恋文屋と常連の学生さん

 新之助はキヨの動揺を知ってか知らずか、淡々と申し開きをする。

「彼女とは実家からの婚約です。自分は次男なため、医者にならずともよいと言われていましたが……。自分は医者になりたいと言い続けていました。そこで出てきたこの婚約ですが……彼女は自分が継ぐから勉学を頑張ってほしいとおっしゃってくれて……嬉しかった」

 新之助の告白に、キヨはなんとも言えなくなる。

(これは……普通にちはるさんのこと大切になさっているんだから、もうこの人ときちんと文通したほうがいいんじゃないかしら……豊さんを振り回してしまって申し訳ないけれど)

 キヨがそう悶々と考えている中、豊は新之助を宥める。

「彼女が家を継ぐにしろ、卒業はさせてあげるんだろう? 卒業するまでの間くらいは好きにさせてほしいって性分ならしょうがないじゃないか」
「そうだろうけどねえ……君が恋文をもらうたびに迷惑に思う気持ちがやっとわかったよ……卒業まで、ずっとこんなふうに苛立ちを抱えて生きなきゃいけないなんて。耐え切れないね」

 そう吐き出した新之助に、キヨはおずおずと伝える。

「その思いを、そのまま婚約者の方に恋文として伝えてはどうですか?」
「……そんな。彼女には学校を卒業してほしいんです。結婚して早々に家を継ぐなんて、彼女が可哀想でしょう」
「婚姻まで文通をするくらいなら自由でしょう? その婚約者さんだって文通をしているんです。あなたがしてもよろしいじゃありませんか」
「……すみません。僕は少々筆不精で」

 それにキヨは思わず笑った。
 豊と同じく、彼は医学生としてさんざん論文は書いている癖して、心情を書き表すのは本当に不得手なのだろう。

「今おっしゃった内容くらいでしたら、注文の品が届くまでの間の時間で、私が書きますよ」

 キヨの提案に、豊は新之助に振り返った。

「まあいいじゃないか、新之助くん。キヨさんに任せてみても」
「はあ……それじゃあ、お願いします」
「かしこまりました」

 キヨは父に「ビーフシチュー定食をふたつ」と頼むと、いそいそと落ち着いた便箋と封筒を取り出して、空いている席に座って書きはじめた。
 文字は努めて男性の書くような固い文字になるようにし、先程の新之助の激情的な言葉を伝えやすい言葉にして書き記す。

【ちはる様

 お元気でしょうか。
 最近はあなたのことを考えると、胸が張り裂けそうに思います。
 最初はあなたへの気持ちは感謝のひと言でした。自分の勉学の道を諦めることないよう取り計らってくれたのはあなただけでした。
 しかし次第にあなたへの気持ちが膨らみ、だんだん破裂しそうな痛みを感じるようになりました。
 あなたとの婚姻は卒業まで取っておくつもりですが、どうぞあなたへの激情をお許し願えないでしょうか。

 新之助】

 書いた文章を新之助に渡すと、彼は「わあ」と感嘆の声を上げた。

「こんな風にまとめてくださったんですか……すごいですね」

 それを隣で眺めていた豊は、唇を抑えてなにか考える素振りをしているのにひやひやしながらも、キヨは新之助に微笑んだ。

「どうか頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」

 言っている間に注文ができたので、それをキヨは豊と新之助に振る舞う。
 ビーフシチューは本格的なものであり、大きな肉がひとつだけ皿に乗り、カラメルを絡めた野菜がその上に乗っている。シチューに切った肉を絡めながら食べるものである。
 最初はそれに少し驚いていたふたりに、キヨは「そうやって食べるものだと教わりました」と食べ方を教えると、箸でおずおずと肉を切りはじめた。

「……箸で切れるほど、肉が柔らかいんですねえ」
「はい、葡萄酒で煮込むとおいしくなる上に柔らかくなると伺いました」
「そんなに煮込んで肉の味消えないんですねえ」
「最初に肉汁ごと焼き付けて閉じ込めてから、長いこと煮るのだそうです」

