翌日は、大聖堂への礼拝があるので、早起きをして外へと出た。
 支配人に見送られて馬車に乗ってすぐに、マリアローズはチラリとハロルド陛下を見た。非常に眠そうな顔をしている。まるで徹夜で書類を片付けた翌日のような顔だ。

「眠れなかったのですか?」
「お前こそよく眠れたな。その図太さに、俺は感服している」
「きちんと寝ないとお肌に悪いですもの。皇太后たるもの常に美には気を遣わなければなりませんので」

 そうは言いつつ、マリアローズも熟睡出来た自分を褒め称えていた。眠れたおかげで、気まずい夜は回避できた。

 こうして向かった聖ヴェリタ大聖堂では、聖職者のヨシュア師が出迎えてくれた。老齢の男性で、白髪を後ろになでつけている。目元に優しい皺のあるヨシュア師は、穏やかな笑みを湛えて、二人を出迎えてくれた。

 紺色の絨毯が、祭壇まで届くように敷かれていて、左右に木の椅子の列がある。
 祭壇の脇には台があり、銀色の燭台がそれぞれに載っていて、火が灯っていた。
 壁には左右にステンドグラスがあり、その正面には、聖ヴェリタの像と、五代前の国王陛下の像が置いてある。非常に広く、祭壇の前に歩いていくだけでも、宿の入り口から昨夜の部屋に行くよりも遠い。後ろから寄付する品を持った侍従達がついてくるのを首だけで振り返って確認しつつ、マリアローズは、ハロルド陛下の隣を進んだ。

 前を歩くヨシュア師が祭壇の前で立ち止まり、一礼してから、奥にまわって、祭壇を挟んで向かい合う位置に立った。立ち止まった二人は、一段高い位置にいるヨシュア師を見る。聖職者に位はないので、王族よりも高い位置に立つことも許可されているので、教会や聖堂は皆、こういった造りだ。

「それでは、祝詞を」

 ヨシュア師はそう言うと、厳かな声で祝詞を唱えはじめた。
 二人は耳を傾ける。
 八百万の神について説く聖典を、静かにヨシュア師が読み上げた。

「――ある時、悪の神が囁きました。その木の実を食べよと。疑うことを知らない無垢な神は赤い唇を開け、木の実を食べました。その木の実に宿る神が、苦い神だとは知らずに」

 マリアローズは、家庭教師から聞いた聖典の解釈を想起する。
 その木の実というのは、林檎の事らしい。そして苦いというのは、毒をさすのだったか。そう考えているとヨシュア師が続けた。

「目を伏せ、意識を闇に飲まれた無垢な神は、悪夢の神に苛まれる。だが無垢な神を慈しんできた光の神が口づけをすると、無垢な神の悪夢は終焉を迎え、二人は結ばれた。ただし、真実の愛がなければ、いくら口づけをしようとも、目覚めはしない。相思相愛の場合のみ、効力を発揮する――聖ヴェリタの福音書、第二章第三節」

 祝詞を唱え終わると、ヨシュア師が微笑した。

「この祝詞は、前皇太后陛下がとても気に入ってくださった一節です」

 それを聞き、マリアローズとハロルド陛下は顔を見合わせた。

「母上が?」
「ええ。年に一度は、この聖ヴェリタ大聖堂にお越し下さって、施しをなさって下さいました。お若くして亡くなられたのが、残念でなりません。今もこの大聖堂には、前皇太后陛下より賜ったこの銀の二つの燭台があるのです。一度も火を消すことは致しません。前皇太后陛下が安らかにお眠りになることを祈って」

 それを耳にすると、マリアローズの胸が締め付けられた。親代わりのようだった己の前の正妃様――前皇太后陛下の事を思い出すと、いつだって心が苦しくなる。

「では今後は、私が参ります。私もまた、前皇太后陛下が安らかであるように祈り、前皇太后陛下のお心を継いで、出来るかぎりの施しをすると約束致しますわ」
「俺もまた、それに伴いましょう。母上のために……感謝致します」

 偶発的に前皇太后陛下の軌跡に触れた二人は、その後は大聖堂の中を一時間ほど案内されてから、部屋を借りて、マリアローズ達は着替えた。そしてヨシュア師に見送られて外へと出た。寄付した品は、大層喜ばれた。





 その後は街の視察をすると決まっていた。ただし、都市を治める伯爵の手を煩わせることがないように、また鉱山に行く際も騒ぎにならないよう、お忍びで行動すると決まっていた。マリアローズにとっては、初めての『お忍び』だ。大聖堂で平民風の服装に着替えてきた。ハロルド陛下は騎士の服を身に纏っていて、腰には剣がある。

「ねぇ? ハロルド陛下」
「呼び名で露見する。ハロルドで構わない」
「……ハロルド?」

 そう呼ぶのは、随分と久しい気がした。なんだか擽ったい気持ちになりつつ、マリアローズは気を取り直して尋ねる。

「お忍びとは、どうすればいいのかしら?」
「街をブラブラ散策するだけだ」
「まぁ……私、王都以外の街は見たことがないのです。王都ですら、ほとんど見たことがないわ。前国王陛下は、私が幼かったから、公務に伴わなかったので」

 なんだか楽しみだと考え、わくわくしながらマリアローズは周囲を見渡し、それから石畳の歩道の正面をしっかりと見て歩きはじめる。まるでいつか仔猫を見つけた時のような気分だった。あの時も確か、ハロルド陛下が一緒だったなと思い出す。

「あ」

 少し歩くと、宝飾店があった。硝子の向こうに、いくつもの首飾りや指輪が飾られている。その中に、最近王宮の女性の間で流行している首飾りを見つけた。

「綺麗……」
「――王宮で、この五倍はする高級品をマリアローズは購入しているだろう」
「それは、そうだけれど……このように、お花のような首飾りはないわ」
「欲しいのか?」
「……いいえ。お金を持っていないもの」

 マリアローズは俯いた。後宮では、全て周囲が手配してくれるため、金銭は持たない。仕事として維持費やドレス代の管理をする事はあっても、それは書類上のものだ。生まれてこの方、マリアローズはお金を持ったことがない。そもそも買い物をしたことも、後宮にくる商人が差し出す品から選ぶ以外ではしたことがない。支払いは侍女達がしてくれる。だがただ知識として、お金が必要だというのは分かっていた。この国の通貨であるガルド紙幣が必要である。

「入るぞ」
「え?」
「俺は当然持っている。財布の用意もなく外に出ることなどしない」

 呆れたように言うと、ハロルド陛下が先に店内に入ってしまった。
 慌ててマリアローズは追いかける。

「ハロルドも、実は首飾りが気になっていたの?」
「まぁな」

 そう言うとハロルド陛下は、先程外から見えた硝子のところに立った。そこに飾られているのは、細い鎖の先に、ごく小さい秋桜のような花弁がついていて、中央に魔石が嵌まっている品だった。

「これか?」
「え、ええ……」

 ハロルド陛下が指さした先を見て、小さくマリアローズは頷く。

「これに嵌まっている魔石の意味を、知っているか?」
「え? いいえ。どういう意味なの?」
「知らないならば、それでいい」

 ハロルド陛下は振り返ると店主を呼んで、その首飾りを購入した。

「さっさと身につけたらどうだ?」
「え、あっ……宜しいの?」
「俺には不用な品だ。ありがたく思え」

 いつもならばハロルド陛下の言葉は不遜に感じるのだが、今は心から嬉しくて笑顔でマリアローズは頷いた。すると焦ったような顔をしてから、ハロルド陛下が視線を揺らし、そのまま顔を背けた。

