黒髪ロングの少女に熱弁している。

「へぇ、どんな話なの?」
「世界観的には、和風ファンタジーって感じでね。その世界には、四つの国があるの。でもどの国でも雨が降らなくなっちゃって、作物が育たないとか色々な弊害が出てきて、皆が困り果ててる。そこに、雨を降らせる力があるヒロインが登場するの!」
「なるほどね。それで雨を降らせて感謝されて好かれて、ハッピーエンドってこと?」
「いやいや、そう単純な話でもないのよ。各国はそれぞれ敵対してたりで、まぁ色々な事情を抱えていてね……ヒロインの力を巡って、問題も起きちゃうわけ。で、ハピエンルートが最高なのは勿論なんだけどね。バドエンルートがもう……めっっちゃくちゃ泣けてさぁ。私的には火之国が一番……いや、風之国ルートも泣けたなぁ」
「あんた、だから今日の朝、目がパンパンだったの?」
「てへっ。徹夜でゲームしちゃいました!」
「それは良いけど、次の時間小テストあるからね」
「え、そうだっけ!? やっば、それを早く言ってよ~!」

ショートヘアの少女は、慌てた様子で鞄から教材を取り出している。
雫音は後方の席でそれを眺めながら、特に何を思うわけでもなく、一人ぼうっとしていたのだが、“雨を降らせる力”という言葉には、微かな反応を見せた。

(そんな風に、誰かのために、力を使えたのなら……それは、幸せなことなんだろうな)

窓の外、ポツポツと降る雨粒に目を移しながら、雫音はそう思った。
けれど、それは物語の中だけでのお話で、現実では絶対に有り得ない話であると、知っている。

――そう。雫音はそんなこと、とっくの昔から知っていた。願えば願うほど、信じれば信じるほど辛くなることを、知っていた。

(雨が降り続けることを喜ぶ人なんて、いるわけがない)

もう、諦めていた。
悲観することも、期待することも、とうの昔に止めたのだ。

だから、生まれ持ったこの力を、少しでも抑えられるように。
これ以上神様が泣くことのないように、と。

雫音は今日も、感情を殺して、無感情に、一人ぼっちで。
潸潸(さんさん)と降る雨を、見つめていた。


***

雫音は目を覚ました。視界に広がるのは、見慣れぬ木目の天井だ。
目を瞬いてぼうっとしていれば、左方から声が掛けられる。

「目覚められましたか?」

雫音は、目線だけをそちらに向ける。
そこに居たのは、茶色の長い髪を後ろで一つに括っている、綺麗な顔立ちをした少年で。

(……夢じゃ、なかったんだ)

牢での出来事を思い出した雫音は、これが夢まやかしなどではなく、現実世界での出来事であることを悟った。
それと同時に、まだ夢を見ているのではないだろうかと、軽い現実逃避をしてしまいそうにもなる。けれど、身体に感じる気だるさから、これはやはり夢ではないと、そう結論付けて、ゆっくりと上半身を起こした。

「お身体の方は大丈夫ですか? 先ほどは部下が手荒な真似をしてしまい、本当に申し訳なく……。千蔭、お前も出てきて謝れ」
「はいはい、分かってるって。お嬢さん、さっきは驚かせちゃってごめんね?」

音もなく雫音の前に姿を現した千蔭は、軽い調子で謝罪の言葉を口にする。

「……いえ」

雫音はそれだけ言って、口を閉じた。
千蔭は口許に弧を描きながらも、警戒を顕わにした目で雫音を見つめている。

雫音は、自身に向けられる敵意という名の感情に、直ぐに気づいた。けれど、だからといって、それに傷つくことも、悲しむこともない。
多少の恐怖心はあるけれど、なるだけ平静を装って、無感情でいれるように努めて、目の前の二人と対峙する。

「では、まず食事にしましょうか。雫音殿は、食べられないものなどはございませんか?」
「……いえ、特には」
「それは良かった。風之国の山菜や果実はとても美味ですから、雫音殿にもぜひ召し上がっていただきたくて」
「……風之国?」

聞き覚えのある名称に、雫音は思わず反応してしまった。

「そう言えば、きちんと自己紹介をしていませんでしたね。改めまして、オレは風之国の領主である、風神与人と言います。雫音殿が近くの森林にて倒れていたところを、部下が発見したのです」

