オコイエとの一悶着から数日、未だ癒えぬ傷を湿布と鎮痛剤で誤魔化すナギヨシの姿が岩戸屋にあった。動きはあからさまにぎこちなく、見兼ねたケンスケが方を貸してやっと動けるといった様子だ。
 かくいうケンスケも頬の腫れは治まりきっていない。
 ナギヨシはヒリヒリと痺れる火傷跡に顔を(しか)めながら、とある待ち人を待っていた。
 呼び鈴がなり、岩戸屋の戸が開かれる。

「来たか……具合は?」

 ナギヨシの目の前には、美しい銀髪を携えた褐色の少女、ニィナが立っていた。

「ニィナちゃん退院おめでとう」
「ありがとう。私が倒れてる間、ケンスケが守ってくれたって聞いた」
「いや、僕なんてほんとただのサンドバックで……」
「顔面全体を蜂に刺されたみたいな面してたもんな。マンガでしか見たことねーよ」
「ふふっ、私も見たかったな」

 ニィナは柔らかい笑みを見せる。その笑顔のために体を張ったのだと、ケンスケは改めて思った。

「で、ニィナ。お前、これからどうしたい。アイツらのことだ。なんとでも理由を付けて、また連れ戻そうとしてくるぞ?」

 あの後、オコイエの姿は駅の中から消えていた。本人が目覚め、身を隠したのか。はたまた協力者がいたのかは沙汰科では無い。
 しかし大きな野望を持つ者があの程度で引き下がるとは到底思えない。
 ナギヨシの懸念は当然のものだった。

「私は目が届かないうちに天逆町から出ていこうと思う」
「ニィナちゃん……ほんとにそれでいいの?」
「うん。2人にも迷惑をかけた。この後、オウカにも挨拶してくる」
「アテはあんのか?」
「無い。でも、それなりに上手くやる……つもり」

 ニィナの選択は孤独だった。ここから立ち去り、誰にも迷惑をかけず1人で生きていく。それは10代の娘が選ぶにはとても苦しく重いものである。
 それが彼女の強い覚悟であり、意思だった。
 寂しげに『サヨナラ』と告げると、ニィナは背を向け岩戸屋の出口に歩み出した。
 口を紡ぐケンスケは引き止めて良いものか未だ決めきれずにいる。
 気まずい沈黙。時を刻む音だけが岩戸屋に響く。

「待ちやがれ」

 ナギヨシは椅子を2、3度軋ませ、眉間に皺を寄せそう言った。
 ニィナはビクッと一瞬驚き、目を向ける。ナギヨシは真剣な眼差しで彼女を見ていた。

「俺はな、決めてたんだよ。お前の目が覚めたら真っ先に何するかを」
「な、何するの?」
 
 ニィナは不安そうに答えた。誰だって身構えてしまう状況である。次に何を言われるドキドキと心臓の音が身体中を駆け巡っている。

「説教だ!!」
「え?」
「だから説教だよ。説教」

 ナギヨシの口からは意外な言葉が出た。引き止めるでも、見送るでもなく自己満足の塊、エゴの象徴、善意の押しつけ。使い方次第ではパワハラ(刃物)に該当する説教をこれからしようというのだ。
 
「俺ァ説教されるのは嫌いなんだけどよぉ、するのは大好きでね」
「マジで終わってんなこの人」

 間髪入れずにケンスケはツッコミをする。だが、ナギヨシの耳には届かない。

「ニィナ。単刀直入に言うぞ……お前はもっと人を頼れ!!」
「でも……皆の迷惑になる」
「うるせー!そんなのはなぁ、誰かを守る立場になってから言いやがれ。ケンスケ、テメーもだ」
「僕ゥ!?」

 突然の飛び火に焦るケンスケは、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。

「お前らはな、まだガキンチョなんだよ。大人に迷惑かけんのは当たり前なの。そりゃ、できる範囲の責任は取るべきだよ、ウン。でもな、命とか意地とか、しんどい時とかはな。大人をもっと頼りやがれ」

