授業が終わったら、キヨは急いで家に帰ると、身支度を整える。
 そうは言っても日頃から家に帰ったら家事を手伝っている孝行娘だ。古着屋で買った着物に袴を合わせた格好におさげを垂らし、頑張っても華やかな雰囲気にはならない。
 せめてもの抵抗として、キヨは前髪を一生懸命解いて、おさげも一旦ほどいてほつれた部分を丁寧に結び直して、埃がひとつもない姿で、両親に「ちょっとお外に出ますね」と声をかけて出て行った。
 いつもの通り。いつもの人波。それを眺めながら、豊に会えないかと眺めていた。
 やがて。見覚えのある制服の学生たちが通っていくが見えた。

(豊さんは……まだかしら)

 その人波をそわそわと眺めていると。

「こんなところで、女性ひとりで歩いていたら危ないですよ」

 そう咎める声に、キヨは思わず身を竦めた。豊は通りの本屋から出てきて、彼女の背後に立っていたのだ。

「豊さん……ごきげんよう。今日は豊さんにお会いしたくて」
「自分にですか?」
「はい……」

 キヨは必死に言い募ると、豊は固い表情を浮かべた。それにキヨは怯む。
 きちんと今までの文通のことを謝ろうと思っていたのに、彼に拒絶されるとわかっていて、謝れるほどキヨも潔くは生きられなかった。
 しかし豊はキヨが脅えを見せたせいなのか、ふっと息を吐いて空気を軽くした。

「昨今は男女で歩いているだけでなにかと物言いされますし、一旦松井屋に向かいましょうか」
「は、はい……」

 豊に促されるまま、キヨはうちへと帰っていく。豊に「どうぞ」と席の正面に促され、キヨはちょこんと腰かけた。
 いつも豊は見上げなければ目線が合わないため、こうして正面から豊の顔を見るのは初めてで、キヨはいたたまれなくて、あちこちに視線をさまよわせる。

「それでキヨさん。自分になにか言いたいことがあったのではないですか?」
「あ、あのう……私は、豊さんに謝らないといけないことがありまして」
「……自分に、ですか?」

 キヨは必死に自分を励ましてから、一気に頭を下げた。ゴチン、と額がテーブルを打ち痛いが、気にしてはいけない。

「あ、あの、キヨさん?」
「大変申し訳ございませんでした。豊さんの心を弄ぶような真似をして」
「はい?」
「……級友のちはるさんに恋文を頼まれて、ずっと代筆していたのは私です」

 豊から、息を飲む声が聞こえた。それにキヨの胸は軋む。

「あなたを困らせたかった訳ではないんです。級友をおもちゃにしたかった訳でもないんです。ただ、恋文を出して思いのたけを吐き出させたかっただけで……おふたりを傷つける気は、本当になかったんです」
「……キヨさん。それだったら新之助くんの恋文の件はいったい……」
「……私の恋文のせいで、まさか新之助さんを苦しませる訳にはいかないと思って、自分で責任を取ろうとしたんです。まさかそのまんま、ちはるさんが婚約者とよりを戻すところまでは、私も想像してませんでしたけど……」
「キヨさん。つまりは……ちはるさんのことも、新之助くんのことも、なんとかしようとして代筆していただけで、そこに下心はなかったんですね?」
「……なかった訳ではありません」

 黙っておけばいいのに、それを素直に言ってしまうのが、キヨのあまりよろしくないところだった。
 キヨは言う。

「……豊さんが恋文をもらって、困っているのを知っていました。そんな人にちはるさんの代筆を渡しても、ただ豊さんがまた処分するだけの恋文が増えるだけで、それはちはるさんが可哀想ですし、豊さんを困らせるだけだと思いました。だから、少しでも文通が続くような内容を送ったんです」
「……文通の内容は、全部ご存じだったんですか?」
「はい……全部読んでました。いつもいつも、豊さんの短い内容を楽しみにしながら返事を書いてました」

 返事がない。やはり怒らせてしまったのか。
 キヨは額をテーブルにこすりつけたまま、顔を上げることができないでいたが、沈黙が長く、だんだん不安になってきた。恐々とキヨが顔を上げた途端、豊と目が合い、戸惑ったのだ。
 豊は顔を真っ赤にして、口元を抑えていたのだ。

「あ、あのう……豊さん?」
「自分には好きな方がいるから、文通を打ち切りたいと書いた旨も、読んでいたということで、よろしいと?」
「……はい」
「その相手については思い至っていますか?」
「いえ……悲しいけれどそうなんだなと思っていました」
「キヨさん。自分がお慕いしているのはあなたです」

 それにキヨは目を瞬かせた。全く思いもよらない答えで、どう反応すべきかわからなかったのである。

「あの?」
「……副業もできない中、仕送りを倹約して切り詰めて、この店に通っていました。その理由はあなたですが」
「……私、なんにもしてませんよ?」
「あなたが一生懸命仕事をしている姿に惹かれました。他の客にも、自分にも一生懸命で。あなたが人の代筆をなさったり、細やかに物事を考えたり……あなたのことをひとつ知るたびに気持ちが膨らみました。それが理由では駄目ですか?」

 それにキヨは頬に熱を持たせた。
 本当に全く考えてもいなかったことだったのだ。
 豊は軽くキヨの手を取った。ずっと勉強していたのだろう。手はペンだこだらけでボコボコになっている。日頃家事を手伝っている指先の乾いたキヨの手とよく似ている。

「自分はお話しましたが、次はあなたの番ですが」
「……私は」

 キヨは軽く握られた手を見ていた。豊は頭が固いだけではなく、思慮深かった。そのことをまたひとつ知り、キヨは頭をぐるぐるとさせる。

「私は、ずっと豊さんをお慕いしています」

 その言葉を聞いた瞬間、厨房からパチパチと乾いた音が響いた。
 父に今までの会話が全部筒抜けだったことに気付いた途端、若いふたりは背中を丸めて、ただ顔を火照らせていたのだった。

<了>