 マリアローズが喜びながら花がモティーフの首飾りの鎖を首の後ろで留めた時、ハロルド陛下が言った。

「そろそろ行くぞ」
「ええ」

 こうして二人は外へと戻った。
 そして他の店の商品にあれやこれやと言い合ったり、道行く親子連れを眺めたりしながら、角を曲がって近くの森の方を見た。

「魔狼だー!」

 すると叫び声が聞こえ、一人の青年が走って逃げてくるのが見えた。
 瞬時にハロルド陛下の表情が真剣なものへと変わる。追いかけてくる魔狼は巨大で、マリアローズは凍り付いた。

「ここにいろ。絶対に動くな」

 ハロルド陛下は正面を睨み付けたままそう言うと、腰の剣を引き抜きかけだした。唖然としてマリアローズが凝視する前で地を蹴り跳んだハロルド陛下は、迷いなく魔狼の首を剣で落とした。すると魔力の塊であるから、魔狼の頭部だったものも、胴体だったものも、黒い靄になって、空気に溶けて消えた。着地し、剣を一振りしたハロルド陛下は、今度はゆっくりと歩いて戻ってくる。

 その姿に、マリアローズは肩から力が抜けた。怖かった。魔狼も怖かったが、ハロルド陛下にもしものことがあったらと、そちらの方が怖かった。だが悠然と歩いてきて己の前に立ったハロルド陛下に怯えは見えない。

 ――震えていない。
 過去の記憶が甦り、マリアローズはぽつりと呟く。

「もう、震えないのね」

 すると虚を突かれた顔をしてから、不意にハロルド陛下が柔らかな微笑を向けた。

「覚えていたのか」
「ええ」
「そうだな。もう俺は、震えることはない。強くなる努力をした」

 ハロルド陛下に笑顔を向けられた瞬間、マリアローズの胸がドクンとした。
 惹き付けられて、ハロルド陛下から目が離せなくなる。

「さて、そろそろ戻ろう。近衛達も心配していることだろうしな」





 大切に、首飾りを握ったマリアローズは、購入した翌日――即ち本日、魔石の産出量が激減しているノック鉱山がある熱石都市アロンソに、ハロルド陛下と共に馬車で入った。

 王国の西にあるこの都市は、魔石の産地として有名で、国内の魔石の八割が採掘されている。鉱山があるのは小高い山の上のため、二人とも身軽な格好だ。マリアローズは、スカート以外を穿くのが久しぶりだった。小さい頃に、一応乗馬の体験をした、その時以来の服装だ。ハロルド陛下と共に坂道を登っていくと、次第に息切れがし、汗で綺麗な髪が張り付きはじめた。それをハロルド陛下が一瞥する。

「少し休むぞ」
「え? え……ええ」

 ありがたい申し出に、安堵の息を吐いてマリアローズは立ち止まる。
 するとハロルド陛下が、ポケットから小瓶を取り出した。

「それは?」
「ラムネだ」
「ラムネ? 休憩のお菓子かしら?」
「違う。疲労を回復する効果がある。水を飲む前に食べておけ」
「わ、分かったわ」

 受け取りマリアローズは素直に口に含む。すると塩味が少しと甘さがあって、奇妙なほど美味に感じた。それから渡された水で喉を癒やす。十分ほどそうして休んでから、二人は再び歩きはじめた。そして三十分ほどして、目的の鉱山の入り口へと到着した。

 視察の件は事前に伝えてあったので、二人が出入り口の洞窟の前に立つと、一人の小さな老人が出てきた。ドワーフとは、人間よりも小型の種族だ。主に炭鉱や洞窟で魔石の採掘をして生計を立てている。この国は徒弟制度なので、ドワーフは全員が採掘に従事している。

「ようこそお越し下さいました」

 額の汗を布で拭きながら、ドワーフの老人が言った。

「急な訪問にもかかわらず、受け入れて下さりありがとうございます」

 にこやかな上辺の笑みは健在で、ハロルド陛下は余裕ある表情を浮かべている。
 一方のマリアローズは疲れきっていたが、必死に姿勢を正して挨拶をした。

「では、中へご案内致します」

 こうして連れられて進むと、採掘の現場にたどり着いた。洞窟の岩肌の至るところに、色とりどりの魔石が見え、暗がりの洞窟の中なのに光り輝いて見える。そのせいで、照明は不要な様子だ。その魔石を、鉱物ハンマーで叩いているドワーフが二人いた。どちらも目が死んでいるように思える。マリアローズはその虚ろな眼差しに覚えがあった。自分達が書類を倒す時にそっくりだ。

「計画書によると、従事者は七名のはずですが」

 不思議そうにハロルド陛下が問いかけると、再び額の汗を拭き、ドワーフの老人が困った顔をした。丸い鼻の穴がピクピクと動いている。

「それが、その……」
「全員に話を伺いたいとお伝えしたはずですが」

 ハロルド陛下の目が鋭くなった。口元だけに弧を貼り付けている。

「いやはや……ええと、ですな……」

 しどろもどろになってしまったドワーフの老人に対し、マリアローズはハロルド陛下を一瞥してから問いかけることに決める。ハロルド陛下の言い方だと、責めているように聞こえたので、フォローするつもりだった。

「あの、何故この鉱山の魔石の産出量は減少したのでしょうか?」

 マリアローズが努めて穏やかな声で尋ねると、僅かにホッとした顔をしてから、また鼻の穴をピクピクと動かしてから、ドワーフの老人が口を開いた。

「元々は、ええ、七人だったのですよ。だけどですな、そのですな……四人が辞めてしまったのです。ええ、はい」

 それを聞いて、マリアローズとハロルド陛下は顔を見合わせた。

「どうして辞めたんだ? 一気に四人も辞めるなんて、異常では?」

 ハロルド陛下の声に、困ったようにドワーフの老人がため息を零した。

「この鉱山の仕事が、激務だからでございます」

 マリアローズは息を呑んだ。激務の辛さときつさは誰よりも知っているつもりだ。肉体労働は経験が無いが、仕事にはいつも苦労している。

「それだけではございません。また、ドワーフに産まれなかったら、他の仕事をしたかったそうで……」

 切実さが滲む声音に、マリアローズとハロルド陛下は再び顔を見合わせる。

「今、ドワーフはこの件で真っ二つに割れております。ドワーフだからといって、厳しい採掘をしなければならないのはおかしいと述べ、この国を出奔すべきだと唱える者達と、ドワーフの人生をかけた生業は採掘だと主張する者達で……このようなことは前代未聞です。ドワーフは仲間との絆を大切にするというのに……いやはや、困りました」

 ハロルド陛下は難しい顔で、顎に手を添えそれを聞いていた。マリアローズは、彼の逆の腕に触れる。するとハロルド陛下がマリアローズを横から見おろす。

「改善しましょう!」
「簡単に言うが、どうやって? 俺も今、宰相閣下が現在調査中の、嘆願書の理由も分かったことだから、解決できるならばしたい」
「それはこれから一緒に考えましょう、ハロルド陛下」
「――そうだな、持ち帰るか」