 ナギヨシは真剣な目で2人を見つめた。
 しかし、1人には思うところがあるようですぐさま反論の声が上がる。
 
「ていうか!そもそもナギヨシさんがやらないから僕がニィナちゃんの依頼引き受けたんでしょーが!」
「そいつが助けてって言ったか?」
「え?」
「ニィナ、どうなんだ」

 ニィナはバツが悪そうに頷いた。彼女もまた反省をしている。もし、最初から助けを求めていたら何か変わっていた筈だ。それこそ、3人とも大きな怪我を追わずにすんだかもしれない。

「結果は何とかなったけどな、もしかしたらお前ら2人とも死んでたかもしれないんだぞ。テメーら早死にしたいのか?」

 2人はハッと気付き、首を横に振った。上手くいったから今こうして居られる当たり前のことを忘れていたのだ。眼前に迫った危機というものは、去ってからその脅威が分かるものである。
 ナギヨシの言葉にようやく自覚を覚えたのだ。

「まーなんだ。俺も捻くれて素直に助けてやらなかったのは反省してる。保護者としては失格だ。でもな、ババァも俺も関わったガキを見捨てる真似は絶対にしない」

 ナギヨシは照れくさそうに頭をかいた。

「だからな、あれだ。ニィナ、テメーがちゃんと蹴りつけられるまでババァに面倒見てもらう様約束を取り付けた」
「えっ?」
「だからな。今帰ったら歓迎ムードだ。もう別れの挨拶なんざ出来る空気じゃねーよ。残念だったな。お前にゃ断る権利すら与えねぇ」

 ナギヨシは意地悪そうな顔でニィナに笑いかけた。勝手な行動は彼女にとっては迷惑なことだろうか。
 それは彼女の目から零れた大粒の涙が否定していた。

「私……1人で生きていこうって!皆の迷惑にならないよう、隠れて生きていくって決めたのにッ……!!」
「悪いな。大人はみーんな意地悪するために必死になるんだよ」
「ほんとに、ずるい……私の覚悟全部踏みにじるなんて……ほんと大人ってサイテー……!!」
「サイテーになってでもテメーを助けたい物好きが沢山いたってこった。……気の済むまでこの町にいりゃあいい。ここにいる限りはテメーは岩戸屋が責任もって守ってやる。だろ?ケンスケ」
「はいっ!一度受けた依頼は最後まで守る!それが岩戸屋のモットーですから!!」

 目を何度擦ってもニィナの涙は収まる気配が無かった。止まっていた栓が決壊し、溜め込んだ弱さを全てさらけ出す。
 だが、その弱さは決して悪いものでは無い。ニィナはそれに気付いたのだ。

「私、ほんとに迷惑かけるからね……」
「安心しな。テメーの迷惑なんざ、少年スクワッドの打ち切り打率に比べたら可愛いもんだ」
「嫌な打率だなオイ。ニィナちゃん、僕も迷惑かけてばっかだし、多分ニィナちゃんにも迷惑かけると思う。だかさ、いっそお互いに掛け合っていこうよ。そうしたらお互い支えられるんだから。そっちのが絶対丈夫になるよ!!」

 ケンスケもつられて涙を流し、諭すようにそう言った。
 同じ年頃の彼らにだからこそ分かち合える物もある。
 分かち合いの出来る者同士こそ、友達と言うのだろう。
 
「……うん、うん!ケンスケ、ナギヨシ。本当にありがとう。少し羽を休めるよ。また飛べるように……!」

 今まで溜め込んでいた孤独と、苦しみを全て流すかの様に溢れる涙は、美しく清らかなものだった。
 ならば、それを流しながら満面の笑みを浮かべる彼女は、世界で1番綺麗な姿をしているだろう。
 逃げ、隠れ、苦しみ抜いた日々は少しばかりの終わりを告げる。
 そして、心の奥底でずっと望んでいた彼女の素敵な日々が今始まろうとしていた。