 肉をシチューに絡め、カラメル和えの野菜と一緒にいただく。
 それに豊は驚いた顔をした。

「……美味いです。これ……本当にどうなっているのかわからないくらいに」
「嬉しい。ありがとうございます。お伝えしておきますね」
「野菜を甘くしているのは最初意味がわからなかったんですけど……この飴和え? その焦げた部分がシチューと肉と一緒に味わうと、非常に香ばしく思えていいですね」
「はい」

 ふたりから好評だったことに、キヨはにこにこと笑いながら、話を聞きつつ、胸中で考え込んでいた。

(豊さんはずっと新之助さんに書いた代筆文見てたけど……まさか私がちはるさんの代筆した文と似ていると気付いたのかしら)

 キヨは相手により、文字を変えているし、なんだったら依頼者の文字に似せて書いているが。気付く人間は気付くんじゃないだろうか。
 新之助への代筆はキヨの気遣いだった。もしも自分が人の気持ちを弄んでいると勘違いされたらたまらないと、キヨはどう申し開きをするか、考えなければならなかった。
 キヨは悶々とした気持ちのまま、学校へと向かった。学校に向かうと「キヨさん」と声をかけられる。
 ちはるはその日もあまりにも存在感のある風格を誇っていたが、今日はなんだろうか。
 普段は牡丹のような華やかさなのに対して、今日は笹百合のようにしおらしい雰囲気なのだ。日頃の華やいだ雰囲気を知っている人間であったら、どうしても「おや?」となる印象の変わりようだった。

「ごきげんよう。どうかなさいましたか、ちはるさん?」
「いえね……私の婚約者から、あまりに激情的な文をいただいたの。驚いたんです」

 ちはるはポツポツと語った。

「どうせ私たち夫婦になるんですもの。あちらは医学の道を志している以上、私と夫婦になったとしても、私は呉服屋の切り盛り、あちらは医者としての社会貢献。それぞれ違う道を生きるのだろうと思っていました。形の上の夫婦だと思っていましたけど」

 ちはるの言葉に、キヨは目を剥いていた。
 新之助はちはるに対して、びっくりするほど情を傾けていたが、彼女はそれに全く気付いていなかったのだと。
 そしてちはるは、日頃自分が代筆してもらっているキヨの文字だとは、ちっとも気付いてないことに、彼女は少なからずほっとした。

(新之助さんの気持ちを代筆しただけで、私はふたりの気持ちを代弁しただけだもの……間違ったことはしていないはず……)

 そうは思っても、どちらの代筆も請け負ってしまったのは事実で、キヨは内心取っ散らかっていたが、気付かないふりをした。
 その中でもちはるは続ける。

「まさかそこまで思っていただいてるなんて、思いもしませんでした……同時に、豊さんに恋している自分に申し訳が立たなくなってきたんです」
「……そうなんですか」
「彼は素っ気ないでしょう? 私がキヨさんに頼んで書いていただいた文の半分も返事はいただけませんから。なんだか申し訳なくなってきたんです。私の恋愛ごっこに付き合わせてしまったのかと」

 キヨのもやもやは溜まる。
 豊とは、ちはるとの文通だけでしか繋がることができなかった。
 お客様と食堂の娘では、よくしゃべる家具と同じ扱いで、通じ合うことができないのだから。
 それを放り捨ててしまうちはるが羨ましかったしおぞましくも感じたが。
 現状を悪気がないとは言えど、動かしてしまったのは自分なんだという負い目から、なにも言えなくなってしまった。
 むしろ、豊は女学生たちから恋愛ごっこに四六時中付き合わされるのにうんざりしていた中、ちはるとの文通だけは続けていたのだ。
 彼なりに真面目に向き合おうとしていた中、ちはるとまで文通を辞められてしまったら、また彼は傷つき、恋愛が嫌いになってしまうかもしれない。