 ハロルド陛下は頷いてから、じっとドワーフの老人を見据えた。

「国王として、必ず労働環境を改善する事を約束する。その方策が決定したら、連絡する」
「ありがたや、ありがたや……お願い致しますぞ」

 するとドワーフの老人が深々と頭を下げた。
 こうして視察は終了したのである。




「なるほど」

 話を聞いたシュテルネン宰相が頷いたのを見て、ハロルドは対面する椅子の上で、長い脚を組んだ。気心が知れた相手であるから、姿勢を崩すことが多い。無表情のハロルドは、左手で右腕の肘を持ち、右手で頬杖をついている。

「国外にドワーフの半数が逸出する事は避けなければならんな。採掘をする者が減るからだけではない。国の有事だと余計な勘ぐりを生みかねない」

 宰相の声に、顎を縦に動かしてから、思案するようにハロルドは天井を見上げる。
 二人が話しているのは、宰相府にある宰相執務室の隣の簡単な応接間だ。壁には美しいフレスコ画が描かれている。満天の星空の下に立つ、聖ヴェリタとその妻の絵だ。

「宰相閣下。持ち帰りはしたが、どう思う?」
「マリアローズ様と共に考えるのだろう? それは陛下の仕事だと認識しているが? 我輩の仕事は、その決定を元に、物事を整えることだ。他には、抜け出す者がいないよう、国境沿いに監視網を引くという重要な仕事が増えたところだ」

 冷淡な宰相閣下の声に、ハロルドは頷く。それからマリアローズの事を思い浮かべた。いつも奇抜な発想をする彼女ならば、なにか打開策をひらめき提案してくれる可能性は確かにある。だが――。

「あまり彼女を政務に関わらせたくないというのが本音だ」
「何故だ? ハロルド陛下は、望んで手伝わせているのだとばかり思っていたが」
「国の中核にいる要人になればなるほど、危険が伴う」
「それはそうだな。我輩も陛下も、常に暗殺の危機に晒されているのが実情だ」

 宰相が右手の五本の指で口元から鼻にかけてを覆う。

「ああ。同感だ。そのような危機にマリアローズを巻き込みたくない」
「分からなくはない。彼女はか弱い麗人だ。あれでは手折るのは易いだろう。我々のようにありとあらゆる対策を講じているわけでもないのだから。そういえば昨日暗部から新しい防毒マスクを受け取ったが、陛下も受け取ったか?」
「ああ。魔法がかかった剣帯のポケットに収納している」

 ハロルドはそう言うと腰元に視線を落とす。それを見て、宰相閣下は頷いた。

「だが、マリアローズ様の暗殺か。それに関しては、我輩に、一つ解決策があるが」
「なんだと? それはなんだ?」
「陛下が早くご成婚なされば解決だ。マリアローズ様は降嫁するにしろ、皇太后として残るにしろ、陛下と結婚しないかぎりは安全に過ごす事ができるだろう。正妃様がいるとなれば、マリアローズ様を害するメリットは激減するからな」

 つらつらと当然のことのように宰相が語る。その言葉が事実だと、ハロルドは理解していた。だから耳が痛い。

「――俺と結婚するとしたならば?」
「ああ、その場合は、正妃として、今後はより深くまで関わって頂けるだろう。幼いお飾りの正妃としてではなく、今度は本物の、国王の隣に並び立つ正妃として、な。当然、危険に身を晒して頂くことにはなるが」
「それはありえない。俺は自分の妃は守り抜く。俺は自分の愛する者を、危機に晒す事は絶対にしない」
「心強い言葉だな。ならば早いご成婚を期待する。その相手が誰であっても、準備をするのは宰相府、即ち我輩だ」

 そう答えた宰相は、ふと何かを思いついたように、斜め下を見た。
 それからすぐに顔を上げる。

「話を戻すが、徒弟制度の廃止自体は、我輩はそう難しい事ではないと考えている」
「理由は?」
「学習は、師による必要が無いという前例がある。文字だ。この国の識字率は、大陸一だ。理由は聖ヴェリタ教の教会の存在だ。あれは、ひとところに平民の子を集め、一斉に学習させている。同様の事を、職業訓練でも可能なのではないか?」
「名案だな。マリアローズに提案しておく」

 そう述べると、ハロルドは正面にあるカップを見た。とうに浸る紅茶は冷めている。話に夢中で、飲むのを忘れていた。だがそれをそのままに、ハロルドは立ち上がる。

「有益な時間だった。感謝するぞ、宰相閣下」

 そうしてハロルドが出て行く背中を、宰相は一瞥する。

「前例は無いが、いつでも可能なように整備だけはしておくか」

 その呟きを聞く者は誰もおらず、宙へと溶けて消えた。





「鏡よ、鏡。この国で一番美しいのは誰?」
『それは、ハロルド陛下でございます』
「そうよね? うん。なのにどうして彼は結婚できないのかしら? モテてはいるのよね? 何故?」

 今日も今日とて虚ろな眼差しを鏡に向けながら、マリアローズは呟いた。
 鉱山から帰って一週間。
 毎日、仕事環境の改善などについて話し合いを重ねつつ――日々の仕事も戻ってきた。本日は皇太后として、後宮の仕事をする予定だ。王宮の仕事を手伝っているからといって、後宮の仕事を蔑ろにするわけにはいかない。

『ハロルド陛下が美しいことには、理由があるからね』
「え? 顔でしょ?」
『僕は顔の美醜で美しさを判断したりしないけれど?』
「じゃあハロルド陛下の一体何が美しいって言うのかしら? 顔以外……服?」
『マリアローズは本当に残念だね』
「なによ、それ……私のなにが残念だというの?」

 不服そうに唇を尖らせてから、はぁと息を吐いて、マリアローズは改めて《魔法の鏡》を見た。そろそろ本格的に、この《魔法の鏡》を継承してくれるハロルド陛下の正妃を選定しなければならない。《魔法の鏡》は前皇太后陛下から受け継いだ大切なものだ。だからこそ、引き継ぐ次の正妃は、きちんとした女性がいいとマリアローズは考えている。

 王族の政略結婚は珍しくない。
 マリアローズ自身がそうだった。
 そうであるから、その相手の候補を、貴族女性に詳しい己が提案するのは責務だとマリアローズは考えている。

『僕はね、恋をしている人や、恋人同士が最も秀麗だと思うけれどね』
「これだけ似姿書があれば、きっと一人くらいは気に入るでしょう」
『マリアローズ? 聞いてた? 僕は今、とても大切なことを伝えたんだけど』
「え? なに? 私今忙しいの。後にして頂ける?」
『あ、はい』

 そのまま《魔法の鏡》は沈黙した。マリアローズが必死に似姿書の山を抱えて歩きはじめたからだ。

 こうしてマリアローズが向かった先は、勿論王宮のハロルド陛下の執務室である。本人に選んでもらう必要があるからだ。この日は特に早起きをして、マリアローズは貰っている合鍵で中へと入り、テーブルの上に似姿書の山を置いた。そしてその横のポットから紅茶を注ぐ。魔石で温度管理がなされているため適温だ。

