プンと卵の匂いがした。
トマトケチャップで炒めた焼き飯を卵で包み、更にトマトケチャップをかければ、松井屋特製のオムライスの完成だ。
「はい、お待たせしました。オムライスです」
「ありがとうございます。今日一日はこれを食べなければ終われませんから」
「うふふ、毎度ご贔屓に」
帰ってきて早々、実家の手伝いをするキヨは、うっとりとした目でオムライスにスプーンを立てている学生を見ていた。
真っ黒な髪に丸眼鏡をかけ、知的な雰囲気。着ている学ランには埃ひとつ付いておらず、几帳面さが際立っているように見えた。
近所に存在する医大の学生である豊は、授業でヘロヘロになるたびに、キヨの実家である洋食屋の松井屋に足を運んでは、その日一日のご褒美として洋食を注文し、舌鼓を打って帰って行く。
毎晩洋食を食べられるということは、仕送りが潤沢なんだろうとキヨは思う。
この几帳面が過ぎる常連客に恋をしたのは、本当に唐突だった。
キヨが文房具屋で買った便箋を、うっかりと風で飛ばされてしまったのだ。
「待って! やめて!」
袴をはためかせて走る姿に、街ゆく人々は顔をしかめる。お転婆は下品とされるのが最近の風潮だった。
それを必死で追いかけていると、パシリと手を伸ばして受け止めてくれる人がいたのだ。
「あ……」
「おやおや、あなたはたしか、松井屋の……」
常連客である豊は、そのときまでは、「毎日来るお客さんだなあ」「常連客になってくれて嬉しいなあ」程度で、店の手伝いをするときに挨拶する程度の関係だったのだ。
それが、金色の染まった空を背景に、便箋を渡された途端に、キヨの体に雷が落ちたような衝撃を受けたのだ。
「落ちましたよ」
「あ……あ……」
ハクハクと、一瞬言葉を忘れてしまった。
眼鏡越しの眼差しの優しさも、青白いほどの肌の白さも、医大で揉まれているだろう気苦労の匂いも、このときに初めて知った。
キヨは女学生流行りの恋愛小説を読んでも「こんなもんかあ」くらいの感覚だったために、恋に落ちるという感覚がいまいち理解ができなかった。どうせ見合い結婚するんだもんなくらいのものだったから、恋愛に対する浪漫に理解が乏しかったのだが。
キヨはこのとき、初めて恋というものを知った。
「……松井屋の……キヨです」
「キヨさん、ですか? それはご丁寧にどうも。自分は浜野豊と申します」
「豊さん……ですか?」
「はい」
便箋を受け取る際、少しだけ指先に触れ、キヨは驚いて目を見開いた。
(ペンだこ……ここまでできている人に初めて会った)
元々豊は医学生だということは知っていたが、少し触れた人差し指の硬さを知ると、この穏やかな物腰でさぞかし勉強しているのだろうと理解ができた。
年頃の男性がそれだけ勉強していたら、そりゃこってりとした洋食が食べたくなるはずだ。
「……今度、うちの店コロッケを提供するんです」
「コロッケ……ですか」
「はい。お父さん、本場のクリームコロッケはなかなか難しいからと、工夫を凝らして洋食屋にふさわしいコロッケ出しますから。またお越しくださいね」
豊にそう約束して、キヨは足早に立ち去ったのだった。
その日の夜、キヨは豊と触れた人差し指のことを思いながら眠りについた。元々男性との交流なんて家族以外では松井屋の常連客以外はないキヨだ。彼女はまだ、恋の浮き足立つ感覚のふわふわとした心地よさと甘さにだけ浸り、恋はただ甘くて優しい幸せなものではないと知らなかったのである。
「……これで、恋文も弾むわね」
キヨはニコニコしながら、明日の代筆業について思いを馳せるのであった。
トマトケチャップで炒めた焼き飯を卵で包み、更にトマトケチャップをかければ、松井屋特製のオムライスの完成だ。
「はい、お待たせしました。オムライスです」
「ありがとうございます。今日一日はこれを食べなければ終われませんから」
「うふふ、毎度ご贔屓に」
帰ってきて早々、実家の手伝いをするキヨは、うっとりとした目でオムライスにスプーンを立てている学生を見ていた。
真っ黒な髪に丸眼鏡をかけ、知的な雰囲気。着ている学ランには埃ひとつ付いておらず、几帳面さが際立っているように見えた。
近所に存在する医大の学生である豊は、授業でヘロヘロになるたびに、キヨの実家である洋食屋の松井屋に足を運んでは、その日一日のご褒美として洋食を注文し、舌鼓を打って帰って行く。
毎晩洋食を食べられるということは、仕送りが潤沢なんだろうとキヨは思う。
この几帳面が過ぎる常連客に恋をしたのは、本当に唐突だった。
キヨが文房具屋で買った便箋を、うっかりと風で飛ばされてしまったのだ。
「待って! やめて!」
袴をはためかせて走る姿に、街ゆく人々は顔をしかめる。お転婆は下品とされるのが最近の風潮だった。
それを必死で追いかけていると、パシリと手を伸ばして受け止めてくれる人がいたのだ。
「あ……」
「おやおや、あなたはたしか、松井屋の……」
常連客である豊は、そのときまでは、「毎日来るお客さんだなあ」「常連客になってくれて嬉しいなあ」程度で、店の手伝いをするときに挨拶する程度の関係だったのだ。
それが、金色の染まった空を背景に、便箋を渡された途端に、キヨの体に雷が落ちたような衝撃を受けたのだ。
「落ちましたよ」
「あ……あ……」
ハクハクと、一瞬言葉を忘れてしまった。
眼鏡越しの眼差しの優しさも、青白いほどの肌の白さも、医大で揉まれているだろう気苦労の匂いも、このときに初めて知った。
キヨは女学生流行りの恋愛小説を読んでも「こんなもんかあ」くらいの感覚だったために、恋に落ちるという感覚がいまいち理解ができなかった。どうせ見合い結婚するんだもんなくらいのものだったから、恋愛に対する浪漫に理解が乏しかったのだが。
キヨはこのとき、初めて恋というものを知った。
「……松井屋の……キヨです」
「キヨさん、ですか? それはご丁寧にどうも。自分は浜野豊と申します」
「豊さん……ですか?」
「はい」
便箋を受け取る際、少しだけ指先に触れ、キヨは驚いて目を見開いた。
(ペンだこ……ここまでできている人に初めて会った)
元々豊は医学生だということは知っていたが、少し触れた人差し指の硬さを知ると、この穏やかな物腰でさぞかし勉強しているのだろうと理解ができた。
年頃の男性がそれだけ勉強していたら、そりゃこってりとした洋食が食べたくなるはずだ。
「……今度、うちの店コロッケを提供するんです」
「コロッケ……ですか」
「はい。お父さん、本場のクリームコロッケはなかなか難しいからと、工夫を凝らして洋食屋にふさわしいコロッケ出しますから。またお越しくださいね」
豊にそう約束して、キヨは足早に立ち去ったのだった。
その日の夜、キヨは豊と触れた人差し指のことを思いながら眠りについた。元々男性との交流なんて家族以外では松井屋の常連客以外はないキヨだ。彼女はまだ、恋の浮き足立つ感覚のふわふわとした心地よさと甘さにだけ浸り、恋はただ甘くて優しい幸せなものではないと知らなかったのである。
「……これで、恋文も弾むわね」
キヨはニコニコしながら、明日の代筆業について思いを馳せるのであった。