あれから、一週間たった。

 小姫の左腕と左足は消えることなく、今も以前の形を保っている。
 あの花の力なのか、はたまた、乙彦の妖力なのか。力の区別などつかない小姫には、考えたところでわからない。

 今回の件では、青峰にも、そしてもちろん母親にも、随分心配をかけてしまった。
 青峰と一緒に家に帰った後、母親からはきつくお叱りを受けた。彼女は普段、鷹揚としているのでわかりにくいが、小姫を跡継ぎから外したのも、妖怪がらみで危険な目に遭わせることを危惧したかららしい。意外に過保護なのだと、小姫はこの時初めて知った。

「心配かけちゃって、ごめんなさい。……でも、妖怪のこと、もっと知りたいの。跡継ぎのことは置いといて、私にも、少しずつ教えてくれない?」

 そう頼むと、母親は困ったように笑いながらも、小姫の願いを受け入れてくれた。今後は彼女の都合がよければ、青峰とともに教えを乞うてもいいそうだ。

 小姫の体については、やっぱり母親もよくわからないらしい。

「ふうん。乙彦君がそんなことをねえ。……要するに、これから小姫が左半身も自分の体だっていう自覚をもつようになれば、徐々に人間の体として再生されていくかもしれないってことでしょ? なら、信じてみれば?」

 彼のしたことを話しても、母親の乙彦への信頼は揺るがなかった。小姫の命の恩人であることに加えて、以前から乙彦の姿を時折見かけていたらしい。

(乙彦は……)

 彼のことを考えると、ちくりと胸に痛みが走る。
 乙彦は、どうなったのだろう。

 気が付いた時には、洞窟に彼の姿はなかった。血の跡だけを残して、それ以外の痕跡はすべて消えていた。
 もし小姫の左腕が治っていなければ、あの花の力は乙彦のために使われたのだと思えたのに。

 唯一の救いは、洞窟に残された血の量が案外少なかったことだ。だからきっと、彼は自力で洞窟を抜け出したのだろうと、そう信じている。

 小姫の前から姿を消したのは、やっぱり憎んでいるからだろうか。もう、他の土地へ行ってしまったのだろうか。

(これから頑張るからって、言ったのに……)

 学校へ向かう足取りが重い。土手沿いを歩いていると、一週間前は乙彦の冷たい手に包まれていたのにと思ってしまう。

 当時の記憶はまだ思い出していない。それでも、助けてくれたお礼を言いたかった。今まで見守ってくれていたお礼すら、彼には伝えていないのだ。
 今はまだ止められているが、ほとぼりが冷めたら、乙彦が住んでいたというあの山へもう一度登ってみようか。一人ではまた心配させてしまうから、今度は青峰に付き添いを頼むことにして。

(……でも、もし、そこにもいなかったら?)

 ――緩慢ながらも進んでいた足が、ついに止まった。

 やるせない感情で胸が詰まる。この行き場のない気持ちは、どうしたらいいのか。
 ぶつけられる相手は乙彦しかいないのに、彼は彼で一人で勝手に自己完結して、別れも言わずにいなくなってしまった。

 乙彦だって、ぶつけてくれたら良かったのだ。恨みも、憎しみも。どんな感情も、すべて。
 そうしたら、小姫も言い返すことができただろう。喧嘩して、仲直りして、一緒にいられる道が見つかったかもしれなかった。

「……乙彦の、バカ」

 誰もいないことを確認して、朝の空気を肺の奥まで吸い込んだ。ゆるやかに流れる川に向かって思い切り叫ぶ。

「バーーーカ!」

 そうして、目元を拭って足を通学路に戻したその時、

「それは、聞き捨てならないのです」

奇妙な言葉遣いが聞こえると同時に、膝からひょいとすくい上げられた。小姫は悲鳴を上げて、目の前の物体にしがみつく。

「――って、乙彦!?」
「バカはヒメの方だと思うのです」

 乙彦は小姫を抱えたまま、学校へと歩き始める。

「せっかく私の力からも、私からも逃れられるチャンスだったのです。それを棒に振るなんて」
「――っ」

 突然の乙彦の出現に、小姫は動転した。それでも、二度と逃がすまいと首に回す手に力を込める。

「だって……、命を助けてもらったのは私の方だったでしょ。乙彦をあのままになんてしておけないよ」
「……また、殺そうとするかもしれないのです」

「そんなの、いつでもできたじゃない。今までずっと、私の側にいたんだから。――乙彦、今まで、守ってくれてありがとう……」
「――……」

 泣き顔を見られたくなくて、小姫はぎゅっと、目元を彼の肩口に押し付けた。

 トンビが遠くでのんきな鳴き声を上げている。のどかに流れる川の水音と、何かが草の間をカサコソと動く気配がする。
 都会に憧れてはいるが、小姫はこの村が嫌いではない。これから、母と、青峰と力を合わせれば、乙彦たち妖怪にとっても住みやすい場所を作れるだろうか。

 乙彦はしばらく黙って小姫を運んでから、わざとらしくため息をついた。そして、観念したように告げた。

「仕方ないのです。ヒメが嫌じゃなかったら、私は結婚しても構わないのです」
「うん……。……ん!?」

(結……婚?)

 ――今、もしかして、プロポーズされた?

「え? ちょ、ちょっと……?」
「本当はあの時、ヒメの一部を食らったことで、つながりはすでにできているのですが――」

「……え!?」
「こんなおバカな小砂利、私が一生面倒みるしかないような気がするのです」
「――わーっ、待って! ちょっと待って!」

 小姫は目を回しそうになりながら、頭の中を必死で整理する。
 あの事故の時から、すでにつながりはできていた。なら、結婚も婚約も必要ないということで……。

 いや、それよりも。

(き、聞き間違いよね? 今、なんか、プロポーズ的な言葉が? 星空の見えるレストランでもないのに? ……ありえないわ。気のせいに決まってる。第一、全然、情熱的じゃないし!)

 小姫が涙目で体を震わせていると、乙彦がにたりと笑って付け足した。

「小砂利の理想はかなえさせないのです」
「あ、あんた、わかっててわざと……っ!?」

 そういえば、こいつはこういうやつだった。
 乙彦に全身を任せているという状況に遅ればせながら危機感を抱き、小姫は手足をじたばたさせて降りようとした。しかし、妖怪の力なのか、痩身なはずの乙彦の腕はびくともしない。

 乙彦がくすくす笑う拍子に、笹の葉の耳飾りが楽しげに揺れて、しゃらんと鳴った。

(ち、違う……。あたしの理想の王子様が……! こんな、こんな――)

 ――こんなに口が悪くて、意地も悪い、横暴な河童になるなんて……!

「そんなの、絶対、認めないんだから――っ!」


 乙彦の言葉に胸が激しく高鳴ったのは何かの間違いだと、小姫は必死に自分に言い聞かせるのだった。