 カップを傾け、琥珀色の紅茶を口に含みながら、一番上の似姿書を手に取る。
 それは帝国の姫君の似姿書だった。即ちクラウドの妹だ。
 二番目は国内の有力貴族であり、宰相閣下の娘。安心できる信頼していい相手だ。
 この二人が最大の候補である。腕を組み、マリアローズが唸った時、ドアが開いた。

「どうしたんだ? 今日は早いんだな」
「貴方を待っていたのよ」
「俺を?」

 首を傾げたハロルドには視線を向けず、マリアローズは三番目の似姿書を開いていた。これはエルバ王国の、マリアローズ自身の姪にあたる姫君だ。

「何を見ているんだ? 随分と熱心だな」

 つかつかと歩みよってきたハロルド陛下は、山の上の一冊を手に取り表紙を開いた。その瞬間に眉をつり上げて、表情を強ばらせた。それからマリアローズを睨めつけた。

「おい、なんだこれは!?」
「貴方のお見合い写真を選んでいるのだけれど」

 似姿書を真剣に見ているマリアローズは、睨まれている事に気づいていない。
 だから素直にそう告げた。

「ねぇ? 誰が良――……」

 そして漸く顔を上げた時、そこに非常に不機嫌そうな顔があることに気がついた。それもいつもとは異なり、本気の怒気が宿る瞳をしている。憤怒が全身から溢れ出しているような気迫で、サファイアのような瞳に怒りの焔を揺らめかせ、じっとマリアローズを見据えている。あまりにもの気迫に、マリアローズは仰け反った。本能的な行動だった。

「そんなものは不要だ」
「……」
「俺には、既に好きな相手がいる」

 強い語調でそう言われた時、マリアローズはズキリと胸が痛んだ。それは恐怖からではない。なんとなく、ずっと一緒にいたハロルド陛下が、自分の与り知らぬところで恋をしていたと聞いたら、寂しさに似た不思議な感情がこみ上げてきたのだ。そうか、他の人のものになってしまうのかと、漠然と考える。

 しかしそれは当然のことだ。
 いい事ではないか。
 すぐマリアローズは、そう考え直した。ならば、似姿書の山は確かに不要だと考えて、マリアローズもまた真剣な眼差しを返して、大きく頷いた。

「ならば、すぐにその方とご成婚なさって下さい!」
「……」

 力強くマリアローズが述べて拳を握る。
 まだ険しい顔のままのハロルド陛下は口を閉じている。形の良い唇が、怒りで震えているのが分かる。

 ――もしかして、結婚するのが困難な相手なのだろうか?

 必死にマリアローズは考える。お茶会の情報網や、数少ない外交に伴った時のこと、似姿書でしか見たことのない相手の中から、婚姻が困難な相手を探そうと試みる。非常に高貴な人物か、逆にとても身分が低い相手か……そのどちらかしか考えられない。

 だが誰であっても、ハロルド陛下の気持ちは優先するべきだ。するとまた胸がズキンと痛んだ。その理由が分からなくて、胸を押さえながらマリアローズは、笑顔を取り繕って続ける。

「私、皇太后として、全力で応援致します。すぐに後宮に迎え入れる用意をしなければ。それに伴い、側妃も各国から――」

 既に人質制度は形骸化しているが、しきたりはしきたりだ。
 すると、今度は何故なのか、ハロルド陛下が遠い目をした。完全に残念そうな瞳に変わった。悲しげでもあるし、呆れているようでもある。《魔法の鏡》にも残念だと言われた朝の記憶を思い出す。

「マリアローズ様。俺はその相手を愛している。だから好きな相手以外はいらない。よって後宮は持たない。不要だ」
「えっ」

 その言葉にマリアローズは驚愕して目を見開き、息を呑んだ。二つ、想定外な事が襲いかかってきたからだ。まずは後宮を持たない……ありえない事だとマリアローズの顔が引きつる。次に……この冷徹で嫌味まみれのハロルド陛下の口から、『愛』なんて言葉が出てきたことに驚かずにはいられなかった。耳を疑い、マリアローズはぽかんとした。

「そ、そこまで……?」
「ああ、そうだ」
「本気なのですね?」
「勿論だ」

 こくこくとマリアローズは頷き、真剣な表情に変わったハロルド陛下を見据える。

「それで? お相手は誰なのですか?」
「マリアローズ皇太后陛下」
「はい」
「だから、マリアローズ皇太后陛下だ」
「はい?」
「――お前を好きだと言っているんだ、マリアローズ」

 マリアローズはその言葉を脳裏で三十回くらい反芻した。好き、とは。好きが頭の中で廻りすぎて、意味が分からなくなった。好きとは一体なんだったか。ぐるぐるとマリアローズは考えて、そして言葉の意味に気づいて息を呑んだ。

「えっ!?」

 驚いて口を半開きにしてしまう。淑女としてはあり得ない表情だ。
 マリアローズはそのままの顔で、立っているハロルド陛下を見上げ、何度か瞬きをした。そこにはいつもと変わらない麗しい顔がある。マリアローズには、今自分達の間に横たわっている沈黙が異常に長く感じられた。だが実際には、続いてハロルド陛下が口を開いたのはすぐ後、一瞬先のことである。

「俺は、叡神都市フロノスの街中でその首飾りを買った際、それについている魔石の意味を知っているかと聞いたな?」
「え、ええ……」
「それは『永遠に愛する』という意味を持つ魔石だ」
「へ……?」
「本来は恋人の女性や妻に贈る品だ」
「え!?」

 全く知らなかったマリアローズは、王宮の人々には恋人がいるのかと考えて、現実逃避をした。可愛いから身につけているのではなかったのだと発見した。流行ではなかったらしい。

「そもそも、だ」
「な、なにかしら……?」
「俺は、エグネス侯爵家におけるクラウド殿下を歓迎するための夜会において、マリアローズ――お前にドレスを贈っただろう?」
「ええ。とても上質で綺麗な青いドレスをいただきましたわ。そ、それがなにか?」

 おろおろしながらマリアローズが先を促すと、左目だけを窄めて、ハロルド陛下が腕を組み、顎を持ち上げた。眼光が鋭く、マリアローズは射貫かれているような心地を味わった。

「幼くして後宮に入られて、ご存じないようだがな、マリアローズ皇太后陛下は」
「な、なにをかしら?」
「このアストラ大陸全土において、己の目の色のドレスを贈るというのは、相手を独占したい時の証、その場合に贈ると決まっている。だからクラウドも大胆だと言ったんだ。俺もまた、マリアローズの瞳の色、緑の装いをしていただろう。あの時点で、気づくと俺は思っていた。愚かだったな。まさかマリアローズ、お前がドレスの色の意味を知らないとはな。予想外すぎたぞ」

 早口で語られたその言葉を、マリアローズは理解するために、再び脳裏で何度も反芻した。そして意味に気づいた時――一瞬で赤面した。どんどん頬が熱くなっていく。自分が真っ赤になっていると確信し、思わず右手で唇を覆った。目をまん丸に見開いて、長い睫毛を動かし、現実なのかと考えながら、ハロルド陛下をまじまじと見てはぱちぱちと瞬きをし、またまじまじと見るという仕草を繰り返す。

