セピア色に退色した写真の中で白無垢の花嫁は緋毛氈の上に立ち、無表情のまま立ち尽くす。
 彼女はおんなの生において最も華々しくあるべき瞬間に濃く塗った唇をきっちりと結び、そのままの顔で永遠に静止している。──不穏な印象を漂わせる写真だとナミは思っていた。けれど誰もがこれを幸福な式典と呼んだ。まことに不思議な事である。

 婚姻といえば神聖で幸福な魂の結びつきだと、決めつけてはいないだろうか。

 年末の掃除で見つけた、なつかしい写真だった。
 ナミは母をこのたった一葉でのみ知っている。彼女はナミを産んですぐに亡くなったからだ。

 故人はナミと全く似ていない。
 一方花嫁姿の母の隣に写る若き日の父はナミと似て彫りが深い。美青年といっても差し支えないだろう。しかしどこか冷徹な感じがする。非常に男性的な造作と何故かしっくり噛み合ったスマアトさが抜き身の刃のように鋭い。薄い唇には思い上がったような笑みを浮かべ、初々しい幸福を微塵も感じさせなかった。
 父はもしかすると初めから母を愛していなかったのかもしれない。

 ナミはこんな男と結ばれて早死にした母をあわれでならないと感じる。しかも、そんな女性はナミの母ひとりではなかったのだ。

 アルバムの中には似たり寄ったりの華燭の典が4つも写っている。ミミの母、ナミの母、2人を育てた継母、そしてキヤカ。──ほっそりとした狐のような美女ばかりだ。しかし、父の女遊びはミミと似たような年齢の若い女と結婚してからでさえ止まなかった。

 ナミはそんな父に失望に失望を重ね、募る恨みに胸を詰まらせ、最後には愛想を尽かした。
 多感な少女が継母や若い後妻に反感を募らせずに済んだのは、父に軽んじられる彼女らがあわれだったからだ。
 継子に対しても親切で美しい彼女らは善良な男に嫁げば美質が報われ幸福になれたに違いないが、色狂いの男のせいで不幸になった。
 妻の人生はまさしく夫次第だ。

 ──ナミは男嫌いという程ではないものの、婚姻そのものに漠然とした嫌悪感を抱きつつあった。

 虫の知らせと言うのか、ナミは父が海に出て死んだ夜、奇妙な夢を見ていた。海の底から真っ白くふやけた赤子の手がうじゃうじゃと伸びて、父や他の漁師を海の底へと導いて行くというものだ。
 漠然とだが、真実の出来事だったのだろうと感じている。

 ナミには昔から他人に見えないものを見る力があった。それに、父が昔あそびめに子を堕させた事を知っていた。憎まれ祟り殺されても当然だ。
 
 葬儀の晩、「父さんが死んだのはオヒムジ様のせいよ」と嫁いだ姉のミミは言った。ミミの婚家はその年のヒムジ当番だったので、そのせいで父が死んだのではないかと憂いていたのだ。
 けれどミミの夫は今も健康そのものである。
 行いが清らかだからだ。
 一方父はナミの忠告など一度も聞かず、ありとあらゆる女から恨みを買っていた。
 まるで田舎びた光源氏のよう。しかも源氏のようには優しくないのだから、生霊も死霊も六条御息所1人では済まない。
 
 

「何を見ているの?」

 喪服のキヤカが振り返る。ナミが迷いながらアルバムを見せると、すぐに笑い出した。

「あの人ったら私との結婚式で欠伸してるじゃないの。4回も同じ事をやったらやっぱり飽きちゃうのねぇ」

 嫁いだばかりの頃の慎ましいキヤカがこんなアルバムを見たら泣いただろうけれど、3年の歳月はキヤカを鈍感にした。おとなしく気の弱い花嫁は何事も笑って受け流す事を習性として身につけた。ナミはその強さに感嘆していた。

