テレビを見ながら爪を噛むところだけは、本当に嫌いだったな、と苦笑いしてしまう深夜一時にだけ存在する寂しさがある。

毛布にくるまってお笑い番組を見ていたら、お風呂からあがった恋人が部屋へ戻ってきた。片手にはドライヤーを持っている。

「あるちゃん」
「いま、だめ。南北ギンナンの漫才はじまる」
「あは、了解」

どうもどうも、とマイクの後ろに男二人が立つ。

南北ギンナンというお笑いコンビを絶賛していた。そういう小さな記憶は、大切にしていないのに覚えていてしまう。

ベッドに腰かけた恋人が、テレビにひたすら目を向ける私の髪を撫でた。

「さらさら」
「しずかにして」
「はいはい」

怒った私に恋人は夜の深度で笑う。私は南北ギンナンの漫才に笑う。違うことで笑っているのに、心臓の座標がほとんど同じ場所にある。

テレビ画面で二人の男が、もうええわ、ありがとうございましたー、と頭をさげたところで、ブオオオオン、と低い音でドライヤーが唸った。

チャンネルを切り替えて、たいして興味のないニュース番組に変えると、ちょうど、虐待の報道をしていた。

「虐待」
「うん?」

ドライヤーの音が、会話を邪魔している。首を傾げる仕草が、キリンが餌を食べるところとそっくりだよね、と昔に言った時、少し嫌な顔をした恋人は、今日も首をキリンのように傾げている。

「虐待だって」
「うん?」
「あはは、なんでもない」

首を横に振ったら、恋人は会話を諦めて髪を乾かすことに集中しはじめた。どこかで、人が人を傷つけて、人が死んで、人が生きて、そんなの知るかよと言わなくても思わなくても、そういう態度で私はドライヤーの音を聞いている。

ブオオオオオン、という音が止まって、恋人が私の毛布にもぐりこんできた。一枚の毛布に二人でくるまる。

「さっき、何言ってたの」
「虐待って言ってた」
「そっか」
「あと、今言うことじゃないけど、元カレのこと久しぶりに思い出した、桐がお風呂に入ってるとき」
「いやーな報告するじゃん、あるちゃん。ほんとそういうとこ」
「爪噛むとこ、嫌いだったなーって」
「うわ、嫉妬する」

そんなことを言って、恋人はいつも穏やかな顔をしている。私の好意が自分にだけ向いているということを、信じているからだ。

私の首の後ろに、腕を差し込んで、アレクサ、部屋の電気を消して、と、機械に対してもとても優しい声で命令するから笑ってしまった。

消灯。アレクサテーブルランプをつけて、私は命令の仕方を失敗したみたいで、違う場所の電気がついてしまって、恋人がもう一度言い直してくれた。

深夜一時に一度抱いた寂しさは、いつの間にか跡形もなく消えている。この部屋で、この毛布の中で、恋人の隣で。その狭い世界のことだけにひたすら関心を払うことだって私はきっとできる。

それを呑気に幸せと名付けることは、世界のあらゆる悲しみや憤りから、過去の私の確かな愛から、目を逸らしたいだけだろオマエ、と神様に詰られても、は? 知るかぼけ、と思おうと思えば思えてしまう。

「あるちゃん、」
「なに?」
「虐待、なんでなくならないんだろうね」
「寝る前にその話するの?」
「あるちゃんが、言い出したんじゃん。北極にいるとき砂漠なんて信じられないという感じで、俺、あるちゃんといる時、戦争も貧困も虐待も、なんか、大きなことから小さなことまで、不幸なんてこの世にあるかって気持ちになってしまうことがあるから」
「告白?」
「違う。こんな最低な愛の伝え方があるか」
「確かに。私も、知るかぼけ、となるの。なっちゃうんだ」
「俺たち最低だから、もう寝よう」

恋人の胸に頭を寄せる。

心臓の音に耳を澄ませると、この心臓のように、たくさんの心臓が地球には存在していて、もちろん、その中には爪を噛むところが嫌だった私の元カレのものもあって、たった今誕生したものもあって、虐待した人、虐待された人、のものもあって、みんなのものがあるのに、それは分かっているのに、それでも、私が今聞いている音はたったひとつ、恋人のものだけだということが、恐ろしく、運命的で、それだけがたったひとつの奇跡のような感じがしてきてしまう。

