あれから、一週間経った。
小姫の左腕と左足は消えることなく、今も以前の形を保っている。
あの花の力なのか、はたまた、乙彦の妖力なのか。力の区別などつかない小姫には、考えてもわかるものではない。
山から戻った時に、乙彦との一件は弥恵にすべて話してある。だいぶ心配をかけたようで、二度とそんな無茶をしないように何度も言い含められた。何時間も探してくれた青峰にも謝罪しお礼を言ったが、過保護さに拍車がかかったようで申し訳ない気持ちがずっとつきまとっている。
その後、弥恵が乙彦のことを話してくれた。今まで実際に相対したことはなかったが、彼の姿を小姫の周りで見かけることが多く、十年前の事故との関係があるのではと思っていたそうだ。
「危険な感じはしなかったのよね。ただ、見守っているっていうか……。小姫、それまでは結構、傷だらけで帰って来ることが多かったじゃない? それも、彼を見かけるようになってから少なくなって。だから、油断してたのよね。妖怪が人間にいい思いを抱いていないこと、私があれだけ言っていたのに……」
どうやら責任を感じているらしい弥恵の発言に、小姫は首を横に振った。
確かに、崖から落ちるよう仕向けたのは乙彦だ。が、実際に傷つけることは、彼には最後までできなかった。だから、弥恵の見立ては正しかったのだと思う。彼は二度も、小姫を助けてくれたのだから。
その乙彦のためにも妖怪のことを知りたいと言うと、弥恵は困った顔をしながらも、どこか嬉しそうだった。
調停者を継ぐわけではない。ただ、その娘として、一人の人間として、何かできることがあるのではないだろうか。
(……そう。乙彦のためにも……)
彼のことを考えると、ちくりと胸に痛みが刺す。
あれから、乙彦は、どうなったのだろう。
気が付いた時には、洞窟に彼の姿はなかった。血の跡だけを残して、それ以外の痕跡は消えていた。
もし左腕が治っていなければ、あの花の力は乙彦のために使われたのだと思えたのに。
(……この体も、私自身が自覚をもてば、徐々に再生していくだろうってお母さんは言ってたけど……)
乙彦の解釈を聞いて、弥恵が立てた仮説がそれだ。小姫は妖怪の血を引いていて、しかも、妖力のみでできた手足に疑問を持っていない。そのため、体自体も異変を感じなかったのだろう、と。しかし、今回の件で小姫が自覚した以上、今後は自然に人間の体に戻っていくだろうということだ。
――だからもう、乙彦と手をつなぐ必要はない。
小姫は、左手をぎゅっと握りこんだ。
これが、乙彦がつくってくれた腕なのかはわからない。だが、彼と手をつないだ感触は、今もありありと思いだせる。この手に、しっかりと残っている。
だからきっと、この腕は、乙彦との記憶を持っているのだ。
彼は力を取り戻し、小姫の腕を再生してから、自力で洞窟を抜け出したのだろう。小姫は、そう信じている。
それでも、小姫の前から姿を消したのは、やはり、憎んでいるからだろうか。
学校へ向かう足取りが重い。土手沿いを歩いていると、一週間前は乙彦の冷たい手に包まれていたのにと思ってしまう。
まだ、事故の記憶は戻っていない。それでも、あの時助けてくれたお礼はちゃんと言いたかった。今まで見守ってくれたお礼すら、彼には伝えていないのだ。
彼は今も、どこかで小姫を見ているのだろうか。――それとも、もう、他の土地へ行ってしまったのだろうか。
(これから頑張るからって、言ったのに……)
――緩慢ながらも進んでいた足が、ついに止まった。
やるせない感情で胸が詰まる。この行き場のない気持ちは、どうしたらいいのか。
ぶつけられる相手は乙彦しかいないのに、彼は彼で、勝手に自己完結して、別れも言わずにいなくなってしまった。
乙彦だって、ぶつけてくれたら良かったのだ。恨みも、憎しみも。どんな感情も、すべて。