「キヤカさんが一番美人なのにね。私がキヤカさんと結婚する男ならまばたきもしなかったのになぁ」

 ナミは少しからかった。
 キヤカは目を細め、口元を隠してくつくつと笑う。

「もう、急に口説かないでよ。こういうときのナミちゃんの目ってきれいよねぇ。あの人にそっくり」
「嬉しくない嬉しくない。地黒だから目が綺麗に見えやすいだけだわ。どうせ」
「いいじゃないのよぉ。目が素敵なのは大事な事よ。中身が似たら困ってしまいますけどねぇ」

 のんびりした口調で言ってアルバムを閉じた。

 ナミはキヤカの細面を見ながら、男に産まれたかったと少しだけ思った。ナミも年頃なので数年以内には誰かと結婚するのだろうが、それがキヤカと暮らすより楽しいとはとても考えられない。

 膨大な遺品の整理にナミとキヤカは非常に長い時間をかけ、また、父の生活に合わせた物の配置を少しずつくみかえいた。それは不思議な寂しさと快楽を伴っていた。ナミは父が死んでも殆ど泣けなかったのにもかかわらず寂しいという感情を覚え、しかし晴れ晴れとした感情は依然として胸のうちを支配している。

「それで、キヤカさんの方はお片付け、終わった?」
「終わってます。当然」

 今夜はヒムジ当番の引継ぎがあり、2人は日付が変わるまでに出掛けなくてはならない。そこでミミからオヒムジの神体を受け取り、メヒムジを選ぶのは柳生夫人であるキヤカの役目だ。おせちにもいつもとは違う品目が入るため、普段の年末より早く年越しの支度を進めていた。

「……やったぁ。じゃあ少しだけどゆっくりできるね。ヒムジ当番、気が進まないけどうちは男が住んでないぶんちょっぴり気が楽」
 笑顔で伸びをしたナミとは対照的に、キヤカは考え込む。
「……本当に男がいなければ何も起こらないのかしらね?」
 ナミは曖昧に頷く。

 ──ナミには見えていた。
 黒い柱のせいで何かが起こらない日など、あの日以来この潤土にはない。
 ヒムジ当番の家屋に黒い柱が立ち、魚を降らせる。あれよりも嫌な雰囲気のするモノをナミは見た事がない。
 


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 1944年の正月に根平家の上に煙のような黒い柱が立ったその日、ナミは初めて()を見た。柱はその日から1年以上微動だにしなかったが。1945年の朝には通学路の向かいがわ、虫の群のような柱がゆらゆらと揺れ、移動し始めた。近くに観にいけば根平の本家の男達が6尺ちかい長さの重たげな麻袋を運んでいる。そのうえに柱が立っているのだとわかった。

「ミミ姉、あそこ!」
 ナミは泣きながら手をぶんぶんと振ったけれど、ミミには何も見えなかったらしい。ミミはただきょとんとした顔をナミに向け、向かってくる男達の方へと無邪気に尋ねた。
「……ゴヘエおじさん、何運んでるの?」

 男達の誰も答えなかった。ナミは更に泣きじゃくった。黒い柱はぐるぐると回り、枝分かれしては男達にもまとわりついていた。
 男のうちの1人が目の醒める程赤い布を被った女を縛って歩かせている。その女が指先を動かすと、柱が動くようだ。

「──ミミちゃんは見えなくて良かった。けれどナミちゃんには見えるのね」

 かぼそい声を聞いて、布を被った女が根平の分家にいたミナヱだとわかった。
 有名な狂い女だ。
 顔は全く見えない。痩せ細った足は黒く汚れ、爪は不潔な程に伸びている。その伸びきって鋭く尖った爪の先に黒い柱が立ち、犬のように楽しげにくるくるふわふわ踊るのだ。