「……豊さんを、あまり傷つけないであげてください」
「はい? キヨさん?」
「あの方、しょっちゅう女学生たちに勝手に付き合わされて、勝手に好かれて、婚姻がまとまったと同時に今までのお付き合いをポイ捨てされて、疲れ切ってしまっているんです。お願いです、彼のこと、あまりいじめないであげてください」

 とうとうキヨは子供のようにポロリポロリと涙を流して訴えはじめたことに、ちはるは目を見開いて聞いていた。

「……間違っていたらごめんなさいね。私からは、キヨさんは豊さんのことを慕っているように聞こえるのだけれど」
「……実家の常連さんなんです……私なんか、家具と同じ扱いで、全く相手にされてませんけど……」
「ごめんなさいね、そうと聞いていたら、私……」
「違うんです。ちはるさんはなんにも悪くないんです。悪いのは、全部私のほうで……」

 キヨはキヨ本人としてはちっとも豊と向き合えなかった。
 常連客と店員、ちはるの代理人。そんな風に言い訳しなかったら、彼と繋がることなんてできなかったのだ。
 キヨはただただ自分の小ささを思い知って、ちはるの慰めの中でもひとりで泣いていた。
 ちはると新之助は、キヨの代筆した恋文を読んで以降、明らかに距離が縮まった。
 キヨは新之助を励まし、語彙を教えていたら、あまりに筆不精だった新之助もまともな恋文が書けるようになり、ちはるとのやり取りも楽しそうにできるようになった。
 そしてちはるは新之助に対する恋文は、キヨに代筆を頼むことがなかった。
 おかげで、キヨがちはるの代わりに豊とやり取りをし、豊の返事はそのままちはるからキヨに渡されるおざなりなことになってしまっていた。
 見かねたキヨは、ちはるに苦言を呈した。

「婚約者のほうが大切ならば、豊さんのほうのやり取りはいい加減打ち切ったほうがよろしいのでは……あまりに相手に対して失礼じゃありませんか」
「わかっているけれど、そこで豊さんとの文通を打ち切ってしまったら、ますますもって豊さんは人の恋文を嫌うようになってしまうんじゃないかしら」
「それはそうなんですが……」

 ちはるは豊に気を使っているのだろうし、そもそも先に惚れ込んだのはちはるのほうだ。責任を感じているのだろう。
 だがキヨからしてみれば、豊に不義理をし続けているちはるを歯がゆく思い、豊が語彙力が全くないなりに書き続けている恋文が、ちはるに全く届かずにキヨの手元に送られてくるのが虚しかった。
 そんな悶々とするやり取りを繰り返し続ける中。
 キヨはちはるから渡された豊の恋文を見て、一気に血の気が引く思いがした。

【そろそろ文のやり取りをやめませんか。
 自分には恋しい方ができましたし、あなたもそろそろ卒業後に目を向けたほうがよろしいのではないでしょうか。】

 いつもよりも長く書いてあるものの、豊らしく詩情的な文の一切ない、簡潔な文であった。
 だからこそ余計にキヨは目からボロボロと涙が溢れて仕方がなかった。

「キヨさん、あなたいくらなんでも恋文の内容を読んで大袈裟よ」

 見かねたちはるにそう言われ、キヨはポロポロと泣きながら訴えた。

「……ちはるさんが豊さんに不義理なことなさるから、とうとう豊さん、他に好きな方ができたじゃないですか……」

 それはちはるに対する八つ当たりだとキヨもわかっていた。恋文のやり取りをしたところで、所詮はキヨはちはるのふりをしているだけなのだから、傷つくことはなかった。だが、豊が他に好きな人ができてしまったのなら、もう恋文のやり取りすらできなくなる。
 ちはるの皮を被ることすらできなくなったキヨは、オンオンと泣き出した。
 それをちはるは困った様子で眺める。