「――そこまで朱くなられると、脈があると勘違いしそうになるぞ」
「……」
「いいや、あると思う事にする。悪いが、俺は諦めるつもりは無いからな。覚悟しておけ」

 きっぱりとそう断言すると、ハロルド陛下は自分の執務机に向かって歩いていった。
 そして椅子に座ると、なんでもないように、本日の書類仕事を始めたのだった。




 ――それが、契機だった。

 以降、マリアローズは、ハロルド陛下を意識するようになってしまった。視界に入るだけで挙動不審になり、気づくとおろおろと瞳を揺らし、目が合おうものなら赤面してしまう。なにせ、人生で初めて告白されたのだ。

「鏡よ、鏡。この国で一番美しいのは誰?」
『それは、ハロルド陛下でございます』
「まぁ、そ、そうよね。分かるわ」

 コクコクと頷いたマリアローズは、そんな己に動揺し、思わず両腕で体を抱いた。
 この日は、青色のマーメイドドレスを着ようと考えて、ハッと瞳の色の意味を思い出し、気づくと頬が熱くなっていたので、慌てて別の色のドレスにした。首からは相変わらず秋桜のような飾りのついた首飾りを提げているが、これには意味が無いと自分に言い聞かせる毎日だ。

 それから後宮を出て、回廊を進む。すっかり季節は冬にさしかかっていて、時折霜が降りるようになった。このパラセレネ王国は、アストラ大陸の北に位置しており、冬には多くの雪が降る。騎士団が総出で、毎年雪かきをする。

 今年はどの程度の降雪があるのだろうかと考えながら歩いていると、気づけばハロルド陛下の執務室の前に立っていた。マリアローズは大きく深呼吸をして、煩い動悸を鎮めようとしたが無理だった。諦めて、表情だけ平静を装い入室する。

「遅かったな。後宮の食事は随分と悠長らしい」

 ……しかしながら、あの告白が嘘だったのではないかと思うほどに、ハロルド陛下の態度は今まで通りだった。嫌味つらみの繰り返しだ。はっきり言って、マリアローズから見ると、意地悪だ。

「王宮のように下品な早食いではないの」

 唇を尖らせてからそう返し、マリアローズは己の席につく。
 本日の書類は、仕事環境の改善を約束したドワーフへの対応状況の確認だ。
 王宮へと戻ってから、マリアローズはハロルド陛下とあれやこれやと話し合った。

 そしてまず、『定時を設ける』という事や、『休憩を入れる』という点を、王国法で義務づける事に決めた。これは、ドワーフだけの決まりではない。国中にお触れを出したのである。宰相府も例外ではなく、仕事中毒の宰相閣下はすごく嫌そうな顔をしていたものである。本当に休憩を取っているかは、専門の魔法をこめた魔力球で管理しているので王宮に伝わる。守らないと警告音が鳴り、騎士が派遣される。

 本日は、その警告音が鳴り響いた回数を、マリアローズは確認していた。
 ハロルド陛下に教わった棒グラフで、毎日の数を記していくと、日に日に警告音が少なくなっているのが分かった。

「いい感じね。見て、ハロルド陛下」
「そろそろハロルドと呼んでくれ、マリアローズ」
「!」

 不意打ちでそのようなことを言われ、焦ってマリアローズはハロルド陛下を見た。すると珍しく柔和な笑みがそこにはあった。ドキリとした。唐突に微笑まれたものだから、胸がギュッと掴まれたようになる。唇を震わせながら、マリアローズは必死に笑顔を返したが、上手く笑えていなかった。

「宰相閣下の立案した教育制度だが、設立予定の専門の教育機関は、しばらくは王宮が直接管理することを考えている」

 そのままハロルド陛下は仕事の話をし始めた。その表情には、もう既に笑みは無い。だがマリアローズの心臓はドクンドクンと煩いままだ。

「徒弟制度の廃止は、段階的に行うべきだと考えている」
「そ、そうね。師匠に学びたい者もいるでしょうし」
「ああ」
「教育機関は、貴族も通うのかしら?」
「希望者は受け入れようと考えている。平民も同様に。教育を受ける際は、身分を気にしないという規則を設けることを考えている」

 理知的な声で語るハロルド陛下の表情が、以前はただ冷徹なだけだと感じていたのだが、今のマリアローズには怜悧に思える。

「いいと思うわ。名前はなんとするの?」
「……それが思いつかないんだ。なにかないか?」
「貴方が主導しているのですから、王立……そして学習する場所なのだから、学院! 王立学院はどうかしら?」
「他に思いつかないしな、それでいこう」
「投げやりね……」

 思わずマリアローズは苦笑した。

「まずは基礎的な教育を行う。その場の教師は、王宮の有識者と、聖ヴェリタ教の聖職者に協力を仰ごうと考えている。ヨシュア師に手紙で相談したところ、国内の関連施設に声をかけてくれると約束してくれた」

 優しい顔をした老人の姿を思い出し、マリアローズは頷いた。
 それを確認した様子で、ハロルド陛下が続ける。

「今後は職業選択が可能になるよう、改革を進めよう」
「ええ。出来る場所では、今から始めてしまいましょう」
「そうだな」

 同意したハロルド陛下は、ゆっくりと瞬きをすると、また微笑した。マリアローズに向けられている温かい眼差し。マリアローズは、思わず震えた。まだ事態を正確には受け入れられていないのかもしれない。急に特別視してしまって、いいや、以前から特別視しsていた事に気づかされてしまって、困っているというのがマリアローズの本音だ。

 意識のしすぎだというのは、マリアローズ本人にも自覚がある。

「頑張ろうな、マリアローズ」

 いつの間にか呼び捨てで呼ばれるようになったけれど、昔はそれが自然だったこともあり、しっくりくるから不思議でたまらない。ハロルド陛下に名前を呼ばれるだけで、心が躍る。だが、己はまだ彼を名前で呼ぶ勇気が無いことに、時々マリアローズは切なくなる。

 一線を引いておかないと、すぐにでもギュッと抱きついてしまいそうで怖いと感じる。
 なにせ、自分は皇太后だ。国王の継母だ。白雪王と名高い眉目秀麗な国王陛下の、これでも『母』なのである。いくらハロルド陛下の方が年上だとは言え、継母は継母だ。継母が子供と恋人になるなどおかしいではないか。マリアローズは、そう考えては胸のドキドキに蓋をしようと試みる。

「ええ、頑張りましょう! ハロルド陛下、私達ならば、やれるわ!」

 ただ、最近では、こうして二人で共同で行う仕事が増えつつある。
 そうなればなるほど、距離が近くなる。

 その時乱暴に扉が開いて、宰相閣下が入ってきた。

「おい、なんだこれは!? 教育機関の予算が、二千億ガルドだと!?」

 それを耳にした瞬間、反射的にマリアローズは唇を動かした。

「適正額よ」
「適正額だ」

 その時、答えたマリアローズとハロルド陛下の声が重なった。
 二人は顔を見合わせて頷き合う。
 すると宰相閣下が眉間に皺を寄せた。

「この予算は何処から出すと言うんだ!?」
「後宮を廃止する。後宮費を用いる」
「は?」

 ハロルド陛下の声に、宰相閣下がぽかんとした。

「では、マリアローズ皇太后陛下は一体何処でお暮らしに?」
「私は王宮に部屋をお借りします」
「……なるほど。確かに後宮費は同等の金額だ。ならば我輩はもう何も言わん。ご指示通り、教育機関の設置の手配を致します」
「王立学院と先程名前が決まったのよ」
「承知した。よい名だな」