――まさか、そんなはずがない。そんなこと、あるわけがない。

そう思いながらも、つい先ほど見ていた夢に出てきた国の名と同じであることに、雫音は引っ掛かりを覚えてしまった。こんな偶然があるのだろうか、と。

「あ、の……」

雫音が詳しいことを尋ねようとした、その時。
部屋の外から、賑やかな声が聞こえてきた。

「いやぁ、本当に良かったよなぁ! 雨が降ったおかげで作物も育つし、これで川の増水も見込めるだろう」
「あぁ。雨女神(あまがみ)様々、だな!」

喜色を孕んだ野太い声は、そんな言葉を残して、あっという間に遠ざかっていった。

「すみません、騒々しくて」

手触りの良さそうな茶色の髪を掻きながら、眉をへにゃりと下げた与人は、困り顔で笑っている。その動きに合わせて、後ろで結われた長い髪が、ゆらゆらと揺れる。

(……変な人だな)

与人は、雫音が思う“領主”のイメージとはかけ離れていた。

領主と言われれば、もっと厳しくて、怖そうな人を思い浮かべる。
けれど、目の前で笑っている与人を見て感じるのは、優しい人なんだろうな、と。ただそれだけだった。

「実はここ最近、雨が降らず、各地で干ばつが続いて困っていたのです。ですがつい先刻、久方ぶりの雨が降ったので、皆大層喜んでいまして」

“でもどの国でも雨が降らなくなっちゃって、作物が育たないとか色々な弊害が出てきて、皆が困り果ててる。そこに、雨を降らせる力があるヒロインが登場するの!”

与人が紡いだ言葉を耳にした瞬間、クラスメイトの女子が楽しそうに語っていた声が、その姿が――雫音の頭の中を、走馬灯のように駆け巡った。

「……そう、なんですね」
「はい。……実は、玉依(たまより)の巫女より、数日前に預言がありました。間もなく、天より雨女神様が現れ、枯れた地に恵みの雨をもたらしてくださる、と。その雨女神様は……雫音殿、貴女ではないのですか?」

与人の確信を持った問いかけに、雫音は、小さく首を横に振って返す。

「いえ、違います」
「ですが……」

与人は柔らかな声音で、追究を試みる。
しかし、雫音の顔を目にして、それ以上言葉を紡ぐことはできなかった。


――霖雨蒼生とは、苦しんでいる人々に、救いの手を差し伸べること。また、民衆の苦しみを救う、慈悲深い人のことを指すらしい。

もしもこの世界が、雫音のクラスメイトが話していた“霖雨蒼生の姫君”の世界なのだとしたら。その名の通り、恵みの雨を降らし、人々を救うお姫様が存在するはずだ。

けれど、そのお姫様は、雫音ではない。


「私は、神様だなんて……そんな、崇高な存在ではありません」

――そう。むしろ私は、人々に疎まれるような存在なのだから。

「私はただの、雨女です」
「あめ、おんな……?」

聞き馴染みのない言葉に、与人は首を傾げた。後ろに控えている千蔭は、雫音の一挙一動を見逃さないように神経をとがらせながら、怪しい動きをしていないかと、探るようなまなざしを向けている。

何とも言えない微妙な沈黙が、室内に漂った。

されど、障子戸を一枚隔てた向こう側では、依然として、大地を潤す恵みの雨が、ざあざあと歓喜の声を上げながら降り続けていた。



「本人が違うって言ってるんだから、そういうことなんでしょ」

沈黙を破ったのは、与人の背後に控えている千蔭だった。

「この子、どう見てもただの女の子だし。とても神様には見えないじゃん?」
「だが、玉依の巫女が仰っていただろう。その予言通り、雫音殿がこの地に降り立った瞬間に雨が降った。それは事実だ」
「確かに、預言通りではあるけどさぁ……」

千蔭からグサグサと突き刺さる猜疑心を孕んだまなざしに気づきながらも、雫音は反応を見せることもなければ、話に割って入ることもせずに、二人の会話を黙って聞いていた。

雫音は、神様などではない。千蔭の言う通りだ。
ただ、のうのうと生きてきただけの、何の才も持たぬ女。

けれど、一つだけ。
ほとんどの人間が持たぬであろう、生まれ持った体質がある。

「あの……」
「はい、何でしょう?」

与人は、雫音が漏らした小さな声にも直ぐに気づいて、千蔭に向けていた顔を正面に座る雫音へと戻す。

「私は、神様ではありません。それは事実です。でも……雨を降らせてしまったのは、私のせいかもしれません」
「そうなのですか?」
「はい。さっきも言った通り、私は雨女なんです」
「その、雨女、と言うのは……?」
「雨を降らせたり、雨に降られたりする確率が高い人のこと、です」