「柱……」
「ふふ。兄さんよ。かっこいいでしょう?」

 誰も非国民のミナヱに近づかなかったため、いつから彼女が狂っていたのかはわからない。しかし、兎も角彼女は癲狂院に送られる事となったのがその日だった。
 ミナヱの兄は学徒出陣を拒否して死んだ。母親はその直後に身投げをし、亡骸は上がらなかった。狂うのも当然だった。
 ──とは言え、ナミがそう思うようになったのはだいぶ後の事である。幼いナミの目に、根平ミナヱは気味の悪い女にしか見えなかった。

「……この袋、なに?」
 ミミが訊くと、ミナヱは答えた。
「だから、兄さんよ」
「うそ。その人は死んじゃったってお母さん言ってたよ!」
「死んでないわよ。死ぬわけないでしょ。私の願いの通りに人は死に、産まれ直すんだよ。そういう仕組みなの。ナミちゃんならわかるかしらね。だって見えるんだから」

 根平の男がミナヱを縛った縄を引く。
 男達の緊張を感じ取ったミナヱが哄笑した。柱は男の首に巻きつくが、誰も気づかない。

「……いいですか。私は二度とこの潤土に戻れませんが、戻らずしてあなた達を殺す。私の産み直した兄さんがあなた達を殺します。350年前と同じように、私の子が潤土の男全員を殺すのです」



 ──ミナヱが癲狂院へやられてすぐ、根平の男達は変死した。それからも毎年ヒムジ当番になった家かその親類筋で、葬儀が出る。怪我人が出る。床下から腐った匂いがし始める。毎日どこかで黒い柱を見る。

 幼い頃のナミは黒い柱をミナヱの怨嗟が産み出したものだと思って怯えていた。今は少し違う。ミナヱも何かおぞましいものに取り憑かれただけなのではないかという気がしている。


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 夜でもなお黒く見えるような奇妙な柱の立ちのぼる箱を、キヤカは運んでいる。
 ──そうと見て取れてるのはナミにとってのみだ。キヤカからすると、単に古い箱を運んでいるだけのつもりなのだろう。柱の丈は6尺程だろうか、長身の男の背丈程度である。

 夜の海辺はしんと静まり返っている。海の生き物の死骸が腐る、澱んだ悪臭が漂っている。ナミは懐中電灯を持って先導しながら、薄気味悪いものを感じた。
 無音が不安だ。
 しかしメヒムジを選ぶ儀式の最中には決して話してはならなかった。家の女性が左爪先で一番最初に触れた3寸以上の物体がその年のメヒムジの神体となり、1年間奉られる。

 ──古老曰く、ヒムジ信仰でかつて奉られたのは海の彼方から漂着するメヒムジのみであった。オヒムジという神はここ数年こそ祟り神のように扱われているが、後世になって付け足されただけだ。

 黙りこくって歩き続けた。不安はあったものの、ナミは振り返ってはいけなかった。儀式にはそういう決まりもある。わざと石の多い道を歩いて家に帰りキヤカが石を踏みやすいように差し向けながら、奇妙なしきたりだと感じた。
 
 ナミは考える。
 不穏な妄想を巡らせる。

 もしもキヤカの左爪先に何もぶつからず朝になってしまえば、どうなるのか。
 もしもキヤカが躓いて左爪先でナミを蹴ったら、どうなるか。

 そもそも、メヒムジとは何なのだろう。
 オヒムジが歪な黒い柱に見えるのだから、その片割れも尋常の存在でないのではないか。
 拾ったモノをメヒムジにするのは、果たして本当に──。

 ──とんっ!