そうしたら、小姫も言い返すことができただろう。喧嘩して、仲直りして――、そうして、一緒に歩める道を見つけられたかもしれないのに。
「……乙彦の、バカ」
誰もいないことを確認して、朝の空気を肺の奥まで吸い込んだ。ゆるやかに流れる川に向かって、思い切り叫ぶ。
「バーーーカ!」
小姫の全力の叫びは、対岸の木々の葉に柔らかく受け止められ、残りは川の水にあえなく飲み込まれた。何事もなかったかのように、葉のざわめきと水音が小姫の耳に戻ってくる。
それでも、少しだけすっきりした。
小さく息をつき、目元を拭って、校舎の方へ足を向けた。――その時。
「それは、聞き捨てならないのです」
奇妙な言葉遣いが聞こえると同時に、膝からひょいとすくい上げられた。小姫は悲鳴を上げて、目の前に現れた物体にしがみつく。
「――って、乙彦!?」
「バカはヒメの方だと思うのです」
乙彦は小姫を抱えたまま、学校へ向かって歩き出す。
「せっかく私の力からも、私からも逃れられる、いい機会だったのです。それを棒に振るなんて」
「――っ」
突然の乙彦の出現に、小姫は動転した。それでも、二度と逃がすまいと、首に回す手に力を込める。
「だって……、命を助けてもらったのは私の方だったでしょ。乙彦をあのままになんてしておけないよ」
「……また、殺そうとするかもしれないのです」
「そんなの、いつでもできたじゃない。今までずっと、私の側にいたんだから。――乙彦、今まで、守ってくれてありがとう……」
「――……」
泣き顔を見られたくなくて、小姫はぎゅっと、目元を彼の肩口に押し付けた。
トンビが遠くでのんきな鳴き声を上げている。のどかに流れる水の音と、草の間をカサコソと動く生き物の気配がする。
都会に憧れてはいるが、小姫はこの村が嫌いではない。これから、弥恵と、青峰と力を合わせれば、乙彦たち妖怪にとっても住みやすい場所をつくれるだろうか。
乙彦はしばらく黙って小姫を運んでから、わざとらしくため息をついた。そして、やむを得ないといった口調で、おもむろに告げる。
「仕方がないのです。ヒメが嫌でないならば――、私は結婚しても構わないのです」
「うん……。……ん!?」
小姫は、頷きかけて、固まった。
今、彼は何と言った。聞き間違いでなければ――。
――もしかして、プロポーズされた!?
「え? ちょ、ちょっと乙彦……?」
「本当はあの時、ヒメの一部を食らったことで、つながりはすでにできていたのですが――」
「……え!?」
「こんな間抜けな小砂利、私が一生面倒みるしかないような気がするのです」
「――っ、わーっ、待って! ちょっと待って!」
小姫は目を回しそうになりながら、頭の中を必死で整理する。
あの事故の時から、すでにつながりはできていた。なら、結婚も婚約も必要ないということで……。今は乙彦の妖力でできているといっても、いつかは元の腕と足に戻るわけで……。
いや、それよりも。
(う、嘘でしょ? 今、なんか、プロポーズ的な言葉が? 星空の見えるレストランでもないのに? ……ありえないわ。気のせいに決まってる。第一、全然、情熱的じゃないし!)
小姫が涙目で体を震わせていると、乙彦がにたりと笑って付け足した。
「小砂利の理想は叶ったのです?」
「あ、あんた、わかっててわざと……っ!?」
そういえば、こいつはこういうやつだった。
乙彦に体を預けているという状況に遅ればせながら危機感を抱き、小姫は手足をじたばたさせた。しかし、妖怪の力ゆえか、痩身なはずの乙彦の腕はびくともしない。
乙彦がくすくす笑う拍子に、笹の葉の耳飾りが楽しげに揺れて、しゃらんと音を立てる。
(ち、違う……。あたしの理想の王子様が……! こんな、こんな――)
――こんなに口が悪くて、意地も悪い、横暴な河童になるなんて……!
「そんなの、絶対、認めないんだから――っ!」
乙彦の言葉に激しく胸が高鳴ったのは何かの間違いだと、小姫は必死に自分に言い聞かせるのだった。