雫音は、生まれながらの雨女だった。

遠出をする時や何かイベント事がある時には、いつも決まって雨が降る。待ち望んでいることがあれば、楽しみにしていることがあれば、雫音の感情に呼応するようにして鉛空が広がり、ポツポツと雨が降るのだ。

そのため、表立って言われることはなかったものの、小学校の運動会や遠足の日など、クラスメイトから陰で悪口を言われていることも知っていた。

「雫音ちゃんが来ると雨が降るから、当日は休んでほしいよね」

――その言葉を、幼い頃から何度も耳にした。

雫音は、自身の体質を疎ましく思いながら生きてきたのだ。
けれど……。

「そうだったのですね! 有難うございます。雨女である雫音殿のおかげで、多くの者が救われました。例え神ではなくとも、貴女はオレたちの命の恩人です」

雫音の話を聞き、嬉しそうに目を輝かせた与人は、心からの感謝の気持ちを口にする。

――雨を降らせたことで、こんな風に感謝されたのは、生まれてはじめてのことだった。

雫音は僅かに瞠目したが、直ぐに表情を戻して、小さく首を振った。

「いえ。別に、私は何も……」
「そのようなことはありません! 本当に、感謝してもしきれません。……そうだ。雫音殿は、これから行く先は決まっているのですか?」
「え? ……いえ、特には」
「でしたら、風之国でゆっくりしていってください。雫音殿の気が済むまで、いつまでもご滞在いただいて構いませんので」

行く当てなど特にない雫音にとって、与人からの言葉は有難い提案だった。
雫音はチラリと、窺うようなまなざしで与人の後方を見る。その先に居るのは、千蔭だ。

千蔭が自身に対して良くない感情を向けていることにはとっくに気づいていたので、雫音は、滞在を反対されるだろうと思ったのだ。

けれど千蔭は、何も言わない。
端正な顔に浮かんでいるのは貼り付けたような笑みで、そこから感情を読み取ることは、難しかった。

「あの、それじゃあ……暫くの間、お世話になります」

悩んだ末、雫音はすごすごと頭を下げた。
ニコニコと笑っている与人と千蔭を交互に見ながら(……何だか疲れた)と、胸中で重たい溜め息を吐き出しながら。

こうして、予期せぬ形で異世界へと迷い込んでしまった雫音は、暫くの間、風之国に身を置くことになったのだ。



雫音が風之国に滞在してから、早五日。

十畳以上はある広々とした和室を用意された雫音は、何をするでもなく、毎日を無気力に過ごしていた。
朝昼晩と女中が食事を部屋まで運んでくれるため、夜の入浴の時間と、トイレの際に部屋を出るだけ。あとはずっと、あてがわれた部屋に篭っている。外に出る必要がないからだ。

初めの頃は、何か手伝えることはないかと女中に聞いてみたりもした。
けれど「お客様にそのようなことはさせられない」と、きっぱり断られてしまったのだ。

与人からは、庭を自由に散歩してもいいと言われていたが、ここ三日間の天候が生憎の雨模様なこともあり、とても外に出る気にはなれなかった。
この雨は雫音が降らせてしまったものなので、それは自業自得の話ではあるのだが。

「雫音殿、今よろしいですか?」
「……はい」

今日も変わらずぼうっと過ごしていた雫音のもとを訪ねてきたのは、与人だった。

与人は、こうして一日に何度か雫音のもとを訪ねてきては、何か不便なことはないか、困っていることはないかと気にかけてくれる。
そして、雨が降ったおかげで何とかという名前の薬草が育っただとか、畑の作物が育ちそうだとか、どこどこの店の甘味が美味しいのだとか。