 宰相閣下はそう言って微笑すると、早足で出て行った。

「激しいな」
「激しいわね」

 再び言葉が被ったものだから、二人は再度顔を見合わせる。息もぴったりというか、次第にこういう事が増えてきた。同じ事を考える頻度が増加している。

 ハロルド陛下の隣は、居心地がいい。マリアローズは、最近そう気がついた。
 真っ赤になってしまったり、動揺したりはするけれど、仕事がとてもやりやすい気がする。また、二人で行った仕事を達成した時は、お互いに笑顔になるようになったから、本当にぐっと距離が近づいた。

 似ている考え方のハロルド陛下に対し、マリアローズは次第に考えるようになった。どうして今までもそばにいたのに、気づかなかったのだろうか、と。真摯に仕事に取り組むハロルド陛下の瞳は、誰よりも綺麗だ。《魔法の鏡》の言うことは、まごうことなき真実だったのだと、マリアローズも今では確信している。

 だからずっと見ていたくなる。
 そう考えた時だった。

「マリアローズ、少し庭園に行かないか?」
「え? どうして?」
「――クラウドと、行っただろう? あいつとは行くことが出来て、俺とは行けないのか?」

 目を眇めたハロルド陛下の声に、胸がまたドキリとしつつ、マリアローズは頷いた。

「構わないわよ。行きましょう。休憩にも丁度いいわね」

 こうして二人で、王宮を出て、久しぶりに後宮の庭園へと向かった。
 そして四阿のベンチに座り、二人で顔を見合わせる。
 もうすぐ雪が降る季節だから、あまり花はない。もう少しすると、庭園は春まで封鎖される。

「おい、マリアローズ」
「なに?」
「目元に睫毛がついてるぞ」
「えっ」

 その言葉に、慌てて目元に触れる。するとハロルド陛下がマリアローズを覗き込んだ。

「取れていない。手をどけろ、取ってやる」

 ハロルド陛下の言葉に、大人しくマリアローズが従う。
 するとハロルド陛下は、片手でマリアローズの顎を持ち上げ、もう一方の手で頬に触れた。

「ちなみにこれは嘘だ」
「え!?」

 驚いたマリアローズの顔に、どんどんハロルド陛下の顔が近づいてくる。
 マリアローズは焦った。焦りすぎて、目を閉じることすら出来ない。
 だからサファイアのようなハロルド陛下の瞳をじっと見据える。混乱して潤んだ彼女の緑色の瞳は愛らしい。ハロルド陛下が僅かに首を傾げ、唇と唇が触れあいそうな距離まで近づけた。マリアローズは、何か言おうと、思わず薄らと唇を開く。すると――フっとハロルド陛下が意地悪に成功した子供のように笑い、手を離して顔を上げた。マリアローズは唖然とする。硬直したまま、真っ赤になる。

「キスされると思ったか?」
「思うでしょう!?」
「可愛かったぞ、今の顔」
「っ、あのねぇ!! どうしてこういう事をするの!? 貴方、本当に私を好きなの!?」
「好きな子はいじめたくなるんだよ」

 そう言って口角を持ち上げたハロルド陛下は、憎らしいほど美しくて、マリアローズは悔しくなり、スカートをギュッと握ってごちゃごちゃの胸中を誤魔化した。





 ただ……正直、そういった、それらの感情すらも、マリアローズは嫌ではなくなりつつあった。

 じわりじわりと、ハロルドが心の中へと入り込んでくる。いいや、考えてみると、もうずっと昔から、ハロルドは己の中にいたのだと、マリアローズは思う。それが今、明確に輪郭を持って、一つの形となって、自分の心の中で存在感を増したのだろう。

 やっと自分は、ハロルドという人間を新しい目で見たのだと、マリアローズは感じている。もうハロルドが、子供時代の自分のヒーローではないのだということは、様々な刻を一緒に過ごし、理解していた。そう理解する時、理解させられる時、いつも胸が疼いた、その理由。マリアローズは、当初はずっと分からないでいた。

 だがそれが今、大切という名前だと分かった。ハロルドが大切な人に変わった。
 その大切は、好きと同義だと、既にマリアローズは理解している。

 ――けれど継母の己が、仮にも子へ恋情を抱く事は果たして許されるのか?

マリアローズは、しっかりとその答えを出した。

「ねぇ、《魔法の鏡》」
『なんだい?』
「今の私は輝いているかしら?」
『うん。とっても素敵だよ』
「ありがとう、貴方はいつも背中を押してくれるのね」
『僕はマリアローズが大好きだからね。これからもずっと一緒に居たいよ』
「そう。私も同じ気持ちよ。ありがとう」

 マリアローズは、《魔法の鏡》にお礼を言ってから、天井を見上げた。
 思い浮かべたのは、ハロルド陛下のことだ。

 好きなものは好きなのだから、好きだと伝えるべきだ。己の気持ちに誠実でいる事が、マリアローズの矜持だった。だから、伝えなければ。そう決意し、この日マリアローズは、青いドレスを身に纏った。もうとっくに己は貴方のモノなのだと、ハロルドに伝えたかったから。

 告白するしようと決意して、意気揚々とマリアローズは、ハロルド陛下の執務室へと向かう。そしていつものように深呼吸をしてから、華奢な手でノックをした。

『マリアローズか?』
「ええ」
『入れ』

 ハロルド陛下の声に、一人頷いて扉を開ける。そして正面の執務机に座っているハロルド陛下を見据えた。

「ねぇ、ハロル――」
「先に俺の話を聞け」

 しかしハロルド陛下に言葉を遮られた。折角の決意がしぼんでしまった気がして、マリアローズはため息をつきそうになったが堪えた。

「なにかしら?」
「手紙が二通届いている。一通は俺達二人にあてて。もう一通はお前あてだ」
「開封したのかしら?」
「俺達二人への手紙は開封済みだ。ドワーフの老人を覚えているか?」
「ええ」
「彼らからの感謝の手紙だ」

 ハロルドに差し出された便せんを、目を丸くしてマリアローズが読んでいく。
 なんでも、激務に耐えかねて辞めたという四人が、無事に戻ってきたと書いてあった。
 戻ってきたのは、待遇改善の成果だという。
 現在の職場の環境が改善した事の喜びも、詳細かつ明確に綴られていた。
 感謝の言葉がたくさん記されたその手紙を見て、マリアローズの心に温かいものが満ちていく。そんな彼女の表情を見据えてから、ハロルド陛下が口を開いた。

「よかったな」
「ええ! 私達、一つやるべきことをやれたのね!」
「ああ、俺達二人で成し遂げた成果がまた一つ増えたな」

 嬉しそうな顔をして笑っているハロルドに歩みより、大きくマリアローズは頷いた。
 それから執務机の上に、もう一通手紙がある事に気がついた。
 確かに宛名は自分あてだが、王宮に届くのは珍しい。普通は後宮に届くからだ。

「ペーパーナイフはそこにある」
「誰からなの?」
「裏面には少なくとも差出人の名前は無いが」

 ハロルド陛下の声に頷きながら、マリアローズは手紙を開封した。
 それからペーパーナイフを置き、便せんを取り出す。
 少し掠れた文字で、『四時に離塔の四階に来て欲しい。大切な話がある』と記されていた。マリアローズは首を傾げる。まじまじと見てみるが、誰からの手紙なのかは分からない。