 急に肩を叩かれて、ナミは悲鳴の漏れかけた口を抑えた。しかし振り向いてはいけない決まりだ。後ろを見る事もできず硬直してしまう。






「ナミ!」

 朗らかな声がする。
 振り向くと、キヤカがにっこりと笑っていた。大きめの石を木箱の上に載せている。

「怖がっちゃって。ナミってばほんとうにかわいいわぁ」
 ──ナミはキヤカを軽くぶつ真似をした。
「もう、キヤカさんったら!」

 こういう茶目っ気は勘弁して欲しいものだ。
 しかしいざ口を開くとナミはこの若い継母に、じゃれつくような物言いばかりしている。
 不穏な考えなど何処かに飛んでいってしまったようで、笑いながら帰路を急いだ。

 家に帰ってからもしなければならない事はまだ幾つか残っている。
 キヤカの部屋にオヒムジの神体を安置し、紐で周りを囲う。取り分けたおせち料理を供える。台所の床下にバケツを置き、中にメヒムジの神体を入れる。汲んできた海水をメヒムジに注ぐ。

 どういう意味のある儀式なのかナミには全くわからないが、昔からそう決まっている。決まり事をわざわざ破る気もしなかった。


 手順を済ませた頃にはもう疲労困憊だった。黒い柱に生気を吸い取られたようだ。
 奮発して買った鶏胸肉に加え銀杏切りの里芋と大根、ささがきのゴボウ、それに凍り豆腐を入れた雑煮を土鍋のまま温め直し、新しい餅を入れた。
 ナミは醤油の風味を楽しみながら、欠伸をした。

「何か、ミミ姉変わってたね」
「ナミ、女は結婚すると変わるのよぅ?」

 ミミは近頃窶れていた。母親譲りの吸いつくようにきめ細かい肌の色が少し燻んで、目の下に隈があったのだ。

「そうかもね。……なーんかやだなぁ。結婚って」
「そんな事ないわぁ。心は満たされてるかも。結婚は女の幸福よ?」
「えー。キヤカさんも幸せ?」
「もちろん。浮気はするけどちゃんと稼いでる旦那に、大きなお屋敷に、かわいい娘までついてきたんですもの。これで不満がってたらバチが当たります」

 ナミはキヤカの愛情の籠もったことばに対し、満更でもなかった。しかしキヤカの真似はできないと思った。
 ──浮気をするような男は嫌だ。もしも夫が自分以外の女との間に子を作ったとして、ナミはその子を心から思いやれる自信がない。ひょっとしたら落窪物語の北の方のごとく、鬼のように冷遇するかもしれなかった。
 キヤカや亡くなった継母のようになれるのは、それこそ聖母のような女性だろう。世間は聖母が大半を占めると誤解し、結婚すれば女は変わらねばならぬという。自らの若さをすり減らすのも平気な程に家族を愛すべきだという。しかしそんなものは女大学を愛読した年寄りの言い草だ。結婚した程度で女性がそこまで変われるはずもない。善良になれるのは、元から善良な人だけだとナミは思っている。事実、父は血の繋がった娘達に対し残酷と言っても良かった。

 熱くとろりとした里芋を少しずつ歯で刮ぐようにして食べながら、「それにミミさん、ひょっとしたら子供ができたんじゃないかしらぁ。あれはそういう様子よ?」とキヤカは急に言い出した。

「えっ」
「驚くじゃないでしょう。おめでたい事よ。はっきりする前に訊くのは失礼だから直接は言わないけど、ミミさんも私と同じくらいの年齢よ。うちの家と違って旦那さんも若いし、結婚してからそれなりに経っているし、仲のいい夫婦なんだからできてるのが自然よぉ?」
「たしかに……」

 最近具合の悪そうな姉を見て、今までのナミは単純に心配していただけだった。10代半ばの少女はそこに妊娠の兆しを読み取れる程には成熟していない。だからキヤカの指摘にナミはちょっとした衝撃を覚えた。
 甥か姪がそのうちできるかもしれないと頭ではわかっていたが、こんなにすぐだとは想像していなかった。子供の頃から一緒だった姉が結婚したというだけでも複雑な気持ちになったのに、妊娠だなんて中々考えたくなかったのだ。