そんな他愛のない話をして、去っていくのだ。

領主という立場であれば忙しいはずなのに、時間を割いてわざわざ雫音のもとを訪ねてきてくれるのは、暇を持て余している雫音を気遣ってのことなのだろう。

自身とそう年も変わらないだろうに、素性も分からない怪しい女をこうして迎え入れてくれて、ましてや心を砕いてくれるだなんて……やはり心根の優しい人なのだろうな、と。

雫音は思いながら、今日も与人の話に耳を傾ける。

「実は本日、雫音殿を歓迎する、宴を開こうと思っているのです」
「宴、ですか?」
「はい。美味い料理をたくさん用意していますから、楽しみにしていてください」
「いえ、私は宴だなんて……」
「迷惑、でしたか?」

雫音は誘いを断ろうとした。自分のためにわざわざ宴を開いてもらうなど、申し訳ないと思ったからだ。それに、人が多く集まる場所が好きではないという理由もある。

けれど、あからさまに落ち込んだ顔をした与人にジッと見つめられて、雫音は出しかけていた言葉をグッと飲み込んだ。

「……いえ、迷惑だなんて、そんなことはないです。ただ、私なんかのために宴を開いてもらうことが、申し訳なくて」

しゅんとした顔から一変、今度は眉を顰めたかと思えば、与人は不満げな顔をする。

「雫音殿はよく“私なんか”とご自分を卑下するようなことを口にされますが……オレは、雫音殿は素敵な女性だと思います。ですから、もっと自信を持ってください」

純度百パーセントの笑みを向けられた雫音は、心の隅っこの方がむず痒いような、擽ったいような……今まで感じたことのない、妙な気持ちになるのを感じた。
男の人にこんなにも真っ直ぐに賛辞の言葉を伝えられたのは、多分、生まれて初めてのことだったからだ。

雫音は曖昧に微笑みながら、小さく頭を下げる。普段あまり笑顔を作ることがないので、口角がピクリと引き攣るのを感じた。

「……ありがとう、ございます」
「いえ。それでは、また夜にお会いしましょう」

雫音の歪な笑顔とは対照的に、与人は自然でいて爽やかな笑顔を浮かべると、そろそろ執務に戻ると言って、雫音の部屋を後にした。

一人残された雫音は、肩の力を抜いて、ふぅっと息を漏らす。

与人が善人であることは分かっているが、それでも雫音は、一人でいる方がずっと気楽で、安心できる。他者と関わり合うことに、共に時間を過ごすことに、慣れていないのだ。

そして、宴の誘いを断れなかったことに再び嘆息しながら、閉められた障子戸を少しだけ開けて、縁側の向こうの庭をぼうっと見つめた。雨に濡れて、木々の緑が濃くなっている。

いつの間にか雨は上がっていたが、見上げる空は鉛色のままで、眩しい太陽の姿は見えなかった。


***

「――それでは、雨女神様からのお恵みに感謝して! 乾杯!」
「「かんぱーい!」」

一人の男の音頭を合図に、御猪口や盃がカツンとぶつかり合う音が、あちこちで響き渡る。

宴が行われる大広間には、二十数名の男の姿があった。集う皆が与人の部下にして、その中でもそこそこの地位を持つ者たちだ。見るからに屈強な男たちばかりが揃っている。
また室内の其処彼処(そこかしこ)には、料理を運んだり酒を注いだりしている女中の姿も見えた。

「雫音殿。今宵はたくさん飲んで食べて、楽しんでくださいね」

上座に座っている与人に声を掛けられて、その右斜め前に腰を落ち着けていた雫音は、曖昧に頷く。男性陣たちの熱気やその賑やかな声に、完全に圧倒されていた。

「ささっ、雨女神様も、どうぞどうぞ」

周囲を見渡しながら慣れない空気にソワソワとしていれば、酒瓶を持った二人の男が、雫音のもとに近づいてきた。その顔は薄っすらと赤く染まっていて、開始早々、すでに酔いが回っていることが伝わってくる。

男たちは雫音に御猪口を手渡すと、そこに白濁色の酒を注いでいく。むわりと、強いアルコールの香りが広がる。
未成年であるため酒を口にしたことのない雫音は、鼻腔を通り抜ける慣れない香りに、それだけで頭がクラクラしそうになった。