「誰からだ?」

 するとハロルド陛下が問いかけた。顔を向けたマリアローズは、首を振る。

「分からないわ」
「見せてみろ」
「いいわよ」

 素直にマリアローズは、ハロルド陛下に手紙を差し出した。
 するとハロルド陛下が、眉間に皺を寄せた。

「なんだこの見るからに不審な手紙は?」
「そうかしら?」
「そうだろう」
「でも、誰か困っている人がいるのかもしれないわ」
「マリアローズは、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、本当に馬鹿だな」
「ちょっ! その言い草はなんなのかしら! 昨日棒グラフの数値を間違えたハロルド陛下には言われたくないわ!」

 ムッとしてマリアローズは、言い返す。

「私は行って参ります」
「なんだと?」

 呆れかえった顔を通り越して、信じられない者を見るような目で、ハロルド陛下がマリアローズを凝視する。

 この日、二人は三時半まで、『行く』『行くな』というやりとりを繰り返した。
 そして時計が三時半をさした時、マリアローズが立ち上がった。
 すると辟易した顔で、ハロルド陛下もまた立ち上がった。

「あら、私を引き留めるおつもり?」
「違う。諦めた。俺も着いていく。馬鹿を一人にしてはおけないからな」
「そのような酷い事を仰るのなら、来てくれなくて結構です」
「俺は心配しているんだ、分かれ」
「……え、あ」
「行くんだろう? 仕方ないな」

 こうしてハロルド陛下が先に執務室を出た。慌ててマリアローズが後を追う。
 執務室から離塔までは、二十分弱かかる。四階は広間になっている。
 この前、丁度冬囲いが窓に成された塔だ。

「誰がいるのかしら?」
「さぁな」

 気のない返事をしたハロルド陛下は、チラリとマリアローズを見る。

「告白のために呼び出す手紙だったらどうする?」
「お断り致しますわ」

 マリアローズは、即答した。己はハロルド陛下を好きなのだから、断る以外の選択肢など無い。だが、結局言い合いをしていた本日、執務室での険悪な空気の状態では、気持ちを伝える事が困難だったし、今も歩いているから、ここで伝えるのも違う気がした。

「俺の告白にはいつ答えてくれるんだ?」

 するとさらりとハロルド陛下が呟くように言った。

「――もう少々お待ちになって」

 場所が悪いから、とは告げなかった。そんな話をする内に、二人は離塔の四階に到着した。中に入ると、広い床が視界に入り、マリアローズは室内を見渡した。

「誰もおりませんね。これから来るのかしら?」
「もう三時だが」

 懐中時計を取り出して、ハロルド陛下が述べる。
 その時だった。
不意に林檎の香りが漂ってきた。最初は微かな、己の勘違いかと思うほどの匂いだったのだが、それが一気に濃くなったようになっていき、部屋中が林檎の香りで満たされた。中央付近まで歩いていたマリアローズは、窓際に七輪のようなものがある事に気がついた。首を傾げながら歩みよる。怪訝そうな顔で、ハロルド陛下も着いてくる。

 マリアローズは七輪の中を覗きこむ。するとそこには、緑色をしたお香が山のように入っていた。全てに火がついている。

「これは何かしら? すごく芳しい林檎の香りがするわ」

 彼女の声に、隣から七輪の中身を覗き混んだハロルドが息を詰めた。そしてすぐに顔を歪めると、防毒マスクを取り出した。

「これは青林檎香という毒ガスだ。マリアローズ、これをつけろ」

 口早にそう告げながら、ハロルド陛下はマリアローズの口に強引に防毒マスクをあてがった。驚いたマリアローズは、それからハロルドを見上げる。

「ど、毒ガス!? 貴方はどうするの!?」
「――俺は平気だ」

 そう言うとニコリとハロルド陛下が笑った。少しだけ苦笑が混じっているように見えた。いつか、幼い頃にマリアローズが一人で泣いていた時、似たような笑みを見た気がした。

「毒ガスを無効化する魔石を所持している。とにかくこの部屋を出るぞ」

 手に球体を持ち、ハロルドが述べる。
 それからハロルド陛下はすぐに表情を険しいものへと戻すと、強引にマリアローズの手首を掴み、早足で歩きはじめた。本当は走りたいのだろうが、マリアローズの歩幅に合わせている。時折苦しそうに目を眇めながらも、ハロルド陛下は歩みを止めず、部屋を出て、すぐに扉を閉めた。

「っ」

 廊下に出ても林檎の香りは変わらずあった。

「離塔の全てに仕掛けてあったな。マリアローズ、行くぞ」
「っ、わ!!」

 ハロルド陛下はマリアローズを横に抱き上げると、今度こそ走った。きっとマリアローズの足では、毒ガスに飲まれてしまうと判断したのだろう。マリアローズは、ハロルド陛下の首に腕をまわし、ギュッとしがみついていた。

 階段を降りていき、入り口が見えてくる。もう少し、マリアローズは、漏れてくる光を見て、そう思った。そして二人は、無事に外へと出た。

「立てるか?」

 ハロルド陛下がマリアローズを優しくおろす。
 マリアローズは、しっかりと立って、大きく頷く。
 するとハロルド陛下が、また優しいのに苦笑するような、そんな表情を見せた。

「お前が無事で良かった」

 そう言った瞬間、ハロルドの体が傾いた。

「ハロルド陛下……?」

 驚いてマリアローズが支えようとしたが、体格が違うから、ほとんど無意味で、ハロルド陛下は地に横たわった。その端正な顔からは、血の気が失せている。

「ハロルド陛下、ハロルド!! ハロルド!!」

 必死でマリアローズが叫ぶように声をかけた時、大勢が走ってくる気配がした。

「マリアローズ様!」

 真っ先に声を上げたのは、宰相閣下だった。泣きそうな顔で震えながら、マリアローズは必死でハロルドの体を指し示す。

「林檎の香りがして、それで、毒ガスだって言って、でも、無効化する魔石があるって、なのに、どうして……?」
「マリアローズ様。そのような魔石は存在しない。毒ガスへの対応策は、防毒マスクのみだ。そしてそれは今、貴女が装着している。一つしか無いはずだ」
「っ」

 宰相閣下の冷静な声に、マリアローズの涙腺が倒壊した。

「平気だって言ったのに。魔石も見せてくれたわ!」
「我輩及び騎士団長に直通で異変を知らせる緊急時に力を込める魔石ならば、発動した。だから医官を呼び、我輩はここへ今駆けつけた」

 医官達が、ハロルド陛下に歩みよっている。
 気づけば多くの人々に、マリアローズは囲まれていた。その中で、宰相閣下のみが、マリアローズを落ち着けるように声をかけている状況だった。

 震えながら、気づくとマリアローズは泣いていた。涙が止めどなく溢れてくる。
 長い睫毛にのった雫が、頬に筋を作る内、欷泣するような息が漏れ始める。
 防毒マスクを外したマリアローズは、ハロルド陛下の顔をじっと見る。何度瞬きをしてから確認してみても、まるで死んでしまったかのように、ハロルド陛下はぴくりとも動かない。

