その日、豊は新之助と一緒に松井屋に来た。
普段は理路整然とした佇まいだというのに、気付けば豊はひどく疲れたような姿をしているように見えた。
「いらっしゃいませ。あのう……どうかなさいましたか?」
「こんにちはキヨさん。いえ、すみません。自分もひどく狼狽えることがあるのだなと、自分自身に驚いていたところです」
「まあ……?」
それにキヨはドキリともギクリとも言える音を奏でた。
それに新之助は笑う。
「彼、恋文をいただいたんですよ。ほとんどの恋文は、彼は勉学の邪魔だと返事を書かないんですが、初めて返事を書く気になりましてね」
「まあ……そうだったんですか」
それにキヨはドキドキともやもやが同時に責め立ててくるのを感じた。
(これは私の書いた恋文なのかしら。それとも、他の方の……? そもそも私は代筆をしただけだから、豊さんはちはるさんが書いたものと思っているから……私、どうしたらいいのかしら)
ひとりでどぎまぎしている間に、「それで」と豊が笑いかけてきた。
「今日のおすすめはなにになりますか?」
「はい? え、ええ……お父さんがようやっと、クリームコロッケを出せるようになりましたの」
「くりいむころっけ……ですか?」
「はい」
クリームコロッケは、元々ベシャメルソースを衣でくるんで揚げるものであり、並の厨房でも試行錯誤してつくるものだった。クリームを油の中に落としてしまったら、当然ながら大惨事だからだ。
先日のハンバーグ定食で洋食に対する抵抗が薄くなったのか、新之助はにこにこ笑いながら、「じゃあおすすめにしてみようか」と言うのに、キヨが頷いた。
「はい、クリームコロッケ定食、ふたつで」
「よろしくお願いします」
キヨがパタパタと父にクリームコロッケ定食の注文をしに行くと、ふたりはまたも話をしはじめた。
「それで、君は文通をいつまでするつもりだい?」
「あちらの詳細は全く書かれてないからね。ひとまずは、先方が飽きるまで、になるかな」
「恋文を医学生に送りつけてくるなんて、きっと相手は世間知らずのお嬢様だぜ。豊くんに対処できるのかね」
「そりゃわからんよ。自分は君と違って、婚約すら決まってない身なんだから」
「なに言ってるんだ、医学生が卒業まで恋にうつつを抜かせる身じゃないってわかるものだろう」
どうにも豊は恋文の返事は出すつもりでも、その返事が来ることはあまり期待していないようだった。
キヨはたびたび恋文代行を行う際、先方から預かった返事の文も読んでいる。つまりは、彼女も豊の恋文を読める訳で。
(いったいどんな返事を書くつもりなのかしら……)
そう思っていたところで「キヨさん」と突然豊に声をかけられて、キヨは「ヒャッ」と肩を震わせる。そしてそろそろと豊と新之助の座っている席に近寄った。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、質問です。女性はどのような文をもらったら喜ぶものなんでしょうか?」
「そうですね……」
おかしな話になったとキヨは思った。
自分が恋文代筆している人の返事を、何故か恋文代筆している人間が考えないといけないのだから。
キヨはどぎまぎしながら、ひと言どうにか言い添える。
「……正直、好きな方からもらった返事は、暴言でない限りはなんでも嬉しいものだと思います」
「そうなんですか? 自分は送ってくださった方のことをなにひとつ知りませんので」
「わざわざ恋文を書くってことは、自分の中で気持ちを抑えきれなかったってことでしょうから。その気持ちが届いてくれた、受け取ってくれて返事もくれたとなったら、それだけで満たされてしまうものじゃないでしょうか」
そこまで言って、キヨは内心「しまった」と思った。
キヨの理想とちはるの理想は違う。ちはるからしてみれば、恋文での文通は結婚までの暇つぶしだ。たしかにちはるはキヨと同じく豊のことを好きなのだろうが、キヨほど感情が重くもなければ深くもない。いきなり強く濃い感情の恋文をもらってしまったら、ちはるも困るんじゃないだろうか。
なによりも、ちはるが「もういい」と思ってしまったら、キヨは豊の恋文を読む機会が失われてしまう。それだけは嫌だった。
