鈴木舞香(すずきまいか)さん(仮名)は三八地方出身の女性で、バドミントンサークルで知り合いました。整った上品な顔立ちとは裏腹に明るく豪快な性格で、男女ともに人気がありました。

 知り合った最初のほうこそ話すだけで緊張していましたが、彼女の人柄のおかげで仲良くなることができました。この調査にも、快く協力してくれています。

 鈴木さんが話してくれた記憶は、幼稚園の頃の話か、小学校低学年のときの話か、本人の中でも曖昧だそうです。

 当時、鈴木さんの実家の近所によく現れる野良猫がいました。瞳が綺麗な青色で、灰色の毛並みが美しく、どこかの家から抜け出してきたかのような品のある野良猫でした。
 鈴木さんは心の中で猫を「マリン」と名づけて可愛がっていました。家族が動物嫌いなので飼うことは叶いませんでしたが、見かけると大事に愛でていました。

 あるとき、マリンが忽然と姿を消しました。鈴木さんは心配し、マリンの姿が見えなくなって数日たったとき、一人でマリンを探しに行きました。夕方遅くだったので、親に叱られることは覚悟の上だったそうです。

 鈴木さんの家の近所には大きな湖を含む公園があり、鈴木さんはふと、マリンが湖に落ちたのではないかと考えました。
 いてもたってもいられず、鈴木さんは公園の湖に向かいました。

 そして、不思議なものを見ました。

 鈴木さん以外誰もいない静かな夕方の公園に、黒い服(今思えば、喪服のような)を着た一人のおばあさんがいました。
 おばあさんは、白いおくるみに何かを包んで抱え、湖のそばにある小さなぴかぴかの家のようなものの前にしゃがんでいたそうです。
 鈴木さんは、なぜか引き寄せられるようにおばあさんのほうに近づきました。おくるみに灰色っぽい毛がついているのが見えると、鈴木さんは意を決して聞きました。

「目の青い猫、知りませんか」

 おばあさんは、しばしの沈黙の後、口角をあげてこう言ったそうです。

「思い出してあげてね」

 ほほ笑みながらも、おばあさんはどこか淡々とした調子で続けました。
 人間は忘れる生き物だけど、記憶を定着させる方法はある。

 それは、「思い出す」こと。

 忘れかけるたびに何度も思い出すことで、記憶はちゃんとあなたの中に居座るようになる。
 だから、大切なものを、何度も、何度も、何度も、何度も、思い出してあげてね。

 おばあさんの言葉を聞き、鈴木さんは自然と、マリンがもういないことを察しました。
 鈴木さんは急に悲しくなり、見ず知らずのおばあさんに泣きすがりたくなったそうです。
 でも、おばあさんの顔をよく見た鈴木さんの足はぴたりと止まりました。

 おばあさんのほほ笑む唇や歯は、赤い液体に染まっていました。
 たらっとしたたるそれは間違いなく血液で、よく見ると、こけた頬には米粒のようなものもついていました。

 その後、鈴木さんは自分がどう家に帰ったか、覚えていません。

 彼女はそれ以来あの公園でおばあさんを見ていません。そして、マリンのことも結局見つけることはできなかったそうです。
 写真が残っているので、マリンが実在していたことは確かです。でも、あのおばあさんに関しては、存在自体が疑われます。
 もちろん写真は残っていませんし、家族にも聞いてみましたが、そのような不気味な人は近所にいない、とのことでした。

 鈴木さんは、こう言いました。
 私は心のどこかで、マリンのことを諦めたかったのかもしれない。生きているかどうかもわからない猫を探すのは、むなしいし悲しいから。
 あのおばあさんは、マリンを探すのをやめたい自分の心が生み出した幻想だったのかもと、今は思う。
 
 鈴木さんは、あのおばあさんのことを「偽りの記憶」、もしくは夢の中の人と断定していました。
 それでも、鈴木さんが幼少期のことを思い出すとき、マリンの顔よりもおばあさんの言葉が先に浮かんでくるそうです。