「ごめんなさいね、まさかキヨさんがそこまで感情移入するとは思ってなかったの」
「……違うんです、悪いのは、私なんです……」
「はい?」

 ちはるは首を傾げた。
 キヨは溢れてくる涙を手で拭いつつも、嗚咽だけはことなく、ヒックヒックと訴える。

「……豊さん、うちの店の常連客なんです。私は依頼を受けたときからずっと……ちはるさんのふりをしていたら、豊さんと文通できると……楽しかったんです。その時間が。ちはるさんのふりをしなかったら、あの人と文通なんてできませんでしたし」
「あら? キヨさん豊さんのこと、そんなに好きだったの?」
「だって、気持ち悪いじゃないですか。常連の店の娘に下心をずっと向け続けられるのなんて。だから私、店の中では家具に終始していましたもの」
「まあ、自分のことを家具だなんて例えるのはよくないわ」

 ちはるはキヨに八つ当たりされ、支離滅裂な訴えをされている訳だが、怒ることなく、彼女の話を真摯に受け止めていた。
 そしてちはるは「ごめんなさいね」と言った。

「まさかキヨさんが、そこまで豊さんを好きだったなんて思わなかったの。私が恋文代筆頼んでから、そんなに苦しんでたのね」
「……でも、私は見合いも結婚も決まっている方よりも、楽な身の上ですから……」
「恋に楽も苦しいもある訳ないでしょうが。どんな身の上だって、叶わないと苦しいし、叶うと嬉しいのだから、どっちが上でどっちが下だとかはありえないわ」

 ちはるにきっぱりと言われ、それをキヨはポカンと見ていた。それにちはるは畳みかけるように訴える。

「だからこそ、あなたはちゃんと豊さんに思いを伝えないと駄目よ。あなた、私の代筆ではきちんと伝えられたのでしょう? そのこと、きちんと豊さんに伝えなきゃ駄目よ」
「でも……あの人、私のことなんて……」
「私のことさんざん励ましてくれたのはキヨさんじゃない。大丈夫、あなたは上手く行くから」

 キヨはちはるほどの自己肯定感はないが、彼女に背中を押されたら、なんとはなしに上手く行くような気がした。
 キヨは店に来る前の豊を捕まえようと決めた。店で捕まえるのは、彼だって困るだろうから。
 授業が終わったら、キヨは急いで家に帰ると、身支度を整える。
 そうは言っても日頃から家に帰ったら家事を手伝っている孝行娘だ。古着屋で買った着物に袴を合わせた格好におさげを垂らし、頑張っても華やかな雰囲気にはならない。
 せめてもの抵抗として、キヨは前髪を一生懸命解いて、おさげも一旦ほどいてほつれた部分を丁寧に結び直して、埃がひとつもない姿で、両親に「ちょっとお外に出ますね」と声をかけて出て行った。
 いつもの通り。いつもの人波。それを眺めながら、豊に会えないかと眺めていた。
 やがて。見覚えのある制服の学生たちが通っていくが見えた。

(豊さんは……まだかしら)

 その人波をそわそわと眺めていると。

「こんなところで、女性ひとりで歩いていたら危ないですよ」

 そう咎める声に、キヨは思わず身を竦めた。豊は通りの本屋から出てきて、彼女の背後に立っていたのだ。

「豊さん……ごきげんよう。今日は豊さんにお会いしたくて」
「自分にですか?」
「はい……」

 キヨは必死に言い募ると、豊は固い表情を浮かべた。それにキヨは怯む。
 きちんと今までの文通のことを謝ろうと思っていたのに、彼に拒絶されるとわかっていて、謝れるほどキヨも潔くは生きられなかった。
 しかし豊はキヨが脅えを見せたせいなのか、ふっと息を吐いて空気を軽くした。

「昨今は男女で歩いているだけでなにかと物言いされますし、一旦松井屋に向かいましょうか」
「は、はい……」

 豊に促されるまま、キヨはうちへと帰っていく。豊に「どうぞ」と席の正面に促され、キヨはちょこんと腰かけた。
 いつも豊は見上げなければ目線が合わないため、こうして正面から豊の顔を見るのは初めてで、キヨはいたたまれなくて、あちこちに視線をさまよわせる。