「雨女神様は、我らにとって命の恩人です。今宵は存分に楽しんでくだされ」

――どうやら此処に集う者たちは、雫音のことを“雨女神様”だと、完全に勘違いしているようだ。

「いえ、私、お酒は飲めないので。それと、私は雨女神様なんかじゃ……」

注がれた酒をやんわりと断りつつ、誤解を解こうとした雫音だったが、その声は中途半端なまま、故意的に遮られてしまう。

「お前ら、雨女神様(・・・・)に、無理強いするなよ」

話に割り入ってきたのは、与人の左斜め前――膳を挟んで雫音の向かい側に座っていたはずの、千蔭だった。

「千蔭殿! ハハ、無理強いなどはしていませんよ」
「そう? 傍から見たら、オッサンたちが女の子に詰め寄ってるようにしか見えないからさ」
「「お、オッサン……!?」」

まだ二十代後半といったところの年齢である二人は、少しだけ傷ついたような顔をして、ガックリと肩を落としている。

その隙にと、千蔭は雫音の手から御猪口を奪い、その中身を一気に飲み干した。そして表情一つ変えることなく、雫音の耳元に顔を近づける。

「コイツらの相手は俺がするから。アンタは与人様の隣に行ってなよ」

雫音にだけ聞こえる声で耳打ちした千蔭は、シッシッと手で追い払うような仕草をする。どうやら雫音が困っていることに気づいて、助けてくれたようだ。

雫音は言われた通りに、与人の隣に移動する。そうすれば、白髪に藍緑色の目をした少年が現れて、雫音に用意されていた膳を目の前に運んでくれる。

「あ、ありがとうございます」
「……」

少年は雫音と目も合わせぬまま、瞬く間にこの場から姿を消してしまった。俊敏な身のこなしからして、彼もまた、千蔭と同じように忍び隊に属しているのかもしれない。

雫音は左隣に目を向ける。そこには与人がいて、料理を黙々と食べながら、幸せそうに頬を緩めている。

「雫音殿、この魚料理、とても美味しいですよ! ぜひ食べてみてください」
「……はい。それじゃあ、いただきますね」

雫音も自身の膳に目を落とした。ほかほかの白米に豆腐とわかめの味噌汁、具だくさんの煮物に、魚の煮つけ、刺身に天ぷら等々。多種多様な料理が並べられている。
雫音は与人が絶賛している魚の身を箸でほぐして、一口頬張った。柔らかく甘みがあって、口の中でほろりとほどけていく。

「美味しい、です」
「それは良かったです」

与人は雫音の顔を見て嬉しそうに笑いながら、また自身の膳に手を付け始めた。

雫音も暫くの間、黙々と食事を続けていたのだが、ふと周囲を見渡してみれば、千蔭の姿が見えなくなっていることに気づいた。先ほど雫音に酒を勧めてくれた男性陣は、酔いつぶれて畳の上に寝転がっている。

「あの……私、少し外で涼んできますね」
「分かりました。お一人で大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」

与人に一声掛けた雫音は、席を立って、依然として賑やかな大広間を後にした。



宴の席を抜け出した雫音は、薄暗がりの縁側を一人で歩いていた。そして、その足を止める。数メートル先に、捜していた人物を見つけたからだ。

名前を呼ぼうとした。――けれど、どことなく話しかけづらい雰囲気を感じる。
踵を返すか迷いながらも、雫音は再び足を前へと動かして、その者の側へと恐る恐る近づいていく。

「……どうしたの? 何かあった?」

忍び隊の長を務める千蔭は、気配には人一倍敏感だ。そのため雫音が近づいてきていることにも、とっくに気づいていたらしい。特に驚いた様子もなく、小雨が降っている鉛空を見上げたまま尋ねる。

「いえ、あの……」
「何? ……主役が一人で抜け出してきちゃ駄目でしょ」

此処に来てからというもの、千蔭からは、敵意にも似た感情ばかり向けられている。てっきりまた、冷たい言葉を浴びせられると思っていたのだが――雫音の予想に反して、千蔭の声音は穏やかだ。

「私、お礼が言いたくて」
「お礼?」
「さっき、お酒を勧められた時、助けていただいたので……」
「あぁ、そのこと。アンタは与人様の客人ってことになってるからね。酒に耐性もなさそうだし、そのせいで具合でも悪くなったりしたら、与人様が気に病みそうだからさ」