「もしホントに子供できてたら私、おばさんだ」
「ナミはまだ良いじゃない。私はおばあちゃんになっちゃいますからねぇ」
「でも何か複雑。実感ないな」

 焦げ目の多い餅を取りながら、ため息をつく。

「ナミったら寂しいの?」
「……うん」
「妹にそんなに愛されてるミミさんはきっと幸せよ」
「ありがと、キヤカさん」

 雑煮をゆっくり食べている間に夜が明けていた。「あけましておめでとう」と笑い合い、改めて寝てしまう支度をする前に、ナミはキヤカの部屋の部屋へ行き、お供え物を下げる。オヒムジの神体の前に置かれた皿を持ち上げた途端、ナミは声を上げた。

「──あ」

 ぷんと悪臭が鼻をつく。
 たった2時間ほど前に供えた料理が全部腐っている。

ナミは顔をしかめた。神体の上に直立する黒い柱は微動だにしないが、鳥肌の立つような心地がした。

 こんなモノと同じ家で1年を過ごさなくてはならないのか。


 ──ミミは去年殆どそれについての愚痴を言わなかったが、同じような怖い思いをしていたに違いない。新婚だったのに、まだ馴染みのない家でそのような苦痛に耐えた。
 だから、ナミも我慢する。
 柱に手を合わせてから腐った料理を下げ、吐きそうな思いで捨てた。

 

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夢を見ている。

 大抵の夢は夢だと気づいた途端に眠りが浅くなるけれど、ナミの今見ている夢はそうではなかった。ナミの 不思議な力(、、、、、)はヒムジ当番になって以来、日増しに強まっていた。今までは何とも思わなかったものに対してさえ異様な気配を感じる。

 夢の中に出てくる女は灰色の砂浜を両手だけでずるずると這っている。ナミはどこか遠くからそれを見ている。長い髪は赤味がかって蓮っ葉に見えるものの、色白で奥二重の上品な目元をしているので、大昔のお姫様のように綺麗だ。
 しかし服を着ていない。這いずっているのだから、足も悪いのだろう。酷い暴力を受けた直後のようにも見える。
 女はかぼそい声で歌っており、その声はミナヱのものにも、キヤカのものにも、自分自身のものにも似て聞こえる。
 だが、おそらくはどの声とも違った。

 なげきわびそらにみだるるわがたまをむすびとどめよしたがいのつま。

 女は激しく泣いて、砂を掴む。動かなくなる。


「源氏物語の和歌だ」

 ──口をついて出たことばとともにナミが目を覚ますと、もう昼近かった。

 今朝に熱を出して、二度寝した後だ。この夢を見た後はいつも熱が出る。キヤカは心配のあまりに何の異常もないと診断する医者を藪呼ばわりするが、ナミは医者に同情していた。医学でどうにかなるような事でもないだろう。
 それよりも恐ろしいのは、夢を見るたびに女との距離が近づいている事だ。女に気づかれたとき、ナミはどうなってしまうだろうか。
 水銀の体温計で目覚めの熱を測りながら、キヤカの持ってきた水を飲んだ。

「なに。和歌って。そういう夢でも見たの?」
「うん」
「ナミ、食欲はある?」
「ある」
「じゃあ朝ごはんを持ってきましょうねぇ」

 粥を温めに行くキヤカの背を見送りながら、夢の中の女の事を考える。
 和歌を誦じるくらいなのだから教養のある女性のはずだ。それがあんな浜辺で打ち棄てられて、恨みを抱えた。あの女と黒い柱には何か関係があるのだろうか。
 しかしそんな思考を遮るように、台所からキヤカ以外の悲鳴が聞こえた。

 ナミは戦慄した。
 当然この家には2人しかいないはずなので、普通ならあり得ない事だった。

 ナミが寝間着のまま台所へ行っても、まだ絶叫は続いていた。耳をつんざくほどの音だった。
 音は床の下から響き続けているようだった。
 気丈なキヤカも流石に青ざめて口を抑えていた。俯いて悲鳴を堪え、床下の何かをやり過ごそうとするような様子だった。ナミの口の中にも酸っぱいものがこみ上げ一気に気が滅入る。