キヨがひとりでもんもんと考えている中、豊はキヨの言葉に「そうですか」と返した。
「そんなに喜んでくださるんでしたら、なおのことじっくりと考えないといけませんね。自分も論文以外はほとんど書いたことがなく、詩的な言葉というものが苦手なんですが」
「豊くんはそこまで考えなくてもいいと思うよ。返事さえくれれば安心すると、彼女だって教えてくれただろう?」
「そんな失礼なことはできないよ」
ふたりのやり取りを、キヨは曖昧に笑って聞いていると、ようやっとクリームコロッケ定食ができたようだ。
たっぷりの葉物野菜の上に乗せられたクリームコロッケは、ナイフを入れるとたしかにクリームがとろとろと溢れてくる。
豊は葉物野菜と一緒に切り分けたクリームコロッケをいただき「これは」と目を細めた。
「すごいですね。ナイフを入れても、クリームが全部流れない。残っているクリームと野菜を一緒にいただくと、えも知れずおいしいのですが」
「はい……お父さんもクリームだけでつくるのは骨が折れるからと、クリームだけでつくるのを辞めたんです」
「だとしたら、どうやって……」
「まあ下宿の瓦斯でしたら真似できないと思いますが。じゃがいもとクリームを合わせて、クリームのもったりさを変えたんです」
ベシャメルソースは基本的に小麦粉だけでとろみを付けるが、それだけだとなかなか衣を付けるのは難しい。だから扱いやすくなるよう、じゃがいもをベシャメルソースに加えて形を整えやすくしたという。
「なるほど……だからクリームだけでなく、ほっくりとした食感があるんですね」
「多分この方法でしたら、クリームだけでなく、じゃがいもだけでつくってもおいしいと思うんですが、それにはお父さん反対してるんですよねえ」
「洋食とはちょっとずれてしまいますかもしれませんね」
ふたりで洋食の話を語り合う。
それは恋文の返事を待つときのドキドキともやもやを鎮めるには、ちょうどよかった。
新之助はふたりの語らいに口を挟むことなく、「おいしい」と言いながらコロッケを食べていたのだった。
普段は理路整然とした佇まいだというのに、気付けば豊はひどく疲れたような姿をしているように見えた。
「いらっしゃいませ。あのう……どうかなさいましたか?」
「こんにちはキヨさん。いえ、すみません。自分もひどく狼狽えることがあるのだなと、自分自身に驚いていたところです」
「まあ……?」
それにキヨはドキリともギクリとも言える音を奏でた。
それに新之助は笑う。
「彼、恋文をいただいたんですよ。ほとんどの恋文は、彼は勉学の邪魔だと返事を書かないんですが、初めて返事を書く気になりましてね」
「まあ……そうだったんですか」
それにキヨはドキドキともやもやが同時に責め立ててくるのを感じた。
(これは私の書いた恋文なのかしら。それとも、他の方の……? そもそも私は代筆をしただけだから、豊さんはちはるさんが書いたものと思っているから……私、どうしたらいいのかしら)
ひとりでどぎまぎしている間に、「それで」と豊が笑いかけてきた。
「今日のおすすめはなにになりますか?」
「はい? え、ええ……お父さんがようやっと、クリームコロッケを出せるようになりましたの」
「くりいむころっけ……ですか?」
「はい」
クリームコロッケは、元々ベシャメルソースを衣でくるんで揚げるものであり、並の厨房でも試行錯誤してつくるものだった。クリームを油の中に落としてしまったら、当然ながら大惨事だからだ。
先日のハンバーグ定食で洋食に対する抵抗が薄くなったのか、新之助はにこにこ笑いながら、「じゃあおすすめにしてみようか」と言うのに、キヨが頷いた。
「はい、クリームコロッケ定食、ふたつで」
「よろしくお願いします」
キヨがパタパタと父にクリームコロッケ定食の注文をしに行くと、ふたりはまたも話をしはじめた。
「それで、君は文通をいつまでするつもりだい?」
「あちらの詳細は全く書かれてないからね。ひとまずは、先方が飽きるまで、になるかな」
「恋文を医学生に送りつけてくるなんて、きっと相手は世間知らずのお嬢様だぜ。豊くんに対処できるのかね」