千蔭はそこで漸く、雨雲に向けていた視線を雫音に移した。千蔭の深紅の瞳に、生気の感じられない、感情の読めない顔をした雫音が映っている。

「もう遅いし、先に部屋に戻って休んでもいいよ。与人様には俺から伝えておくしさ」

千蔭はニコリと口角を上げて、そう言った。
いつもの、貼り付けたような、完璧な笑顔で。

「……千蔭さんは、私のことが、お嫌いですか?」

気づけば雫音は、そう尋ねていた。

笑っているはずなのに、その目の奥は、いつだって冷え切っているように感じる。本心を隠すかのように貼り付けられた笑顔の意味を、雫音はずっと知りたいと思っていた。

数秒か、数十秒か。
暫しの沈黙の末、千蔭はその顔から一瞬で笑みを消し去った。

「うん、嫌いだよ。俺は自分の命を軽んじる奴が、大嫌いなんだよね」
「……そう、ですか」

雫音はその答えを聞いても、特段何も感じなかった。
心のどこかで、そうだろうなと、思っていたから。

――雨を降らせるしか能がない、周りに不幸しかもたらさない自分が、誰かに好かれるだなんて、はなから思っていない。

やはり嫌われていたのだと、納得しただけだった。

雫音は嫌われることに、嫌悪の目を向けられることに、慣れていた。
感情を殺すことにとらわれる余り、悲しいとか、怒りとか。そういう類の感情を、感じづらくなっていたのだ。

「……それじゃあ、俺は行くから」
「はい。……あ、さっきは助けていただいて、ありがとうございました」

まだお礼を伝えていなかったと気づいた雫音は、小さく頭を下げた。

そして、次に顔を上げた時。
千蔭の姿はすでに見えなくなっていた。

雫音は空を見上げた。墨を落としたような一面の真っ暗闇には雨雲が立ち込め、止む気配もなく、しとしとと雨が降り続いている。

「私、これから……どうすればいいのかな」

――いつまでも此処にいるわけにはいかない。それは分かっている。
けれど、何も分からない世界で、死ぬことも叶わず、誰からも必要とされることのない自分が、何をしたらいいのか。何処に行けばいいのか……。

雫音は与人が捜しにきてくれるまで暫くの間、雨空を見上げながら、迷い子になったような心地でその場に立ち竦んでいた。



今朝方には、降り続いていた雨も止んだ。
空には厚い雲がかかっているが、時折、太陽の光が顔をのぞかせている。

自身に当てがわれた部屋の前。縁側に一人で座っていた雫音は、考えていた。

この世界のこと。これからのこと。

けれどいくら考えたところで、いい考えは浮かばなかった。
雫音は何も知らないからだ。

(こんなことになるなら、あの子たちに詳しい話を聞いておけばよかったな)

クラスメイトの女の子たちの顔を思い浮かべた雫音だったが、その考えを直ぐに一蹴した。自分から話しかけている姿など、想像できなかったから。

「……ちょっといい?」

雫音のどんより沈んだ心とは反するように、小鳥のさえずりが聞こえる長閑な時間。
鼓膜を震わせたのは、聞き馴染みのない少年の声だった。

「千蔭に頼まれて、これ……持ってきた」

雫音は顔を右に向ける。そこにいたのは、昨夜の宴会の席で、雫音の膳を運んできてくれた少年だった。珍しい白髪に、藍緑色の猫目が特徴的な男の子。

「これって……」

差し出されたのは、雫音のスクールバッグだった。まさか共にこの世界にきているとは思っていなかったので、きょとんとした顔で目を瞬かせてしまう。

「森の中に、落ちてたって。武器とかが入ってないか、中は一応、確認させてもらったって。……それじゃあおれ、もう行くから」

少年は雫音と目も合わさずに、ボソボソと俯き気味のまま話す。そして、これで用は済んだと言わんばかりに、この場を立ち去ろうとする。

「ま、待ってください」

雫音は少年を引き止めた。すでに背を向けていた少年は、雫音の声に反応して小さく肩を震わせると、再びこちらに顔だけを向ける。

「……何?」
「あの……話を、聞きたくて」
「……」

少年は黙ったまま、斜め下に向けていた目線を更に下げて、自身の足元をジッと見つめている。

――突然声を掛けてしまって、迷惑だっただろうか。

少年の反応を見て、雫音は断られてしまうだろうと思った。
けれど、少年から返ってきた答えは、意外なものだった。

「おれが話せることなら……いいけど」

そう言って踵を返してくれた少年は、雫音の隣、二人分ほど空いた場所に腰を下ろす。

「あ、ありがとう、ございます」
「……別に、いいよ」
「あの、貴方の名前を聞いてもいいですか?」
「おれは、天寧(あまね)
「天寧、さん」
「さんなんて、付けなくてもいいよ。堅苦しい話し方も、しなくいていい」
「……それじゃあ、天寧くんで。天寧くんは、千蔭さんと同じように、この国の忍び隊に入っているんですよね?」
「うん、そうだよ」