 ──幻聴ではない、明らかな異常。
 ゾッと鳥肌が立ち、生理的な涙が滲む。

 けれど次第に腹が立ってくる。自分達が一体何をしたというのだ。自分達の家に今まで通り住んでいるだけだ。人並み程度には善良で、これまでだって十分苦労している。こんな目に遭わなくてはいけない筋合いはない。
 ナミは片手に包丁を握り、床板を外しながら怒鳴った。

「ふざけんな! 人の家でよくも!!」

 するとぴたりと声が止んだ。元から何の音もしていないかのように静まり返った床下には、メヒムジの神体入りのバケツが置いてある。
 しかし女などどこにもいるはずがない。
 奇妙な現象に2人はしばし絶句した。我に返ったのは、粥を作るための火を消し忘れていたのに気がついてからだった。

 少し焦げついた粥をよそって冷ましながら、ナミは呟いた。

「……こういう事、他の当番の家でもあったのかな」
 キヤカは目を伏せた。
「瀧田さんの家は畳の上をなにかが這うような音を聞いたと言っていたけれど……」
「そっか」
「実はね、……この間、うちの湯船の栓に変な色をした女の髪がみっしり詰まってたの。これは岸崎のヨーコさんの家でもあった事だけど、そのお風呂で酔ったシンゴちゃんが亡くなったんだって。──ねえナミ、私あなたが心配よ。繊細な子だもの。あなただけでもここから出て、お友達の家に泊まったりできないかしら?」

 珍しくハキハキした声と真剣な眼差しでキヤカは言った。彼女が本気だとナミにもわかった。
 最近ナミが発熱しがちである事について思い悩んでいたキヤカは、ナミだけでもこの忌まわしい怪異から逃したいと考えたのだろう。けれどナミは、キヤカを置いて家を出るつもりなどなかった。

「キヤカさんってば、気にしすぎ。私は言う程繊細じゃないよ。それに、私がいないとキヤカさんがひとりになっちゃう……」
 わざと明るい声で言ってから、別の話をした。
「それより、鎮祭が楽しみね。御客人もいらっしゃるんでしょ。村の外の人が来てくれるのは心強いよね!」
 キヤカは微笑んだ。
「そうね……。立派な学者さんが来るんですものねぇ。もしかしたらこの家の問題だって解決して下さるかも」

 外の男を呼ぶのも元からあるしきたりだった。大昔には鎮祭の夜にヒムジ当番の娘がメヒムジの憑座の巫女として外の男を歓待したらしい。
 外の男はいわば神の化身(オヒムジ)と見做されている。最後のイルカ漁を記録してくれる外の男の訪れは、非常な楽しみだった。そもそも祭りが楽しみである。
 父親似の外見と活発な印象から誤解されやすいが、ナミは案外気が弱い。嫌な事を忘れられるような明るい話題であれば大歓迎だ。

「そうそう。きっと何とかなるよ。ミミ姉も秋には子供が生まれるって言ってたし! 私達も来年までちょっと我慢すればいいんだよ!」

 本当は不安だった。けれどキヤカを安心させるために自分を誤魔化すのは罪にならないと思う。



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 ミミの妊娠をナミは本当のところ喜んでいない。
 ナミは昔から妊婦が嫌いだった。
 経験上妊婦にはよくないモノが寄ってきやすいからだ。街の女は兎も角、潤土(うるんど)の女は孕むと動物的な匂いをさせ始める。

 しかしながら想像以上に姉を祝福できないでいる自分に、ナミはショックを受けた。もう子供ではないのだ。姉をとられたと思うような年齢はとうに過ぎているのだし、世間の人並みでいたいのなら喜ぶべきだ。それなのに、腹帯の上から姉の腹を撫でたてのひらがぞわっと粟立ち、着物の袖でこっそり手を拭いた。言いようのない生理的嫌悪に襲われた。