「マリアローズ様、貴女もまた、少しは吸い込んだはずだ。医官の診察を今すぐに」
「私は、ハロルド陛下についております」
「それは宰相としてお止めする。仕える王族の方々の愚行は、忠実な臣下として止めねばならない。貴女になにかあったら、命をかけてマリアローズ様を助けたハロルド陛下のお気持ちが無駄になる。それにハロルド陛下の目が覚めた時、貴女のお具合が悪かったのならば、陛下がどれほど悲しむことだろうか。とにかくマリアローズ様もすぐに診察を受けるように」

 そう言うと宰相閣下は医官を呼び寄せ、無理にマリアローズを立たせてから、医官に預けた。その間もマリアローズは、ずっと泣いていた。

 ――自分のせいだ。
 ――ハロルド陛下は、きちんと危険だと教えてくれていたのに。

 悔やんでも悔やみきれなくて、瞼を伏せれば、ボロボロと涙が零れ落ちていった。




 ――マリアローズは、どうなったのか。

 真っ暗な空間に一人立っているハロルドは、大きく深呼吸をしてから、右手を持ち上げて握ってみた。そして、ここが夢の中だと正確に理解していた。

 青林檎香は、昏睡状態にさせ、悪夢を視せるという魔法毒だ。
 解毒方法は分かっていない。
 最終的には悪夢に飲み込まれ、衰弱死すると言われている。その危険性から、パラセレネ王国では第一級危険指定魔法毒に指定されている。生還した例は三件のみだ。共通点は特になかった。誰かの妻、誰かの夫、誰かの恋人の若い女性。おぼろげにハロルドはそう想起したが、正直あまり興味は無かった。マリアローズが無事か否か。それだけが気にかかる。

「っ」

 そう考えていた時、不意に光に飲まれた。すると正面に、母の姿があった。
 手を見れば、己の手は、今よりもずっと小さくなっていた。

「ハロルド。貴方は、マリアローズのことが好きなのね?」

 優しい母の声。記憶の通りの光景。

「うん、そうです」

 当時と同じように、ハロルドは答えていた。体の内側では、これが夢だと理解しているのに、現実の追体験はあまりにもリアリティがあって、嫌な汗が浮かんでくる。

 それからすぐ、母の葬儀の場面に切り替わった。
 ああ、確かにこれは悪夢だなと、ハロルドは瞬きをしながら柩を見る。中で眠るように目を伏せている母は、遺体とは思えないほどに美しかった。

 次は、父の隣に、マリアローズが立っている光景。嫉妬で気が狂いそうになった記憶。
 ああ、ああ。悪夢の繰り返しだ。
 次に場面が変わると、目の前に魔狼がいた。怯えたように仔猫を抱いているマリアローズ。ハロルドは咄嗟に手を伸ばす。だが、魔狼は、マリアローズを噛み殺した。

 ――違う。こんな現実は存在しない。

 だというのに魔狼は、マリアローズの地に伏した体にのしかかろうとしていた。
 紅が、岩肌を濡らして垂れていく。
 衝撃で凍り付いたハロルドは、一瞬これが夢だと忘れた。

 思い出したのは、叡神都市フロノスの道を、マリアローズと二人で歩いている光景が映し出された時だった。己が買った首飾りを大切そうに身につけているマリアローズが愛おしくてたまらなかったあの日の風景。これは、現実にあった出来事だ。悪夢などでは無い――そう思った時、魔狼が出現した。そして、己の剣は間に合わず、マリアローズは、噛み殺された。そんな事はあり得ない。なにせ、その後、自分はマリアローズに確かに気持ちを告げたのだから。マリアローズが日に日に真っ赤になりながら、自分を見るようになっていった幸せな日々は、夢では無い。

 マリアローズの存在だけが、ハロルドにこれが夢だと教えてくれた。
 マリアローズへの、愛だけが。




 医療塔は、王宮の敷地のはずれにある。地下には危険な毒物なども保管されているため、離れた場所にあるらしい。意識不明のハロルドは、その塔の特別室へと運び込まれた。ここは床に魔法陣が刻まれていて、排泄処理や栄養補給は、自動的に成される。だから、死ぬことはない。

 そう説明を受けたマリアローズは、己の両手でギュッとハロルドの右手を握っていた。

『ただし、意識が戻った例は、三例しかございません。皆、悪夢を見ていたと証言しておりますが……』

 医官の悲痛さが滲む声が、ずっとマリアローズの脳裏を埋め尽くしている。

『青林檎毒への対処法は、見つかっていないのです』

 苦しそうな医官を、責めることは出来ない。責められるべきは自分自身だと考えて、鳩尾の辺りが重くなったマリアローズは、俯いた。

「神様……どの神様でもいいから……ハロルドを助けて……」

 小声でマリアローズが述べる。
 すると扉が開いた。入ってきたのは宰相閣下だった。

「マリアローズ様」
「……なにかごよう?」
「ハロルド陛下が意識不明の今、王族は貴女のみです。ハロルド陛下に代わり、どうぞご政務を」
「……」

 本当は、ハロルドのそばにずっとついていたい。
 けれどハロルドが目を覚ました時、書類の山を見たら、どんな反応をするだろうかと無理矢理考えて、マリアローズは笑ってみせた。だがポロポロと涙が零れ落ちてくる。もう不機嫌そうな呆れたような、そんな顔すらハロルドはしない。笑うこともないのだろう。

「宰相閣下……今、参ります」
「……お待ち致しております」

 一拍間を置いてからそう告げ、宰相閣下は出て行った。
 涙を拭い、マリアローズは立ち上がる。そしてハロルドの執務室へと向かい、ハロルドのサインが必要な書類に、代理としてサインをしていった。淡々と無心に作業をするのは、意外と気持ちを楽にしてくれる。

 だが仕事が終わって、医療塔に行くともうダメだった。胸が苦しくて、呼吸が苦しくなる。己が手紙に従ったばっかりに、ハロルドは意識を喪失した。永遠に目覚めないかもしれない。その確率の方が高い。

「私……まだ、好きだって伝えてなかったのに……」

 意識の無いハロルドの隣で、すすり泣くようにしながら、マリアローズはそう呟いた。しかし目を伏せているハロルドに伝わるわけがない。それをマリアローズは、よく理解していた。

「好きです、ハロルド。大好きです。だから、お願いだから、目を覚まして」

 囁くような声音で、何度も何度もマリアローズは、そう口にした。
 けれどハロルドの瞼は、ぴくりとも動かない。長い睫毛が揺れることすらない。

 ――このまま、ハロルドが死んでしまったら。
 不安に駆られる日々に、押しつぶされそうになる。

「お願い、ハロルド。お願いだから……大好きなの。私は貴方を愛してる」

 こんなにも愛していたのだと、喪おうとしてはじめてマリアローズは気がついた。何故自分は、ハロルドに愛の言葉を返さなかったのだろうか。溢れかえるような激情が内側にあった事を自覚した今、後悔してもしきれない。マリアローズは、己の気持ちを確信した。させられた。

「……お願い。私の気持ちを、受け取って……もう一度、貴方と話がしたいの。貴方がいないとダメなの。ハロルド……お願い」

 ギュッと目を閉じ、ボロボロと泣く。既に目元の赤さは取れなくなってしまった。