千蔭が忍び隊という部隊に所属している隊長であることは、此処で過ごすようになって直ぐに、与人から聞いていた。

千蔭と似たような格好をしていたので、天寧もそうではないかと思っていたのだ。やはり雫音の予想は的中していたらしい。

「千蔭は、幼馴染みたいなもの……だから。千蔭が忍び隊に入ることになったから、成り行きで、おれも入っただけ」
「そうなんですね」
「うん。……それで、他に聞きたいことは?」

天寧はそろりと顔を上げて、窺うような目で雫音を見る。

「その……この世界のことを、教えてもらいたくて」
「この世界のこと?」
「はい。私は無知で、この世界にどんな国があるのかとか、情勢がどうなっているのかとか……そういったことに疎いので。教えてもらえませんか?」

雫音からの質問に、天寧は何かを確認するように、一瞬頭上に目配せした。けれど、それはほんの一瞬、瞬く間のことで、雫音がその仕草に気づくことはなかった。

「いいけど……おれじゃなくて、与人様に聞いた方がいいんじゃないの?」

――会ったばかりの自分より、話す機会も多い与人に聞いた方がいいのではないか。
天寧はそう言いたいのだろう。

「それも考えましたけど……与人さんが部屋を訪ねてくる時は、いつも部屋の前に、控えている方がいる、ので……」
「……あぁ、八雲のことか」

皆まで言わずとも、天寧には分かったようだ。自身の同僚に当たる男の名前を口にして、納得したと言いたげに頷いた。

八雲とは、雫音が牢の中で目覚めた時、一番初めに対峙した男だ。

彼は千蔭のように笑顔で取り繕うこともなく、疑いのまなざしを一切隠す様子もなく、雫音に直接ぶつけてくる。
雫音が少しでも与人に余計なことを口走ったものなら、直ぐに首を掻っ切られるかもしれない。冗談ではなく、本気で。それくらいの殺伐とした圧力を感じるのだ。

「うん、いいよ。教えてあげる」

雫音の言い分に納得してくれたらしい天寧は、話し出す。

「まず、この日ノ本(ひのもと)にある国については、知ってる?」
「その、本当に何も知らなくて……此処は、風之国っていうんですよね?」
「そう。日ノ本は今、四つの国に分断されてる。風之国、緑之国、花之国、そして、火之国」
「風と、緑と、花と、火?」
「そう。外来からの影響も受けたりして、それぞれの国で文化はかなり異なってる。例えば此処、風之国は、昔ながらの風習も大切にしながら、外来からの文化も少しずつ取り入れてる。そして先祖代々、隠密活動に長けた者を育成・輩出している家が多い、とか」

天寧は、雫音にも理解しやすいようにざっくりと、掻い摘んだ説明をしてくれる。

「花之国なんかは、西洋の文化も取り入れているらしいし、緑之国は、自然と調和した生活を大切にしてる。それに、まじないを扱える者が多くいるっていう噂もある」
「それじゃあ、火之国は?」
「あそこは……荒くれ者が集う国、だよ」

天寧は、眉を顰めてそれだけ言う。
火之国については、これ以上話したくなさそうな雰囲気だ。

「つい最近まで領地争いの戦をしていたんだけど、各地で干ばつがあって、それどころじゃなくなったんだ。だから今は、四つの国で協定を結んでる」
「協定?」
「謀反を企てる国には、他の三つの国が協力して、火種となった国を鎮圧する。牽制みたいなものだよ」

天寧はそこまで言うと、チラリと天井を見てから腰を上げた。

「ごめん。おれ、もう行かなきゃ」
「あ、はい。天寧くん、色々と教えてくれて、ありがとうございました」
「別に、いいよ。……じゃあね」

雫音は膝をついたまま、深々と頭を下げてお礼を言う。
恭しい態度をとられることに慣れていない天寧は、困ったように眉を下げた。

そして、雫音が顔を上げた、次の瞬間。
この場に小さな風を吹かせた天寧は、一瞬で姿を消してしまった。

「……やっぱり忍者って、すごい」