 ミミを不安がらせるような事は決して言えないが、彼女はまだ黒い柱と同じ匂いを漂わせていて──、何か非常に良くない事が姉に起きているような気がしてならなかった。しかし姉の子にそんな感覚を抱く自分を許せないとも感じた。
 ──子供が産まれたらこんな不安は霧消して、優しい叔母になれるだろうか。そうなれたらいいのに。


 ナミは不安を抱えながらミミに会うたび甲斐甲斐しく接し、義兄からは呆れられた。「急に優しくなったなぁナミちゃん」などと言われると少し腹も立ってくるし「元から優しいです」と言い返しもするが、不吉な想像をしてしまう自分への罪悪感の含まれた行動なので、反論の勢いが自然弱くなる。
 少ししょげたナミを義兄は茶化す。

「らしくないぞ。流石のナミちゃんもヒムジ様がたには敵わないか」
「そーです。だって……。義兄さんも去年時々はあったでしょ。そういうの!」
「あぁあったなー。一番恐ろしかった事を聞かせてやろうか」
「結構です!」
「そう言うなよー」

 ミミは大きくなった腹を愛おしげに撫でさすりながら妹と義兄のやり取りを見ている。
 義兄は笑顔で話し始める。



 その日義兄は入浴中だった。
 身体を洗おうとした時にミミが入ってきたのでいつも通り背中を流して貰おうとしたらしい。

 ──いつも通り、という部分を聞いてナミは目を泳がせた。
 ナミはこの義兄と幼馴染で、子供の頃から可愛がって貰った。色情狂の父を持ちつつも男嫌いにならずに済んだ要因の1つは彼の存在だったし、姉に至っては彼に恋をした。
だからナミは2人が結婚した事を喜ばしく感じているが、のろけはあまり聞きたくなかった。
 しかしここからが義兄の話の本番だった。

 浴室に入ってきたミミは様子がおかしく、話しかけてもうんともすんとも言わなかったらしい。白い手をにゅっと伸ばして石鹸を取り、背中を流した。
 しかしその時に浴室の外から(、、、、、、)ミミの声がした。

「あなた! もうすぐ食事だから、だらだらしないで早く出てきてよ!」

 義兄は驚いて振り向いた。
 背後のミミは上目遣いで義兄を見つめる。しかしその顔は白っぽくぼんやりしている。そこでようやく「まずい」と気がついた。なるべく何も気にしていないような振りをしながら浴室を出た。

 そんな事が、1951年の秋にあった。

 義兄は別のモノをミミと見間違えないようにするため、眼鏡を掛けたまま入浴する事にした。
 すると、初冬になって偽物(、、)がまた浴室に入ってきた。恐ろしい事に眼鏡を掛けていても女の顔立ちはぼんやりとし、きちんと像を結ばない。足もちょうど膝から下にモザイクがかかったように見える。
 結局、お化けに足がないというのはこういう事だったかと恐怖を通り越して半分笑いながら、そのまま一緒に風呂に入ったそうだ。

「……本当にびっくりすると逃げようとか考えないんだな」と義兄は話を結んだ。


 本気で不気味な話をされ、ナミは少し気が塞いだ。──そういえば、夢の中の女には足があっただろうか? あの女がずるずると両手だけで這うのは、足がないからではないか。そう思うと「うわぁ」と嫌悪交じりの声をあげたくなる。

「やめてよ義兄さん。今夜お風呂に入れないじゃない」
「お義母さんと入りな」
「やだぁ。キヤカさんにそんなみっともないお願いできない!」
 
 そう言いつつもその日からキヤカと一緒に入浴するようにしたし、寝室も一緒にした。風呂にまで変なものが入ってきたらたまらない。

 しかしナミは悪夢を見る事が依然として頻りであったし、キヤカまでもが少しずつ病み衰えてゆく。子を孕んだ姉にまで不幸がないかとナミは不安に思いながら、黒い柱を自宅の中に見つめ続ける日々を送った。


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 また夢を見る。
 浜辺の女は気品のある顔立ちをしているが、歯が黄色く、虫歯も大量にできている。それが酷く汚らしい印象をナミに与えた。

 そして女はナミに気がつく。

「しょうがないねー。ながれちゃったねー」

 ──なんのこと?