あまりにもスケールを広げすぎたことに、恥ずかしくなる。もう少し言葉を交わしたくなって顔をあげたら、すでに恋人は目を閉じていて、淡いテーブルランプで睫毛が光っていた。

「桐」

瞼が震える。名前を呼ぶと、もぞ、と首を動かして恋人は再び目を開く。

「桐は元カノのこと思い出す時ある?」
「ないよ」
「嘘つくんだ」
「あるちゃんに嫉妬してほしくないから」
「うわ、傷ついた」
「なんでだよ、雑に嘘つくなよ。……でも、まあ、そりゃね、時々あるかな。たとえば、さっき思い出してた」
「さっき?」
「虐待」
「虐待?」
「ニュースで報道されると、すごく痛ましい顔をしてたなって。ひどい世界だって、でも、その五分後とかに平気ですやすや眠ることができる子だったから」
「知るかぼけ、とどっちがまし?」
「比べようがないな」

恋人が眠たそうに、喉の奥で笑った。

アレクサ、明日の天気は何?、少しだけ嫉妬して、ごまかすように明日の天気を聞く。曇りのち雨だと教えてくれる。ぱっとしない。

そういう人生のただなかにいて、元カレと虐待と恋人の元カノと虐待を同じ脳みそで全部処理してしまう。そういえば私の元カレは、虐待なんて自分の辞書にはない、といった能天気な人間でもあった。

思い出しても、恋人が隣にいる今この時はもう寂しさも抱けない。

そろそろ寝ようよ、と恋人が言った。頭の後ろを、大きな手のひらで撫でられる。どういう意味が込められているのか分からない、意味なんてない行為の数々がここにだけある愛の骨格を作っている。愛おしむとは、そういうことなのだと、誰も証明しないから信じていられる。

「桐が、首傾げるとキリンみたいになるとこ」
「うん?」
「思い出にしたくないな」
「あは、うん」
「南北ギンナン」
「うん」
「元カレより、今は私のほうが好きな自信ある」
「俺も、元カレよりあるちゃんのこと好きな自信ある」
「うわ、甘」
「眠いから、甘いこと言って会話終わらせるかーみたいな」
「うわ、最低だっただけじゃん。まあ寝るか、本当に」

おやすみ、と言っている間に、どこかで知らない子どもが傷ついていたらいやだな、傷ついているんだよな、本当にいやだな、傷つける以外できないほどにしんどい大人がいるのもいやだな、いやなんだよ、全部いやだよ、と思いながら恋人の腕の中で瞼を閉じる。

知るか、ぼけ。

正直になれ、ずっと他人の安否を気にしていられない。毛布に守られている。恋人の心臓音を独占して、安らかな場所で今、生きていられているくせに。

知るかぼけ、爪を噛むところも、世界の災いを一つも気にしようとしないところも、好きじゃなかったけどそれ以外はとても好きだったな、元カレは元気にしてるのかな、ひとりで辛い目にあってないかな、虐待は本当にいやだな、誰かひとりでもどうか救われてほしい、どうかどうかどうかどうか、そんな思考は、睡魔にころされ、ただ、恋人の体温に塗り替えられていく。

そこに存在する安らぎに、恋人の寝息が加わって、アレクサ、世界平和、ついでに元カレの安否確認、そんなことを呟く間もなく、今日という日のエンドロールが静かに流れていく。

知るかぼけ。本当はでも、自分事のように、全部知りたい。本当のことを全部知りたい。自分事として感じたい。全部感じたい。でも、知るか、ぼけ。それも本当で、どちらも決して嘘ではなく、真摯に痛むことができないことの浅はかな幸せを噛み締めて、噛み締めた分だけ無理に痛んでみせながら、アレクサおやすみ、世界おやすみ、恋人の隣で、眠りに。

知るか、ぼけ。知るか、ぼけ。

子守唄のように自分に言い聞かせながら、恋人の隣で、私は眠りに。落ちる。