「それでキヨさん。自分になにか言いたいことがあったのではないですか?」
「あ、あのう……私は、豊さんに謝らないといけないことがありまして」
「……自分に、ですか?」

 キヨは必死に自分を励ましてから、一気に頭を下げた。ゴチン、と額がテーブルを打ち痛いが、気にしてはいけない。

「あ、あの、キヨさん?」
「大変申し訳ございませんでした。豊さんの心を弄ぶような真似をして」
「はい?」
「……級友のちはるさんに恋文を頼まれて、ずっと代筆していたのは私です」

 豊から、息を飲む声が聞こえた。それにキヨの胸は軋む。

「あなたを困らせたかった訳ではないんです。級友をおもちゃにしたかった訳でもないんです。ただ、恋文を出して思いのたけを吐き出させたかっただけで……おふたりを傷つける気は、本当になかったんです」
「……キヨさん。それだったら新之助くんの恋文の件はいったい……」
「……私の恋文のせいで、まさか新之助さんを苦しませる訳にはいかないと思って、自分で責任を取ろうとしたんです。まさかそのまんま、ちはるさんが婚約者とよりを戻すところまでは、私も想像してませんでしたけど……」
「キヨさん。つまりは……ちはるさんのことも、新之助くんのことも、なんとかしようとして代筆していただけで、そこに下心はなかったんですね?」
「……なかった訳ではありません」

 黙っておけばいいのに、それを素直に言ってしまうのが、キヨのあまりよろしくないところだった。
 キヨは言う。

「……豊さんが恋文をもらって、困っているのを知っていました。そんな人にちはるさんの代筆を渡しても、ただ豊さんがまた処分するだけの恋文が増えるだけで、それはちはるさんが可哀想ですし、豊さんを困らせるだけだと思いました。だから、少しでも文通が続くような内容を送ったんです」
「……文通の内容は、全部ご存じだったんですか?」
「はい……全部読んでました。いつもいつも、豊さんの短い内容を楽しみにしながら返事を書いてました」

 返事がない。やはり怒らせてしまったのか。
 キヨは額をテーブルにこすりつけたまま、顔を上げることができないでいたが、沈黙が長く、だんだん不安になってきた。恐々とキヨが顔を上げた途端、豊と目が合い、戸惑ったのだ。
 豊は顔を真っ赤にして、口元を抑えていたのだ。

「あ、あのう……豊さん?」
「自分には好きな方がいるから、文通を打ち切りたいと書いた旨も、読んでいたということで、よろしいと?」
「……はい」
「その相手については思い至っていますか?」
「いえ……悲しいけれどそうなんだなと思っていました」
「キヨさん。自分がお慕いしているのはあなたです」

 それにキヨは目を瞬かせた。全く思いもよらない答えで、どう反応すべきかわからなかったのである。

「あの?」
「……副業もできない中、仕送りを倹約して切り詰めて、この店に通っていました。その理由はあなたですが」
「……私、なんにもしてませんよ?」
「あなたが一生懸命仕事をしている姿に惹かれました。他の客にも、自分にも一生懸命で。あなたが人の代筆をなさったり、細やかに物事を考えたり……あなたのことをひとつ知るたびに気持ちが膨らみました。それが理由では駄目ですか?」

 それにキヨは頬に熱を持たせた。
 本当に全く考えてもいなかったことだったのだ。
 豊は軽くキヨの手を取った。ずっと勉強していたのだろう。手はペンだこだらけでボコボコになっている。日頃家事を手伝っている指先の乾いたキヨの手とよく似ている。

「自分はお話しましたが、次はあなたの番ですが」
「……私は」

 キヨは軽く握られた手を見ていた。豊は頭が固いだけではなく、思慮深かった。そのことをまたひとつ知り、キヨは頭をぐるぐるとさせる。

「私は、ずっと豊さんをお慕いしています」

 その言葉を聞いた瞬間、厨房からパチパチと乾いた音が響いた。
 父に今までの会話が全部筒抜けだったことに気付いた途端、若いふたりは背中を丸めて、ただ顔を火照らせていたのだった。

<了>

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