 恐慌状態に陥るナミを女は指差して笑う。女の片足の膝から先は欠け落ちている。

「こんどはあそこのおねえさんたちにはいろうねー」

 目が覚める。


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 そして柳生家は客人を招き入れ、束の間の楽しい日々ののちにヒムジ鎮祭の日を迎えた。

 祭りの夜に福木は死んだ。
 死因は心臓発作だった。

 不幸な偶然だとは思えない。福木の表情は恐怖に歪んでいたし、遺体の状況もおかしかった。福木の死後数時間で村の医者がやってきたのにもかかわらず、遺体の状態はどう見積もって死後3日以上のものだったという。

「この3日間、死体が歩いてたとでも言うのか?」
 ふざけるな、と怒鳴った雲夢(うんぼう)に、医者は答えた。
「……しかしそうとしか思えません。たった数時間でここまで腐敗が進行するのはありえない」

 雲夢(うんぼう)も福木も、役目でなくても歓待したいと思える好人物だった。優しい父や叔父がいたのなら、こんな気分がしたのだろうと思った。
 しかし、今にして思えばヒムジ当番の娘にメヒムジが憑依するのなら、外の男(オヒムジ)を歓待するためには、彼と一夜結ばれなくてはいけなかったのではないか。
 しかしそんな事にはナミは全く気づかず、──おそらくは気がついてもそこまではしなかっただろう。
 3日程度の滞在では必ず憑き殺されるとも限らないのに、淫奔な真似はできない。
 しかし結果として福木は死んでしまい、雲夢(うんぼう)は都会に帰った。
 ナミ達は善良な外の人間を巻き込んでしまったのかもしれない。

 そして、福木の死に衝撃を受けたキヤカは体調を崩し始めた。嘔吐する事が多く、食も細い。まるで去年のミミのようだ。ナミは幾度か黒い柱を家から追い出そうとしたが、もっと恐ろしい事が起きそうで諦めた。
 一体どうすればいいだろう。

 キヤカは藪医者を警戒して医者に診てもらおうとすらしない。卵を貰ってきてオムレツにしたら、やっと少し食べた。

 天井裏ががたがたと鳴った。ナミはそんな事にももう驚かない。慣れてしまい、鼠のせいだと思う事にする。
 限界だった。
 どうしてこんな事になったのだろう。


「ねえ。ナミ。私、そういえばずっと生理がきてない」
 キヤカはポツリと言う。
「……え?」
 ナミは首を傾げた。
 言っている意味がわからない。
 こんなストレスの溜まる環境ではそうなってもおかしくないと思った。
 キヤカの声が震え始める。
「でも心当たりがないのよ。私の中に絶対に何かいるのに。私、私……」

 急にどうしたのだろう。ナミもまるきり子供というのではないのだ。男と番わなければ赤ん坊が産まれないのは知っている。そして父が死んだのは何ヶ月も前だ。キヤカが孕むのは物理的に不可能だ。

「勘違いに違いないわ、キヤカさん。聖母マリヤじゃあるまいに」

 けれどナミの慰めは通じない。

「じゃあ何。私の中に何がいるのよ。これきっと(ばち)が当たっているんだわ。私、お友達のミナヱさんを見捨てたようなものだもの……。どうしましょう。どうしましょう」


 ──ジリリリリッ。

 けたたましい音が響いた。
 電話の音だと気がつくまでに少し時間が掛かった。この音は妙に耳に馴染まず何とも不吉な予感を喚起したのだ。
 電話に出て、義兄の声を聴いた。聴き慣れた声に安堵の息を漏らしたナミに、義兄はミミが流産したという報せを告げた。