「そりゃわからんよ。自分は君と違って、婚約すら決まってない身なんだから」
「なに言ってるんだ、医学生が卒業まで恋にうつつを抜かせる身じゃないってわかるものだろう」
どうにも豊は恋文の返事は出すつもりでも、その返事が来ることはあまり期待していないようだった。
キヨはたびたび恋文代行を行う際、先方から預かった返事の文も読んでいる。つまりは、彼女も豊の恋文を読める訳で。
(いったいどんな返事を書くつもりなのかしら……)
そう思っていたところで「キヨさん」と突然豊に声をかけられて、キヨは「ヒャッ」と肩を震わせる。そしてそろそろと豊と新之助の座っている席に近寄った。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、質問です。女性はどのような文をもらったら喜ぶものなんでしょうか?」
「そうですね……」
おかしな話になったとキヨは思った。
自分が恋文代筆している人の返事を、何故か恋文代筆している人間が考えないといけないのだから。
キヨはどぎまぎしながら、ひと言どうにか言い添える。
「……正直、好きな方からもらった返事は、暴言でない限りはなんでも嬉しいものだと思います」
「そうなんですか? 自分は送ってくださった方のことをなにひとつ知りませんので」
「わざわざ恋文を書くってことは、自分の中で気持ちを抑えきれなかったってことでしょうから。その気持ちが届いてくれた、受け取ってくれて返事もくれたとなったら、それだけで満たされてしまうものじゃないでしょうか」
そこまで言って、キヨは内心「しまった」と思った。
キヨの理想とちはるの理想は違う。ちはるからしてみれば、恋文での文通は結婚までの暇つぶしだ。たしかにちはるはキヨと同じく豊のことを好きなのだろうが、キヨほど感情が重くもなければ深くもない。いきなり強く濃い感情の恋文をもらってしまったら、ちはるも困るんじゃないだろうか。
なによりも、ちはるが「もういい」と思ってしまったら、キヨは豊の恋文を読む機会が失われてしまう。それだけは嫌だった。
キヨがひとりでもんもんと考えている中、豊はキヨの言葉に「そうですか」と返した。
「そんなに喜んでくださるんでしたら、なおのことじっくりと考えないといけませんね。自分も論文以外はほとんど書いたことがなく、詩的な言葉というものが苦手なんですが」
「豊くんはそこまで考えなくてもいいと思うよ。返事さえくれれば安心すると、彼女だって教えてくれただろう?」
「そんな失礼なことはできないよ」
ふたりのやり取りを、キヨは曖昧に笑って聞いていると、ようやっとクリームコロッケ定食ができたようだ。
たっぷりの葉物野菜の上に乗せられたクリームコロッケは、ナイフを入れるとたしかにクリームがとろとろと溢れてくる。
豊は葉物野菜と一緒に切り分けたクリームコロッケをいただき「これは」と目を細めた。
「すごいですね。ナイフを入れても、クリームが全部流れない。残っているクリームと野菜を一緒にいただくと、えも知れずおいしいのですが」
「はい……お父さんもクリームだけでつくるのは骨が折れるからと、クリームだけでつくるのを辞めたんです」
「だとしたら、どうやって……」
「まあ下宿の瓦斯でしたら真似できないと思いますが。じゃがいもとクリームを合わせて、クリームのもったりさを変えたんです」
ベシャメルソースは基本的に小麦粉だけでとろみを付けるが、それだけだとなかなか衣を付けるのは難しい。だから扱いやすくなるよう、じゃがいもをベシャメルソースに加えて形を整えやすくしたという。
「なるほど……だからクリームだけでなく、ほっくりとした食感があるんですね」
「多分この方法でしたら、クリームだけでなく、じゃがいもだけでつくってもおいしいと思うんですが、それにはお父さん反対してるんですよねえ」
「洋食とはちょっとずれてしまいますかもしれませんね」
ふたりで洋食の話を語り合う。
それは恋文の返事を待つときのドキドキともやもやを鎮めるには、ちょうどよかった。
新之助はふたりの語らいに口を挟むことなく、「おいしい」と言いながらコロッケを食べていたのだった。